
三隅城は、この地の豪族・三隅氏の初代兼信が、三隅の町並みの東方にそびえる標高362mの高城山(たかじょうざん)の頂上に寛喜元年(1229)に築いたもので、三隅氏代々の居城でした。中世の石見における代表的名城の一つで、十指に余る支城を持ち、難攻不落を誇っていました。
南北朝の頃には、南朝方にくみした三隅氏四代兼連(かねつら)が、暦応5年(興国3年、1342)周辺の諸城を落として攻め寄せた上野頼兼の軍を城に籠もって迎え撃ってこれをしりぞけています。また、観応元年(正平5年、1350)には足利尊氏の命を奉じた高師泰(こうのもろやす)の大軍が三隅城を包囲しましたが、百余日にわたる城攻めでも遂に抜くことができず、師泰軍は引き上げたと伝えられています。しかし、このあと兼連は上洛して戦死。その後南朝方の衰微もあって、三隅氏の家運は傾いていくのでした。
戦国時代になると三角氏の勢力はジリジリと衰退し、天文21年に大内義隆が陶晴賢の謀叛により自刃すると、陶晴賢は益田藤兼とともに三隅城に迫ったため、三隅兼隆は降伏して城を明け渡してしまいます。その後、三隅城を回復した三隅氏は、「厳島の戦い」で陶氏を倒した毛利元就に対抗して尼子氏に属したため、元亀元年(1570)尼子、毛利の合戦時には毛利の大軍に攻められて遂に三隅城は落城。三隅隆繁は自刃して三隅家は滅亡しました。
三隅V.S.益田の300年抗争
三隅氏は長きにわたって絶えず益田氏との抗争が繰り返してきた。特に領地に関することが最大の理由だが、その主な領地とは津毛、疋見、そして丸茂であった。津毛は益田川中流域から上流部、三隅側からいえば南方、益田側からは東方の領地だ。丸茂は現在の益田市美都町丸茂地域、疋見は、丸茂地域を流れる益田川をさらに上った匹見地域だ。
この3地域は、もともと益田兼高の子・兼信、すなわち三隅氏の祖のときに領有していたものであるが永享3年(1431)、益田兼理が筑前深江で討死したことを憐れんだ大内持世が、強引に三隅氏からその土地を奪って、兼理の子・益田兼堯に与えた。これが発端となって、以後益田氏と三隅氏の抗争が続いていくことになる。
明応9年の9月15日、益田勢は猛烈な勢いで、本城三隅城へ迫った。翌月、三隅興信はこの土地の領有回復について幕府に自領であることを訴えたがこれに対して益田宗兼は大内義興の臣・杉勘解由左衛門尉を通じて大内義興に訴え、義興が宗兼の訴状の通りの回答を出したため、三隅興信は益田氏に対して兵を挙げることになる。戦は激しかったが、三隅氏の勇将・三浦左京助兼貞は益田氏の勢いを阻止すべく果敢に防戦。ついに益田氏は崩れ去ったのだった。
この後も度々両氏の抗争は続けられ、情勢は二転三転したが、陶晴賢の謀叛によって大内義隆が滅ぼされ、尼子晴久が山陰・山陽の8カ国守護職に補任されるに至って決定的な変化が起こる。陶晴賢の謀叛の際、益田氏も三隅氏一族も陶氏に合力したが、他の石見国人は毛利氏についた。このあたりが非常に微妙かつ複雑な対応で、当時益田氏は吉見氏とも対立していたため、三角氏も深謀遠慮があってこうした意外な態度をとったものと思われる。そして、三隅城主であった三隅隆兼の代になると、次第に勢威は衰えていく。実はもともと益田氏の分家であった三隅氏の系図は以下の通り。(木村晩翠著「三隅町史」より)
益田兼高⇒三隅兼信(初代・子が父と袂を分ち三隅城築城)⇒兼村⇒兼盛⇒兼連(4代)⇒兼知⇒直連⇒氏世⇒信兼(10代:9代とする説もある)⇒豊信⇒興信⇒興兼⇒兼隆(隆兼か)⇒隆繁(15代)
一方、益田藤兼も弘治3年(1557)3月23日、毛利元就に服属するのだが、その軍門に下った場所はなんと三隅本城であった。益田藤兼は自城である益田七尾城を修復するとすぐに三隅城に向い、無気力になっていた三隅隆兼から当城を奪い取ってここに立てこもり、毛利氏と対峙したのだった。同年(弘治3年)4月3日に大内義長が自刃したため、益田氏としてはこれで全く大内氏に対する義理・忠義の必要がなくなったため、早速益田藤兼はその2日後の4月5日、毛利氏へ降伏を申し出ている。
![三隅城の写真:主郭[キャベツ大好きさん] - 攻城団](https://img.kojodan.com/photo/367532.jpg)
新しくなった道の駅「ゆうひパーク三隅」へ行こう
山陰自動車道の石見三隅ICから国道9号線を北に3kmほど走ると、森林風景から前方に日本海が見える風景に変わり、「道の駅 ゆうひパーク三隅」に到着する。

到着時間が遅かったため、写真も暗く、冒頭から暗い話になるのだが、本駅は全国の道の駅の中でも、とりわけ経営状況が厳しい状況が続いてきた。



石見神楽の公演も行われる道の駅「ゆうひパーク三隅」。道の駅が面する国道9号線は、長らく山陰地方の主要道路として重要な役割を果たしてきた。需要が増大したからこそなのだが、この国道9号線に並走するように山陰自動車道の三隅ー浜田間が8年前(2016年12月)に開通。その上にこの区間が無料開放されたため、車はよりスムーズに流れる山陰自動車道に流れ、国道9号線の交通量は激減してしまったのである。 当然、本駅の利用客数も大幅減が続き、たちまち苦しい経営に陥った。 地元紙の報道によると2021年3月で閉鎖を検討との報道もあった。

しかし、2021年4月のリニューアルによって、日本海を望むレストランは讃岐うどんの「麺家なごみ」となり、新たにテイクアウトカフェ「ORI’S cafe(オリズカフェ)」もオープン。

外の広場からは海岸沿いを走るJR山陰本線が見え、まるで海の上を走っているかのような写真がとれる立地を再度アピールするとともに、インスタ映えするカラフルな撮影スポットをたくさん設け、再スタートを図って今日に至る。
物産館はとてもコンパクト
道の駅の物産館だが、外観はおそらく女性客を意識しているのだろう、暗くなってから撮った写真なので柱などが黒く見えているが全て白を基調としていて、随所にポップな色を配している。その大きさはコンビニエンスストアの半分くらいだろうか、とてもコンパクトな売り場である。

商品は浜田市、および島根県全般の土産品が80品目程度。室谷の棚田米から地元の銘菓、地酒から石見神楽グッズなど石見神楽関連商品までが網羅された充実の品揃え。

推されているなと感じたのは地元の伝統銘菓。 三隅地区の銘菓「三隅羊羹」は大正15年に販売を開始した昔ながらの羊羹。 かまどで薪を焚き、手で練り上げた昔と全く同じ手法で作った羊羹である。 「栗万十(くりまんじゅう)」 は栗が練り込まれた白餡がたっぷりと入ったボリューム感のある饅頭だ。「干し柿もち」「どらイチジク」、地酒類も充実していて「地酒饅頭」なんかもあった。
海産物加工品もたくさんあって、「あなご汁」「ニギスの丸干し」「ポンコロの丸干し」、 日本海の幸のノドグロを使った「ノドグロふりかけ」「ノドグロおかず味噌」「ノドグロだし醤油」「ノドグロ水煮」などに混じって、ジビエ系の「しし肉のしぐれ煮」が異彩を放っていた。


とにかく売り場が広くないので、逆に短時間で全商品を見て回ることができるから買い物はしやすいと思う。


駐車場、トイレ、休憩スペースについて

駐車場は、来客数に対して十分すぎる広さがある。トイレの位置が1発でわかるし、周囲のどこに車を停めてもすぐなので、トイレを急ぐ人には最高のレイアウトになっている。


トイレは、とても綺麗に清掃されている。



休憩スペースも多彩で、素晴らしいと思う。
到着時間の関係で飲食店の営業も終わっていて、飲食店の写真もカッコよく撮れずに申し訳ない。



景色も素晴らしいし三隅城にも近いし
本駅からの絶景は遮るものが何もない日本海の景色である。朝、昼、夕方を通じて素晴らしいと思う。

そして、電車が通ればまるで海の上を走っているかのように写真が撮れる。



緩やかに弧を描く海岸線に沿ってJR山陰線の列車が少し傾きながら走ってくるその背景は白波が立つ日本海と水平線。他には架線も電柱もない。美しいだけではなく、ノスタルジックな雰囲気がたまらない景色だ。
また、私のような歴史マニアにとっては、山陰地方の名称にアクセスする大切な拠点として、とてもありがたい場所にある。もし「道の駅絶景ファン投票」というものがあれば、私は迷わず一票入れると思う。