
「彦根城」は、国宝に指定された5城のひとつです。1622年(元和8年)に建てられたこの城は、天守閣から琵琶湖を一望でき、城の造形美と高い軍事的機能を併せ持つ名城として名高いのですが、徳川将軍家の威武を示すために豪奢な造りになったとされ、1604年(慶長9年)に着工してから完成までにおよそ20年もの歳月が費やされています。
戦国時代まで近江国(現在の滋賀県)の主要拠点は佐和山城でした。佐和山城は豊臣秀吉の重臣だった石田三成を城主とした城だったため、豊臣氏を滅ぼしたあとその影響力を一掃したい徳川家康が、彦根における新しい城として、彦根城を築城したのです。
彦根城の工事は2期に分けて行われ、第1期の工事は江戸幕府が主導。607年(慶長12年)までに本丸・天守と鐘の丸、第1曲輪などの主要な城郭施設が築かれました。第2期工事が始まったのは大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ翌年、1616年(元和2年)のこと。井伊家主導で再開されたこの第2期工事では、1期では築かれなかった他の城郭施設が造営され、同時に整備も進められました。
なお、彦根城の築城主は、徳川家康の忠臣・井伊直政の息子、井伊直継でしたが、直継は病弱であったため、代わって弟の井伊直孝が家督を継ぎ、2代目彦根城主となっています。以来、彦根城は幕末まで代々井伊家の居城として使われ、江戸幕府の重職・大老を務めた井伊家が、西方の諸大名に睨みをきかせるための拠点となったのです。
彦根城13代城主は「井伊直弼」
彦根城の主な歴代城主には、初代城主・井伊直継、2代目城主・井伊直孝の他に、幕末の大老として日米修好通商条約を結んだ13代目城主、井伊直弼(いいなおすけ)がいる。江戸幕府の終末期を支えた井伊直弼だが、この頃の日本は、アメリカから開国と通商を迫られていた。江戸幕府第13代将軍・徳川家定は、井伊直弼に調停役を期待して大老職に任命。直弼は開国を目指し、1858年(安政5年)に日米修好通商条約の調印決断に至る。しかしこれがもとで開国反対派と対立した末、1860年(安政7年/万延元年)に起きた「桜田門外の変」で暗殺されたことは広く知られる。
彦根城の何がそんなにいいのか
私が初めて彦根城を訪れたのは、城内敷地内にある大学・滋賀大学経済学部の受験に来た時だった。京都市立芸術大学への進学を選び、学ぶジャンルが全く異なるために縁がなかったが、大学の立地的には最高だったしここで学ぶことには相当憧れたものである。
仕事でも縁があった。平和堂もお客さんだったし、彦根地域の飲食業界やスポーツ業界、そして塾産業にはいくつもお世話になった会社がある。また、30歳代はスキーに熱中していたが、長野まで行くにしても近場の奥伊吹で楽しむにしても、ここ「彦根」には休憩目的でしばしば立ち寄ったものである。そんなこんなで、四季折々の彦根城に触れ、ここを訪れた回数は30回は下らないと思う。
ではなぜ、そんなに彦根城を好きなのだろうか。



なんといっても天守がいい

まず、国宝「彦根城天守」である。この天守はやはり桜とセットだ。国宝5城に数えられる彦根城の天守と桜の組み合わせが彦根城の一番の見どころだという人は私だけではないだろう。



正確には大津城から移築されたとされる天守だが、1952年(昭和27年)に国宝に指定されている。天守の石垣は、長方体の石を面積が大きい面を内側にして組み上げる「牛蒡積み」(ごぼうづみ)で組まれている。


この牛蒡積みは、比較的隙間が目立つため脆弱そうな見た目だが、石の奥行きが深いため、逆にとても強固な石垣となる。また、彦根城の天守は、付櫓(つけやぐら)を伴う「複合式」と呼ばれる形式を採用していて、この付櫓が敵の侵入を防ぐ役割を果たしていた。
彦根城天守が国宝に指定された理由のひとつは、4つもの「破風」(はふ)を取り入れた壮麗な姿である。破風とは伝統的な日本建築の様式で、建物の壁と屋根の端でできる三角形を指すのだが、屋根の形によって破風の形も変わる。彦根城のように異なる4つもの破風を持つ天守は他にないのである。

ちなみにひこにゃんが立っていたので、それぞれの破風の名前を聞いたのだが、知らなかったのでバカにしたら、追いかけてきた。

西の丸三重櫓および続櫓がいい
「西の丸三重櫓」(にしのまるさんじゅうやぐら)は「西の丸」の西側にある3階建ての櫓である。この三重櫓の東と北には、続櫓(つづきやぐら:門に付属する守りのための城郭施設)が接続している。この西の丸三重櫓は、搦手(からめて:本丸の背後)を見下ろす位置にあり、城の西方を守る要所である。このため西の丸三重櫓と、敵の侵入を防ぐ出曲輪(でぐるわ)との間には、深い堀切(ほりきり)もある。天守のような装飾はないが、だからこそその機能美が際立つ。
太鼓門も天秤櫓もいい
本丸の入り口を固める最後の門が「太鼓門」である。名前の由来は太鼓が置かれていたこと。太鼓はもちろん敵襲などを知らせるために叩かれた。


また、表門と大手門から登った山道が合流するところに「天秤櫓」(てんびんやぐら)がある。

中央にかかる廊下橋から見ると左右対称で天秤に似ていることからこの名が付いた。

この天秤櫓は、山道を登ってきた敵兵がさらに険しい石垣を登て攻め込むことを困難にする役割。戦になると廊下橋を落とせば敵の侵入を防ぐことができた。
玄宮園・楽々園もいい
玄宮園(げんきゅうえん)は、1677年(延宝5年)に彦根藩4代藩主・井伊直興(いいなおおき)が造営した二の丸御殿「槻御殿」(けやきごてん)の庭園だ。

広い池を中心に、池中の島や入り江にかかる9つの橋が多様な表情を見せる「回遊式庭園」だ。遠景の彦根城天守と手前の池、そしてその間に建つ茶室「鳳翔台」(ほうしょうだい)のバランスが絶妙。

桜の時期の玄宮園もいいが、秋も冬もいい。どの季節に来ても、ここの景観は素晴らしい。

最寄りの道の駅は「せせらぎの里こうら」
私は節約のために、よほどのことがないと高速道路は使わない。しかし道の駅「せせらぎの里こうら」への一般的なアクセスは、名神高速道路の多賀スマートICから国道306号線を南に3km走ってということだろう。その場合の注意点は、多賀スマートICが2024年10月現在、下り方面(大阪方面)のみ利用可能なハーフインターチェンジとなっていて、下りを走っている車はここで降りることができる。しかし名神高速の上り線を走れば、湖東三山スマートICを利用するしかない。でもこの湖東三山スマートICからも、国道306号線を北に5km走ればすぐに着くので問題ないだろう。

道の駅「せせらぎの里こうら」が位置する甲良町は人口約6千人の小さな町である。町内の至る所に用水路が走っていて、そのせせらぎ音が聞こえることから道の駅の名前がこれに決まったのだとか。


小さな町内に存在する親水公園は実に13ヶ所あるので、看板に偽りなし。私もそんな「せせらぎ」に癒された。
駐車場、トイレ、そして癒しの休憩環境









物産館兼農作物直売所と3つの食事処

物産館を兼ねた農作物直売所も、3つの食事処も、各々の施設はこぢんまりしてとても素朴な佇まい。にもかかわらず、県内の道の駅では第7位の年間43万4千人が訪れる。

おそらくその人気を支えている魅力は、癒される「せせらぎ」もさることながら物産館で販売されている新鮮な農作物だろう。地元や近隣の人たちが毎日のように買いに来ているようだ。総菜コーナーも充実している。「炊き込みご飯」「ちらし寿司」「だし巻きたまご」が美味しそうだ。
「食」の施設は3種類からのセレクト
道の駅「せせらぎの里こうら」の「食」の施設は、3つあって、 それぞれジャンルが異なる。その日の気分やお腹の空き具合、そして予算によって選べるのが嬉しい。

一つ目の「幸楽食堂」は、名前から受けるイメージ通りの大衆食堂だが、メニュー総数は72種類というから半端じゃない。「レバニラ定食」「唐揚げ定食」「チキン南蛮定食」「生姜焼き定食」「エビフライ定食」といった定食から「親子丼」「肉丼」「うな玉丼」「ソースカツ丼」「カツ丼」などの丼もの、そして「ざるそば/うどん」「にしんそば」「天ざるそば/うどん」「カルボナーラ」「ちゃんぽん」「味噌/醤油ラーメン」などの麺類まで。 ほぼ全てのメニューが1000円以下でいただける。

ピザショップ「ピッツェリア ウノ」は、本格ピザを味わうことが出来る店。「特選近江牛ピザ」「フレッシュバジルのジェノベーゼ」「甲良産万願寺の味噌マヨピザ」 「マルゲリータ」など、こちらは1000円から2,000円程度の予算感だ。

最後に「クレープス」という店だが、ここは可愛らしい雰囲気の、クレープの店。 「いちごクレープ」「アップル&シナモンクレープ」「ブルーベリークレープ」 「キャラメリーゼ」など、ほとんどのクレープが600円だ。