光秀はなぜ信長を討ったのか。「周山城」側道の駅「ウッディー京北」にて妄想(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事△設備△立地△) 

周山(しゅうざん)城は、明智光秀が築いた城として最大規模のものです。石づくりの「東の城」、土づくりの「西の城」で構成される巨大な山城です。明智光秀は、織田信長の命を受けて丹波を平定。信長の天下統一事業にとって最重要な京の都に近い丹波平定を果たした光秀は高く評価され、信長は引き続き光秀に丹波地方を任せたのでした。

任された光秀は、丹波地方安定のために広い丹波の要所に城を持ちましたが、周山城は八上城と黒井城を落として丹波を平定したあと、丹波の領国経営を見据えて築いた城です。いつごろ築城を開始したのかはっきりわかっていませんが、丹波平定と同年頃と考えられています。

周山城は丹波の東側を南北に通って京と若狭(現在の福井県)を結ぶ周山街道にアクセスできる要地に、築城の名人と謳われた光秀の城でも最大規模で築かれており、丹波を経済的にも発展させようという光秀の並々ならぬ意気込みが伝わってきます。また光秀は丹波平定に際しては川の治水工事や地子銭の免除など善政を行っており、それぞれの城下町の整備にも懸命でした。それだけに、たった数年後になぜ主君・信長を本能寺に葬ったのか、わからないのです。

信長に虐げられた復讐とか、自分が天下をとりたかったとか、幕府を復活させるためだったとか、黒幕には朝廷がいたとか、実は同僚の豊臣秀吉が糸を引いたなど、諸説あります。史実が詳細にわかっているのに、動機と背景の本当のことがてんでわかっていません。周山城の跡地近くには道の駅「ウッディー京北」がありそこは今も熊も出るという山林。行ってそこで考えてみるというか妄想することにしました。(写真:道の駅にいた大きな熊)

出世した光秀は「丹波攻めの総指揮官」に

織田信長にとって最強の敵は武田信玄だった。信長は信玄を最も恐れ、天下統一に立ちはだかる戦国最強軍団と見なしていたが、その信玄が病に倒れて亡くなる。信玄に向けられていた怒りと敵意は武田家全体に向けられ、信長は長篠・設楽原の戦いで信玄の後継者・勝頼を破って武田家を滅亡させた。

信長は、羽柴秀吉に中国の毛利攻め、柴田勝家に北越の上杉攻めをさせるというように、重臣に大軍を預けて各地方の敵対勢力を平定させる「方面軍体制」と呼ばれる軍編成を取っていた。自身で東の憂いを除いた信長は、京と隣り合う丹波の平定に着手した。

天正3年(1575)、この丹波方面平定の総指揮官に任じられたのが明智光秀であった。光秀は信長の家臣として、陣営内で着実に信頼を得て出世していたが、丹波攻めとは信長の天下統一事業のひとつであり、現在の京都府から兵庫県の一部にあたる丹波の地の攻略を狙った最重要な作戦だった。

何より京の都に近い丹波はもともと将軍家に友好的な国人領主(土着勢力)がほとんど。信長が将軍家と対立して義昭を京から追放したため、信長派と義昭派に分かれて争いが続いていた。光秀はこれをすべて信長派に塗り替えて平定する使命を与えられたである。丹波の西には中国地方随一の大勢力・毛利家が控えているため、この作戦はより重要な位置付けにあった。それを任せたのだから信長の光秀に対する信頼の厚さがわかる。

丹波攻略のため黒井城を攻めた光秀だったが…

重責を帯びた光秀は丹波に出撃。国人領主の過半数を味方につけ、信長に抵抗を続ける赤井家の赤井忠家とその叔父の直正を倒すため、本拠地の黒石城(別名・堡月城/兵庫県)に向かう。忠家と直政は毛利家の実力者のひとり・吉川元春に救援要請をして黒井城に籠城した。

赤井忠家の叔父・赤井直正は反信長勢力の中でもとりわけ武勇に優れて光秀を苦しめたが、光秀の攻めの前に黒井城はすぐに落ちるだろうと見られた。しかし、戦況は意外な方向に転がる。

光秀の攻撃中に、味方についていたはずの八上城主・波多野秀治が突如光秀を裏切り、赤井家側についたのだ。波多野家は丹波を統治する守護・細川家の補佐役である丹波守護代という名家。表向きは信長を支持するふりをしながら水面下では反信長派を助けて、信長という新勢力に丹波を乱されないように動いたのだった。この裏切りを機に形成は逆転。光秀は退却を余儀なくされる。第一次黒井城の戦いは、光秀の完敗となった。同時期に信長は反対勢力である石山本願寺と交戦中だったため、丹波攻めは一時中断、光秀は本願寺攻めに加わった。

明智光秀、堡月城

現在、黒井城の本丸には、別称である「堡月城」の碑が立っている。

光秀は八上城・黒井城を落としてリベンジを果たす

黒井城の敗戦から2年後、光秀は再び信長の命を受けて丹波攻めに向かった。今度は絶対に負けられないと気を引き締めた光秀は、まず丹波攻略の拠点として亀山城(京都府)を築く。京の丹波口から山陰道を西へ向かった地点に位置する荒塚山には以前から砦があり、丹波国人の内藤家が守っていたが、光秀はここを攻め取り、砦跡に亀山城を築いたのだ。

亀山城

光秀は亀山城で戦略を練りながら籾井城、笹山城(ともに兵庫県)を相次いで攻略。丹波南部をほぼ平定すると、黒井城より先に、2年前に裏切られた秀治の本拠地・八上城(兵庫県)に向かって、一年にわたって包囲する。八上城攻略に際して光秀は厳重に付城を築き、外部との連絡手段を完全に寸断していた。孤立した八上城では兵糧が枯渇し、秀治軍は雑草や牛馬の死体を食べ、それも尽きると餓死者が続出。この兵糧攻めによって八上城は降伏開城。こうして光秀は裏切り者・秀治を捕え溜飲を下げた。

明智光秀、波多野秀治、秀尚

明智軍に捕えられる波多野秀治と弟・秀尚(写真上:『絵本太閤記』より)。波多野兄弟の裏切りに激怒していた織田信長は、二人に対して切腹すら許さず、磔に処した。

明智光秀、八上城

八上城では、本丸や三の丸などに石垣が残されている。

勢いを得た光秀は、ついに黒井城への攻撃を再開したが、このときには宇津城や鬼ヶ城(ともに京都府)なども落としていて後顧の憂いを先んじて断っていた。光秀は黒井城から打って出た軍勢を倒して降伏させ、第二次黒井城の戦いは光秀の完勝に終わった。こうして約4年がかりで、光秀は丹波攻略の任務を完遂。信長はこの功績を高く評価し、光秀にその後の丹波の統治も任せたのである。

丹波の統治を任された光秀は、まず、戦火で荒廃した丹波の復興に乗り出し、城郭の整備にも力を注ぐ。国人領主(土着勢力)が割拠する丹波は、そう簡単に平定できる地域ではない。光秀はこの地を攻める際に足掛かりとなる亀山城を築いたが、丹波平定後も視野に入っていた。黒井城には重臣・斎藤利三を配し、最大で5mにも達する高石垣を築いている。この石垣は城が権威の象徴となることを知って南西の城下町側のみに築かれており、家臣や民衆にもはや時代は赤井家から織田家に移ったのだと見せつける効果を狙ったものだった。

明智光秀、黒井城、石垣

丹波平定後も考慮してさらなる築城を行う

京都に近い立地である亀山城は、光秀にとって丹波の“玄関”のような存在だが、何せ丹波は現在の京都府から兵庫県にまたがっていて広い。光秀は“奥の間”のような場所にも拠点が必要だと考え、丹波の北西に位置する横山城(別名・龍ヶ城)を攻め落として改修し、福知山城(京都府)を築いた。

福知山城

福知山城は、黒井城の北30kmほどの場所に位置していて、丹波平定後の領国経営に役立てることを想定して築かれたと考えられている。福知山城は江戸時代に大改修されて光秀時代の遺構は少ないが、由良川に明智藪と呼ばれる洪水を防ぐための堤防跡が残っていて、光秀が治水工事に力を入れていたことがわかっている。こうした功績から、今も福知山の多くの人々は“名君”として光秀を慕っている。

明智藪

城下の由良川に残る明智藪

丹波の領国経営を見据えて築城された名城・周山城

八上城と黒井城を落として丹波を平定した光秀が、丹波の領国経営を見据えて築城したと考えられているもうひとつの城が周山城(京都府)だ。その立地から周山城の重要性がよくわかる。周山城は、弓削川が大堰川と合流して桂川となる西側、標高480.7メートルの城山一帯に築城された。桂川は嵯峨に通じる、水運による材木供給ルート。また、京と若狭を南北に結ぶ周山街道が南北に走り、陸上交通の要衝でもあった。そして、この地には京都の北側を守るという重要な役割があった。

光秀と親しかった茶人の津田宗及が「津田宗及茶湯日記」において、「光秀に招かれ1581(天正9)年8月14日に月見をした」と記しており、周山城はこの頃には完成していたらしい。しかし改めて驚くのは、光秀が信長を討った日はこの「月見」の日からたった10ヶ月も経たない6月2日であることだ。いったい何が…

標高480m(比高230m)の城山に築かれた周山城は主郭部といえる東城、主郭部から尾根続きの西城と分かれていて、東城は総石垣の城で西城は土の城。西城の築城意図は未だ明らかになっていない。いずれにしても石垣を多用した大規模な山城であること。そして石垣づくりの東の城とは別に土づくりの西の城がセットで存在すること。この二つが周山城の二大特徴である。

東の城は、標高480.7メートルの城山を中心とし、天守台を含む石垣の主郭を中心に8方向に伸びる支尾根に曲輪が放射状に展開している。範囲は東西約800×南北約700メートルにも及ぶ。ほぼ総石垣。しかも姫路城や大坂城など江戸時代初期に築かれた城の石垣とは異なり、未発達の算木積みや荒々しい天正期の石垣は圧巻で、のちにルイス・フロイスは光秀を築城名人とたたえている。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

光秀は亀山城を居城に定め、丹波の支配体制を整えた。周山城はその重要な一角と考えられ、福知山城を築いて明智秀満を置いたように、周山城は明智光忠に任せた。いずれの城も、光秀自身が主君・織田信長の次なる敵である毛利氏を強く意識し、熟慮の上の選地であった。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

周山城

周山城は光秀死後あまり年月を経ずに廃城となったためだろうか、光秀時代の石垣や曲輪がよく残っている。

軍法に信長への感謝を記した1年後に信長を討った、光秀の心の闇

平定戦完了後、丹波は光秀に与えられた。信長はさらに、細川藤孝・筒井順慶・高山右近など近畿を本拠とする武将たちを与力として光秀の下につける。これにより、事実上畿内は光秀の支配下となった。

絵本太閤記

『絵本太閤記』には、信長から丹波を賜った光秀と彼に従う丹波国人の姿が描かれている。この頃に光秀は「明智光秀家中軍法」という自軍のルールを決めており、この文中で自分を取り立ててくれた信長への感謝を書き綴っている。この軍法を記した日の、まさに1年後が本能寺の変の当日。順調に手柄を重ねていく光秀にどんな心境の変化があったのか、ますますわからない。

いずれにしても、丹波攻めを成功させて信長から丹波を与えられ、近畿圏に大きな影響力を持った光秀が決意したこと、よほどの大きな理由、動機があったはずだ。光秀はその理由、動機を誰にも漏らすことなく、中国地方を攻略中の秀吉の援軍として与えられた1万3千ともいわれる兵を京都の本能寺に向かわせる。そしてわずか100人ほどの手勢しかいない信長を襲ったのである。

本能寺の変

天正10年(1582)6月2日未明、光秀は本能寺を襲った。信長は自ら槍を振るって奮戦するが、ついに追い詰められ自害したという(「本能寺焼討之図」都立中央図書館蔵特別文庫室蔵)

本能寺

変後に炎上した本能寺は別の地に再建されたため、信長最期の地には本能寺の歴史を伝える碑のみが建っている。

周山城跡のすぐそばにある道の駅「ウッディー京北」

京都市と福井県敦賀市を南北に繋ぐ国道162号線、三重県四日市市と大阪府池田市を東西に繋ぐ国道477号線。 この2つの国道の交点に本駅「ウッディー京北」はある。ほぼ周山城があった場所、京北町だ。2005年に市町村合併により京都市に編入された京北町だが、同じ京都市とはとても思えない。何せ、今でも熊が出るのだ。

道の駅近辺の道路は普通に見えるが、本駅に至る道路選択と運転には注意が必要だ。東から向かう国道477号線はかなり危険な道路だし、 西から向かう府道443号線は、深い谷の横を狭くてカーブが連続。相当危険である。途中、山道に迷い込むと最悪で、夜は街灯などなくて真っ暗だ(経験者は語る)。ナビに頼らずしっかり地図で調べ、より安全な道からアプローチするのが無難だ。

諸説あるものの、京北町は納豆の発祥の地とされている場所の一つ。 納豆が特産品として販売されている道の駅は、関西ではあまりないだろう。

発祥の地であるとする所以の、伝統商品の「納豆もち」は1300年頃からあったとされるので、明智光秀も納豆嫌いでなければ食べたはずだ。切り餅にして保存可能にした商品とつきたての商品がある。納豆そのものとしては、「山国納豆」「京北の郷納豆」、藁に包まれた高級な「きと納豆」がある。

地元野菜の直売は、しっかりとした品揃え。

物産館では寿司や木工製品を

物産館で販売されている「焼き鯖寿司」「アマゴ鯖寿司」「鯖のかぶら寿司」はどれも美味しそう。「鯖のかぶら寿司」は酢飯とカブラ漬物の間に焼き鯖が入ったものだ。そして、「ウッディー京北」の駅名から想像がつく通り、木工製品は本駅イチオシの特産品だ。

昔から今に至るまで、京北町は林業で成り立ってきた町だ。まな板や木製の椅子、幸福を呼ぶ木彫りのフクロウ、表札などとにかく色々なものがある。京北町が誇る檜を中心に木材そのものが色々な形で販売されているのだが、檜を使った芳香剤「檜のエキス」や入浴剤「あすなろ檜風呂」もある。

駐車場、トイレ、休憩スペースについて

渋くこぢんまり存在する道の駅らしく、駐車場、トイレ、休憩スペースともに、需要に見合ったサイズ感で用意されている。年季は感じるが、手入れされているので、私などこういう渋い感じは大好きだ。

周山城跡を探索したあと、このスペースで椅子に座って、明智光秀の心の闇を想像、妄想した次第だが、圧倒的に静かで落ち着け、ひたすら妄想に耽ることができた。

この投稿には信長を本能寺で倒すまでしか書かなかったが、すぐに安土城に向かって自分のものとした行動などからも、やっぱり光秀は天下人になりたかった、というよりこのまま一生信長にこき使われる人生を、ここで変えたかったんじゃないかな。私の中では、光秀の動機はそれだけだった、という結論に達した。知らんけど。