差別の歴史が刻まれた「虫明」へ、「黒井山グリーンパーク」から(トイレ○仮眠○休憩△景観○食事✖️設備✖️立地○) 

岡山県瀬戸内市は全国で唯一、市内の邑久町虫明の長島に位置する2つの国立ハンセン病療養所を擁する基礎自治体です。長島愛生園は1930年(昭和5年)に日本初の国立ハンセン病療養所として、邑久光明園は、大阪市の第3区連合府県立外島保養院を1938年(昭和13年)に虫明の地に再興する形で開設され、今日に至ります。場所が虫明の長島であったのは、写真のように、離島という環境が隔離にもっとも適していると考えられたから。定住する人がほとんどおらず、島の大部分が国有地だったという事情が、この地での開設を一押ししたのです。

両園の入所者数は、ピーク時はおよそ3,000名。隔離された入所者は自分たちで道を切り拓き、園内の入所者用住宅では生活に必要とされる仕事のほとんどを自分たちで行っていました。現在では入所者数は150名ほどとなり、年齢は88歳を超えています。そのため、療養所の歴史やハンセン病の記憶を語り継ぐ人は、年々少なくなってきています。

ハンセン病に苦しみ、社会から隔離された人々がいました。そして彼らの家族は、偏見と差別にさらされて生きてきました。入所者・社会復帰者の家族に対する偏見・差別の目は、学校という集団生活の場においては、よりいっそう過酷なものでした。たとえば昭和29年には、熊本にあるハンセン病療養所に付属する保育所「龍田寮」で暮らす子どもたちが地元の小学校の1年生として入学しようとすると、PTAから入学反対運動が起き、龍田寮の子を入学させるなら我が子は登校させないという運動、龍田寮事件にまで発展しています。

こうした差別社会や将来悲観して、施設近くの崖から身を投げて自ら命を絶った多くの入所者もいました。療養所に入所したときに、家族に迷惑が及ぶことを心配して本名や戸籍を捨て、現在も故郷に帰ることなく、肉親との再会が果たせない人もいます。療養所で亡くなった人の遺骨の多くが実家のお墓に入れず、各療養所内の納骨堂に納められています。

そんなハンセン病の歴史を、私は大人になるまで知りませんでした。知ったきっかけは、松本清張の文学作品「砂の器」がのちに映画化され、それを観たことでした。

「砂の器」原作に頻出する「業病」

『砂の器』は昭和35年6月から約1年にわたって読売新聞に連載された松本清張の代表作。ストーリーの概略はこうである。

将来を嘱望されている前衛音楽家和賀英良は、音楽界での成功ばかりでなく、大物政治家の愛娘との婚約も決まり、着実に名声を得つつあった。そんな折、彼の真の身元を知る元巡査、三木謙一が不意に現れる。実は和賀英良の正体はハンセン病者本浦千代吉の息子本浦秀夫であった。彼は戦後の混乱に紛れ身元を偽造し、現在の地位を手に入れたのだった。彼はその地位と名声を守るため三木謙一を殺害する。

この作品には「業病」という言葉が頻出する。かつて「癩病(らいびょう)」とも呼ばれたハンセン病は遺伝性のものと考えられ、「業病」や「天刑病」などと呼ばれて、前世の罪の報い、もしくは悪しき血筋による病との迷信があった。それを発病することは少なからぬ罪悪を犯すことと同義とされていたのだ。もし一人でも親族に発病者が出ると、その家は共同体の中で一切の関係性を断絶され、時には一家離散に追い込まれたという。

昭和6年(1931年)にすべての患者の隔離を目指した「癩予防法」が成立し、療養所の増床が行われて各地にも新しく療養所が建設されていったが、昭和10年代には各県で「無癩県運動」という名のもとに、患者を見つけ出して療養所に送り込む施策が行われた。保健所の職員が患者の自宅を徹底的に消毒し、人里離れた場所に作られた療養所に送られていくという光景は、人々の心の中にハンセン病は恐ろしいというイメージを植え付け、業病であるとの迷信をさらに広め、偏見や差別を助長していったのである。

作品の中で、本浦父子が放浪し、父千代吉が三木謙一巡査に保護され療養所に収容された昭和13年という時代は、ちょうどこの無癩県運動期に該当する。無癩県運動では〈民族浄化〉を旗印に、驚くべきことに各府県警察の主導で「患者狩り」が広く展開された。作品内の本浦父子もこの無癩県運動の被害者であり、ハンセン病患者を父に持つ本浦秀夫は、戦後の混乱に乗じて自身の身元を偽造。和賀英良として生きることに成功する。苦労して手に入れた現在の地位を守るために、自身の正体を知る三木謙一を殺害したのだ。しかしそのような嘘の上に成り立つ彼の栄光は、まるで「砂で作った器」のようにもろくも崩れていったのだが。

映画版『砂の器』の表現が偏見を助長

映画版『砂の器』(監督野村芳太郎)は昭和49年に映画化され、同年の『キネマ旬報』の読者投票では一位に選ばれた。私がこの作品を映画館で見たのは高校3年の時、原作を読んだのはその後、大学生になってからである。

脚本は山田洋二と橋本忍が担当。公開時期も「無癩県運動期」から35年。ハンセン病問題の推移に鑑み、映画内の言葉の表現に、原作に比べて幾分かの配慮が伺える。しかし、映画は「映像」を表現の主たる手段とするため、当然のようにハンセン病患者を映像化しているのだが、シミのある土気色のメイク、ボロボロの衣裳、ずらしてはめられた軍手すなわち歪んだ手がおどろおどろしく表現された。

映画が製作された昭和49年には、すでにハンセン病回復者自身によって隔離政策への歴史的再考が叫ばれていたにもかかわらず、無癩県運動によって隔離される本浦父子を感傷的に描くばかりで、ハンセン病の偏見を正そうとする視点がそこには皆無。「他人の不幸は蜜の味」の人間心理を利用して、ヒットすればそれで良いとする、映画の功罪を感じるざを得ない。

ハンセン病患者がもはやいわれのない差別から抜け出そうとしている時代に、私を含めて無知な観客がハンセン病患者に対する「ステレオタイプ」のイメージを持つ、好ましくない役割を果たしたことは否めないだろう(事実、私は映画を観てから何十年も後に妹と虫明を訪れ本当の歴史を学び始めるまで、ずっとハンセン病に対して誤解したまま偏見を持っていたのだから)。

せめて歴史に学ぶことぐらいはできる

私が訪れたのは、長島愛生園歴史館。館内にはハンセン病政策や長島愛生園で起きたできごとなどを紹介する常設展示室のほか、映像資料の閲覧ができる第一映像室、入所者の作品を展示するギャラリー・陶芸展示室などがある。興味本位の写真掲出は控えるが、「ハンセン病政策の発信基地」と呼ばれたかつての園長室も再現されていた。各種企画展示なども定期的に行われているようだ。

一つ言えることは、私たち人間などという生き物は、歴史に学ぶことすらなければアホのままであるということだ。学ぶ歴史がない、つまり未だかつてなかった「地球温暖化」などは、だから進み放題なのである。しかし「FUKUSHIMA」をはじめ頻繁に起こる風評被害などは、「業病」という迷信を100年近くもかかったが打ち消そうとしているその過程に学べば、繰り返さないまでもその「被害」を最小限にすることぐらいはできるはずだ。

今なお学ばない人間による偏見と差別が残る

学ばない人間の愚かさと差別自体は決してなくせない、ということについては、今も学ぶことができる。長く差別と偏見を助長してきた「らい予防法」が平成8年(1996年)にようやく廃止され、平成10年(1998年)には入所者らによって熊本地裁に国のハンセン病政策の転換が遅れたことなどの責任を問う「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」起こり、平成13年(2001年)には熊本地裁で原告勝訴の判決が下され、被告の国は控訴しなかった。

しかしこの期に及んで、その熊本県で入所者に対するホテル宿泊拒否事件が起き、これが報道されると今度はネット上で元患者に対する誹謗中傷が続いた。入所者や社会復帰者、その家族に対する偏見や差別の根強さを思い知らされる中で、平成28年(2016年)、療養所入所者・社会復帰者の家族568名が熊本地裁に対し、隔離政策によってハンセン病患者だけでなくその家族も偏見や差別の対象とされたとして損害賠償を求める裁判を起こす。そして5年前の令和元年(2019年)、熊本地裁はこれについても原告勝訴の判決が下し、国はこの判決にも控訴しなかった。

行政のマーケティング能力欠如に驚嘆

さて 虫明の今はどうなのだろう。備前市蕃山ICから岡山市君津ICまで全長32kmを瀬戸内海沿いに繋ぐのが岡山ブルーライン。この道はかつて「岡山ブルーハイウェイ」と呼ばれていた信号の無い片側1車線の一本道。高速道路のような感覚で運転している輩もいるが、制限速度は時速60kmである。この岡山ブルーラインの東側の起点が蕃山IC。そこから10kmほど進めば「道の駅 黒井山グリーンパーク」がある虫明に着く。

ここが虫明であるからかどうかは断定できないが、事実として、本駅を訪れる客は僅かである。

無意味に広いと言わざるをえない駐車場に車を停めると、物産館や情報館をはじめとするいくつかの施設が見えるが、回ってみたところほとんどが閉店していて、どの建物も、現役バリバリで営業しているとは思えないほどのさびれよう。現在では、昼間でも売店がひとつ営業されているのみのようだ。

トイレはあまり綺麗ではないが、それでも定期的な清掃はしっかり行われているようだ。清掃担当者には頭が下がる思いだが、わずかな利用者のためにトイレの清掃を続けるのはさぞ大変なことだろうし、何より勿体無いことである。

「みかん狩り」の季節を前に、たくさんの「のぼり」がたなびいていた。

行政はいったいどんなマーケティングをしたのだろうか。ここに「ちびっこ天国」をつくり、年中オープンのプレイランドと銘打った。そして夏季は30mのウォータースライダー付き、水深40cmの「ちびっこプール」をオープンさせている。

しかし、コロナを理由に休業。コロナ禍以降も営業再開していない。

残念だが、以下は年々廃墟化していく施設軍の写真掲載となる。

クッキリと見える「鮮魚」という漢字の意味が、皮肉に感じるのが悲しい。道の駅の表示はほぼ消えて、そのままになっている。