中岡慎太郎が立つ室戸岬へ、道の駅「田野駅屋」から向かう!(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備○立地◎)

11月17日は、見学に行っていた阪神タイガースの秋季キャンプ最終日。
そして、幕末の志士「中岡慎太郎」の命日。ということはつまり同じ日同じ時間同じ場所で刺客に斬られた坂本龍馬の命日でもあるわけですが。

天保9年(1838)4月13日に現在の安芸郡北川村に大庄屋の息子として生まれた中岡慎太郎は、慶応3年(1868)11月17日、京都近江屋で坂本龍馬と会談中に刺客に襲われ、わずか30歳でその生涯を閉じたのでした。

久しぶりに彼(像ですが)に会いたくなった私は、阪神タイガース秋季キャンプ第三クール4日目を見学したあと彼が生まれた安芸郡北川村にほど近い道の駅「田野駅屋」で17未明まで仮眠。彼の像が立つ室戸岬に向かいました。
夜明けの時間6時33分に中岡慎太郎像に着くと、今日も彼は室戸岬の日の出を見ていました。


たった30年の彼の短い生涯をさらに端折って振り返ってみれば、ざっと以下のようなことでした。

私の2分の1にも満たぬ歳月で彼が成したこと

中岡慎太郎は幼い時から勉学に励み、めきめきと力をつけていく。安政2年(1855)17歳のとき田野学館で武市半平太と出会い政治活動にめざめるも、父が病に倒れたという知らせを受けて家業の大庄屋職を継ぐことになる。村に戻った慎太郎は、「村人たちが安心して暮らせてこそ国が成り立つ」という意識を常に持っており、水田が少ない村の飢饉対策としてゆずの栽培を推進している。この北川村政に携わっていた若干20歳にして「人としての価値は、家柄ではなく、自分自身が何をなすかによって決まる」という哲学を持つに至る。

文久元年(1861)、武市半平太が尊王攘夷運動を目的とする「土佐勤王党」を結成。慎太郎も坂本龍馬もこれに加盟するが、2年後の文久3年8月18日に起こった政変で事態は一変し、各地で尊王攘夷派の弾圧が始まる。身の危険を察した慎太郎は脱藩を決意。26歳で脱藩した慎太郎は長州藩のもとで様々な活躍をするが、当時対立していた長州藩と薩摩藩の連合こそ新しい国づくりを進展できると確信。時を同じくして同じ考えを持っていた坂本龍馬と組んで、薩長両藩の代表者の説得にあたった。

そして慶応2年(1866)、ついに薩長連合を成立させ、慶応3年(1867)、龍馬は海援隊を、慎太郎は陸援隊(謀報機関・軍隊)をそれぞれ結成。さらには大政奉還実現をめざす薩土盟約の締結、三条実美と岩倉具視との和解仲介などの政治活動を通じて「人間には長所がある。新しい国家は、各々の能力に見合う活動ができるようにするべし」とする持論を『時勢論』で同志たちに主張。

こうして慎太郎は徳川幕府を倒して新しい国家を築く目前にあったが、京都近江屋で龍馬と会談中刺客に襲われ、わずか30歳でその生涯を閉じたのであった。

中岡慎太郎の肖像

ありし日の中岡慎太郎(写真出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

道の駅「田野駅屋」に前泊仮眠して

道の駅「田野駅屋」は、土佐くろしお鉄道田野駅と道の駅とが一体となった施設で、中岡慎太郎が生まれ育った北川村から南西方面に山を降りた海沿いにある。

写真上は「田野いしん君」。平成13年に、ごめん・なはり線の開通に際して高知県出身の漫画家やなせたかし先生にキャラクターの作成を依頼。1体ということでお願いしていたところ、藩政時代に殉節した維新の志士、「二十三士」をモデルにしたこの「田野いしん君」以外に、やなせ先生の計らいで、沿線20駅すべてに特長を活かしたかわいいキャラクターが20体も誕生した。

駅から近い、現在の安芸郡田野町1203-4にある田野学館跡は、安政元年(1854年)安芸郡奉行所の敷地内に建てられた藩校の跡地だ。藩校設立の目的は安芸郡の子弟たちの教育および海岸警備の兵隊育成で、中岡慎太郎はここで武市半平太や間崎滄浪と出会い影響を受けた。また、阿波(徳島県)から引き渡された二十三士もここに投獄され、岩崎弥太郎が父と親族とのもめ事の件で投獄された場所もここである。現在は写真の高知県立中芸高等学校が建っている。

1844年に建築された豪商・岡家の屋敷岡御殿や、幕末に尊王攘夷論を唱えて田野学館跡に投獄された土佐勤王党二十三士の墓も、道の駅「田野駅屋」にほど近い。

そんな170年も前のこの地の歴史を振り返りつつ、草木も眠る丑三つ時にここに着き、3時間ほど仮眠してから室戸岬に向かったのである。
ちなみにトイレはこんな感じ。もちろん24時間利用できる。

昼間の田野駅屋は元気いっぱい

田野町が誇る大野台地、田畑、奈半利川の恵み、田野海岸など、山・川・海から集まる食材を生かした「ここにしかないキラッと輝く」特産品、加工品が揃っていて、昼間の道の駅はとても賑やか。

中でも田野駅屋の自慢は、お惣菜やお寿司、お弁当など「ご当地グルメ」。売上げはとても好調で、朝、昼前、午後と、商品の追加をしているとのこと。

軽食コーナーで味くらべ

カツオ節と昆布、ジャコ、自家製の出汁でつくるうどん、そばのスープは絶品。ラーメンのチャーシューは田野の名人にお願いしているという。ということで、麺類を中心にしたメニューは間違いないし、土佐ジローの卵を使用したすりみ丼やカレーなどご飯ものも好評。

また、店内で買ったお惣菜は自慢のすりみ天やイモ天、お醤油も揃った軽食コーナーで食べられる。お刺身も大丈夫だ。

野菜の鮮度がマジすごい

朝7時には、生産者の皆さんが一斉に野菜を陳列にやってくる。その日の朝早くに収穫した野菜、前日の午後に収穫して準備をした野菜、どれもピカピカの色合いだ。

立ち上げから女性2人が中心にいて

道の駅「田野駅屋」は、田野町商工会の女性部のメンバーでスタートした。立ち上げから二人の女性を中心に苦楽を共にして育ててきた「手作りの駅」なのだ。二人を中心にスタッフ全員で力を合わせた結果、今では集客や売上げ、お客の満足度など「四国有数の道の駅」と評価されるまでに育った。
二人は田野駅屋の成功の秘訣をこう言っているそうだ。
「立地条件が良いことが大きいと思います。国道に面して車がすぐに入りやすいし、なかの駐車場も広いです。また地元の商店、プロの料理人、職人がつくるお弁当やお寿司、お菓子、お惣菜があり、駅屋でしか買えないものが揃っています。また、田野で商工に関わった方が参加してくれているので、新しい商品が一日のうち何度も来ます。常に商品が揃っていますから、一日中お客さんが来てくれるような環境ができたと思います。小さい店内ですが、いろいろな分野の商品があり、選ぶのが楽しいという声も聞きます」と。

道の駅は、平成23年3月にリニューアルオープンしている。広くなり、明るくなったことに加えて、充実した「情報発信コーナー」ができた。田野町の魅力を自転車で回りながら感じてもらおうと、レンタサイクルも始まって好評だ。

田野町のだるま夕日

田野町のだるま夕日

田野町のだるま夕日

だるま夕日は、11月後半から2月にかけて大気の温度と海水の温度との差が大きい日に、水平線に沈む太陽の光が屈折し海面からもう1つの太陽が現れ、沈んでいく太陽と重なり合うことによって現れる。見る場所や日によって、光っていたり燃えるようだったり、虹色だったりオレンジ色だったりと違いがあるそうだ。

高知名物のアイスクリン

「アイスクリーム」ではない、「アイスクリン」である。どうやら高知名物らしい。
アイスクリームの過去の呼称であるとは間違った解釈らしく、牛乳を使わないアイスクリーム風の氷菓がアイスクリンだという。

高知名物「アイスクリン」は、2〜30年ほど前までには全国どこででも見かけられていたそうで、確かに明石で育った私も子どもの頃よく食べていた記憶がある。しかし、今は高知でしかあまり見かけらない?そうだ。知らんけど。

室戸岬はやっぱりスゴイ

室戸岬には何度も行っているが、今日の日の出の時刻6時33分前後の室戸岬は久しぶりに美しかった。室戸岬の海岸においては、フィリピン海プレートの沈み込み帯に沿って起こる巨大地震によって引き起こされた大地の隆起の証拠を見ることができる。室戸半島に発達する完新世(約1万年前~現在)の海成段丘は、繰り返して起きる地震時隆起の蓄積によって形成されたものだ。これ以上の説明は不要だろう、撮った写真を。かつて中岡慎太郎が見ていた日の出も、風景としては私が今朝見た室戸岬と、そんなに変わらなかったのではないだろうか。