
私が玄秀盛氏(以下・玄さん)に会ったのは、彼が当時「」(後の新宿駆け込み寺、現・公益社団法人日本駆け込み寺)という小さな事務所を新宿歌舞伎町の雑居ビルの一室に構えたばかりの頃です。
コーチングの勉強でご縁をいただいた浮世麻里子さんにご紹介いただき、Light Workの実例を研究するために、2002年の秋、直接お話を聞きに開いたばかりの事務所を訪ねたのでした。
雑居ビルの階段を上がってドアをノックすると、「はい、どうぞ!」と大きな声。
ドアを開けて入ると、こちらを睨みつけていた、もとい、そう感じてしまった鋭い視線を私に向けておられました。私は何人かヤクザに脅されたこともありましたが、その辺のチンピラヤクザとはくぐってきた修羅場の数と格というか次元が全く違う、一発目で相手をすくませてしまうような眼光に、私は一瞬後退りしたことを鮮明に覚えています。
彼の言葉は、あまり綺麗な言葉で言い換えては正しく伝わらないと思うので、私が聞いた(録音した)彼の言葉のままを、ここに書くことにします。
新宿歌舞伎町のLight Worker 元 秀盛氏
幼少期
生れは大阪市西成区(下写真は西成暴動)、物心着いたときから転々としてた。

( 写真は「西成暴動」)
父親は韓国の済州島から密入国で(日本に)来て、神戸で働いてた。
母親は在日で「神戸のにしなり」で働いていて、私は母親以外の処を、短くて半年、長くて1年半ぐらいで転々と住むところを変えて暮らしてた。知っている人で5人かそこら(できた頃には次の処へ)5か所をそのぐらいの周期で変わっていった。」
三重、京都、奈良、大阪、行くたびに全く環境が違う、名前も変わるし、国籍も変わる。学校も小学校2年の時は3回変わってる。3人親が違うと言う事で 誰が自分のお母ちゃんかなと言う事で、小学校2年の時は北朝鮮の学校、全く違った環境、小学3年になったら韓国系の学校で全く違う。
三重県に行ったときは韓国の済州島から密入国してきた海女さんだった人がお母さんやった。三重県は転々とした。父親自身は働かないので常に女性に食べさせてもらっていた。 だから女性の処に行ったら、そこの家族に「連れ子」で連れまわされる。父親がまた違う女のところに行くもんやから、そこに居られへんので当然家出するわな。
小学生・中学生の頃
警察に補導される、父親が呼ばれる。父親は密入国したけどその頃は外人登録を持っていたから。そういう繰り返しを小学校で8回、中学校で5回。 当然勉強も付けられないし 兎に角自分の生活のこと、飯をどうしようかしか考えてなかったな。
子守をし、新聞配達をしたが 忘れもしない1,200軒(配った)初任給1000円を母親に取られて、新しく(新聞を)入れてくれというところを10軒持っていた。朝夕配って560円 5600円 その地区を集金もするので5600円が丸丸自分の懐に入る。
小遣いは貰ったことが無いのでその5600円は栄養補給に使った。自分がご飯を食べるのに必死しか言いようがない。中学生で煙草をやってたりシンナーを吸ってたりするので走るのに辛い。万引き、高校生に対して窃盗をする。
中学2年になったら密入国した母親がかった家に一人で住むようになる。
手に負えないのでここに一人で居れとの事、月のうちの1週間分の食費しか貰えないので 恐喝をほとんどする。補導は5~6回される。学校でも家庭環境を判っていたので退学とかは成らなかったな。
就職と転職
自動車修理工場に就職しようとした。シンナーが吸えるからと 仕事しながら半年ぐらいシンナーを吸いながらラリってた 食事もろくにせずや。
先輩からこんなことをしていては駄目だと言われ、兎に角ここから出ろと 生みの親のところに行けと 時計を餞別に貰った。
生みの親のところに行っても、生みの親も男が入れ替わり変わるので 当然合わないので出たり入ったりしながら、寿司屋に就職した。食べれるからな。
その後転職する。職種で20職ぐらい、転職の数で40回ぐらい変わる。
殆どあらゆる職種を体験する。行き当りばったりや。
人の動きばっかり見ていたので仕事作業は1回やると6割は覚えられた。実践すると自信が付く。盗み聞き、盗み見は得意やったわ。
家庭を持って猛烈に働いて
20歳で結婚して21歳で子供ができた。借金があった。がむしゃらに働いた。糞尿処理とか効率がいい物、ちり紙交換とかキャバレーの店長とか。1日14時間ぐらい働いた。速く認めてもらう為に一生懸命にやった。
大工の親方が逃げて、2か月半で完成しなくてはならずハッタリで『やります』と手を挙げて、図面も読めないのに監督等に聞きながら完成させた。そこで200万円を貰う。それから建築の看板を挙げて立ち上げた。しかし、建築現場でぎっくり腰になってそれが原因で椎間板ヘルニアになってしまう。手術した。入院とリハビリで1年間費やしたが、肉体労働は出来なくなってしまった。
大工で培った人脈で人を使ってやるしかないと思って、人夫出し(今の人材派遣に相当)をするようになる。たまたま怪我をしたときは大手の処で働いていたので労災が適用されて収入への影響は大丈夫だった。 その時にがむしゃらに本を読んだ 如何に人を使うか どうしたら人に慕われる人間に成れるか。 いままで経験したことをちょっと脇から見直してみた。
儲かったが、家庭は失った
人夫出しは旨くことが運んだ。最大200人は使ってた。1988年あたりから。バブルが終わる一歩手前の時代だった。当時1日1,000円あれば食べていけたので凄く儲かった。簡易宿泊所作って作業員を集めて 月に6000万円儲かった。
最盛期は会社を10個作った。金融、不動産、サラ金とか。10日で1割(トイチ)、1月で3割。今では規制があるが、需要は有った。あこぎな商売だとは思わなかった。回収率は100%だった。評判は抜群に良かった。
飲食店も不動産などもしたが手形では決してやらなかった。180日も待って居られない。
貯金をせずに夜は遊びまわって、妻と離婚することになる。2番目の妻との中で家庭を作り夢を実現したと思ってた。しかしまた自分の居場所がなくなった。
同じ100万で飲み食いしても、東京銀座では目立たんかった
ホテル住まいが一番安心するな。仕事に貪欲に邁進できる。当時年商20億円、自分で使える金が8億円だった。
神戸で100万円ほど使って飲み食いすると、目立った。大阪でも目立つ。でも、たまに東京銀座で使っても目立たない。カスみたいなものや。関西弁を使うということでは人に目立ったから、東京にちょこちょこ行くようになる。
それから天台宗で得度するんやけど。知り合いが京都のお坊さんに会いに行くと言うので、坊主丸儲けやぞと言うから行ってみようとその人と一緒に会いに行った。平成元年10月27日初めて出会って平成2年2月4日に得度した。
生れてこの方、メモ取らないんで。いままでなにからなにまで頭の記憶や「あじゃり」(阿闍梨)さんとのこともな。

(玄さんは、1990年に天台宗の僧侶、酒井雄哉大阿闍梨のもとで得度している)
片方に最澄、もう片方に伝行大師と書かれた物があり、どちらが偉いのですかと阿闍梨さんに聞いたら答えなかった。10分ほどしたら足が痺れてきたので立ち上がって不動明王をじーっとみた。右と左では顔が違うなあと 後ろは炎やなあと。それから不動明王を見に通うようになった。同期で7人が得度して坊さんに成ったけど、私は得度だけしたらそれで終わりとしていた。
10年通った。毎日掃除しかしなかった 下働きが好きだった なにか気持ちいい。なにかいい事をしてやろうじゃなくて 何か自分を磨いてやろうじゃなくて 何かすがすがしい。「行」らしいことはしなかった。
36歳の時、阿闍梨さんが東北巡礼に行くと知った。栃木県の大慈寺から恐山まで1600km、29日間行かれると言うので是非自分もと先立ちで歩かして貰った。3日もすると足がパンパンに成り厳しく 電柱ごとに色んな事を考えて歩くようにしたが、そのうちにネタも切れてきた。
毎朝4時に起きて 終わりが9時10時となる事がある。その間夜に飲みに行ったりして肉を食らったりしてはいけないのに牛タン食ったりした。恐山に行く最後の夜にも居酒屋で飲んだりスナックに行ったりしていた。二日酔いでフラフラしていたらまっすぐ歩けと怒鳴られた。
(そうしているうちに)あっ終わったと。帰りに草津温泉で楽しもうと思った。
出かけるにあたり初めて赤の他人に仕事を2か月前に全てを任した。手形、預貯金なども全部、疑いも無く任した。
頼んでおいた会社も8000万円から6000万円ぐらいに収入は落ちていたが挽回できると思っていた。余り追い込まないでおこうとか、中途半端な仏心が裏目に出始めた。どっかでかすかに追い込みが効きにくくなる。あんなに寺を回ったし、般若心経も一丁前に覚えたし、ちょっとした「許す」と言うかけらを、覚えてしもたんやろな。そうしたら事業が傾きだしたんや。
阪神淡路大震災
1995年(阪神淡路)大震災の時は酔っ払っていた。
朝焼けにしては偉い赤いなと思ったら火事だった。
当時10社のうち7拠点が神戸界隈にあり、スーパーカブを買えと指示した。動物的な勘かな、TVを見て、ポリタンクも購入。水が必要と思った。
現状を見に行く。金を貸してある地域が如何なっているか。
バイクにポリタンク2つに水を積んで行って、皆にすれば一番に来てくれてありがとうと言ってくれた。こっちは金を貸しているから いつ取り立てにいけるか見てるのに。
でも、いまはそんな時期ではないと。得意先を、尼崎まで全部回った。約50か所近かったのかなあ。
2回目行った時には水とトイレットペーパーとかをセットで渡すとかしたな。
ボランティアの合間に会社の近くにテント村を作った。そこでやった仕事の方は大盛況やった。通常の3倍は儲かった。
自分自身が解体作業の請負をしたし、手作業で瓦礫を取り除く作業員を集めるのは簡単やった。今回は全部倒れているものを単なる取り除くだけ。利幅も大きい。
必要なダンプは物々交換。こちらは人を集める事で人を供給、その代りダンプを他から供給してもらうというわけ。困っているのはお互いさまと。テント村ではいろいろと面倒を見たり 作業も1万円での作業であれば5000円でもいいよと、利ザヤも甘く対応した。
東京にシフト
1998年、本来元請けからはいるお金が入らず、手形を裏保証していたのが引っかかって、会社が抑えられた格好に成った。この年、会社を全部整理してお金に替え、東京に出てくることにした。やはり稼ぎが東京は違うから。あこぎな世界から、多少違うスタンスの仕事をやってみようと思った。
債権回収とか 女性関係のトラブルとかを処理していく探偵会社をやった。また、オゾンの会社を作って仕事を任しておいたら半年で社長が逃げてしまったので、仕方なく自分で社長になって1年間勉強。実用新案とか特許申請を出しながら2年ほど。
不動産、金融と言うのは自分のテリトリーなのでそれと並行しながらやった。そのうち宗教法人でも手に入れてペット霊園とかやろうかなとそんなことも計画中だったな。
オゾンの会社、ペット霊園、建設、不動産 1社に5000万円 4社を作ってビル1棟に全部入れて、東京での体制作りには2年かかった。
献血でわかった白血病
さあこれからという時に秋葉原で何気なく献血をした。2000年8月に献血をして10月に通知が来る。「HTKV1 白血病」発症したら1年以内に命が無くなる…」と。
HIVだと、一瞬見えた。HIV(エイズ)だったら遊んできたから、なるほどなんやけど。
当時 お茶の水の日大にちょっと股関節が悪くて通っていた。歩いていても躓く 普通の平地でも躓く 原因はどう調べても判らず 骨がすり減っているでもなく丁度リンクする 症状がな。それで、もう一度用紙を見ると、HTと書いてあった。レトロウイルスで発病すると助かる見込みはないと。
絶望したな。
人殺しを思いとどまって
私が死を意識した時に自分の脳裏に浮かんだのは、どうしても許せない奴らのこと。仕返しと言うんですか 復讐と言うんですか、そっちの方に頭が行った。恨んでいる5人の奴らを皆殺しにしてあの世にいこうと。自分だけ地獄に落ちるのは間尺に合わん、道連れにしてから自分も死のうと。(居所わかったのが)4人、後の1人はどうしても判らない。それで段取りを考え、実行に移そうと決めた時、ふと、我に返った。
しかし、この自分の鬼畜さ 鬼畜のような生き方が当時の俺の43年の歴史やったんかと思った。最後の最後、死を意識した時に普通なら子供とか妻とか家族とかを思って、100%菩薩の様な心になると思うのに、お金でも無く、この5人にこの恨みを返すだけとは。それしかないのはどうしたことか、何のために俺は生きてきたのか。
自問自答を繰り返した。守銭奴のように金に執着し、人様からは鬼と言われ、最後は人殺しで終わる。こんなんで本当にええんかいな。結局、俺は何のために生まれてきて死んでいくんやろか。そう思うと、とてつもなくむなしくなった。
歌舞伎町でボロクズのように扱われている女性らを救おう
自分の中で死を意識するという事は24時間払拭できない。俺は自分に勝てたと思っていたが、この人間のもろさは一体何かと ずっと死を意識したらご飯もおいしくない。好きな食べる事が全然味気ない。望みが無くなる。自暴自棄、自信喪失 人間て、こんなにもろいなと。ふつふつとしてきてもだれにも相談できない。じゃあこの1年なにに使ってやろうかと。俺はどうやって生きて行ってやるんだと。
その時に新宿の書店に行って手に取ったのがNPOというボランティア?の本やった。その時の事は鮮明に覚えている。
阪神大震災、得度して歩いたが坊主には成れない。歌舞伎町で坊主やるなら、駆け込み寺か。歌舞伎町は600m四方 飲食店が3000軒以上 ホテル50~60軒 映画館が12軒 やくざが80団体はある。
年がら年中、他に比べて40倍ほども犯罪がある。東洋一の歓楽街、それもダーティーな。そういう街だから女性、子供が泣いているのではないかと。
よし、24時間やろう 365日無休でやろう。日本一けがれた街、歌舞伎町でボロクズのように扱われている女性らを救おう。そう決めたんです。俺ならここで出来ると、身代わり不動のようなもので誰かに生かす命もあるだろうと。1年限定でも、やってやろうと。
NPOを猛烈に勉強する そして申請した。2002年1月8日に認証を頂いて、5月20日に駆け込み寺をたった一人で始めた。1年後にはいないと思いで、始めた。会社を整理して金はない。唯一残ったのが生命保険 この生命保険を担保に当時1800万円借りた。
最初の夜 放送が流れた。「歌舞伎町で駆け込み寺ができました」とな。
駆け込み寺はじまる
一番最初は家出の相談やった。娘を探している親の相談。36歳の男が16歳の子と同棲している。この女の子を直ぐ引き離しても又この子は男を追いかけるやろ、だからお父さんに、表向きは付き合いを承認しようと。その間にしっかりこの男に言うから、腹が立ってもいまは抑えといてくれと。今腹が立ったら、娘が敵になるでと。その36歳の男には、青少年違反で捕まるでと云いながら別れ話を迫った。男が他に女を作ったというシナリオを作って、別れさせたよ。
最初の頃は、自分の会社が潰れた 家を取られた 借金で家が離散したなど。夜中の相談も多かった。実際女性が逃げ込んで来て、男が追いかけてきて。本当にてんやわんやの始まりだった。成り振りかまわずやったよ。歌舞伎町の夜、面白かったけど、見て見ぬふりをするのも多々あったな。その後も色んな奴が来た。連日連夜(事務所に)寝泊りしながらやってきた。全身全霊、全力投球しかなかったよ。
私が玄さんに2002年の秋に直接話を聞けたのは、ここまでだ。
私は最後に、どうして玄さんのところに、みんな駆け込んでくると思いますか、と聞くと、玄さんはしばらく間をおいてこう答えた。
「やっぱり、加害者だった時代があるからやろな。昔はかなりのワルやったから、悪党の急所がどこで、どう攻めたらメンツをつぶさず着地点を見つけられるかがよう分かります。蛇の道は蛇と言いますやろ。」
そう言って、長い長いインタビューの最後に、玄さんはようやく笑った。

そこからの23年、後で伺った話(今日までの玄さんの人生)
10年で2万件、たった一人だからすべて即決
1年3か月やってきたところで体調がおかしくなる。幻聴と幻覚。当然お金も無くなってくるし。1日12時間に切り替えて、何とかかんとか、今は生き伸びてる。相談受ければ受けるほどパワーアップしていく。その人の負のエネルギーを貰えるから。
やくざが来ても、手の内がわかる。引き際も判る。手に取る様に判るよ。
みんな警察には相談に行けない。役所、相談所は土日、祭日は当然休み。先ずそれが一点あって、DVで相談に来るにしても内容は複合的や。借金、DV、親子のいじめなどが絡み合ってる。公共の相談所ではDVはDV担当、金銭は弁護士担当とか、相談窓口がばらばらになる。結局、たらい回しになるから、ここにくる。
でも、たった一人で受けるキャパの持ち合わせがない。

相談者は感情的になっていて、2時間も3時間も聞いてあげないとその人の本当の腹の底が見えない。ただ、これをやらない限りどんなところに相談に行ってもだめ。でも自分の場合はその場で即断即決します。そうしないと相談とは或る意味生き物やから。こっちが動かないと相手は動き回るから。今やらない限りは駄目です。10年で2万件以上、それからも、ずっと即決でやってきた。
DV、いじめ、虐待 ストーカーなど、相談も少し変わってきた。DVとかも法律ができてきて世の中の関心も出てきた。暴力団も暴力団排除条例が出来たから官民ともに動きやすいというけど、法律ができてもアウトローの人間には全く関係ない。もっともっと陰湿になってきてる。殺人も、家族殺人が半分。暴力団が人を殺すのは1割も無い。
2か月支払いが滞ったらやめると決めてた
DVの対処は、女性が来たらまず話を聞いて、逃げるならば段取りをしてあげて、「玄さんのところにいきます、御用があれば玄さんのところにいってください」と手紙を置いて、そして逃げる。すると100%ここに男が来る。号泣するか、懇願するか、哀願するかする。ドアを蹴破ったやつはゼロ。
加害者をどうやって受け止めるかも大事で、「この野郎」と凄んだタイミングでピシッとやる。これがDVだと、しっかり諭すよ。
これもやったあれもやったと、スラスラ出てくるな。この駆け込み寺をやる為に45年と言う自分の経験が必要だったんだなと感じる。これが天職なんですかね。余命に目覚めて、今これが天職だと思う。
駆け込み寺を維持するためには、公演、本とか 多少の相談料で何とか賄う。2か月滞ったらしめると決めてやってきた。助かるのは、日本財団が家賃の補てんをしてくれること。これは有り難い。有り難いけど、もっとやるべきことが出てくるな。
東日本大震災で仙台へ
やっと仙台に行けた。与えられた命 使命ではないけれど 今そういうところにまい進している。大震災の年には、私はなんにも出来なかった。ようやく2012年2月11日に、視察も兼ねて仙台に行きました。今度仙台に行ったら月の半分 沿岸部とかの叫び声を救いあげて、助かった命をどうやって生かすかを一緒に考えるし、何より俺を使ってほしい。
(2012年7月、玄さんは、仙台市に仙台支部を開設。場所は、東北地方最大の繁華街・国分町だ)
国分町は歓楽街、仙台でも本格的な駆け込み寺をやる。白血病を持ちながら戸惑わないかと聞かれるが、それが俺の生きる道だし、生かされた俺の選択肢はそれだし、生きているという毎日の実感があるし。座右の銘は「一日一生」。思い残すことなく毎日毎日の繰り返しが365生だと。毎日が旅支度だと思って生きている。
もちろん何もかも整理してあるよ。

今思うこと
命尊しやからな。なにゆうても キャッチフレーズは「一つの命を救う」と言うし。
セーフティネットとかマニュアル作ったりだとかすると安全と思っているかもしれないが、そんなセーフティではなく、今はっきり分かっていることは、ヒューマンネットワーク(の大切さ)だと。
一人の思いが、人間が波を起こすことによって 部分がウエーブみたいに、そうやって繋がってゆくこと。
だから、仙台で私ができる事って 東京にいては判らない。そこの土地の空気を吸うからこそ今やるべきことがまだまだあると思うわけで。
たまたまこの間仙台に居る時にボランティアの方が53人集まったけど、俺の言うボランティアというのは人への思いやりだよと。誰かの為にやると言うのは辛い、これは続かない。でも人への思いやりがあれば自分へ優しくなれる。自分が優しくなってゆく 他者への思い遣りが自分を育くむ、これが私の考えるボランティア。「布施行」と言う事。
自分さえよければいいという世の中の風潮には危惧を感じる。
10年前から始めてゼロになる、またゼロになる、あるいはマイナスになる。寿命燈ではないけれども、自ら光を放ちながら、こうやって人が寄ってくる。そして、その人がまた繋いでゆく。野火に火が放たれる様になっていったら、誰もが無関心ではいられなくなると思う。無関心は人を殺すからな。
そういうことに関心を持とうよと。ちょっとでも感じてもらえる人がいるから捨てたもんではないと思うが。
自立(支援)については、まず自立したくてもできない、(底から)抜け出したくても抜け出せない そういう環境が実際にあるということ。自らの意志で本来やるべきことを、人によって左右されてやっている人があまりにも多い。そういう人の自立のサポートですかね、自分の場合は。

(つづく)
この記事は、連載第14回です。人が仕事をする理由、目的。実に多様ですが、さらに深掘りしていきます。