
「青は藍より出でて藍より青し」。よく使う言葉ですね。教えを受けた人がやがて教えた人よりも優れるということを言いたいときに使いますが、この言葉の由来は、青色の染料である藍から取る青色が、原料の藍よりも青くなる、ということにあります。この言葉を使って伝えたいことは「学問は中断しなければすぐれた効果を上げる」「今君を教えている私を君は超えていけ」ということですよね。
「紺屋の白袴」という言葉もよく聞きます。紺屋が自分の袴は染めないでいつも白袴をはいている、つまり「他人のことに忙しくて自分自身のことには手が回らないこと」を揶揄して使うことが多いようですが、染液を扱うけれど自分の白袴には染み一つつけないという「職人の意気」を表す言葉で、「私失敗しないので」と言うドクターXの決め台詞に近い意味を持っている言葉です。
こうしたことわざもそうですが、私たち日本人は青とか紺とか、「藍色」が大好きです。それは水色、浅葱(あさぎ)色、空色、露草色、縹(はなだ)色、紺色などいろいろ。藍には実にさまざまな色がありますが、美しい藍の色を生み出すのは藍色の色素を含む含藍(がんらん)植物です。藍染めに用いられる含藍植物は世界に広く自生し、また栽培されていますが、日本では主にタデ科の一年草の蓼藍(たであい)が用いられています。蓼藍は、かなり昔に中国から日本へ渡来した染料植物です。
では日本の藍染めはいつ始まったのでしょうか。「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎も「藍は非常に古く日本に入ってきた植物だ」とは述べていますが、彼にも正確な年代はわかりませんでした。また、奈良県天理市成願寺町にある古墳時代前期の下池山古墳からは鏡と一緒に絳青縑(こうせいけん)という赤と青の絹織物が出土しましたが、この青が藍で染めたものとまではわかっても、藍染が始まった時期の証拠はなかなか出てきません。
最古の証拠が見出せるのは『万葉集』です。『万葉集』には藍に関する句がいくつかあるのです。『万葉集』の成立時期には諸説ありますが、仁徳天皇の皇后磐姫(いわのひめ)の作といわれる歌から759年(天平宝字3)の大伴家持徳島でつくられた蒅(すくも)は「阿波藍」の歌まで約400年にわたる全国各地、各階層の人の歌が収められていて、『古事記』や『日本書紀』よりは確実に古い文献なので、それ以前に藍染が始まっていたことだけはわかるのです。
徳島でつくられる蒅(すくも)「阿波藍」
藍染めの青い色は、「JAPAN BLUE」として世界に知られる深いが鮮やかな日本を代表する色だ。馴染みがあるものとしては、サッカー日本代表のユニフォームの「JAPAN BLUE」だ。阿波をはじめ日本の藍が染め出す深みのある青を「ジャパンブルー」と最初に呼んだのは、明治8年(1875年)に来日したイギリスの化学者アトキンソン。当時の日本人の着物を見て「ジャパン・ブルー」と呼んで賞賛した。また明治23年(1890年)には小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も「この国日本は神秘なブルーに満ちた国」と絶賛している。徳島県はこの藍染めの元となる藍染料「蒅(すくも)」づくりの本場であり、徳島でつくられた蒅(すくも)は「阿波藍」と呼ばれている。

阿波藍の起源は平安時代。徳島の山岳地帯で阿波忌部(いんべ)氏が織った荒妙(あらたえ)という布を染めるために栽培が始まったと伝えられるが、最古の資料は『見性寺記録』。その中に、宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されている。その後、藍づくりは吉野川の下流域に広がっていった。
徳島県の吉野川流域で藍づくりが盛んになったのは、「吉野川」の存在が大きい。県内を東西に流れる清流「吉野川」は、台風が来るたびに洪水を繰り返す「暴れ川」だったが、その氾濫によって流域には肥沃な土が運ばれ、藍作に好適な土地となった。また、洪水は毎年8月頃に来るのだが、藍は洪水の襲来する前の7月に収穫することができる作物であったことも、藍が栄えた大きな要因となった。洪水地帯で育った藍は粉にし、乾燥させ発酵させた後で、自然に固まった“すくも”という藍染めの染料となる。この“すくも”は、吉野川の水運によって、江戸や大阪、名古屋などへ出荷されていった。うだつで有名な脇町などは、藍問屋の蔵が建ち並び、阿波藍の集散地として繁栄した。

戦国時代を経て江戸時代に隆盛を極める
戦国時代には、藍の色の1つである「勝色(かちいろ)」が、勝利につながる呼び名という縁起のよさから、武士の鎧下を藍で染める需要が高まる。それまでは葉藍を水につけて染め液をつくる沈殿藍で藍染めを行っていたが、天文18年(1549年)に阿波国三好義賢が上方から青屋四郎兵衛を呼び寄せ、三好氏の城下勝瑞において四郎兵衛が伝えたすくも(藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術と製法によるすくもづくりが本格的に行われるようになった。
天正13年(1585年)、蜂須賀家政公が藩主となってからは、徳島藩は藍の生産を保護、奨励。藍づくりは江戸時代に隆盛を極めた。徳島の藍は、その品質の高さからも別格扱いとされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどだった。そして徳島藩は、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立。“阿波25万石、藍50万石”とまでいわれるほどになったのである。
美しい国の、美しさを演出するブルー
藍には抗菌作用、防虫、防腐、防臭、保温、保湿、紫外線遮蔽など、さまざなまな効用がある。また、化学薬品を一切使用していない藍染めは、赤ちゃんの産着としても使用でき、小さな子どものアトピー性皮膚炎の予防・緩和にも効果があるといわれている。
注目したいのは蒅という文字です。「草冠に染める」と書きますが、この文字は漢字ではなく国字です。つまり蒅は大陸渡来のものではなく、日本人がつくったものなのです。蓼藍から効率よく色素を取り出して藍色に染めるために蒅を生み出し、また藍甕を温める工夫で季節を問わず染められるようにした藍染めは、日本人の知恵の結晶です。また、江戸時代には藍染めの布を煮出して藍を回収し、煮詰めて棒状にした絵具「藍蝋(あいろう)」を書画や浮世絵などの彩色にも使うなど再利用もしてきました。
絵といえば、同窓のアーティストに「井上よう子」と言う洋画家がいる。彼女の「藍色」へのこだわりは深く、作家活動を通して一貫して「ブルー」にこだわって素晴らしい青の世界を描き続けている。作品の著作権の関係でここで作品紹介は控えるが、ぜひ検索してみてほしい。個展は各地で開かれているので、実際に作品をご覧いただければと思う。
私も日本中を旅しているが、日本はどこに行っても美しい。北の深い雪の中は実は水色で、どこの海岸に立っても薄い水色から沖に行くにしたがって濃い青の世界。黒潮などは、深い藍色だ。天気の良い日の透き通った青を見ると、今を生きているという実感が湧く。海に囲まれた日本列島は四季折々さまざまな色で溢れるが、この日本の自然の美しさとは、景色の背景となる空や海の、淡い青色から濃い藍色に至る青の世界とのコントラストなのだと思う。
道の駅「板野」は四国八十八箇所目の道の駅

道の駅「いたの」は、高松自動車道の板野ICから県道1号線をまっすぐ南に2km、或いは徳島自動車道の藍住ICから県道1号線をまっすぐ北に2km、 徳島県北東部の板野町にある。 板野町は徳島県内の中核都市である徳島市と鳴門市の中間に位置する町で、両市のベットタウンとしての位置付けが大きい。 2つの高速インターに近いこともあって、ここはさまざまな観光地、絶景巡りの拠点となりうる道の駅でもある。
道の駅「板野」は、四国88箇所目の道の駅だ。 「88」という数字は末広がり数字が2つ並ぶことで特に商売人には縁起の良い数字だが、 四国にとって「88」という数字は単に縁起の良い数字ではない。 八十八箇所霊場を有する四国で「88」という数字は、「結願」の意味を持つ特別な数字である。

幾つかの自治体の間で「我が街に四国八十八箇所目の道の駅を」という駆け引きが行われたようだが、 2021年4月にオープンした本駅が八十八番目の幸運を獲得した。それを記念して、道の駅「いたの」には「88」と書かれたモニュメントが設置され、「88」のロゴデザインが道の駅のブランドとして打ち出されている。




駐車場は広く、車を停める位置も探しやすい。EV急速充電器に加えて、四国では初となる移動式水素ステーションも併設されていた。
トイレも大きくて外も中もピカピカ。フィッティングルームまで備えている。








駐車場そばの24時間トイレだけでなく、館内のトイレも素晴らしい。




情報館も休憩環境も抜群で、大好きな「足湯」まである。完璧だ。


板野町や近隣市町村の特産品がたくさん
道の駅「いたの」には、駐車場、トイレ、物産館、農作物直売所、レストラン、ここまでは普通だがそれぞれの内容は濃い。加えて「出店」と「足湯」があるのはさらに素晴らしい。
まず、農産物直売の様子を見てみよう。














野菜からお米まで、見て回るのが大変なほどの充実ぶりだ。
水産物、その加工品も美味しそうなものばかり。徳島市と鳴門市との中間にある立地を生かして、両市にお住まいの人たちの「スーパー」としてなくてはならない存在でもあるのだろう。


観光客の視点で物産館を見ていると、店の中央付近に「いたの特産品コーナー」が。 ここに「丸池製麺所の生うどん」「みまから」「スダチ果汁」「スダチポン酢」などの特産品が見つかった。




お腹が空いても大丈夫


道の駅レストラン「恵食堂」は「海と畑」をコンセプトにしたレストランで、 徳島近海の魚料理や、板野町で採れた野菜や鶏・豚肉を使った料理を味わうことができる。


定番メニューは「海の恵み定食」と「畑の恵み定食」。 海の恵み定食は刺身が中心、畑の恵み定食は天ぷらを中心に板野町、及び徳島近海の幸。 「阿波尾鶏と板野野菜の揚げたし定食」「板野蓮根と金時豚のミンチカツ定食」 「徳島風ばら寿司と板野人参のかき揚げ定食」「阿波尾鶏と擦り下ろし人参の野菜カレー」等々、板野町や徳島の味を満喫可能なメニューはたくさんあって選び放題。 徳島県美波町産の伊勢えびを使った「伊勢海老の天婦羅御膳」 「伊勢海老天丼」は超うまそう。贅沢をできる方はどうぞ。





レストランの横にある「おにぎり屋ROUTE 88」。 おにぎりの種類は「梅」「おかか」「明太子」などの定番からこぼれるくらいにイクラが入った贅沢おにぎり「こぼれイクラ」まで、22種類もある。
「徳島アイスの売店」では、 温かい鳴門金時と冷たい和三盆アイスが合体したご当地アイスの「徳島アイス」がマスト。 「プチクレープ」「ロイヤルミルクティーとバナナのスムージー」「鳴門いもやさんの芋棒」「手羽トロ唐揚げ」なども美味しそうだが、一度には無理である(笑)。

小腹が空いていれば、徳島県のソウルフードとも呼ばれる「イリカス(牛豚の内臓を炙ったもの)の中華まん」がいいかもしれない。
天気のいい日は、キッチンカーを利用したくなる。
