地震から1年半経ってなお「手付かず」なのは何故?輪島の「土地隆起」がもたらしたかつてないインフラ破壊の恐怖

能登災害復興ボランティアも2週間目。

場所を和倉温泉、穴水町から輪島に移した初日、私は情けないことに現場で転倒。アスファルトの瓦礫で顔面をしこたま強打した。

能登半島地震は、活断層が上下方向に動いた逆断層型の地震だった。

逆断層型地震とは、断層面を境として両側のブロックが上下方向に動く「縦ずれ断層」の一種である。「縦ずれ断層」のうち、上盤側がずり下がる場合を「正断層」、のし上がる場合を「逆断層」と言う。

地震波の解析から、海底活断層でも大きな動きがあったことが分かっている。上下方向の動きによって陸側がせり上がり、輪島市の沿岸では最大約4メートルも隆起した。

画像出典:地震調査研究推進本部

今回、輪島のボランティア現地で転倒したのは、もちろん私の年齢ゆえの足腰の衰えもあるだろう。しかし、輪島に行ってみればわかるが、道路の凸凹がひどく、場所によってはメートル単位で隆起していて、普通に歩けない場所が多いのだ。
今回の地震から1年半経って復興が遅々として進まない大きな原因が、道路や水道管などのインフラが甚大な被害を受けたこと、道路が龍騎、陥没、土砂崩れ等々で壊滅的な被害を受けたことが大きい。

そしてそれは、復興支援のための手段が「土地の隆起」という永久的な変位によって随所で絶たれたということが何より致命的であった。

門前町は「陸の孤島」

しかも半島の先端部が震源地であったため、元々アクセス経路が限られていた。そんな場所が地震によって道路が途中で寸断されたものだから、救助や支援物資の輸送が困難を極めたのだ。
その典型が、門前町(輪島)だろう。

下の写真はすべて地震から1年半後、輪島市中心部から門前町に向かう道で、2025年6月に私が見たもの。震災直後から1年半、多くがそのまま放置されているその光景である。

地震から1年半も経って、門前町にはまともに近づくことができない。

道路が各所で寸断され、工事車両、緊急車両以外の車は、悪路を大きく迂回しなければいまだにこの町に行くことすらできない状況が続いているのだ。

2007年の能登半島地震で門前町は特に大きな被害を受け、門前町を代表する総持寺祖院でもお堂が全壊するなど大きな打撃を受けていた。その後、14年の歳月をかけて復興に取り組み、3年前に完全復興を宣言したばかりだった。

完全復興宣言の年(2021年)は總持寺開創700年の年でもあり、市民にとってこのお寺は、能登半島地震からの「復興のシンボル」とも言える存在だった。
しかし…
「禅悦廊」という回廊と、その後ろにある白山井戸の建物が、再び崩壊してしまった。
そのシンボルを抱く輪島市門前町の「総持寺通り」に立ち並んでいた店の多くも倒壊した。
「店どころじゃないよ。うちはもう商売をやめた。2007年で店が潰れた時は、まだ若かったしなんとか再開したけれど、もうダメ。またこの街で商売を再開するなんて、夢物語だよ」

輪島市の仮設住宅(写真上)からゴミ出しに出てきた創業100年を超える店の80歳の元店主は、こう言って寂しく笑った。
2007年の地震からようやく復興したと思ったらまた奈落の底に突き落とされた輪島市門前町。

もう一度立ち上がることなんてできるのだろうか。

輪島朝市はいま

地震直後、もっとも報道されたの輪島市の観光名所「朝市通り」で発生した火災だろう。
約240棟が焼け、およそ5万平方メートル近くが焼失。地震で倒壊した家屋の下敷きとなった住民が逃げ遅れて、多くの人が犠牲になった。

その「場所」はいま「更地」になっている。
そして、朝市の人たちは地元のスーパー「ワイプラザ」の一角を借りて、仮店舗での営業を行なっておられた。

なんでも揃っている巨大なスーパーの一角。
そこで、「朝市」というスタイルが馴染んでいるかどうか、あるいは朝市ならではの「良さ」が発揮できるかどうかなどは、残酷な質問を浴びせなくともわかる。
この人たちにとっての復旧、復興とは何か、それは実現できるものなのかどうかを考えさせられてしまう風景だった。