
前回の記事では、LIke workという、自分の好きなことを仕事にできるケースを紹介し、それをいいことに無茶苦茶な経営をする人たちの実例を挙げました。
ただ、好きなことを仕事にしたいと多くの学生たちが考えていることなのに、それがうまくいかないのには社会に送り出す教育機関の問題も指摘する必要があります。
例えば専門学校は、高校生に人気があるジャンルな、就職先のあるなしに関係なくコースを新設して、何もわからない高校生を集めます。

「ペットなどの動物のお世話を学べます」「音楽のプロになれます」「アニメのプロへ」「声優になろう」「映画監督に」「マスコミで働こう」「カリスマネイラーになれる」「一流スポーツ選手をサポート」等々、就職できようができまいが、生徒さえ集まればよしとする無責任さは専門学校業界の大きな特色です。もちろん滋慶学園グループなど、素晴らしい教育を提供している専門学校もありますが。
専門学校は、大なり小なりその分野の企業とパイプを持つ努力はしていますが、大学、短大、高校では一部の理系学科を除いてそういう努力はほぼ見られない。そして、「就職指導」「キャリア教育」は極めて脆弱と言わざるを得ません。
Like Workerのレベルを上げられない大学のキャリア教育
大学は、キャリア教育はおろか教育レベルの低下自体が叫ばれて久しいが、ここで問題にしたいのはまず「就職指導」「キャリア教育」なので、キャリア教育に携わる人間の劣化がここまで酷いか、そもそも「人権」への認識すら皆無という最悪のエビデンスから見てみたい。
大阪公立大学、大阪経済法科大学、大阪樟蔭女子大学で学生の「キャリア教育」などの講義を受け持っている石川靖之講師は、「障がい者は皆生産性がゼロと言えるので皆死ねば良い」と明言。キャリア指導者である前に基本的人権すら踏み躙る問題人物だ。彼の本業は、本人曰く「マーケティング企画から現場運営管理、人材教育までワンストップでできる数少ないファシリテーター、プランナー、ディレクターとして活動。マーケテイング・教育関係での講演も多数」とある。
加えて、2009年より大阪公立大学(旧大阪市立大学)大学院経営学研究科にてキャリアデザイン論講師、2014年より大阪経済法科大学にて広告心理論、製品開発論、2018年よりメディアと広告、プレゼンテーション実践講師。



2024年より大阪樟蔭女子大学にて学生提案型インターンシップ講師ともあり、「障がい者は皆生産性がゼロと言えるので皆死ねば良い」という価値観の持ち主が、もう15年以上にわたって学生たちを食い物にしているのだ。
個人攻撃をするべき対象でもあるが、こんなのは氷山の一角、ほんの一例として指摘することが目的である。彼のように、ろくに研究成果や実績がないまま、ただメシを食う手段として大学で学生たちを食い物にする「講師もどき」と、経営が厳しいから誰でもいいから講師を安く雇いたい大学側のニーズがぴたりと一致していて、見分けがつかないウブな学生たち、親御さんたちが犠牲になっているのである。
中学、高校現場に普通にいる「人権」すら知らぬ人
高校教育、そして義務教育の現場にも酷いエビデンスはいくつもある。まず、キャリア教育の根底に必要となる人権に関連して私のサンプル、エビデンスから引っ張り出してみる。
高校の倫理社会担当の滑川教諭は、私たち生徒に対して二言目には「君たちは人間じゃない、動物園に行きなさい」と繰り返した。人間というのは叡智があるもので、私たちにはそれが皆無なのだと。

彼は授業のたびに、しかも毎回、授業の間に「君たちは人間じゃない」「動物園に行きなさい」と、何度も繰り返した。今、それ言ったら一発アウトですから。何が「倫理」かって話だ。
私の中学時代の社会科教師、田渕洋三教諭は、リアルタイムにテレビ中継されている時間に授業の中でそれを採り上げ、あさま山荘事件の背景(共産革命や日米安全保障等々)には一切触れず、事件をおもしろネタにして、こう言った。

「牟田よしこさん、綺麗ですよね〜。僕は好きだなあ〜。」田渕教諭は、中年男のいやらしい笑みを浮かべながらこのセリフを何度も繰り返し、私たちから笑いをとろうとした。牟田よしこさんとは、あさま山荘で人質になって九死に一生を得た、管理人の妻である。そしてこうも言った。「授業なんかしてる場合じゃないですね〜、ドンパチやって、実弾ですよ。警察官が死にましたよ〜。ドラマじゃないんですよ、すごいですね〜」と。
「好きだったはずの仕事」がそうでなくなっていく日々
私の就活と企業選択
こうして他者を批判するからには、自らを棚上げするわけにはいかない。
私は、株式会社リクルートに1982年4月、215名の新卒採用社員の一人として入社した。6年後の新卒採用人数は1,000名を超えるので、いかに急成長していたかが、採用数の急拡大だけでもわかる。
私は京都市立芸術大学のデザイン科で学んだことの中でも、とりわけ「広告」に興味を持っていたので、③の目的意識すなわち「好きな仕事ができる」と思っての入社決定だった。最後まで迷った別の選択肢としては、ミズノ株式会社のデザイン部への入社と、高校美術教諭になるかの2つがあった。
就活としては、それぞれ3つの職場でアルバイターとしてそれぞれ1ヶ月働いた(教職実習はもう少し短期間で当然無償)、それだけだった。

短期間でも体験すると、3つの選択肢はもちろんそれぞれ全く異なる魅力が十分感じられた。どれも「自分の得意を活かし」「好きなことができる」仕事でもあった。なかなか決められなかったが、それでも最終的にリクルートに決めたのは、給与が最も高かったからというのが第一、そして正直、恥ずかしながら、いつも会社訪問で笑顔で応対していただいた受付女性があまりに美しかったというのが第二の意思決定理由となった(汗)。
Like workerはワーカーホリックになりやすい?
果たして入社後、最も重要な「好きな仕事が実際にできたか」ということについては、概ねできたと思う。
社会のことがほぼ何もわからずに新卒で飛び込んで、がむしゃらに仕事をした。オウム真理教や統一教会に見られるマインドコントロールはダメだが、どの企業でもやっている新卒社員に対する洗脳はリクルートにもあって、私はワーカーホリックとなって働いた。
ワーカホリックとは、仕事に過度に依存して、プライベートの時間や健康を犠牲にしてしまう状態や人を指す。仕事中毒とも呼ばれる状態だが、その洗脳が9年目にして解けるまで、私は間違いなくワーカホリックだった。
そんな私とて成長はする。見えてくる景色は、やはり日々変わっていくし、仕事や会社を疑問に思うことも増えていった。
当時の社長だった江副浩正氏は、末端社員にとっては特にカリスマであった。その眩しかった人、尊敬してやまない方が、8年後にまさか逮捕されるなんてことは想像だにしなかった。

それより何より、会社がここまで「利益追求」及び「社業拡大」に偏った経営体であるとも思っていなかった。
結局、私はほぼ10年間リクルートにいたが、その日々を振り返れば、好きな仕事がそうではなくなっていくという「失意の増幅過程」だった。もっと詳細に言わないとわかりにくいと思われるので、最終的に退職を決意した頃をさらに詳細に自己開示する。
芽生え始めていたちっぽけな「使命感」の挫折
バブル絶頂期の1988年、私はリクルートにいて、関西では「広告をただ集めただけ」のリクルートブックの「編集長」として、「広告を集めて綴じた本」を、「編集された情報誌」に変えるべく必死だった。
創業時の「企業への招待」、この画期的な一冊が、四半世紀かけてリクルート事業拡大の「ドル箱」として、何十倍もの「ぶ厚さ」に膨れ上がっていた。関西エリアの学生・企業に限定したものでも、総ページ数は広辞苑何冊分かあった。

私は、掲載ページを自由に売りたい営業サイドからの「売りにくい」という猛反発がありつつも、今ではあり得ない昭和時代のパワハラと持ち前の傍若無人さで「仕事カタログ」「漫画会社研究」といった、ある視点で「編集」された「情報誌」に強引に変えた。
死ぬかと思ったが編集長として一人で全ての原稿をチェックし、視点を逸脱した原稿は差し戻し、もしくは容赦無く「赤入れ」した。関西という小さな括りだから通用した力技だったが、翌年東京の本部に移動できたので、いよいよ全国版で同じことをしようと乗り込んだ。

しかし、全国誌で同じことをやろうとしたら、全く通じなかった。箸にも棒にもかからなかった。これまで小さな挫折はしばしばあったが、今回のそれは、立ち直るのが困難と感じるものだった。
私的目標の「下方修正」
ならば、せめて「話者」を統一することと、情報誌を「ダウンサイジング」して紙資源の無駄遣いを減らすことの2つだけはやろうと私は自分の目標を下方修正した。「話者」というのは、その記事の話者すなわち発信元だ。ところがリクルートブックは、その中身が、広告主自身が第一人称で話しているものと、リクルートがさも評価して書いたようにしか読めない第三者の客観表現が混在していたのだ。
今では「リクナビ」となっていてネットの中に存在し、必要なければ見ないでいいわけだが、当時は読まれもしないものを段ボール箱に詰め込んで学生宅にタダで送りつけていた。多くの家で投入拒否されるピンクチラシのようにポストに入るようなものではない、玄関先にどさっと、みかん箱何箱もが置き去られるのだ。そのサイズも回数も、リクルートの利益追求の結果として意味なく膨れ上がり、この国の紙資源の無駄遣いというしかない重大な事案ともなっていた。だから資源保護の観点からもせめて「ダウンサイジング」が必要だと私は思っていたのだ。
つまり編集者として、提供情報の話者を「リクルートが語っていること」に統一して、読者学生諸君に責任ある情報提供をするというあるべき姿にすること。そして、本自体をダウンサイジングして資源ロスを減らすこと。この二つを、私のサラリーマン生活最後の「下方修正目標」としたのだ。
そう決めた1990年のある日、私は、その下方修正目標を意味ないものとして全否定されるとともに、もともと「売れればよし」「儲かることが目的」とする会社で働いていること自体が間違いだっただ思い知らされることになる。
退職の決意と、引導を渡してくださった2人の上司
私に引導を渡してくださったのは事業責任者の役員・関一郎氏だった。ご存知のように、新聞社などは「編集」と「広告」とはしばしば対立する関係だが、この方は「編集」と「広告」のどちらのトップにも立って、事業を思うままに進める「すごい方」「最強のサラリーマン」だった。
私はせめて「ダウンサイジングを」と彼にいうと、「スペースが小さくなったら、値引きを要求されるだろ?」「高く売れればいい。儲かっていればいいんだ」と彼。ではせめて「話者の統一を」というと、「読者本意なんてどうでもいい、(広告が)売れりゃいいんだ、今のままでいいんだよ、バカ」と、面と向かってハッキリ仰ったのだった。
もう一人、退職決意を力強く後押ししてくれたのは直属上司の藤田洋氏である。若くして企画室長(部長職)に上り詰めた、超のつく切れ者だったが、この方は部長職の地位を利して、気に入った女性社員を片っ端から食い物にする「WOMAN EATER」でもあった。
当然同意の上のケースばかりではなく中居正広と同様、「不同意」性交渉によって傷ついた女性社員の訴えで大阪に飛ばされ、そこでも同じことを繰り返し、私の退職後1年してからついに会社を追われた。

まさか彼女たちを妊娠させてはいなかったことを祈るのみだ。願わくば上司である前に、まともな人間であって欲しかった。仕事がとてもできる方だったので、とても残念なことであった。
結局、好きな仕事ができると思って入社してほぼ10年かかって私が気づいたことは、「選んだ会社を間違えていた」こと、それだけである。虚しかった。しかし10年前に戻ってやり直しがきくわけもない。全ては自己責任なのだ。
幸いまだ独身で、好きな仕事をやり直そうと思う気力はあった。リクルートを退職して33歳で独立起業。そこから33年、なんとか最低限のやり直しはできたとは思っている。
長くなったが、若者に、私のような失敗をさせるのはは酷だと思う。Like Workができると思っても、会社をよく見てから入社する会社を決めないと、続け難くなることはよくあることなのだ。
私の研究の「経営者サンプル」を得た10年間
私はLike Workができそうな企業選択を大失敗したわけだが、非常に良かったことが2つある。
1つ目は、そんな会社にも、心ある人や尊敬できる方はたくさんいて、そういう人との関係が築けたことである。多くのカスのような人に混じって、素晴らしい人もたくさんいたのだ。
2つ目は、リクルート在職期間私のこの研究の生命線であるサンプルを、日々質量ともに文句なくとれまくったことだ。入社1年目から各企業の取材して原稿を制作する仕事に携わったので、5年間にわたり、関西のさまざまな業界、企業の社長に直接取材することができた。6年目からの4年間は編集責任者の立場にあったから、関西だけでなく首都圏の超大手企業のサンプルもとれ始め、大手、中小、業種を問わず、さらに多くの社長に直接お会いしてお話を伺うことができた。

実に素晴らしいと感じた人もいらっしゃれば、本当にカスやなと思う人もいた。ご縁を頂戴した方々については以降ずっと、その会社の行く末とともにウォッチングして、「会社トップと会社の行末の相関」を検証できたのだ。
10年間でお会いできた社長の数だけなら500人は下らないが、採用したサンプル数は、正確かつ克明に追跡した社長、企業に絞り込んで200とした。つまり、働く目的調査サンプル2000のうち1割は、直接お会いしてお話を伺っただけでなく何度もお会いし、35年間にわたってその後を徹底的に追ってきた「200人の企業経営者」である。
これら「経営者」という一般の人から仰ぎ見られがちな人たちが、エビデンスの中にしっかり入っていることによって、この研究に深みが増したと、自画自賛するものである。
(つづく)
この記事は、連載第5回です。まだまだ続きますので、ぜひお読みいただければ嬉しいです。