道の駅「おくとろ」にて、「瀞狭」も「奥瀞」も堪能!(トイレ○仮眠○休憩○景観◎食事○設備○立地◎) 

熊野尾鷲道路(紀勢自動車道)の熊野大泊ICから国道309号線を北に17km、 途中から国道169号線に入ってさらに西へ15km走って、ようやく和歌山県南東部の北山村の道の駅「おくとろ」に到着します。

前半の国道309号線は走りやすい道路ですが、国道169号線に入ると車のすれ違いが困難な1.5車線の狭い道が続きます。

道の駅「おくとろ」があるこの北山村は、日本で唯一の「飛び地」にある村です。飛び地とは、ある行政区画に属しながら、主地域から離れて他の区域内にある土地をいいます。

道の駅 | おくとろ | 日本唯一の飛び地の村

和歌山県に属する北山村ですが、村の東と南は三重県、北と西は奈良県です。ここから他の和歌山県の市町村に行くには、南東に12kmも進む必要があります。

飛び地の発生については地理的な要因や人為的な要因など様々な理由が考えられるというのですが、北山村の場合はかつて村の主要産業だった筏による水運業に起因しているようです。北山村は水運業によって、奈良県でもなく三重県でもない、北山川下流域の和歌山県新宮市との結びつきがとても強かったのです。

時は流れ、現在ではもちろん筏による水運業は行わなくなっているのですが、代わりに観光筏下りが北山村の名物となりました。 いまや、たった人口500人の村に、人口の180倍の年間9万人が観光に訪れています。

道の駅「おくとろ」の別名は、道の駅「じゃばら」?

道の駅「おくとろ」は、物産館を兼ねたコンビニ(ヤマザキショップ)、レストランに加えて温泉、宿泊施設も有する道の駅だ。 観光名所に相応しい充実した施設構成である。

コンビニを兼ねた道の駅の物産館は、約半分のスペースで村人の生活を支える日用品を販売、 残りの半分のスペースで北山村の特産品を販売している。

驚くべきは、特産品コーナーで販売されているのはその9割以上が「じゃばら」を使った商品であることだ。「じゃばら」とは、柚子と紀州みかんが自然交配した柑橘系の果物で、 今でこそ他県でも生産されているが、かつては北山村だけで生産されていた門外不出の果実。まさに特産品の極地である。

近年は、この「じゃばら」が花粉症抑制に効果があるとマスコミに取り上げられ、大変なブームになっている。

「じゃばら」を使った商品の種類は凄まじい。「じゃばらジュース」「じゃばらキンディ」「じゃばら果汁飴」「じゃばらゼリー」「じゃばらポン酢」「じゃばらドレッシング」「じゃばら饅頭」「じゃばら石鹸」などなど、とにかく店内は「じゃばら」で埋め尽くされているのだ。

道の駅 | おくとろ | じゃばらジュースとじゃばらキャンディ

私は花粉症なので、春にスギ花粉で症状が始めたら試そうと、「じゃばらまる(ジュース)」と「じゃばらキャンディ」を買って帰って冷蔵庫に入れておくことにした。本当に花粉症に効くようなら、春にまた買いに来ようと思う。

さて、商品の9割以上がじゃばら関連である中、では残りの1割弱は何だということになるが、それは「筏」という文字が入った「筏Tシャツ」「筏手拭い」などの「筏商品」だ。 観光筏下りとタイアップしたこれらの商品は、観光客とりわけ外国人観光客に人気だそうだ。

道の駅のレストランは「じゃばら」抜き

道の駅のレストランの名も、名物「じゃばら」を冠した「じゃばら食堂」。 「熊野牛鉄板焼き定食」 「三元豚厚切りとんかつ定食」「海老フライ定食」「鶏の唐揚げ定食」 「日替わり定食」の定食類に、「かつ丼」「釜揚げしらす丼温玉のせ」「カレーライス」「梅あおさうどん」などが提供されている。そう、この「じゃばら食堂」には名物「じゃばら」を使ったメニューは一切なく、「じゃばら酎ハイ」「幻のじゃばら酒」という、客単価を上げる効果があるアルコール飲料があるだけだ。 このあたりは、(レストランではじゃばらを消費させず、土産として物産店ではじゃばら商品を別途買わせるという)トータル売上の最大化を考えた実に見事な戦略戦術ではないだろうか(笑)。

奥瀞(おくとろ)を見下ろす絶景の道の駅温泉

温泉施設もある。泉質は低帳性の低温泉。源泉温度27℃の単純硫黄泉である。 湯の種類は内湯と露天風呂が1つずつ。低温泉のため水風呂に等しいが源泉風呂はある。サウナやジェットバスなどはない。

道の駅 | おくとろ | 温泉とレストラン

駐車場、トイレ、休憩環境

瀞峡と、おくとろ(奥瀞)と。

吉野熊野国立公園内にある、国の特別名勝・瀞峡(どろきょう)。高さ20~50mほどの巨岩、奇岩が立ち並ぶ大峡谷を流れる川は、昭和40年ころに車道ができるまで人々の唯一の交通手段だった。大正9年にプロペラ船(旅客船)が導入され、昭和に入ると国立公園に指定された。そして高度経済成長期を迎えると瀞峡は遠方からの人々などで賑わう観光地となっていく。北山川の上流から下流に向けて「奥瀞」「上瀞」「下瀞」と区分され、下瀞は「瀞八丁(どろはっちょう)」と呼ばれて特に人気が高い。

なんで「どろ」やねん?

瀞のほか、澱・泥・ドロ、トロ、どろ、とろ、土呂、そして洞。いろんな字が当てられる瀞峡の「瀞」は、「深い淀み」を意味している。とろり、どろりと川水が淀んだその様を見て「瀞」の字が当てられたのは天保4(1833)年の頃だとか。しかし、明治に至っても瀞の字はいっこうに浸透せず、人やところによってその表記はまちまち。今ではそこそこ定着した瀞八丁の名も、八町土呂、八丁のどろ、八丁とろ、とろ八丁、あるいは洞八丁などなど、様々な呼ばれ方をしていた。そら、瀞を「どろ」なんて、読めんわな、おーん(古っ笑)。

なんで来んかったんや?

瀞峡は、美しい景観ながらも古くは訪れる人は少なく、明治17(1884)年頃になって、ようやく紀伊地方の外からの来訪者が現れたという。それまでは地元の人にだけ愛される場所だった。室町時代には「蟻の熊野詣」と称されるほど人を集めた熊野信仰の地からさほど遠くないにも関わらず訪れる人がほとんどいなかったのは、ひとえにそのアクセスの困難さによるのだろう。

大正9(1920)年にプロペラ船が就航。昭和2(1927)年に日本二十五勝に選ばれ、昭和11(1936)年には吉野熊野国立公園の一部として指定された。昭和40(1965)年にウォータージェット船が就航すると観光客も増え、観光地としての瀞峡ができあがっていった。

人々の暮らしは、古くから瀞峡を含む北山川に深く根ざしていた。海から深く入った森林で伐採された材木は、「団平船」と呼ばれる帆船や、材木を組んで作られる筏の形で北山川を下り、港へと運ばれていた。大正の頃までは三尺(約90cm)にもおよぶ巨大な鯉が獲れたと言われ、ウグイやアユ、アマゴなどの川魚も大きく、数も多かった。こうした川の幸と周囲を囲む深い山々の幸とが人々の暮らしを支えていた。林業の衰退と入れ替わって観光地として発展するに従い、瀞峡を含む北山川はその役割を運搬から娯楽に変えて、今も地域の人々の生活を支えている。

なんでプロペラやねん?

熊野川の難点は、多量の砂利が堆積して川底が浅く、スクリューをつけた動力船を導入できないことだった。そこで、底浅い川舟の船尾に小型飛行機のエンジンとプロペラをそのまま取り付けたプロペラ船が考案され、浅瀬になっているところでは船底を砂利にゴリゴリとこすりつけながらも走ることはできたので、この地方の人々にとっては画期的な乗り物となった。

このプロペラ船の導入によって、筏と、帆掛け舟、そしてプロペラ船という、思いもよらない取り合わせが山深い熊野の地に生まれたのである。このプロペラ船は昭和18年から昭和47年9月まで運行していた。

なんで案山子やねん?

熊野川の左右の川原には、いくつも大きなかかしが立っている。どのかかしも旗ざおのようなものを持ち、様々な色の旗をつけて川の中央の方を見ているが、このかかしは熊野川の鮎を食べてしまう「鵜」が来ないようにと地元の漁業組合の人が立てたものだ。食欲旺盛な鵜は熊野川にたくさんいる鮎を一日に3キロも食べるとか。しかも、稚魚が放流されるタイミングを狙うのだとか。かかしがそんな利口な鵜を追い払えるとは思えないがw
ちなみに下の写真は、「モノタロウ」の通販で売っている「防鳥・かかしくん」。

防鳥用 かかしくん コンパル