道の駅「舞ロードIC千代田」はかつて「有田中井手の戦い」があった場所だが(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事○設備○立地○)

のちに中国の覇者となった毛利元就の初陣は、永正14年(1517)の有田中井手の戦い(有田合戦)。時に元就21歳でした。この戦いは、圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」になぞらえて「西の桶狭間」などと言われることがあり、元就の指揮を絶賛する向きがありますが、実は元就が全軍の指揮をとっていたわけではありません。

毛利の当主である幸松丸は幼く、もちろん出陣はしていませんでしたが、主力となっていたのは毛利家譜代の旗本である国司、児玉、三戸らでした。当時「多治比殿」と呼ばれていた元就は、毛利本家の中心勢力の「そばにいた」に過ぎない立場だったのです。

毛利元就の初陣は、20歳の時です。

1517年、武田元繁が、安芸国支配を取り戻そうと、尼子氏の協力を得て、有田城を攻めました。
さらに武田軍は元就領地に放火をして元就を挑発します。

元就は、150騎を向かわせ、これを蹴散らしました。

そして、反撃の勝機を見た元就は、毛利本家700騎と吉川氏の援軍300騎で、武田軍を迎え撃つことになります

武田元繁と激突|有田中井手の戦い

有田城合戦の後、有田中井手の戦いで有田城を攻める武田元繁に対し、吉川元経や高橋弘厚と共に有田城救援に向かいます。
その結果、大勝利に終わりました。

この時の元就はまだ謀略を行わず、味方への叱咤激励で乗り切ります
武田軍はこの時5000の兵で、毛利軍は1000騎です。
毛利勢が少数と見て侮った結果、熊谷元直自身が前線に出てしまうなどのミスが重なり、矢で討ち取られています。

元直討ち取られるという知らせを聞いた武田元繁は、自ら前線に出て渡河しているときに、矢による一斉射撃を受け、討死しました。

この戦いは、「西の桶狭間」と称され、元就の名声が高まるきっかけとなりました。

初陣にもかかわらず元就が素晴らしい働きをしたことは事実で、毛利の一家臣に過ぎなかった元就は、この戦いではじめて大内義興にその存在を知られることになります。京にいて元就の働きぶりを聞いた大内義興は、討ち取ったのが自分を裏切った旧安芸守護の名門・武田氏であったということもあってか、「多治比のこと神妙」という感状を与えています。

有田中井手の戦いの背景は尼子対大内の間で揺れた武田と毛利

当時、中国地方は代々守護の家系である大内氏と、出雲守護代から戦国武将へ転身した勢力・尼子氏がせめぎ合っていた。両者のはざまに位置する安芸の国人領主であった毛利氏は、常に大内と尼子の力関係を日和見しながら今日はこっちにつくか、明日はどっちか……と、生き延びるためにあっちへこっちへ身の振り方を変えざるを得ない難しい立場だった。大内、尼子両氏の勢いの前には、鎌倉時代以来の名門・安芸武田氏もすっかりかすんでしまい、守護から分郡守護に落ちて、当主で佐東銀山城主の武田元繫はすでに大内の勢力下にあった。

山陰を本拠とする尼子氏の南下に対し、将軍・足利義稙を奉じて上洛していた大内義興は、安芸で多発していた尼子の仕掛けによる抗争の鎮圧を武田元繫に任せるべく、彼に自身の養女(飛鳥井雅俊女)を娶らせて帰国させたのだが、その思いとは裏腹に、元繫は大内の主力不在を好機とみて武田氏の勢力拡大を図る。義興の養女である妻・飛鳥井雅俊女と離縁。代わりに勢いのある尼子氏の娘(経久の弟・久幸の娘)を妻にして、あろうことか尼子の力を借りることにしたのである。

にわかに勢いづいた元繫は厳島神社の神領を侵し、さらに己斐城(現在の広島市西区)を攻めたがこの際、毛利興元と吉川元経は義興から後巻(うしろまき/逆包囲のこと)を命じられ、武田方の山県郡にあった有田城(現在の北広島町)を落とす。己斐城の包囲を中断させられた上に有田城まで奪われた武田元繫の矛先が、今度は毛利・吉川に向くのは当然のことであった。

毛利家当主の興元急死で武田が動く

有田城陥落の当時、毛利の当主は元就の兄・興元だった。その興元が、25歳の若さで過度の飲酒が祟って急死する。

元就の兄・毛利興元の肖像画
元就の兄・毛利興元の肖像画

次の当主は、嫡男・幸松丸(こうまつまる)だがわずか2歳。当主としての役割を果たせるはずもなく、興元の弟である元就が後見を務めることになったが、興元の死は毛利の隙を狙う元繫にとって願ってもないチャンスに思えた。

武田勢の大群が有田城を包囲

興元の死からわずか1年、永正14年(1517)10月3日、元繫は近隣の豪族に呼び掛け、味方に組み入れた三入高松城主の熊谷元直、八木城主の香川行景、己斐城の己斐宗端ら4,000とも5,000とも言われる軍勢を引き連れて有田城を包囲したのである。

それに対して毛利・吉川勢の戦力はわずか数百。義興はこの窮地に、周辺の竹原小早川氏や平賀氏、天野氏らにも参陣を要請するも動かず。結果、数倍もの敵と戦ったのは毛利と吉川だけだった。

逆に元就の猿掛城からの奇襲から武田軍敗走まで

10月22日、毛利と吉川の連合軍は武田本陣に奇襲攻撃を仕掛ける。奇襲をかけたのは猿掛城から出陣した毛利元就の隊だった。不意を突かれた熊谷元直率いる武田の本陣は主力の兵を多数失うことになったが、前線で戦っていた元直も矢に当たって亡くなり、将が不在となった武田軍は大混乱に陥った。

これを知った武田元繫は今度は自身が指揮をとり、一時は毛利・吉川連合軍を追い詰めたのだが、元繫は勢い余って最前線に出過ぎてしまったのだろう、流れ矢に当たって命を落とす。大将を失った武田軍は敗走。翌日には己斐氏、香川氏が毛利軍を攻撃したが両氏も討ち死に。武田勢力はこの戦いで一気に主力を失い、以降弱体化の一途をたどるのであった。

有田中井手の戦いの、まさに跡地にあるのだがw

中国自動車道の千代田ICを降りてすぐ、 広島県北部の旧千代田町(現北広島町)に道の駅「舞ロードIC千代田」はある。 高速道路からのアクセスはこれ以上ない。高速道路を一旦退出しなければならないが、「高速の一時退出&再進入」が認められている道の駅で、 ETC2.0を利用している方は高速道路を退出して本駅に立ち寄り、その後、再進入しても退出による余計な高速料金はかからない。

ということで、道の駅看板に「道の駅・バスの駅」と併記されているように、道の駅「舞ロードIC千代田」は全国的にも珍しい高速バスの停留所に設けられた道の駅なのである。道の駅を観光ついでに利用する人はそれ程多くなても、その割に駐車場は結構混雑しているのは、本駅まで車→道の駅に車を駐車→高速バスを利用という地元の人が多いからだろう。

大きな芝生公園やグランドゴルフ場もあり、色々な意味で町民に有効利用されているようだ。

何も残っていないのに、「有田手の戦い」の跡ということを目当てに訪れる私のような人は、ほぼいないようである。

大太鼓と花田舞太郎

ではこの道の駅「舞ロードIC千代田」のウリは「高速のバス停」以外に何なのか。最も目立っているのは、道の駅の建物の上に乗っている「大きな太鼓」。 これは本駅がある北広島町が、日本で最も神楽が開催されている市町村であり、そのシンボルとして大太鼓が設置されているのだ。大太鼓を背景に、遠近法を上手に活用すれば、太鼓をたたいているようなトリック写真も撮れるようだ。

北広島町と言えば、ユネスコ登録の無形文化遺産「壬生の花田植」。その花田植に欠かせない飾り牛がモチーフとなり、名前は豊かな稲作文化が育んだ伝統芸能「神楽の舞」にちなんで誕生した北広島町のキャラクターが「花田舞太郎(もうたろう)」だ。

花田舞太郎セット

といってもほとんどの人は「花田舞太郎って誰?」「なんそれ?」となるだろう。 ゆるキャラグランプリ2020では、395のゆるキャラがエントリーした中で57位。 北広島町観光大使第1号と言うことだが、キャラクターに込められた「花田植」への思いだけはひしひしと伝わってくる。

ちなみに「どんつくん」というキャラもいるが、これはややこしい。

かわいそうだが、はっきり言って余計だと思う。

ユネスコの無形文化遺産に登録

中国地方一帯では太鼓をたたき笛を鳴らして田植唄を歌いながら大勢で田植をする民俗行事が残されており、「はやし田」、「田ばやし」などと呼ばれ、その歴史は中世にさかのぼる。土地の大地主の中に所有地の田植の植え終わりに、たくさんの人々を集めて盛大に囃し田を行う者があり、この囃し田に参加する牛には豪華な花鞍を更に造花で飾り、太鼓や笛の音にあわせて着飾った早乙女達が苗を植える。この様子があまりにも華やかであるところから「花田植」と呼ぶようになったと言われている。

「花田植」は、田植作業を行いながらそのまま稲作の平穏と豊穣を祈って「田の神」を祭る稲作儀礼であり、同時にしんどい田植え作業に従事する者の慰安や、当時の農村における数少ない娯楽としての要素を持つ一大行事だった。

時代の波に押され、一時期行われない時もあったが、農村における稲作文化の原点ともいえるこの催しを、永く後世に伝えていこうとする活動に発展し、川東田楽団、壬生田楽団を中心に当時の人々や町の商家の組織が主体となって毎年行うようになり、壬生の花田植として今日に至っている。

地域で取り組んできた保存活動と牛を使った代掻き作業や、早乙女の手による田植えなど機械化前の農耕文化の一端を現在に伝えるその内容、その催しの規模などが評価されて2011年(平成23年)11月27日、めでたくユネスコの無形文化遺産に登録されたのであった。

充実した産地直送品

物産館では地域の特産品を中心に80種類位の商品を販売。 パンをはじめ普通の食品も多いが、その中で瓦せんべいのような「花田舞太郎せんべい」、 チョコカスタードパイの「花田舞太郎のともだち」など「花田舞太郎」をモチーフにした商品も頑張っている。

ゆるキャラにそれ程興味のない方には地元の伝統の羊羹と饅頭がお勧め。 「柚子羊羹」「常盤羊羹」「大朝饅頭」「竹炭饅頭」「噂の饅頭」等、色々な商品が揃っている。 その他、「北広ブレンドビターコーヒー豆」や北広島町のもち米を使用した「松ちゃんの餅」 「押山さんちのあん餅」等が販売されている。

野菜料理中心のバイキングレストラン

本駅の「食」の施設はレストラン「響」と軽食堂「きたひろ食堂」の2つ。 まずレストラン「響」はバイキング形式のレストラン。60分食べ放題で、大人、小学生、3歳以上の3段階の料金設定がある。 メニューは北広島町で採れた野菜料理が中心だ。

軽食堂「きたひろ食堂」では、麺類、丼物、カレーを中心に軽食を提供している。 名物は「きたひろラーメン」と、揚げ、肉、蒲鉾、玉子、ワカメ、とろろを全部乗せた「全部のせうどん」。 ルーローハンをアレンジした「舞ロー丼」「照り焼きチキン丼」「カレー」などもある。