連載第2話 「ブルシットジョブとの決別を決めた3.11」  四葉のクローバーを探して・第一章<ブルシットジョブと引き換えに失ったものと得たもの>

2011年3月11日、京都リサーチパークのイベントホール。

私は、そこで開催されたクライアントのイベントに「義理でただ参加する」という、苦痛でしかないその日の「ブルシットジョブ」を午前中で終え、さっさと事務所に帰りたかった。

誰とも視線を合わさないようにしていたが、運悪くもっともクソどうでも良いブルシット役員Nに呼び止められた。
「一緒に本社まで帰りましょうよ。」
その会社の本社は、京都のオフィス街、京都御所のすぐ南だが、烏丸二条にあった。
私のオフィスは当時一つだけ東の「河原町通」の二条にあって、その会社の本社に用事があるわけではなかったが、まあ、そこまでタクシーに乗せてもらえるなら、あとは徒歩で帰れる。

そのブルシット役員Nと、クソどうでも良い会話をしなければならない苦痛は伴ったが、馬耳東風ってやつでしのげばいい。しばらくの我慢でタクシー代が浮けばある意味ラッキーだった。

1400分の4、小さなラッキー

リサーチパーク前のタクシー乗り場に行くと、待つことなくちょうどタクシーがやってきた。ヤサカタクシーだった。
「どうぞ」

ブルシットNが私に先に乗り込むよう促す。
「あ、いや、ちょっと腰が痛いもんで、楽をさせてください。どうぞ先に乗ってくださいな。」
私は、上座を彼に譲り、彼の後に乗り込んだ。
まあ、彼から見れば私はずいぶん年上の社外役員、どうせ、その会社の役員である彼がタクシー代を払ってくれるわけだが、上座に座ってしまうと、彼が支払いを済ませるまで降りられない。おりからの体重オーバーで腰に痛みはなくはなかったが、上座を彼に譲ったのは、とにかくさっさと降りて、自分のオフィスに帰りたかった、ただそれだけのことだった。

タクシーに乗り込むと、運転手が後部座席を覗き込むようにしてこう言った。
「お客さん、おめでとうございます。

この車は、ヤサカタクシーの四葉のクローバー車です。

乗車記念にこちらをどうぞ。」
手渡されたのは、写真の「乗車記念カード」と、「四葉のクローバーのステッカー」だった。

ブルシットNは、日頃よほど幸せというものに縁がないのか、大きな声をあげて狂喜した。

「うわ〜〜、1400台のうちのたった4台に当たったんですね、もちろん初めてですう〜。」
まるで宝くじにでも当たったように、無邪気に騒ぎ始めた。

「うるさい。黙っとけ!」 

私は心の中で叫んだ。

16年の長いお付き合い、最初の5年はいい仕事をした。

このクライアントとの付き合いが始まったのは、忘れもしない1994年。

そう、阪神淡路大震災の前の年であった。このクライアントと出会い、コンペに勝利して仕事に取り掛かってから、なんと17年が経とうとしていた。

このクライアントは、一応、京都ではもっとも老舗かつ大きい学習塾だった。
私は、「塾」という存在が実は大嫌いである。

いや、正確には、途中から大嫌いになった。最初から嫌いなら、いくらなんでも「取引」は始まらなかった。
独立企業した1990年代、30代前半の私はビジネスマンとして最高潮、「広告のプロ」として、キレッキレの仕事ができていた。
リクルートを退職して会社を創業したのは1991年秋。知名度ゼロからの出発だったので、無名の広告会社として「コンペ」という「コンペ」を荒らしまくっていた。そして1994年の春、このクライアントの、博報堂ほか7社ほどが参加した「広告宣伝のアウトソーシング会社選定コンペ」に参加し、当社・株式会社表現が勝って、複数年の広告宣伝の全てを取り仕切る契約を得たのだった。

だから、最初のうちは嫌いでもなんでもなかった。契約した内容を、粛々と納品し、喜んでいただいた5年間が最初にあった。

しかし、その仕事の4年目に長女が誕生。そのタイミングで「社外役員」のオファーをいただいた。
他の仕事にチャレンジする機会は減るが、報酬は安定するから、家族のためを考えるとそのオファーはありがたかった。
このオファーを受けて以来、このクライアントの仕事はブルシットジョブに変わってしまった。
知らなくても良い内情が次々とわかってしまい、このクライアントが日に日に嫌いになっていったのだ。
嫌いなクライアントの「片棒を担ぐ」のは辛い。
魂を売っての仕事ほど虚しいものはない。

広報広告宣伝に関することは一切を仕切っていたので、「郷ひろみ」と代表とのゴルフの打ち合わせや、アニキ金本知憲のインタビューなど、企画の勝負師だった私としてはクソどうでも良いブルシットジョブの日々だった。

ストレス太りが酷かった。
それにもかかわらず、「安定」を捨てられず長々と社外役員を勤め続けている自分に時々無性に腹が立ったが、仕事は家族のためという「大義」がまずあって、理念や能書や好き嫌いなどは一切捨てると決めたのは自分である。

腹が立つたびに、それを理由に、それ以上は深く考えないという癖をつけていた。

ブルシット仲山が話しかけてくる話を右から左へと受け流し生返事を繰り返しながら、頭の中でそんな過去を振り返っていると、タクシーは「本社前」に着いた。

当時連戦連勝、コンペ必勝10ヶ条

ブルシット役員Nとはそこで別れ、私は自身の事務所に帰った。
事務所は河原町二条の角、マンションの6階に構えていた。
コーヒーを入れ、途中で買った新進堂のあまり美味しくないパンを頬張りながら、さっきタクシーの中で思い出していた「コンペ荒らし」の頃の、キラキラした思い出の続きを懐かしんでいた。
業種によって多少の違いはあるが、クライアントにとって「広告宣伝の外注企業の決定」は非常に重要な意思決定の一つである。

広告宣伝の外注先は、そのほとんどが電通博報堂をはじめとする広告代理店だが、そこに時に大日本や凸版といった印刷会社、そして当社「表現」のようなクリエイティブに特化したプロダクションなどが絡んでくる。クライアントにとって、これらのどこに広告宣伝を任せるか、パートナー起業を見極めるために行うのが「企画コンペ」である。
当時、私はコンペ必勝法を心得ていた。

一言で言えば、以下のような会社の逆を行けばいいだけのことだが。

①大勢でプレゼンに来る会社は間違いなくクオリティが低い

提案=プレゼンテーションにたくさん人を連れてくる会社がある。当時大日本印刷などは加齢臭漂うおっさんたち10人以上が押し寄せ、名刺交換だけでも数十分かかっていたのを見て、「ああ、ここはアウトだろう」と思ったものだ。
人がたくさんいれば、クライアントは、「それだけ力を入れてくれている」と思うことを期待しているのかもしれないが、これは逆効果。「うちはコスパ最悪ですよ」と言っているようなものなのだ。「全容を把握している人がキーパーソン不在」の表れでもある。

私の経験では、人の多さと企画の内容の良し悪しは反比例する傾向にある。人が多かったから良い会社、良い企画が出るわけはなく、もしそういう会社の提案が採択され、実施に移行した場合、そのプロジェクトはまず混乱すること間違いなしである。
ちなみに、私の会社「表現」は、常に営業責任者・丸山典久と表現責任者の私の2人でプレゼンテーションに臨んだ。

②冒頭に実績などをアピールするアホな会社はダメ

冒頭に自社の実績やスタッフの経歴などを説明する企業があるが、このような会社に負けることもまずない。「ハロー効果」で信用を勝ち取ろうというもので、大抵は企画提案の中身が薄い、内容に自信のない表れでもあるからだ。
実績を記載するのは当然。しかし、良い企画を出す企業の多くは実績掲載は「後半」、「まとめ」の前。あるいは添付資料と決まっている。実績を冒頭に持ってくる提案のほとんどは中身がひどく、後半尻すぼみになって撃沈する。

当社「表現」は、プレゼンテーションの冒頭命。冒頭に「アブストラクション(企画の要約)」を持ってきて短時間で説明。企画のインパクトを鮮明に印象付けることに集中していた。

③分業あからさまの醜態を見せる会社には楽勝

インデックスの流れは完璧なのだが、章から章がつながっていない企画が多い。大手に多いが、多くのチームがバラバラに動き、リーダーが頼りなく、その流れを監修してないこと丸出しなのだ。

電通などは、例えば広告戦略を提案する場合、環境分析〜資源分析〜プロモーション戦略の策定〜クリエイティブ〜広告プラン〜KPIの設定などの基本的流れは流石にしっかりしているのだが、中小企業のコンペなどは支局の片手間仕事なので、ひどい場合はそれぞれの分業ごとに導き出した結果や結論が矛盾していたり全てのつながりがないという場合があって笑える。
章によっては良い提案をしている場合があっても、全体がつながらないと結局は意味不明。提案側自体、何をしたいのかが結局わからないままプレゼンテーションするというのは、クライアントに対して大変失礼なことであろう。

最悪なのは、そうした大手企業はそういうやり方に慣れてしまっていて、流れが破綻していることに気づいていないことである。なぜわかるか?そんな失態をプレゼンで演じておきながら、終わったらみんな大変満足そうな顔をして帰っていくのだから(笑)。

当社「表現」の企画書は、1にインパクト、2にわかりやすさ。3に、何度見直しても川上から川下に流れるように理解できること。これに徹していた。だからだろう、大手には特に負けなかった。

④専門知識の濫用で墓穴を掘る会社は笑える

これは、逆に中小零細プロダクションの提案に見られることだが、個別の専門知識が異様に低いという論外がある。

ブランドの定義を間違えていたり、マーケティングとプロモーション、KPIとKGIの概念を間違えていたり、算定方法などについても「知らなすぎる」会社もしばしばある。流行り言葉、横文字を羅列しているのだが、その意味を間違えて平気なんてかなり恥ずかしい。

パイロットが計器の見方を知らない、そんな飛行機に乗ったらアウトだ。
当社「表現」は、クライアントのトップの知識レベルよりちょっとだけ背伸びした用語以外は使わずに、トップの意向(オリエンテーション)6割を順守、新鮮な驚き4割を付加したプレゼンに徹し、この線を突ければ必ず勝てた。

⑤中小企業の予算に合わない「再委託」「著作権処理」はアウト

大手広告代理店に多いが、例えば有名なタレントや俳優がグラフィクにデザインされているが、見積もりに計上されていなかったり、という論外な提案も多い。

再委託や著作権の扱いを疎かにする企画提案は、特に中小企業相手のプレゼンテーションにおいては致命傷となる。著作物における使用延長や二次利用などの予算オーバーは、中小企業にとって受け入れられるものではないからだ。

再委託とは、一次受けの代理店がその子会社に、さらに外部へ発注して、また外部にと、3次請け以上の再委託による業務遂行のことである。広告代理店を例にとると、15%以上の間接費を引いて、その子会社へ制作発注。この子会社は今度は30%くらいの間接費をとり、次に外部企業へ委託する。これがさらに続くと、例えば1000万で発注しても、末端の制作費は100万だった、みたいなことはしばしばである。

制作したデザインやロゴ、コピー等の著作物についても基本的にはクライアントの買取。もちろん買い取れない著作(例えば役者の肖像権等)もあるが、当社「表現」は、その会社にとって背伸びしすぎたタレント提案は行わず、本業の本質から乖離しない方向性で現場を巻き込む相乗効果や、確実に得られる効果成果を徹底的に訴えた。

逆に再委託や著作権を曖昧にする「大手」のいい加減さを徹底的にディスって、当社「表現」こそは「コスパ最強」と我田引水していた(笑)。

⑥質疑応答の時間こそ大切

コンペのプレゼンテーションにおいて、非常に大切なのは「質問」を受ける時間である。
私は、プレゼンテーションが終わった後の質問への対応は、パートナーとしてやっていけるかが判定されると考えても良いぐらいだと思っていた。
質問への答え次第では、パートナー企業にして大丈夫だという確信を与えられもすれば、逆に不安や失望を与えてしまうことにもなる。その見極めは、質疑応答でなされると言っても過言ではない。
質問の意図を察する感性、それに的確に回答を返すことは基本だが、態度、目の動き、答え方、表情、足の向き、手の動き、貧乏ゆすりなど、あらゆるところに人間の本性は見え隠れする。

印象を含めて、質疑応答のすべては、今後のパートナーシップにとって大事な「情報」となるのだ。

また、クライアントにとっては、バジェットは数千万円であろうと、1個数百円、数千円のものを苦労して販売した利益から捻出した金額である。そうした「基本」「血の一滴」をわきまえない会社が多すぎて、勝負にならなかった(笑)。

⑦やっぱり企画内容が生命線

奢りと企画の品質は反比例するものだ。企画の根底にあるべきものは、会社の規模大小や知名度でなく、真摯に中身に取り組む姿勢、クライアントへの尊重、そして経験や頭脳である。
その上で、いかに切れ味のある「表現」を提案できるか。コンペの勝敗は、やはりここに帰結する。
当時の弊社「表現」にとって、コンペで競う会社はことごとく弊社より知名度があり実績に裏付けされた立派な看板もあった。
しかし、彼らには無意識の「奢り」があり、何処の馬の骨かわからない私たち二人がコンペの控え室に静かに座っているその姿を、彼らは見下げるような眼をして見ていたことを思い出す。
しかし、結果は、大抵当社「表現」の勝利だった。

弊社「表現」がコンペに参加すれば、勝利は「ほぼ確実」に転がり込んでいた。
多くのコンペ参加企業にとって受け入れ難く、また到底信じられなかったことであったろう。

なにが四葉のクローバーか

2011年3月11日の午後、私は一人事務所でそんな「仕事の原点」「私のビジネスマンとしての最盛期」を懐かしんでいた。
すっかり懐かしい、ということは、今の私はもうその「原点にいない」、はっきり言うと「下降線にいる」ということである。

長女の誕生を機に、ヒリヒリとした勝負の世界を捨て、私は「子育て」のための「安定」を選択した。

このクライアントの社外役員になって固定収入をいただき始めてから12年が経とうとしていた。

そんな14時46分。

揺れた。
京都の事務所は12階建ての6階。

ゆっくりと、大きく、揺れ続けた。

阪神淡路大震災の、あの突き上げられるような激しい揺れとは全く違ったものだったが、ソファに預けた体が、不気味なほどゆっくりと、ゆらりゆらりと大きく長く揺さぶられた。

大きな地震が起こった、それだけはわかったが、「原点」を忘れた、終わった仕事人が、「目を覚ませ」とばかりに体を激しく揺すられている、そんな気もした。

テレビをつけた。
ヘルメットをつけた安藤優子が、顔をこわばらせながら、手でヘルメットを押さえて叫んでいた。
「東北地方で、地震です!」
「スタジオも揺れています、大きく揺れています!」
私は、つい2時間ほど前に乗ったヤサカタクシーの運転手にもらった「四葉のクローバー」を財布から取り出して、つぶやいた。

「ふざけるな、なにが四葉のクローバーや!」

夕方、クライアントから連絡があった。
「明日、朝10時から緊急役員会を開きます。ご参加ください。」
とのことだった。

議題も、結論も。何もかも、想像がついた(笑)

まるで刺激も成長もないブルシットジョブと、いよいよ決別すべき時が来たような気がした。
このままでは、本当に腐ってしまうと。
私は、翌日の役員会の後、「代表」に辞任を申し出ることを決意した。

(つづく)

この連載は、昭和を30年、平成を30年、そして令和をまだ生きている「神生 六(本名:越生康之)」の人生の記録であり、遺言として残すものでもある。