襟裳の春は本当に何もない春なのか、道の駅「みついし」から確かめに行ってきた(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事△設備△立地○) 

北海道をざっくり“ひし形”として見て、ちょうど下の角にあたるのが襟裳岬だ。

もちろんひし形の左右も上も半島や岬がでこぼこあってきれいな角にはなっていないが、下の角の襟裳岬だけは、ちょうどきれいにとがった形をしている。そして、その“ひし形”を東西に分けるように、ちょうど中央に走っているのが日高山脈である。

つまり、まるで北海道の背骨のような日高山脈を南に下った突端が襟裳岬なのだが、切り立つ山脈は襟裳岬で突然終わるのではなく、日高山脈が次第に標高を下げ、そのまま太平洋に沈んでいく。

山脈の山頂は次第に低くなりながらもそのまま海に続いていって、沈んでいくのだが、山頂のところどころが海から顔を出しているから、岬からは直線上に延々と岩礁が続く。その距離およそ2km。海面に没してからもさらに6km続く。

そして襟裳岬の南東側の海面には「襟裳海山」という山が海中に連なって存在しているのだが、この海底山脈は日本海溝の北端に位置し、高さは約4200m。この襟裳海山は日本海溝の最北端の深い海底にあり、海山の高さは富士山よりも高い約4,200メートル。その高さがあっても山頂は海面下3,735メートルの深海にあるというから、海の中の凹凸は想像を絶する。

襟裳岬には、草と風以外、何もないと思った

昭和のヒット曲「襟裳岬」で、襟裳の春は「何もない」と歌われたわけだが、少なくとも道の駅はない(笑)。あとで紹介するが、最寄りの道の駅は「みついし」。岬からは100キロほど離れているだろうか。

道の駅「みついし」を出ると、ずっと右手に太平洋を見ながら、一路南東へ。ひたすら襟裳を目指す。

えりも町の歌別川では国道から別れ、そこからさらに岬を目指した。ここからは海風に草がなびく草原で、草と風以外は「何もない」ところだ。

この道中は、まさに大自然の中にいる感じがする。

人間なんてちっぽけな存在だと、改めて思う。

右手に見えてくる海原がとても美しい。

襟裳岬には、「風と波」以外確かに何もない。

でも、それが良い。

余計なものは無い方が良い。

襟裳岬は、アイヌの人には「ねずみ岬」

ところで、この襟裳岬は、アイヌ語でエルムノッドという。

エルムとはねずみ、ノッドとは岬。つまり、ネズミ岬というわけだ。

アイヌが大地に地名をつける場合は、その地形を見てつけるという。

アイヌの人は、そこにネズミの大群を見たのだ。

実際、岬の先に立って沖を見ると、確かにネズミの群れが陸を目指して走って来るように見えなくもない。

襟裳岬には灯台があった

 襟裳岬灯台は、北海道えりも町の襟裳岬先端に立つ白亜の大型灯台だ。

「日本の灯台50選」にも選ばれている。

沖合で暖流と寒流がぶつかり合って、年間100日ほど海霧が発生するため、海の難所といわれる襟裳岬一帯を航行する漁船や貨物船を見守るという大切な役割をになっている。
1889年(明治22)6月25日に初点灯。

当時は第1等(特大レンズを使用した)の灯台だったが、1945年(昭和20)7月15日に第二次世界大戦時の爆撃で破壊され、1950年(昭和25)2月3日に再建された。
灯塔高(地上から塔頂まで)13.7メートル、標高(平均海面から灯火まで)73.3メートル。

現在は第3大型フレネル式レンズを使い、光度は72万カンデラ(実効光度)、光達距離22.5海里(約41キロメートル)となっている。

襟裳岬には「何もない」という謙遜があった

「襟裳岬」という楽曲は、作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表する黄金コンビによる作品である。

私が高校生だった1974年1月5日に森進一(当時26歳)のシングルとしてリリースされた楽曲だ。

累計売り上げでは約100万枚を記録しており、森進一は、本作で同年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞した。
森進一と吉田拓郎については下手な説明は不要だろう。

「何もない」という歌詞を一人歩きさせた岡本おさみは、放送作家から作詞家に転身。

吉田拓郎の代表曲「落陽」を始め、「黒いカバン」(泉谷しげる)、「きみの朝」(岸田智史)、「川の流れを抱いて眠りたい」(時任三郎)など多くのヒット曲を手掛けた人だ。
岡本はこの曲の作詞をする前に、実際に襟裳岬を訪れた。

北海道の中南部、日高山脈が太平洋に落ち込んで生じたその岬のある町は風が強く、しばしば叩きつけるような激しい風が吹く。岡本が訪れたその日も、春とはいえとても冷たい海風が吹き渡っていたそうだ。彼はその日のことを鮮明に憶えているという。

「あまりの寒さに近くの民家を訪ねたところ、老夫婦が快く迎え入れてくれて“何もないですが…お茶でもいかがですか”と温かいお茶を飲ませてくれたんです。冷えきった身体に流し込んだお茶は飛び切り美味かった。“何もないですが…”という温かくて素朴な人情に“これだ!”と閃いたんです(岡本談)」

襟裳岬には、森進一と吉田拓郎の転機があった

そんな作詞エピソートを持つこの歌は、歌唱した森、そして作曲した拓郎ともに大きな転機となった。
森が当時契約していた日本ビクターは創立50周年という節目を迎えようとしていて、同社の看板歌手(森進一、フランク永井、松尾和子、三浦洸一、鶴田浩二、青江三奈、橋幸夫など)が、記念となる年(1974年)の1月に新曲シングルを一斉に発売しようという企画が進められる中、同社音楽部門から独立したビクター音楽産業株式会社が一周年を迎えたこともあって、特別なシングルとして楽曲選びの準備が進められていた。
森に関しては、何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時高橋卓士)の案が採用された。ちなみにその頃の森は、虚言癖のあるファンからの謂れの無い中傷誹謗、母親の自殺、マスコミによる根拠のないバッシングなど…耐え難い心労が重なり、引退まで考えていた時期だった。
高橋は以前、吉田拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を聞いていた。

演歌の森進一がフォーク畑のアーティストが作った曲を歌う。高橋にとっては賭けだったが、実際に拓郎が書いてきた曲は、本当に素晴らしいものだった。
それでも頭の固いビクターレコード上層部や森が所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反応は厳しかった。
「A面には相応しくないのでは?」
「フォークソングのイメージは森に合わない」
「こんな字余りのような曲を森が歌うのはちょっと…」

ということで、当初はシングル盤のB面扱いとして話が進められた。
一方、当時27歳だった拓郎もまた、森と似たようなスキャンダルに巻き込まれていた。コンサートを終えた日の夜に強姦されたと騙る女子大生に訴えられて、拓郎は逮捕されたのだった。
一ヶ月半に及ぶ勾留の後、結局この女子大生がでっち上げた虚偽であることが判明して不起訴となり釈放。しかし、テレビや週刊誌などマスコミが吹聴したバッシングに合い、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CMの自粛といった理不尽極まりない試練を強いられていた。
容赦ないマスコミのバッシングによって辛酸をなめさせられた拓郎が、同様の境遇にあった森の為に書いた曲だった。この歌詞に感動した森は、当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切って、両A面という扱いでこの記念すべきシングルをリリースすることとなったのだった。

森はこの曲の成功をきっかけに「冬のリヴィエラ」という大ヒットを続け、歌手としての幅を大きく広げることになる。
そして拓郎はその後、由紀さおり「ルームライト」、キャンディーズ「やさしい悪魔」、中村雅俊「いつか街で会ったなら」、風見慎吾「僕笑っちゃいます」、KinKi Kids「全部だきしめて」など、歌謡歌手やアイドルに曲を提供。拓郎自身が歌う拓郎節だけでなく、その作曲能力を広く知らしめることとなった。

襟裳岬には海の幸があった

襟裳岬は一年を通して海の幸に恵まれている。
特に有名な海産物は「日高昆布」だ。えりも町では、日高昆布の65%以上が漁獲される。そして、この日高昆布を食べて育つ「エゾバフンウニ」の美味しさもまた格別である。
また、えりもでは「ツブ」が美味しいことでも有名だ。真ツブもさることながら、「灯台ツブ」も獲れる。この灯台ツブが真ツブと違うのは歯ごたえがあること、そして身は柔らかくてプリプリなこと。
春はまた、「ボタンエビ」が美味しい季節だ。まるでボタンの花のように大きなボタンエビは、北海道を代表する魚介類。ウニとツブとボタンエビがのった海鮮丼は、襟裳ならではの贅沢な丼だ。
ただ、私はレストランに入ったとき完全に味噌ラーメンの口になっていたためこの丼は注文せず「海鮮味噌ラーメン」と注文した。

襟裳岬の隣には百人浜があった

切り立った断崖と岩礁が特徴的なえりも岬とは対照的に、岬の北東には10kmに渡って続く砂浜がある。ここが百人浜だ。

名前の由来は諸説あり、古くは寛政3(1791)年『東蝦夷地道中記』に、金掘り百人が捕らえられ処刑されたことから名づけられたことが記されている。北海道の命名者である松浦武四郎の『東蝦夷日誌』にも「一夜の時化に大船多く打上、水夫百人死せしを埋めしとも、又往古幌泉土人十勝土人と戦て、其死骸を埋めしとも言り」とあり、大時化に遭って浜に辿り着いた船員が、飢えと寒さで命を落とした説、アイヌ同士の戦いで百人余りの犠牲者が出た説などもある。

実際、この辺りは深い霧に覆われるため遭難事故も多く、浜辺には遭難した南部藩御用船を供養するため、お経を石に一字ずつ写経した「一石一字塔」が残されている。また、展望塔からはえりも岬の緑化事業で植えられた広大なクロマツ林を一望できる。

砂浜が続く百人浜には、まるで砂漠のオアシスのように、たっぷりと水を湛えた悲恋沼がある。

その名前からわかるように、こちらもまた結ばれぬ恋にまつわる悲しい物語が秘められている。 

道の駅「みついし」

道の駅「みついし」は、新ひだか町(旧 三石町)のマリンレジャーの拠点・三石海浜公園の中にある。三石海浜公園は、充実した施設で注目されるオートキャンプ場と16棟のバンガローがあり、道の駅自体がオートキャンプ場のセンターハウスも兼ねていて、オートキャンプ場の受付も行っている。

駐車場がガラガラなのは、平日であることと悪天候ということが重なったためだろう。

トイレは綺麗に清掃されていてとてもありがたい。

センターハウスの横には、三石特産の昆布などの海産物の販売所がある。

個人的には「つぶそば」がいただきたかったが、残念ながらこの日は休み。

みついし昆布温泉「蔵三」

道の駅の敷地内にはみついし昆布温泉「蔵三」がある。
太平洋に囲まれた最高のロケーションが魅力の露天風呂。旅の疲れを癒し、ここにしかない「昆布湯」で美肌効果も期待できる施設だ。地元食材にこだわったレストランや宿泊施設も完備している。