
石見国(島根県)浜田藩(松平右近将監家 石高六万一千石)は、江戸時代末期の長州征伐(幕長戦争)において長州軍と交戦したことで知られています。幕長戦争は、江戸幕府が倒幕の急先鋒であった長州藩を攻撃した戦いで、元治1年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたって行われました。浜田藩は、第二次幕長戦争の「石州口の戦い」に参加し、長州藩と戦っています。
この第二次幕長戦争に際して、浜田藩は幕府軍の先鋒部隊の一つとして石州口の守備についていました。石州口では長州軍との激しい戦闘が繰り広げられましたが、村田蔵六(のちの大村益次郎)が指揮する長州軍に敗北。慶応二年(1868)七月、浜田藩は自ら浜田城に火を放って、藩主以下士卒は杵築に、続いて松江へと退いたのでした。燃え盛る城は沈む夕日の如く真っ赤に天をも焦がしたのでしょうか。それを振り返りながら敗走した浜田藩士たちの心情は察するに余りあります。
幕長戦争は、朝廷から「兵事の停止」という勅命によって終結しましたが、その後も石見国の浜田藩領は長州に占領されたままの状態が続き、浜田藩はやむなく藩を挙げて飛領地であった久米北条郡の十七ヶ村(石高八千三百余石)に移動したのでした。
浜田藩のその後
藩主松平武聰は、慶応三年(1867)3月26日、里公文中村の大庄屋福山元太郎邸に入り、藩名を「鶴田藩」と改めた。そして、士卒や家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し、慣れない土地での生活が始まったが、これは6万石を超える大名の生活がいきなり8300石の生活に転ずるという、経済的に極めて苦しいものだった。
その後、人心も落ち着きを見せ、鶴田藩の統治機構が次第に整うにつれて、移住後福山邸に起居していた藩主や家族についても新しい居所が検討されるようになる。当初候補地となったのは、久米北条郡下打穴村内の鬼山であったが、慶応4年6月以降鶴田藩領となっていた同郡桑下村内のこの地に建設されることとなった。
鶴田藩主の居館はこの西御殿の地に建築され、藩主がここに移ったのは年号も改まった明治4年(1871)の六月であった。しかしながら同月の版籍奉還、翌7月14日には廃藩置県の詔書が出され、松平武聰は藩知事の職を解かれて東京へ召されることとなる。武聰の東京への出発は同年の8月23日であり、結局藩主がここへ起居したのはわずか足掛け3ヶ月のことだった。
浜田城のその後
長州軍に敗北を喫して藩兵が自ら火をつけて退城したこのときに、浜田城は天守以外のほとんどの建造物が焼失してしまい、その天守も明治5年(1872)に起きた浜田地震によって倒壊。現在は石垣だけが残っていて、桜の名所として市民の憩いの場となっている。


浜田城跡は、浜田市殿町の市街地中央部に位置する標高67mの丘陵上にある。浜田城(別名亀山城)は、元和5年(1619)に初代浜田藩主となった古田重治によって築城されてから慶応2年(1866)の第二次幕長戦争によって落城するまでの247年間、浜田藩(5万5,000石)の本拠地だった。城主は古田家からはじまり、松平周防守家、本多忠勝を祖とする本多家、松平清武を祖とする松平右近将監家(越智松平家)へと替わり、そして幕末の慶応2年(1866)7月、浜田城の歴史も終わったのだった。
島根県唯一の国際貿易港
浜田港の歴史は、応神天皇の世(270年)に浜田近海の漁場が開発され、天然の湾に恵まれた浜田浦、松原、瀬戸ヶ島に港が作られたことにまでさかのぼる。
元和 5 年(1619)、大坂の陣の戦功により古田重治が 5 万 5 千石を得て浜田に入り、松原湾を背にした亀山に築城したのが浜田城である。その三層櫓の本丸からは日本海を航行する船が観察でき、海からの攻撃を意識した城郭であった。港は、廻船の寄港するところとして外ノ浦、瀬戸ヶ島、長浜の三か所が藩から指定されていて、中でも外ノ浦は古くから「姥の懐」と呼ばれ、北側が山で塞がれ、外海から奥深く入込んだ天然の良港であった。
上方と日本海を結ぶ西廻り航路が定着すると、藩の御城米船や諸国の廻船が盛んに出入りし、湾の最奥部には津和野藩の倉庫も置かれた。藩内最大の入荷・出荷量を誇った外ノ浦には、一膳飯屋、宿屋、妓楼等が立ち並び、江戸期を通して当地方一の盛り場であったという。
浜田港は明治32年に外国貿易の開港指定を受け、木材輸入を中心に島根県唯一の国際貿易港として発展を続ける。昭和32年には重要港湾に指定され、平成13年には韓国釜山港との国際定期コンテナ航路を開設。平成20年にはロシアのウラジオストク港とのコンテナ貨物の輸送も可能なRORO船が就航し、平成22年には重点港湾、さらに平成23年には日本海側拠点港にも選定されている。また、平成30年に臨港道路福井4号線が開通。山陰道や浜田道と直結し、島根県の国際経済交流の重要拠点として現在に至っている。


道の駅「ゆうひパーク浜田」
そんな浜田港がよく見える高台、山陰自動車道(浜田道路)の無料区間、竹迫ICと原井ICのちょうど中間点に「道の駅 ゆうひパーク浜田」はある。





山陰自動車道のパーキングエリア的な役割も持つ道の駅だが、一般道からもアクセス可能で、高速道路を利用する観光客た配送業の方以外にも、地元の方にも利用者は多いと思われる。私はというと、前回ここを訪れたのが桜の季節で、靄がかかったような曇天でもあり目当ての「夕日」を堪能できなかったため、空気の澄んだ12月上旬を狙って再訪したというわけだ。



私のように、夕刻を狙ってくる観光客は多そう。駐車場は空いていたが、利用している車は県外ナンバーが多かった。

トイレはたいへん立派なもの。

夕刻はおそらくもっとも汚れている時間帯だと思われるが、どこにでもいるマナーの悪い人が洗面所周りに水を飛び散らかしている以外は、清掃の人による清潔が保たれていて感謝である。




休憩環境としては、広場のほかに大きな公園もあって、抜群じゃないかな。






本駅限定「赤てんせんべい」が大人気

「赤てんせんべい」は、 本駅限定商品で、売り上げNo.1を誇る。「赤てん」は魚のすり身に赤唐辛子を練り込み揚げてつくるが、島根県の、特に浜田市の代表的郷土料理だ。「赤てんせんべい」はその「赤てん」を煎餅にしたもの。 2008年に販売を開始し、2019年に唐辛子の量を増やしたところ、この辛さに嵌る人が続出。大ヒットとなった。本駅限定商品としては他に、浜田市産の藻塩を使った「藻塩チョコレート」、餡入り蒸しケーキの「夕日のほっぺ」がある。




海産物加工品コーナーでは「ふぐ」と「のどぐろ」が目立つ。 「ふぐ」を使った商品には「ふぐのみりん干し」「ふぐ雑炊スープ」「ふぐの味噌汁」「ふぐ茶漬け」などが、 「のどぐろ」を使った商品には「のどぐろ煎餅」「のどぐろふりかけ」「のどぐろラーメン」などが販売されている。

酒飲みの私としては、地元の浜田夕日屋がつくる佃煮が気になった。 「しじみ生姜炊き上げ」「さば削り節昆布合わせ炊き」など、いつも手元にあったら酒がすすんで仕方ないだろう。





営業時間が長い「食」の施設
本駅の「食」の施設は物産館横にあるフードコートの他にも、レストランが2つ。 軽食から本格的な料理まで、その時々の都合やお腹の空き具合で選ぶことができる。





ランチタイムの営業だけで15時ごろに営業終了する道の駅の食事処も多い中、ここのフードコート、レストラン共に営業時間は比較的長い。 フードコートは8時から19時まで、レストランは11時から20時まで。夕日を見る前後の利用が多いのかもしれない。