
勾当内侍は、本来宮中で天皇に仕える女官のうち、「掌侍」という律令制における女官の1つである役職名だが、後醍醐天皇に仕え、天皇のはからいで新田義貞の妻となった長橋の局と呼ばれる女性をそう呼んでいます(本名は不明)。
夫の新田義貞はご存知、鎌倉時代末期の混乱の世に立ち上がり、後醍醐天皇方として幕府滅亡から建武新政発足において歴史の表舞台で活躍した武将です。清和源氏の八幡太郎義家を遠祖として興り、上野国(現在の群馬県)に勢力を張った豪族・新田氏の八代目棟梁です。

鎌倉幕府を直接打倒した勇将・新田義貞の一目惚れから始まり、後醍醐天皇の計らいを勾当内侍が受け容れて結ばれた二人の夫婦としての時間は、貞義の転戦でとても短いものでしたが、義貞が戦死し、その首が晒されるその場にも行って、その後を追った勾当内侍の深い愛は、後世まで語り継がれることになりました。勾当内侍が、義貞の帰りを待ち続けた地でもあり、後を追って琵琶湖に身を投げた場所にも近い滋賀県堅田に建てられた彼女のお墓に参らせていただき、二人の波乱の人生を振り返ってみました。

農本主義から貨幣経済の世の中へ
鎌倉時代には元との交易が盛んになって、貨幣経済が徐々に浸透。農本主義的な社会では日の目を見なかった商業、流通の従事者が次第に経済的な力を強めていく。鎌倉末期になると、土地の所有権・証文を借金の「かた」に取ることが普通になり、困窮した御家人が幕府にもらった領地を質に入れたり、売ったりと、鎌倉幕府の御家人体制が土台から崩れていった。
そして金銭は、北条高時に仕えた長崎高資をはじめとする商業資本家のもとに集まり、幕府の高官は彼らから賄賂を取ってさらに肥え太って、政治は腐敗していった。貨幣経済の常だが、お金持ちはどんどん蓄財し、成功できない人はどんどん貧しくなっていく。義貞も困窮して田畑を売り払ったが、最新の研究では、さすがに義貞も利根川水運で経済的な基盤を築いたことが明らかになりつつある。貨幣経済で成功した武士が農本主義的な鎌倉幕府を倒したという構図は、鎌倉幕府から南北朝時代に至ったその過程に、農本主義から貨幣経済への転換があったことと一致する。
元弘の変をきっかけに鎌倉幕府倒れる
鎌倉幕府の土台が大きく揺らぐ中、元弘の変が起こった。天皇親政の理想を抱いた後醍醐天皇が、大社寺や畿内の小武士団を主力に挙兵。鎌倉幕府を倒そうと、2年にわたって全国的に内乱が起こったのだ。 1331年(元弘元年)に、後醍醐天皇が鎌倉幕府を討伐する計画を企んだことがその発端。天皇の身を案じる吉田定房が同年4月にこれを幕府へ通報したため計画は露見し、首謀者の日野俊基・文観らは六波羅探題によって逮捕された。8月に天皇は京都を脱出し、奈良を経て山城国の笠置に拠るが、関東から派遣された幕府の大軍の攻撃によって敗退(笠置山の戦)。後醍醐天皇は捕らえられ、翌1332年(元弘2年)に隠岐島に配流された。

しかし天皇の配流は討幕軍の蜂起の合図となり、楠木正成や護良親王らが挙兵。1333年夏には六波羅探題が足利尊氏に、鎌倉が新田義貞に攻められ、北条一門は全滅して鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉を攻めた義貞だが、鎌倉幕府打倒の旗揚げをした時はわずか百数十騎。進軍するうちにみるみる同志が増えていった。後醍醐天皇はのちに、皇位を譲った皇子を義貞に託して北陸へ行かせている。天皇を預かった武将は南北朝の歴史の中に誰もいないから、後醍醐天皇にいかに信頼されていたことが分かろうというものだ。
尊氏と貞義の間には、先祖の代からの根深い対抗意識が
鎌倉幕府を打倒した新田義貞と足利尊氏は、どちらも源義家を祖とすることもあってよく比較される。尊氏は二カ国を領有する守護で、いわば北条政権の閣僚。これに対して義貞は上野国新田荘の領主で、現代でいえば町長といったところ。新田氏は源頼朝の挙兵に当初参加しなかったことなどから幕府から冷遇され、義貞の代には所領である田畑を切り売りしなければならないほど困窮していた。
また元服と同時に従五位下に任官された尊氏に対して義貞は無位無官であったように、両者は対照的な関係にあった。後に尊氏と義貞は対立することになりますが、先祖の代からの優劣関係がその根底にはあって、結局はその根深い対抗感情を朝廷に利用されてしまうことになった。
ちなみに楠木正成は、既に貨幣経済が浸透していた関西でも先進的な考えを持っていた人間。
佐々木道誉は鎌倉時代の名家近江守護家に生まれ、北条高時にかわいがられて育ったおぼっちゃま。 元弘の変以来足利尊氏に仕えて幕府創立に参画。近江はじめ諸国の守護に任じ、室町幕府きっての権臣にのしあがった。みな、育ちとキャラが大きく異なる。
「尊氏なし」で新政スタート
鎌倉幕府が滅ぼされると、後醍醐天皇は帰京。天皇が自ら政務をみる「親政」を開始した。建武の新政だ。尊氏は勲功第一とされ従三位に叙任。また天皇の諱(いみな)の尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と改名したが、高い官位は与えられても重要な役職には就かなかった。これは天皇が尊氏を敬遠したとも、尊氏が政権と距離を置いたともいわれているが本当のところはわからない。ただ、この「尊氏なし」の政権は世間でも大いに違和感があったようだ。
それでも弟の直義や執事の高師直などは要職に就いており、また尊氏自身はなんと言っても倒幕第一の功労者だったから、政府に対する影響力は大きかったはずである。尊氏という人は世俗の栄達などには淡白であり、敢えて自らが要職に就かないことで周りの人間を栄達させたという見方がある。
建武の新政は早々に混乱、不安定に
建武の新政は発足早々さまざまな問題を抱えていた。まず、武士への冷遇が過ぎたことだ。各地の武士たちは北条氏のみが繁栄する鎌倉幕府が倒すことによって自分たちに大きな恩賞が下ることを期待していたが、望んでいた恩賞を手にした者はごくわずかだった。たとえば赤松、円心は六波羅探題攻略に大きな功を挙げたにもかかわらず恩賞はほとんどなく、それを不満として播磨に帰ってしまい、円心の離反は新政に大きな陰を落とす。
それ以外にも、偽の綸旨(天皇の命令書)が横行したり、恩賞や土地の保証を求める申請が殺到したりして、行政機関も混乱をきたした。さらに内裏(だいり=天皇の住居)建設のために重い税が課せられると、民衆の不満も高まった。
義貞と勾当内侍の仲をとりもった後醍醐天皇
こうして天下に再び乱の兆しが見え始めた建武年間の初めだったが、新田義貞は、後醍醐天皇に召されて、御所の警護の任を務めるようになる。ただ、鎌倉を攻めて鎌倉幕府に引導を渡した新田義貞にも特に金銭的な褒賞はなく、京を警備する大番役に任じられても、借金しなければ京へ行けないほどだった。
義貞が任についていたある秋の夜、勾当内侍は簾を半ば巻きあげて琴を弾いていた。近衛師団長であった新田義貞はその音に魅了され、のぞき見た先にあった勾当内侍の美しい姿に心を奪われる。義貞は意を決し、人伝いに勾当内侍へ歌を贈ったが、勾当内侍は帝をはばかり歌を手に取ろうともしなかった。恋心を抱いた義貞に、思い悩む日々が続いたが、そんなある日、この噂を耳にした後醍醐天皇は、義貞と勾当内侍の仲をとりもった。
「義貞、その盃にな、勾当内侍を付けて取らす」。
舞い上がった義貞は早速次の夜、美しく装った牛車をしつらえて、勾当内侍を迎えに宮中へ送ったという。使者が用件を勾当内侍に伝えると、一方的であっても義貞から長く寄せられてきた熱情にほだされてか、「誘う水があるならば誘われてみても」との思いに至ったと言われている。こうして結婚した二人だったが、すぐに世はまた動乱となる。
足利尊氏、勝手に動く
そして新政の成立からわずか2年後、関東で北条氏の残党が乱を起こし、その勢いはたちまち関東一円に広がった(中先代の乱)。尊氏は天皇に自分が征夷大将軍となって乱を鎮定したいと願い出るが、天皇はこれを却下。尊氏を関東に行かせればそのまま自立すると考えたからだった。
結局尊氏は天皇の命に背き、軍を率いて鎌倉に向かって乱を鎮圧する。そして天皇が恐れていたように尊氏は天皇からの召喚命令も無視して鎌倉を動かなかった。そして功のあった武士たちに恩賞を与え始めるなど独自の動きを見せるようにもなる。
義貞V.S.尊氏、第一局面は義貞の勝ち
これを見かねた後醍醐天皇は、尊氏討伐令を出し、新田義貞を総大将とした討伐軍を関東に送った。朝敵となってしまった尊氏は、赦免を求めるため寺に入り断髪。総大将を失った足利軍は士気が低下して各地で義貞の軍に敗れた。そこで、尊氏に従う者たちは「たとえ尊氏が赦免を願っても決して許さぬ」旨を書いた偽の綸旨を作り、尊氏に見せる。そして弟の直義が決死の思いで戦っていることを知ると「直義が死ねば自分は生きていても意味がない」と、意を翻して軍の指揮に復帰。足利軍は蘇り、義貞に従っていた者たちの裏切りもあって、討伐軍を破り(箱根・竹ノ下の戦い)、今度は軍勢を京都に向け逆襲に転じた。軍勢を京都に向けた目的は、何を隠そう、後醍醐天皇の側に仕える新田義貞討伐であった。
尊氏は関東の大軍を率いて京都に攻め上ります。これに対して後醍醐天皇は比叡山に逃げ延びます。
その間に、東北地方にいた北畠顕家、態勢を立て直した新田義貞、楠木正成らの軍が急ぎ京都に進軍。尊氏は敗れ、京都から逃げて西国に落ちていった。途中播磨に立ち寄った尊氏は、先に建武の新政から離反していた赤松円心と会い、円心から後醍醐天皇の前の天皇であった光厳天皇の院宣を賜るよう進言されている。尊氏はこの進言を受け入れ、勢力の回復を目指して九州まで落ち延びた。
美女一笑して、国傾く?
新田義貞は、新政権から離反した足利尊氏を、楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破ったが、しかし、尊氏追撃を行わなかった。義貞は勾当内侍との別れを惜しみ、妻との時間を優先したと言われている。そして、これが後に義貞の命取りになった。
義貞に敗れた足利尊氏は九州へ逃れた。これを辺境に落ちていったと思っている人が多いが、当時の博多は宋銭の輸入窓口。尊氏は、計算して九州へ向かったのだ。でなければ中国地方も四国もあるのに九州まで行く必要がない。
1975年に韓国の新安で元から日本に向かっていたとされる沈没船が引き上げられたが、そこには28トンもの銅銭が積まれていた。当時の日本は貨幣を造っておらず、すべて輸入に頼っていた。博多を押さえることは、造幣局を支配下に置くようなものであり、尊氏は九州で、財力に物を言わせて勝つ見込みを立てていたのだった。
尊氏の捲土重来と桜井の別れ
尊氏は地元豪族の協力を得ることにも成功し、天皇方の軍を多々良浜で破ると尊氏は一気に勢力を回復。京都を目指して進軍を開始します。そして鞆(とも=現広島県福山市)で光厳上皇の院宣を得て西国の武士を味方に引き入れると、湊川(現兵庫県神戸市)で新田義貞・楠木正成の連合軍を破り、捲土重来、再び入京を果たした。
この「湊川の戦い」で楠木正成は戦死する。正成は後醍醐天皇に自ら考えた戦略を提案していたが、却下されたことで、確かな戦術眼を持つ正成はこの戦の敗北と自らの死を覚悟した。だからこそ正成は従軍させていた幼い息子の正行(まさつら)に故郷に帰るよう諭したのだ。

しかし正行は頑として聞こうとしない。正成は自分が討ち死にした後のことを頼むと改めて諭し、父子は涙ながらに今生の別れを遂げた。これが、戦前の教科書には必ず載っていたほか唱歌にも取り上げられていた「櫻井の別れ」である。

義貞の戦死。首だけの夫と「再会」した勾当内侍
一方、尊氏に京都を制圧されて、義貞は後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸へ。坂本から北陸地方へ逃げ行く際に、義貞は、行く先の道中の難儀を思い、勾当内侍を今堅田という所に留め置くことにした。こうして勾省内侍は都に近い琵琶湖畔の漁師小屋に身をひそめて、いつとも知れぬ貞義の迎えを待った。二人は、異郷の空の下に別れながら、生きてしくしかなかった。
義貞はその後、北陸を転戦するが、越前藤島で戦死する。やがて義貞の首は、足利幕府を開いたばかりの京都に到着した。「これぞ朝敵の最たる者、足利幕府の仇敵」とされ、都大路を引きまわしの上、獄門に掛けられたのだ。
しかし生前の義貞は、後醍醐天皇の寵臣であり、その武功のお陰を受けていた人は多く、天下が頼りとする存在であった。義貞からの好意を喜び、その恩顧に浴すことを望んでいた人は、京都中にいた。そのような人々がこぞって、「義貞殿のお顔を一目でも」と集まったが、その中に、勾当内侍の姿もあった。越前藤島で戦死し、三条河原でさらし首になっている夫との対面だった。
その後、勾当内侍は髪をおろして尼となる。嵯峨野の奥、往生院あたりの柴の庵に行いすまし、義貞の菩提を弔ったという。新田義貞の首塚と勾当内侍の供養塔は、滝口寺を入ったところにある。



「金こそすべて」の風潮に乗った足利尊氏と、抗って武士道を貫こうとした新田義貞
「金がすべて」。そんな世相になっていく中で、武士の義はみるみる廃れていったが、義貞は頑なに武士の生き方を貫こうとした。義貞は、日本に朱子学が入ってきて、鎌倉武士が言行一致などを学び始めた時代を生きてきた。その影響を受け、武士の生きざまとは何かを考え始めた義貞は、江戸時代まで続く日本の武士道の原点になったとも考えられている。
また、義貞は、腐敗した幕府を打倒し、「民衆のための政治を行う政府を作る」という理想に邁進するが、これはもちろん現代社会にも通じるし、人類の永遠のテーマでもあるだろう。鎌倉幕府が貨幣経済で倒れたように、南蛮貿易が盛んになり、信長のような男が台頭するチャンスがあったからこそ室町幕府も倒れた。そして黒船来航による国内経済の混乱で、徳川幕府が倒れたのもまた同じだ。
日本の中世から近世は、300年ごとに古い体制が崩れ、新しい政府が生まれる、そんな歴史であった。
米の展示場から道の駅に
勾当内侍の墓から北東方面に400mの距離に、道の駅「びわ湖大橋米プラザ」がある。

琵琶湖西縦貫道(国道161号線バイパス)の真野ICから国道477号線を東に進路を取り約2km、琵琶湖大橋に差し掛かる直前で左折すると到着する。
人気の道の駅らしく、駐車場は混んでいるが、広いし、第二駐車場もあるので、停められないということはないだろう。




大きな施設なので、トイレはいくつかある。どのトイレも綺麗だ。

休憩スペースは、屋外が気持ちいい。



情報館が非常に充実している。




駅名に「米プラザ」とうたわれているが、本駅の前身は、大津市の大規模な米展示場だった。 1996年に道の駅登録された後、物産館、農作物直売所、レストランを整備して現在に至っている。 元「米展示場」だけに、米の品揃えがとても豊富であることが、この道の駅の最大の特徴となっている。

販売されている米の品種を確認したが、「ひとめぼれ」「コシヒカリ」「みずかがみ」「キヌヒカリ」「あきたこまち」の5種類。 価格は、スーパーを調べ尽くしてはいないので感覚でしかないが、都市部のスーパーと比較すると1割くらい安いだろうか。
物産館は2ヶ所もある


農作物直売所は「おいしやうれしや」という名前。


農作物は50種類くらいあるだろうか、野菜・果物が広いスペースを確保して販売されている。




琵琶湖の淡水魚を中心に、水産品も充実している。



農作物以外の近江の特産品も、かなりの数が販売されていた。


もう一つの?物産館でも近江の特産品を販売



近江牛が格安価格でいただけるレストラン


近江と言えば近江牛。 釜飯風に味わう「近江牛御飯定食」「近江牛コロッケ丼定食」が人気のメニュー。 普通、数千円出さないと味わうことが出来ない近江牛肉の料理が、そうした高級品と同じとはいかないだろうが1000円~2000円で提供されている。魚好きには「ニジマス丼定食」「大判アジフライ定食」「うなぎご飯定食」。すべての料理で使われている米は、近江米コシヒカリである。




2階の展望台は、この道の駅のハイライト。


展望台からは琵琶湖と琵琶湖大橋が一望できる。




