源義経で有名な道の駅「竜王かがみの里」から「観音寺城の戦い」へ(トイレ△仮眠△休憩○景観△食事△設備○立地○) 

「観音寺城の戦い」は、何度もありました。まずは「応仁の乱」のとき。観音寺城をめぐり3度にわたって攻城戦が展開されました。応仁2年1468)の2度にわたる「第一次・第二次観音寺城の戦い」は、いずれも六角高頼が居城とした観音寺城は京極氏に攻められて開城または落城。近江守護を解任された六角高頼は、翌年には観音寺城を修築して再防備を行い、「第三次観音寺城の戦い」では今度は京極軍を撃退。リベンジに成功しています。

第一次、第二次観音寺城の戦いからちょうど100年後の1568年(永禄11年)。時代も変わり、まったく別観音寺城の戦いが起こります。天下布武を目前にしていた織田信長は、足利義昭を奉じて京都を目指して出発します。ところが依然近江国(現在の滋賀県南部)を治めていた六角氏が、織田信長らの通行を拒否したのでした。

織田信長はいつもなら殺してしまえなのですが、珍しく7日間にもわたって説得を試みます。しかし六角氏は強硬な姿勢を崩しませんでした。結局交渉は決裂し、織田信長の大軍と、あくまで行く手を阻まんとした義賢・義治の六角親子軍が、箕作城と観音寺城を舞台に相まみえる「観音寺城の戦い」が起こったのです

兄・義輝を殺害され、自らも幽閉された足利義昭

そもそも織田信長は、なぜ足利義昭を奉じて上洛(京都に行くこと)することになったのか。織田信長が六角氏が観音寺城の戦いで激突することになる背景には、室町幕府内部の権力闘争があった。室町幕府の13代将軍となった足利義輝は、「お飾り」と化した将軍の権威を復活すべく、自らの権利行使に徹底的にこだわった。しかし、それまで実権を握ってきた家臣達がこれを良く思うはずはなかった。

1565年(永禄8年)、足利義輝に実権を握らせまいとして「三好三人衆」と「松永久通」が御所に攻め入った。三好三人衆とは、三好氏の一族・重臣として畿内で活動した戦国武将「三好長逸」「三好宗渭」「岩成友通」の3人。足利義輝は自ら刀を抜いて抵抗するも、10,000とも伝えられる大軍勢を前に敗北。殺害(自害に追い込まれた?)されてしまった。

この永禄の変では、僧籍に入っていた足利義輝の弟・足利義昭の運命は一変。彼は義輝の弟であったため、永禄の変直後には奈良の興福寺に幽閉されてしまう。

世界遺産のタイトル画像

しかし、その後まもなく細川藤孝(幽斎)らに救出され、義昭は近江へと逃れた。こうして近江・若狭・越前と、義昭の流浪が始まるが、足利義昭は幕府の復興を志し、各地を転々としながらも上洛の機会を伺うのだった。

近江・若狭・越前を転々としながら上洛機会を伺う義昭

翌年2月に義昭は還俗(出家した人が俗人に戻ること)して幕府の再興を志すも、自分の力だけではどうにもならない。そこで「援助をしてくれないか」との書状を諸国の大名に書を送る。頼ったのは近江の六角氏、越後の上杉謙信、越前の朝倉義景など。

とりわけ謙信と義景のことは頼りにしていたようだが、謙信は謀叛、義景は一向一揆に悩まされていて、なかなか義昭の要望に応えられずにいた。義昭からの書は、信長のもとにも届いていた。上洛したいという気持ちは満々の信長だったが、当時は宿敵美濃斎藤氏と対立の真っ最中。そのため、すぐに義昭を奉じて上洛するということは叶わなかった。

そうこうしているうち、永禄11年(1568)2月には、三好三人衆に擁立された足利義栄が、第14代将軍の座につく。この義栄と義昭は互いに将軍職の正当性を主張しあっていた仲。従兄弟同士でもあったが、義昭にとって義栄は次期将軍を競うライバルだった。義昭は失望し、焦りもしたろうが、前年に美濃を攻略し天下布武を掲げた信長から、ついに待ちに待った上洛のお誘いが届いたのだった。

信長の上洛を阻もうとしたのは三好三人衆と通じた六角氏

信長を頼ることを決意した義昭は、同年7月13日、越前の一乗谷を後にした。その途中、近江の小谷城では信長の義弟・浅井長政からの接待を受け、25日には岐阜へと到着したが、信長自らが美濃と近江の境目まで出迎えてくれるという厚遇ぶりだった。信長の手厚いもてなしを受けながら準備を整え、いざ上洛と思いきや、大きな問題が発生した。

上洛するには六角氏の所領(琵琶湖の南岸)を通る必要があったが、六角氏がこれを拒絶したのだ。織田信長は再三にわたって六角義賢に協力を要請するが、すべて拒否される。義昭からは六角氏に「協力すれば、幕府の所司代に任命する」とも伝えたが、結局説得はならなかった。

六角氏は室町幕府で重きをなした名門中の名門。その六角氏からすれば何処の馬の骨かわからない程度の織田家が室町幕府を再興するなど到底受け容れられず、また我慢ならないことだった。身の程を知れと。しかも六角義賢(承禎)は、信長が上洛しようとすれば、いずれ必ず戦うことになる三好三人衆と通じていたのだから、上洛阻止の判断は当然だった。

六角氏の作戦の裏をかいた信長の圧勝

織田信長はついに武力行使を決意。1568年(永禄11年)9月7日、、約15,000の軍勢を率いて岐阜城を出陣する。信長軍には尾張・美濃・北伊勢、そして徳川家康や浅井長政の軍勢も加わり、総勢およそ6万に及ぶ大軍勢となった。対する六角軍はおよそ1万千人。まともに戦っては勝ち目がないと見た六角義賢・六角義治親子は、主城である観音寺城(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に立て籠もり、手前の支城・和田山城で織田信長を迎え撃ち、後方の支城・箕作城(ともに現在の滋賀県東近江市)は形勢によってはそこに逃げ込もうと考えていた。

観音寺城がそびえたっていた繖山(きぬがさやま)は、周囲でも際だって目立つ山だ。千余ともいわれる曲輪や山頂の土塁線など謎に満ちた観音寺城は、六角氏の居城として壮大な規模を誇っていた。

しかし、信長軍が襲い掛かったのは、なんと、和田山城、そして観音寺城よりもさらに奥にある箕作城だった。9月12日申の刻(午後4時頃)、信長方の佐久間信盛・木下秀吉(のちの豊臣秀吉)・丹生長秀らが率いる軍勢は、箕作城への攻撃を開始。松明を数百本用意して火攻めの夜襲を敢行。箕作城はその夜のうちに陥落した。

箕作城/アクセス・場所・地図 六角義賢・義治親子の観音寺城の支城で信長の攻撃により一日で落城した箕作城【お城特集 日本の歴史】

その知らせを聞いた和田山城の兵士たちは腰抜けで、戦わずして逃亡を始める。こうしてわずか1日で箕作城・和田山城を相次いで失った六角親子も、まず箕作城が落城したことを知るやいなやその夜のうちに観音寺城を捨て、夜陰に紛れて甲賀方面(現在の滋賀県南東部)へと逃げ出してしまい、観音寺城は戦わずして織田信長に明け渡されたのだった。

本丸跡。当然城の建物は残っていないが、ここから六角親子は暗闇に紛れて甲賀方面へと逃走した。

それぞれの戦後、人生いろいろ

この近江盆地を、およそ460年前には都を目指す織田軍の大群が西進していた。支城だった箕作城をあっけなく陥落させられると、六角義治や義賢、義定ら観音寺城を守っていた一団は、あっけなく城を捨て逃亡していった。ちなみに、観音寺城を中心とする支城の一つ、日野城を守っていた蒲生賢秀は最後まで抵抗を試みたが、最終的には織田勢に屈服。降伏の証として、子の鶴千代を人質として差し出している。この鶴千代こそ、のちの蒲生氏郷。子どもだった氏郷は、信長の人質となって生き延び、のちに豊臣秀吉に仕えた。

蒲生氏ほか近江国衆たちの多くも次々と信長に降伏。永原・後藤・永田・青地といった、南近江に大きな勢力を持っていた国人領主たちは軒並み信長に与することになった。そして、邪魔な六角氏が逃げたため、信長と義昭の上洛はほぼ確実なものとなる。9月14日、信長は義昭に迎えの使者を派遣。22日には桑実寺(現在の滋賀県近江八幡市安土町:写真下)で信長と義昭は合流。

写真1

26日には京都に入り、同年10月18日、義昭は悲願であった将軍宣下を受け、室町幕府の第15代将軍となった。この一戦は、天下布武を標榜しての最初の戦いであったが、織田信長にとっては上洛作戦の仕上げとなった。敗走していった六角親子だが、観音寺城の南部の甲賀郡に本拠を移し、体制を立て直した後、再び信長に嚙みついてはみたが、観音寺城に戻ることはなかった。名門だったプライドはかくも高くて醜し。よほど下剋上が許せなかったのだろう。また、将軍となった義昭にとっては幕府再興の一歩となったが、まもなく信長と義昭との仲は悪化していくのだった。人生いろいろ、生き抜いていくのは難しい。

日本五大山城のひとつ、巨大な名城「観音寺城」

観音寺城の築城時期ははっきりしていないが、近江守護・六角氏が本拠とした、日本五大山城のひとつに数えられる巨大な名城である。2006年(平成18年)には日本100名城にも選定された。

もっとも古い記録としては、1335年(建武2年)には六角氏頼が観音寺城の前身となった砦に籠ったとの記述があり、1352年(正平7年/観応2年)には佐々木道誉らが南朝勢力との抗争で敗退、繖山の城砦まで撤退して籠城したとある。

そんな観音寺城が現在知るところの山城として築城されたのは応仁の乱が起きた1468年(応仁2年)であると言われているが、果たしてその際の築城であったかどうかは定かではない。

本拠地へと続く石段は観音寺城当時の遺構。

六角氏が信長に無血開城し、そのまま廃城になったため、荒廃してはいるものの土塁や石垣など、多くの遺構を確認することができる。当初の城は砦程度の規模だったが、六角義賢が城主となってから、山中の随所に曲輪を配した巨大な城郭へと進化。総石垣で築かれた国内屈指の大規模な山城になったと考えられており、織田信長が安土城を築城する際に参考にしたとも言われている。

現在では日本最古級の石垣造りが見られるスポットとして知られ、国の史跡に指定されている。

観音寺城

観音寺城の幾つもの戦いに心が疲れたので最寄りの道の駅へ

観音寺城の最寄りの道の駅は、「竜王かがみの里」。最寄りといっても10kmほど離れていて、「観音寺城の戦い」にゆかりはない。ここ竜王町鏡地区に旧東山道の馬屋の一つ「鏡の宿」があったことと、源義経がこの鏡の宿で元服を行ったことが広く知られている場所だ。義経、幼名・牛若丸は、鞍馬山を出奔したのち、滋賀県竜王町の鏡の宿で元服した。稚児姿では平家の追手に見つかりやすいため、元服して大人の格好に変えたのである。今から850年前、応仁の乱の観音寺城の戦いからは300年近く前の、承安4年(1174)のことだった。

道の駅の場所は、名神高速道路の竜王ICから国道477号線→国道8号線を通って北西に5kmだが、国道8号線に入ると交通量は多くなり、渋滞することもある。 道の駅の周辺には元服池や、元服の時に使った「たらいの底」、 烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」など義経元服所縁のものが多い。

毎年3月には「鏡の里元服式」を開催しており、竜王町以外の方でも源平時代のいにしえの元服式を体験できる。 ジャスト20歳でなくても大丈夫。13歳以上の男女問わず、誰でも元服式に参加できる。

道の駅 | 竜王かがみの里 | 源義経の元服の絵

何から何まで標準的な道の駅だがやや地元客が多めか

道の駅「竜王かがみの里」の年間利用客数は、全国平均値に近い年間50万人ちょっと。 標準的な道の駅だが、やや多めの地元客に支えられている様子だった。

駐車場は、狭くもなく、かといって広くもない。

トイレは年季は入っているが、気持ちよく利用させていただけた。

休憩スペースは、ドーム下の広いスペースや、ちょっとしたベンチなど、バリエーション豊か。

情報館の広さと充実ぶりはちょっとした特徴か。

物産館では、竜王町の特産品を中心に、滋賀県全般の商品までもれなく販売している感じ。

竜王の特産商品としては「滋賀竜王まるしぇ」が提供する「竜王プリン」各種、「近江の羽二重餅」「近江栗パイ」「近江牛ビーフパイ」「竜王そば」「桃どら」など、義経元服の地なので「元服茶」など「義経」や「元服」に因んだ商品もある。

物産館内に併設されている農作物直売所は、全国の道の駅の平均と比べてやや大きい感じ。規模からも地元の人に支えられていると感じる。

販売されている農作物はキュウリ、ピーマン、キャベツなど、日常的にいただく野菜が中心。 ほぼ地元客だろうが、農作物を目当てにこの道の駅を訪れているようで、売り切れになっている野菜も多かった。

物産館から少し離れた所には道の駅レストラン「岡善かがみの里店」と近江牛の直売スペースがある。 「岡善」は滋賀県内に7店舗を展開する近江牛の専門店で、道の駅「竜王かがみの里」の中では、道の駅レストランも開いている。

名物料理はもちろん「近江牛すき焼き御膳」「自分で焼く赤身・霜降りステーキ定食」「自分で焼く近江牛サーロインステーキ定食」 「自分で焼く近江牛ヒレステーキ定食」近江牛を使った本格料理だが、高いものでは7,000円、安いものでも3,000円近い本格料理に手が出る人ばかりではない。

「とんかつ定食」「唐揚げ定食」「和風おろしハンバーグ定食」等、昼食の予算に対応する1,000円台のメニューも用意されている。

パン工房もあって、焼きたてパンは地元の人に人気のようだが、私たち観光目的の客にとっても手頃。テイクアウトなどで利用しやすくなっている。