日本人が敵対中のロシア人を助けた「インディギルカ号遭難慰霊碑」へ。道の駅「さるふつ公園」から(トイレ○仮眠◎休憩◎景観○食事△設備○立地○)

1939(昭和14)年5月11日、満州国とモンゴル人民共和国との国境付近にあるノモンハンで、国境線をめぐって両国による紛争が発生。日本・ソ連による大規模な軍事衝突「ノモンハン事件」へと発展した。

現地の関東軍(満州国に駐留する日本軍)は当初、紛争に乗じてソ連領に侵攻する意図まで持ち、中央の参謀本部の方針を無視して独断で戦線を拡大した。5月の第1次戦闘には2,000人を投入、6月末からの第2次戦闘ではソ連領内を爆撃し、さらに約1万5000人の地上兵力を動員した。

しかし、戦車部隊と航空機を立体的に連携させる近代戦を展開したソ連軍に対し、歩兵中心の白兵戦で挑んだ日本軍は9月の停戦までに約7,700人の戦死者を出してしまう。

ソ連軍を指揮したジューコフ将軍が日本軍について「兵は勇敢だが高級将校は無能」と指摘したように強引な用兵が敗因だったが、その傾向は太平洋戦争でも変わらなかった。

9月15日には停戦協定が結ばれたが、両者の戦意は完全に無くならず、日ソの緊張状態は続いていた。

事件が起きたのは、そんな昭和14年12月12日のことだった。

インディギルカ号横転事故

この日はかつてないほどの大時化、暴風雪だった。

カムチャッカ半島の漁場を切り上げたロシアの漁民とその家族、船員など約1100名を乗せ、ウラジオストクに向けて航行したソビエト連邦の貨物船「インディギルカ号(4200トン、以下「イ号」)」が、悪天候から針路を誤り、猿払村浜鬼志別海岸から約2km離れたトド岩に乗り上げて横転したのである。

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最初に事故を知ったのは、浜鬼志別の浜辺に住む漁師だった。夜明け前の2時30分頃、彼の自宅の雨戸を激しく叩く者がいた。妙な叫び声も聞こえたため急いで雨戸を開けると、全身ずぶ濡れでガタガタと震えながら、懸命に沖を指さし助けを求めるそぶりのロシア人5人が立っていた。

この5人は、横転したイ号の船長が、10人ずつボートに乗せて放った2隻のうちの1隻の生き残りだった。5人は途中で溺死していた。もう一方のボートでは、8人が波に呑まれ、2人だけが先の5人に続いて救われた。
漁師はすぐに、約50m離れた隣の家に住む弟に知らせ、話を聞いた弟は、腰まで埋まる雪道を転げるように約1㎞離れた郵便局へ。午前3時過ぎ、そこから鬼志別巡査部長派出所に事故を知らせた。

敵対していようが人命救助を

鬼志別派出所から連絡を受けた稚内警察署では、遭難した船が外国船、しかも敵対国のロシア船だけに取扱いに困ったが、とりあえず警部補ら3名を現場へ急行させ、外国に関する事柄を担当する北海道庁外事課へ連絡する。

現場では、早朝から村長以下の役場職員が浜鬼志別に出動したほか、警防団員、青年団員ら約500人が防寒具で身を固め、浜に漂着する死体の引上げ作業にあたったが、時化はなかなかおさまらず、漂着する死体の数は増えるばかりだった。

しかし同日午後1時頃、横倒しになった船の横腹には、手をつないで円陣をつくり、子どもたちが海に落ちないように守りながら救いを求める人々の姿を確認する。

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「生存者多数!」。彼らの人々の叫び声が聞こえる中、黙って漂着死体を待っている状況に、猿払漁民を中心とする村民は、海の男としてどうにも我慢がならなかった。

漁師たちは、自身が所有する小舟で沖に乗り出す。

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しかし波浪が激しくイ号に近づくことができず、横波を受けて転覆する船も。漁師たちは投げ出された海の中、お互い励まし合いながら全員が岸辺にたどりついて何とか一命を取り留め、最悪の二次災害は免れた。

400名を救出

そのころ稚内警察署の署員と北海道庁外事課の職員数名が現地に到着。急きょ救助協議が行われた。そこで、稚内港より3隻の船(1500トン、25トン、20トン)を出動することが決められ、13日午前2時頃に出港する。

現地に着いた3隻の救助作業は明るくなると始まった。大型の船は母船として沖合に待機し、イ号にぶつかれば木っ端みじんになる恐怖のなか、命からがら接近して縄を張り、それを伝って一人ひとりを救出。船が一杯になると沖合に待機してある大型船へ移乗させることを繰り返した。そして午後1時頃には、船腹の上や船内にいた約400名を無事救出したのである。

全員救出したと思ったのも束の間、船腹からカンカンと叩く音がしたので、外からも叩くとカンカンと応答があり、船内にまだ数人取り残されていることがわかる。稚内の工場から機会を取り寄せ、身体がやっと抜けられるような穴を4つ開け、28人を助け出した。まさにポセイドンアドベンチャーと同じ展開だ。

結局、約1100人が乗船していたイ号から救出できたのは、約400名、亡くなった方は約700名にも及んだ。

数日間、浜鬼志別を中心に約16㎞の沿岸にわたって死体が打ち上げられ続けたため、浜鬼志別、知来別、浜猿払、その他から駆けつけた村民によって死体の収容が行われた。

戦争で殺しあうことと、人命救助と

インディギルカ号の遭難は、700名もの犠牲者を出す世界の海難史上稀有の大惨事だったが、当時ノモンハン事件ではその11倍の7,700人の日本軍の犠牲者が出ており、その中には救助に奔走した北海道の猿払村から出征した者も含まれていた。
そんな緊迫した国際情勢、なおかつ敵対中の国の難破事件は、新聞、ラジオで報道された以外は、日本のどの機関の公式記録にも記されていない。

敵対国の人間の人命救助などは、敵国視を煽りたい政府にとっても無視したいものだったのだろう。

激浪に飲み込まれ海の藻屑と消え去った約700名の生命と、その救助に全力を注いだ人間愛は、ほとんどの日本国民に知られることもなく忘れ去られようとしていた。

海難事故防止と国際親善の願いを込めた慰霊碑

そんな中で猿払村では毎年8月に細々と法要を営み続けていたが、昭和31年12月12日、第2次大戦における日本・ソ連間の戦争状態を終了させた宣言「日ソ共同宣言」批准書が交換された日と偶然にも同じ日、村と旧祖協会稚内支部共催でインディギルカ号遭難者の17回忌慰霊祭が行われた。

このころから、慰霊碑を建立しようとする動きが強まり始める。

「国際親善の立場からインディギルカ号遭難の事実と当時の猿払村住民の人間愛と活動状況、その後の措置について広く全国的に啓蒙してその協力を求めること」、そして「この事実を相手国であるソ連政府にも知ってもらうこと」が必要だったが、全国から募った浄財やソ連からの寄附金・碑用のシベリア産花崗岩の寄付により、昭和46年に「インディギルカ号遭難慰霊碑」が、現在の道の駅「さるふつ公園」の向かい側の海岸に建てられたのであった。

この慰霊碑と道の駅は、地下道で結ばれている。

猿払村初めての灯台

ソ連船インディギルカ号が乗り上げ横転した浜鬼志別トド岩付近には岩礁が広がり、他にも数多くの遭難が相次いで、「魔の暗礁」とされてきた。
昭和50年11月7日、岩礁が多く漁船の操業時に危険な区域であるこの付近一帯を特に照らすため、猿払村で初の灯台が設置されている。

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部分的交流と変換されない北方領土と

この悲惨な海難事故をきっかけに、慰霊碑の建立や友好記念館の建設のほか、様々な面で猿払村と旧ソ連との間で交流が進んで行った。平成2年12月25日には、ソ連・サハリン州オジョールスキイ村と友好姉妹村締結に調印。

その翌年からは、猿払村から拓心中学校3年生がオジョールスキイ村を訪問し、オジョールスキイ村から生徒を猿払村に迎え入れる「学童交流事業」を実施。夏休みの期間を利用して、毎年1回の相互訪問が平成16年まで続けられるなど様々な交流が行われた。

しかし、そんな交流も、所詮は「部分最適」でしかない。
独裁プーチンの前には、悲しいかなまるで無力であり、ロシアの違法な占領が続いている北方領土返還交渉は一向に進まない。

道の駅「さるふつ公園」

道の駅「さるふつ公園」は、オホーツク沿岸を走る国道238号沿い猿払村村営牧場の一角にある。

雄大なオホーツクと広大な大地、海と陸と空が一つにとけあったような海岸線に建つ道の駅で、温泉施設もあり、レストランで水揚げ日本一を誇るホタテなど郷土料理を頬張ることができる。

駐車場は、気持ちがいいほど広い。平坦で広いので、仮眠はとてもしやすいと思われる。

トイレは施設全体の広さからすると小さい。

休憩環境としては、天気が良ければ最高。天気が悪くても屋内の休憩スペースは十分ある。

売店

新鮮な魚介類などが並ぶ店内でも、ひときわ目を引くのがホタテ。

猿払のホタテは人気が高く、遠くフランスや香港へも輸出されている。

レストラン「風雪」

メニューは豊富だが、ここに来ての食事となると、やはりホタテ料理だろう。