
私は、死ぬまでに一度でいい、関一郎さんと再会したい。
お聞かせいだだきたいことが三つある。
一つは、「かもめのDNA」に深く関わり続けてきたご自身の人生だ。自らリクルートの急成長の主役であり、理不尽にも背負った巨額の負の遺産を見事にすべて片付けて、そして恩師江添の判決確定までをも見届けた人物として、リクルートも語っていただきたい。
二つ目は、リクルート最大の危機に際して新しい人事コンセプトによって外で通用する人材の輩出を決意し、私の一番弟子でありリクルートクリエイティブのエースとなった絹谷を実際に電通へと輩出するに至った際、故・坂本健と一緒に丁寧に見送ってくださった、そのことについて。
最後三つ目は、私が大尊敬する上司であり大好きなアニキでもある平尾勇司について。第9話は全編彼の物語だが、彼に「あなたにとっての最高の上司は誰?」と聞くと、「関さんだ」と彼は即答する。平尾勇司をして、「最高の上司」と言わしめるということは、関さんは平尾勇司をもっとも理解し、彼を大きく成長させた人に違いないから。
平尾の、2017年11月10日のFB投稿をそのまま引用させていただく。
「男は、生涯を通じて畏敬する上司に出会えるかどうかが自分の生き方をも決めると思う。特に人生の後半下り坂の生き方に。組織図上の直属の上司部下の関係がなくなっても、『あの人はどう生きているにだろう?』と、会いたくなって、会うと、自分が行き詰まって苦しんでいることを、ちゃんとそ人は受け止めて、ブツブツ言いながらスッキリ超えている。
『やっぱ、俺がずっと尊敬してきただけの人だなぁ〜!』と、嬉しくなる。
僕にとってのその人は、関一郎である。自分の葬式に、この人に弔辞を読んでもらいたい。『なんで俺がオメェのを読まないといけねぇんだ、順番が違う』と怒られそうだが……。俺がそう思うんだから仕方がない。
本人が嫌がるSNSに許可もなくこっそり引っ張り出す。30年の時を経てもなお関一郎氏と一緒に席を同じくできる自分を自慢したい。悔しいと嫉妬する奴がいっぱいいると思う。ごめんなさい。そして、言いたい、関さん、上司であってくれて、ありがとうございます。平尾勇司」

「関さん。あなたならすべてをわかっておられることだと存じます。今年の桜は、3月20日前後に東京で開花し、同じ頃、広島でも満開になるようです。できればその頃に広島に行けるようでしたら、彼の自宅のベランダから一緒に桜を眺めていただければ幸いです。」
BGMは、平尾からリクルート、あるいは「かもめのDNA」へのメッセージと思ってもらって間違いないだろう、斉藤和義の「遺伝」で決まりです。と、「遺伝」をヘビロテしていると、平尾さんから「俺的には玉置浩二の『嘲笑』がいいんだけど…」と、横槍、もとい、修正依頼が入りましたw。そ、そうでした、平尾さん!
西日本統括部から大阪営業部へ
広島県立廿日市高等学校から香川大学経済学部に進み、合気道に没頭した大学生活を送った平尾勇司は、1980年、株式会社リクルートに入社した。
彼のキャリアのスタートは、広告事業部西日本統括部、四国営業所だった。
所長であった三宅は、いったいどういう経緯があったのかはわからないが、当時まるで仕事への意欲のない人になっていたらしく、平尾の「気合い」を削ぎ、大いに失望させた。
「これが上司か、これがリクルートという会社か。」
絶望のあまり、また、若気の至りか、三宅を批判した平尾は、大阪に異動となる。
大阪営業部では、平尾曰く「初めて尊敬に値する先輩」上手もいたが、何より超エキセントリックな部長、数字の鬼・廣瀬と、大相撲で言えば彼の露払いや太刀持ちの役目を両方をうまい具合にこなしている高嶋順滋が待ち構えていた。
大阪の全営業所のマネジャーが集まって、部に課された営業目標をどう割り振るかの会議は、いつもこんなふうだったという。
ファシリテーション役は高嶋だった。
「平尾くんには、対前年80%アップをやってもらうということで、どうですか?廣瀬さん。」
「ちょっと待ってください。では、高嶋さんとこはいくらやるんですか?」と平尾。
「8%アップかな」
「8%アップ?なんでうちが80%アップで、高嶋さんとこはたった8%なんですか?いくらなんでもおかしいじゃないですか?」
「いやあ、ボクはこれでいっぱいいっぱいだよ。平尾くんには力があるし、伸び代も大きい。大阪は平尾くんが頼り、ですよねえ、廣瀬さん!」
「まあ、しょゆこと」と、廣瀬。
こうして高嶋の進行と廣瀬の鶴の一声で、各営業所の営業目標数字は決まっていたらしい。
目標設定のための会議、その意味とは
新大阪営業所、本町営業所、そして関西広企…。
平尾はマネジャーになってからも、絶対額・伸び率ともに大阪の全営業所の中で際立つ成績を挙げ続けた。
大きな目標数字を背負うほど、もちろんその達成には困難が伴うし、達成した暁にはまた大きく上乗せされた目標が課されるゆえ、常に目標を達成していくことは相当に難しい。
さて 部のマネジャー会議を経て各営業所のマネジャーが持ち帰った営業数字は、所内の営業担当に振り分けられる。
それが各営業所ごとに行われる「目標設定会議」である。
いち営業担当者としては、大きな数字を任されたいという気持ちもどこかに間違いなくある。
しかし、大きな目標を背負っても、それが目標未達成に終わってしまうと、会社からの評価を下げてしまう。
目標数字としては確実に達成できるであろうところに抑えておいて、150%とか200%とか、いわゆる「ハイ達成」をすると、目立てるし評価点数も稼げるのだ。
各営業所の目標設定会議は、本来は「適正な振り分け」のための建設的な議論がなされるべきのところ、こうした一人ひとりの心理を反映して数字のなすりつけあいが起こり、揉めに揉めることがしばしばであった。
しかし、大阪エリアでもナンバーワンの営業数字を任されて、それをメンバーの元へと持ち帰る平尾に限っては。
目標設定会議で、たとえばメンバーから突き上げにあったことはおろか、揉めたことなど一度もないという。
揉めに揉める営業所と、平尾のようにすんなり目標設定が決まる営業所と。
そこには、いったい、どんな違いがあったのだろうか。
「ゼロワン」時代にマネジャー気分のやつは、その後あまり伸びない
リクルートには、「ゼロワン」という社内用語があった。
この言葉がいつまで使われていたかは知らないが、当時、「ゼロワン」は一つの営業所(課)に一人いた。
通常は課長(所長)にマネジメントされるメンバーなのだが、その課(所)でもっとも大きな売り上げ目標を背負う立場であり、大相撲の小結が課長、関脇が部長、大関が事業部長や執行役員、横綱が社長と例えると、そのヒエラルキーの中で、役力士「小結」に昇進する手前、前頭筆頭の地位である。
地位といっても、まだ平社員。リクルート用語で言えば「メンバー」の一員だ。社歴は7年ほども経験のある人から、2年目で任されてしまう人まで、さまざまであった。
しかし、この「ゼロワン」、課(所)によっては課長代理のような役割を担わされることがあった。課長(所長)がいないならまだ分かるが、ちゃんといるにも関わらずだ。
そして、そうしたマネジャー気分で「ゼロワン」時代を過ごした人ほど、その後伸びないという相関に、私は気づくのだった。
第一の理由は、もっとも課長・所長に鍛えてもらえる時代に、鍛えてやるだけの力量のないマネジャーが、ゼロワンにマネジメントごっこをさせて、無用な時間を過ごさせるだ。ダメな課長(所長)につく「ゼロワン」は可哀想だった。
最も多いパターンは、「ゼロワン」がメンバーを采配し、「俺がリーダーだ。課長(所長)より俺の方が実質的にマネジメントできている」と錯覚して、上司(課長・所長)は何もしていないじゃないかと、ギクシャクすることだった。
課長・所長にすれば、「ゼロワン」を育てているつもりだったかもしれないが、結局それは無責任な放置プレーであり、決して良い結果はもたらされなかった。
「ゼロワン」とてメンバーの一人。なのに自らの営業に専念すべき時間を割いて深夜まで後輩メンバーの意見に耳を傾けているうちに、互いの傷を舐め合うことに集中力を削がれ、結果、営業個々人それぞれのパフォーマンスがみんな落ちる、そんな構図だった。
私ごときが気づくのだから、リクルートの経営陣が気づいていないわけがない。
その後のマネジャー職が、メンバーを持たずに営業に徹するタイプと、組織を任せてメンバーの管理育成をフレームワークとするタイプに分かれることは、当然の流れであった。
「課長のフレームワークと、ゼロワンのフレームワークは違う
「ゼロワンがマネジメント?じゃあ、課長は何をするの?」
そんな曖昧さは、働かない上司の元で社会人のスタートを切った平尾が、もっとも嫌うことであった。
平尾から教わったことは多いが、その一つに「フレームワーク」という概念がある。部下との間で、部下に課した「フレームワーク」が少しでもブレたらダメだということである。
「お前の仕事は、まずこれだ。あと、これと、これをやってくれればなおいい。以上。お前の仕事のフレームワークを今、しっかりと自覚できるか?できないなら、納得しないなら、今言え。そして、腑に落ちたら、それを完璧にやれ。お前が納得した上で、そのフレームワークができなかったときは言い訳なしにお前の落ち度だ。ただ、リーダーは俺だ。そのフレームワークをお前に任せた責任は、俺が取る。」
少なくとも1980年代後半の、平尾の「フレームワーク」は徹底していた。
彼の下で制作チーフとして働いた私との間でもそうだった。
大切なクライアントの仕事を、いったん制作の私に渡せば、彼は一度たりともそれに口出しすることはなかった。
もちろん下手をこいて、いい加減な企画や原稿でクライアントを裏切ろうものなら、それこそ「鬼の詰め」が待っているだろう。
だからこちらも真剣勝負だ。
営業を通してクライアントの意向をしっかり受け止めれば、私の「料理」にケチをつけられるような、そんな下手を私は打たない。
パナソニック、パナ電工、積水ハウス、朝日住建、大和銀行、関西電力‥‥等々、どんなクライアントの仕事でも、平尾はいったん制作のフレームワークにバトンを渡したら、企画、あるいは原稿に口を挟んできたきたことは本当に一度もなかったのだ。
このように、平尾の元では、とんでもない下手を打たない限り、メンバー個々が平尾とコミットしたフレームワークは、徹底して守られるのである。
ヨレヨレのスラックスと、シュッとしてかっこいいスラックス
話は前後したが、私は、平尾が本町営業所の所長だった時代、当時制作チーフだったR81松原龍一郎が退職する、その入れ替わりで彼のもとにやってきた。
1987年秋のこと、営業のゼロワンは、重度の痔疾にスラックスを汚しながら奮闘する鈴木信だった。
新しい制作担当として紹介するため、平尾は私を連れてクライアント各社を回ってくれた。三幸衣料もその中の一社だったが、ブランド物の紳士服を広く扱うその会社で、平尾はよく買い物をしていたが、それはクライアントの部長さんが平尾を超上得意扱いしていたので、すぐわかったのだが。
「そんなこと知っとるわ」と多くの人に叱られそうだが、平尾は大変なオシャレである。
それに比べて、私は近寄れば悪臭に鼻が曲がるヨレヨレのスーツ、それは東京紳士服の2着セールで買ったものとか、せいぜい「青山」「はるやま」の安物スーツだった。
「靴だけは綺麗に」と社会人駆け出しの頃に教わってはいたが、平尾の隣に座って足元を見れば、靴の品質も手入れも、ともに、違いは歴然だった。
また、スーツの上着にはそれほど見窄らしさを感じなくても、スラックスのヨレヨレは、本当に見窄らしい。まったく着崩れしていない平尾のスラックスと私のそれは、まるで違った。そのころは私はまだデブではなかったのにだ。
三幸衣料の本社社屋を出てすぐ、私は訊いた。
「平尾さん、いいスーツなのはわかりますが、それにしても、営業で歩き回っても、平尾さんのスラックスはいつもシュッとしてますよね?」
「それはな、ステテコを履いてるからだ。お前は、重ね着すると暑いとか邪魔くさいとか思っているんだろう。逆だ。ステテコがズボンとの間に挟まってくれて、汗でベタベタになるのを防いでくれるんだ。風通しもいいから、夏場は特に涼しい。なぜだかわかるか?ズボンと肌の間に空間ができるだろう?それで、通気性が良くなるんだ。」
顧客の商品でおしゃれをするという一石二鳥にチャレンジ
今、平尾は彼の一流の営業トークを私のために使ってくれている。
実にありがたいことだ。平尾はさらに続けて、こう教えてくれた。
「ステテコは、スラックスと自分の尻や足との摩擦を軽減してくれるから、服の傷みを防いでもくれる。お前のスラックスがヨレヨレで、尻や太もものところがビカビカに光ってしまってるのは、それが安物だからじゃない。ステテコを履いてないのと、毎日ちゃんとスラックスのシワ伸ばしとセンターライン(折り目)のキープをしてないからだ。お前もステテコを履け。そして、寝る前にはスラックスを吊るすだけじゃなく、必ずプレスして寝ろ。あとは靴な。これはある程度良いものを履け。でも、何より大切なのは、手入れだ。いくらいい靴を履いていても、ちゃんと磨いてないと話にならない。私はだらしない人間ですと言って歩いているようなものだからな。」
ステテコなんて、レレレのおじさんがいつもはいているダサいもんだと思っていたが、まさか汗を吸い取り、ズボンのベタつきや肌への張り付きを防いてくれるなんて、それまで知らなかった。
人一倍汗っかきな私こそ、履くべきではないか。
平尾が営業カバンの中にステテコを入れていたら、その場で、即決で購入していただろう。
その週末、私はダイエーでステテコを買い込み、大阪まで足を伸ばして、三幸衣料さんのショップを訪ね、生まれて初めてポールスミスのスーツと、タケオキクチのネクタイを買ったのだった。
「身だしなみの大切さ」「顧客の商品でオシャレをする」。
これらも、平尾勇司に教わったことである。
ちなみにこの頃、リクルートの社内報「かもめ」で、どちらが赤鬼でどちらが青鬼だったかは忘れたが、平尾と私が「鬼の双璧」として特集されたことがあった。
2人ともまだアラサーの若造時代。まあ「双璧」といっても、それはこと「激怒」することに関して「互角」と言うことにすぎない。その後の二人の活躍、人生には、まさに天と地、月とスッポンな差がついたのであった(笑)。
平尾勇司の一番弟子、小岸弘和
私ごとで脱線した。平尾の「フレームワーク」に、話を戻そう。
営業チームにおいても、平尾の「フレームワーク」は全くブレることはない。仕事つまりマネジメントの一部を「ゼロワン」が担わせられることはないのだ。
平尾を上司とする「ゼロワン」は、一点も曇りもなく、「一番手メンバーとして最も重い営業目標を必ず達成する」というフレームワークを完遂することに専念すれば良いのだ。
だから、平尾の組織における目標設定会議は、メンバー各位にフレームワークを設定する大切な場であったが、これも、あっという間に終わった。
「みんな、喜べ。もちろん部内一、しかも圧倒的に大きな目標をもらったぞ。びっくりするなよ、20億だ!これを、この5人でやる。嬉しいか?」
「では、今から紙に、お前たちそれぞれが背負いたい目標数字を書いて、俺に渡してくれ。」
ゼロワンの小岸弘和、まだ2年の営業経験だが期待の大きい磯田明子…、そして、入社したばかりの下出永典もまた、自分の目標数字を自分で決め、紙に書き、それを平尾に渡した。
紙に書いて提出された5人の数字を合計すると、20億をはるかに超えているではないか。
平尾の頬は一瞬緩み、ニヤリとしかけたが、表情を引き締めて言った。
「小岸。6億か。お前の気持ちは、俺は本当に嬉しい。しかし、ちょっと無茶だ。4億5000万円、このぐらいでどうだ?」
「わかりました。」と、小岸。
小岸は、こうして関西ナンバーワンの絶対額を引き受け、そして、平尾の期待通り、見事に達成してみせるのであった。
小岸は「ゼロワン」時代にマネジャーの真似事などしなくても、マネジャーになってからなんら苦労することはなかった。
平尾の背中を見ているだけで、ついていくだけで、マネジャーのあり方から方法論まで、すべて学べたのだから。
なお、「平尾の一番弟子が小岸弘和である」とは、私が勝手に認定するものであって、不服のある方は「僕ですよね?」「私ですよね?」と、平尾に直接正して欲しい。

営業をするために生まれてきたような、磯田明子
「それにしても磯田、お前もすごい数字を書いてきたな。自分でやるといった数字、お前ならやるのだろうが、本当にこのとてつもない目標数字、やり切れるか?」
自分の一番弟子である小岸弘和の頭抜けた力量は知っていても、磯田明子は預かったばかりであった。
抜群の営業成績を続けてきたとはいえ、わずか2年弱の営業経験なのだ。
そこで平尾は、磯田にはまず徹底的に営業同行する方針を固めた。
その結果、平尾は度肝を抜かれる。磯田は、担当クライアントとの距離を、ことごとく、短期間に、すっかり縮めていたのである。
どの顧客からも、磯田さん、磯田さんと、磯田ファンばかり。
「やり方は俺とはまた違うのだろう。でも、こいつ、確実に目標達成してしまうだろうな」
平尾は安心して、磯田には小岸に次ぐ目標数字を任せることにした。
「下出、2億?いい加減なことを書くな。お前はまだ新人や。」
「で、でも、ぼ、ボクも、そのぐらいの数字をやらなくては…。」
「ダメだ。そういう数字を持てるのは、それだけのことができる理由を持っているからだ。ここにいる5人が、それぞれ自分の今の実力を精一杯ストレッチして伸ばした結果、ようやく達成できるような数字なんだ。誰一人として、大幅な未達成は許されない。だから、まだ、何も実績を挙げていないお前に、2億もの数字をやらせるのはバカのすることだ。まずお前に実績を上げさせるのが俺の仕事だ。黙って俺について来い!」
「で、でも…ボクだって…」
「うるさい。まだお前は、俺の言う通りにやれ、そういう時期や!」
こうして、メンバー全員に、それぞれに最適な、実にメリハリのある対応をするのが平尾である。
そして、メンバー全員を目標達成に導くマネジメントを、自らのフレームワークとして自らに厳しく課した。
だから、目標設定会議はあっという間に終わる。揉めることもない。そして、彼がマネジメントする組織は、必ず目標を達成したのである。
平尾勇司との出会いと、4年後の別れと
私が平尾とバチバチで仕事したのは、彼が大手企業を担当する「本町営業所」と「関西広企」の課長だった時代、1987年秋から1989年秋までの2年間だ。
バチバチというのは私の見栄。二人は、「引っ張る」「引っ張られる」の関係だった。
平尾は日々の仕事でもいつも私をグイグイ「引っ張り」、私は常に「引っ張られ」、平尾についていくだけで精一杯だったが、平尾の下で働いた最初の半年間が、明らかに私を変えた。
そして、平尾からの過分な評価によって曲がりなりにも管理職となったが、上司だった平尾が会社に対して力を持っていて、部下である私を「引っ張り上げて」くださった結果だった。
1991年、「数字が確実につくれる」平尾は、必然的にマーケットがさらに大きい首都圏に引っ張られ、部長に昇進した。
彼と離れるのは寂しかったが、栄転、しかも部長昇進を祝う気持ちで、私は平尾を見送った。
てか、俺も東京(企画室編集制作課)兼務の辞令が出てるじゃん!(笑)
そんなオチで、私は平尾と一緒に?東京に行ってから、2年。
平尾は神奈川営業部部長として、この2年で超ハードマネジメント組織をつくりあげていたが、そんな1991年9月、今度は間違いなく二人が別れる日がやってきた。
私は、人間的に全く尊敬できないどころか軽蔑するしかない上司・藤田洋の元で、生まれて初めて「心は傷つくと大変だ」ということを知った。
夢も希望もやる気もなくした私は、これからは「自分らしく」生きようと決意して、リクルートを自己都合退職することにしたのだった。
私が辞表を出したことを耳にした平尾は忙しい中、G8で荷物を片付けている私に会いにきてくれた。
「人の言うことを聞かないお前は、誰が引き留めようと無駄だろうけど」二人一緒に汗を流したあまりにも濃い最初の2年の間に、「決めたことはやってしまう」ことを互いにわかり合っていたが、平尾は念の為に?改めて、私に確かめてくれた。
「本当にやめるのか?」「それでいいのか?」
「はい。もう決めたことです」
そして、最後に「わかった、頑張れよ」と静かに微笑んでハグをしてくれ、私を笑顔で送り出してくれた。
超ハードマネジメントの完成@神奈川営業部
神奈川営業部では、平尾の代名詞「超ハードマネジメント」が炸裂した。
ここで断っておきたいのは、「平尾=超ハードマネジメント」というステレオタイプの概念は、半分正しいが、半分間違っているということだ。
この両面を知らずして、平尾の組織マネジメントを語ることはできない。
この神奈川営業部を任された1991年から10年後には、いきなり600人の人間を預かったホットペッパー事業で、まるで違うマネジメントスタイルを確立したのだから。
そう断った上で、神奈川営業部時代の彼を語ってみよう。
昨年暮れ、平尾のもとで新入社員時代の2年半を営業マンとして激烈なスタートを切ったR91上野ふみが、35年ぶりに平尾を訪ねている。
定年退職、その前に「当たり年」を迎える、その報告だった。
彼女は当時「虎の穴」をコンセプトにしていた平尾の超ハードマネジメント組織、神奈川営業部を生き抜いた強者の一人だった。

上野はお母さんを連れて平尾を訪ねたという。
大切な娘が、ヘロヘロになりつつも2年半頑張ったその日々は、母としてはさぞ心配だったろう。上野はその理由を、「この人がいたから頑張れたのよ」と、お母さんに確かめてもらいたかったのかもしれない。
平尾は、自分のfacebookのタイムライン上で、神奈川営業部時代の「虎の穴」組織がなぜ成立したのか?を、平尾門下生であり組織論の第一人者の一人とも言えるだろう中尾隆一郎に解説を求めている。
中尾がその要請に応えて返信(回答)した内容が非常に興味深く、わかりやすく、秀逸だったので、引用させていただく。
「虎の穴」とは何だったか
「①そもそも虎の穴とは何で ②虎の穴はどのような機能があり、成果を出せたのか ③そして、現代でその機能を残して、不要や変えないといけない事は何なのかという手順で考えました。
①虎の穴は、比喩表現として、厳しい訓練や修行を行う場所(ナショナルトレーニングセンターや特定の研修プログラムなど)を指す。と言い換えることができるのではないかと考えました。これならば、現在でも成立する可能性があります。
②5つの機能が相まって成果を出すのだと考えました
1 目標の明確化と共有
2 高負荷による能力の引き上げ
3 フィードバックの徹底
4 自己効力感の醸成
5 選抜と帰属意識
③ハラスメントや過度な負担が許容されない現代において、「厳しい訓練を通じて成果を出す」という本質的な目的を達成するためには、従来の精神論や体育会的な手法ではなく、仕組みと心理的安全性を基盤とすることが成立条件とすればよいのではないかと仮説が立てられます。
そう考えると次の4つを押さえると実行できる可能性が高まります。
想像ですが、ナショナルトレーニングセンターはこれらを満たしていると思います。
1 心理的安全性(Psychological Safety)の確保
2 透明性の高い基準と公平な評価
3 個人の自律性と選択権
4 高度な指導スキルと教育的アプローチ
平尾さんに指導いただいた虎の穴は、2はありました。3、4の1部はあったと思います
ですので、今風に1を入れて、個人が選択した風に仕上げ、何よりも心理的安全性を高めることができれば、機能は残して、現在でも成立する可能性があるのではないかと思いました。
回答になっているでしょうか?」
「荒っぽかった」ほかは、理にかなって
中尾の解説に、平尾が返し、また中尾が返した、その会話も紹介したい。まず、中尾の解説を受けての平尾の感想と、当時の述懐から。
「虎の穴は、マズローの欲求5段階説に基づいてオペレーションしました。1の安全の欲求は担保していたと思っていましたが、メンバーからすると、そうではなかったのですね。そもそも「虎の穴」というネーミングが心理的不安を煽っていますよね。僕は、人への愛情を基礎に、「個の成長とチームの成長をコミットする」を、マネジメントの基本にしてきました。神奈川時代は(それが)まだ荒っぽかったのでしょう。
この頃は目標達成の意味や価値を個人やチームのレベルから社会的な実現するビジョンや未来の話をした事もなかったなぁ〜と、思います。」
平尾の述懐に、中尾はこう返した。
「平尾さんがホットペッパーを担当されているときに、私は全社の管理会計の再構築でいろいろ話をさせていただきました。その時は、書いていらっしゃることの、完成形に近い組織運営をされていたと思います。しかもホットペッパーから派生して、ほかの狭域モデルにも横展開できて再現性も証明されました。カンパニーパートナーになった時に狭域住宅を担当することになり、各支社をひろつぐさんと回りましたが、個人が成長を楽しみ、心理的安全性が高いチームで、皆で成長にコミットしているのを目の当たりにしているのを見て、驚愕したのを覚えています。平尾さんでなくても、この組織が作れるんだ!
そう考えると、神奈川(採用戦略)時代は、平尾さんも若かった(30代?)し、組織も100名に満たなかったので、力を持て余して、荒っぽかったのだと想像します笑」

なんか、すごくいい師弟関係を忍ばせる会話ではないか。
ジェラシーすら覚える(笑)。
木村義夫がすべての絵を描いた
その後、平尾は、ケイコとマナブ首都圏営業部部長、中四国支社長、支社事業部長を歴任。
そして2001年4月、平尾は、7年間で36億の累積赤字を重ねて撤退の危機に瀕した「サンロクマル」事業を託される。
「サンロクマル」の成功を信じて疑わなかった唯一の役員、専務取締役の木村義夫が平尾に事業の命運を託した、その場面については第8話にも紹介した。
平尾がリクルートに入社してから20年が経っていた。
3年前、39歳の時に、平尾は離婚した。
元妻だけではなく長男、長女とも疎遠になっていた。
家庭を犠牲にしたとかそうではないとか、当事者だけが知るのみだが、平尾の人生の「40歳代はすベて仕事に注がれた」ということは間違いない。
「42歳か。だいたいやり尽くしたかな。このあたりが潮時だろう…」
平尾は、リクルートを辞める決意を固めていた。
だからこそ、平尾にとっては間違いなく人生最大の転機となったし、リクルートにとっても借金完済が大きく早めることになるこの「人事」に他の形容はない、まさに「奇跡」としか言えないのだ。
この奇跡の人事は、専務取締役・木村義夫によって描かれた。
「平尾勇司退職」
「サンロクマル(ホットペッパーの前身)事業撤退」
この当たり前の絵に、天才画伯・木村義夫の筆が入れられ、ダイナミックに、というかあり得ない未来予想図へと描き変えられた奇跡的瞬間は、ここに改めて紹介しておくべきだろう。
2001年3月のある日、木村義夫は、当時支社事業部にいた平尾勇司を呼んだ。
「木村さん。僕、そろそろこの辺でやめようかと…」
「あ〜〜平尾、そんなことより、君にやってもらいたいことがある」
と、木村は平尾の申し出をまるで無視して、言った。
「そんなことより、って。ぼくはもう辞めたいんです。そんな僕に、何をやらせたいんですか?」と平尾。
「サンロクマルをやってほしい」
一瞬、平尾の顔が歪んだ。7年で36億円の累積赤字を抱えるに至った、いわば「お荷物事業」ではないか。
平尾は木村に問うた。
「それって、左遷的な人事ですか?それとも、会社が私にすごい期待をされての人事ですか?」
木村は静かに目を瞑った。
両者が黙ったままの、長い沈黙の時間が続く。
木村が口を開いた。
「あ〜〜〜〜〜〜〜、どっちもや」
木村は続けた。
「君に任せたい理由は3つあるな。一つは、君に商才があるからだ。勝負勘がいいというのかな。二つ目は、君は人を動かし、組織を強くする力があるからだ。そして三つ目はね」
少し間をおいて、木村は声のギアを上げ、例の甲高いしゃがれ声で、こう言った。
「(もう辞めてもいいと思っている、そんな)君には、失うものなんて何もない!」
この3つの理由は、それぞれ平尾の腑にストンと落ちたという。
平尾は言った。
「わかりました。やらせていただきます」
「サンロクマル」を「ホットペッパー」に生まれ変わらせて売上500億超、利益100億超を毎年叩き出す事業に育て、さらに「タウンワーク」を含めた狭域ビジネスモデルを確立した平尾勇司の、一世一代の快進撃が始まる、その、初めの第一歩だった。
2001年から2008年までについた、究極の差
ホットペッパー事業部長に就任すると、平尾は同誌を4年で全国42版展開、売上約400億円超、営業利益100億円をはるかに超える一大事業に育ててしまう。
平尾の怒涛の「快進撃」はリクルートの事業イノベーションであり売上利益ともに多大な貢献でもあったから、平尾は当然高く評価され、2003年4月には株式会社リクルート狭域ビジネスディビジョンカンパニー執行役員となった。
そして、「狭域ビジネスモデル」を確立し、『TOWN WORK』『住宅情報タウンズ』『じゃらん』等の地域展開と事業化を一気に実現したのである。
その後、2006年3月にリクルートの役員を退任後、楽天株式会社執行役員、ワールドインテック代表取締役社長を経て、2008年11月にDoable株式会社を設立するに至るのだが、そんな2008年。
私は、妻も私も両方の実家が近い神戸市垂水区に家を建て、これから長くなるかもしれない親の面倒も見ていく体制を整えていた。
京都の中小企業のコンサルに転じて8年、家族が贅沢はしなくても平和に暮らしていける稼ぎを続けるために私は京都市内で単身赴任。週末は小5になった長女と、小2の長男と、妻に、会いに帰る、そんな生活に入っていた。
神戸に帰った週末の1日は、車で遊びに出かけ、帰りには外食をした。役に立ったのがホットペッパーのクーポンだ。
京都ではもっと活用した。何せ週のうちの5日は京都である。しかも自炊能力の低いおっさんは、毎日外食なわけである。ホットペッパーのおかげで、私の楽しい楽しい外食生活は成り立っていた。
人間は2種類。仕掛ける人間と、仕掛けられる人間と。
平尾さんは2001年から「ホットペッパー」という一大事業を仕掛け、2008年にはリクルートの主力事業に仕上げた。
かたやその同じ8年間、私は、その「ホットペッパー」を常に持ち歩き、店でクーポンをちぎっては少しでもお得に食べようとする、仕掛けられた人間としての日々だった。
これって、あまりにも決定的な違いというか、差がついちゃった感じ。
絵に描いたような天と地と。てか、「対極」じゃん(笑)。
京都の老舗書店「丸善」での一気立ち読み
まあいい。ついたてしまった差は、仕方ない(笑)。
そんな「差」を思い知らされたのは、2008年6月、まだ梅雨には入ってはいない頃だった。
コンサル先の仕事が早く終わったので飲みにでも行こうと、私は烏丸通を二条〜御池〜三条まで歩いたあと、東に歩いて河原町通を今度は四条に向かって歩いていた。
「暑いな。早くビールを飲みたいが、まだ開いている飲み屋も少ないだろう、少し時間潰ししないとな…」
そんなことをぼんやり考えながら河原町蛸薬師に差し掛かると、突然大粒の雨が降ってきた。
時間潰しに本屋は最高だ。私の雨宿りも決まって本屋、ということで、迷うことなく最寄りの丸善京都本店に駆け込んだ。
本屋では、目的の本がない場合は、まず新刊をチェックするのがルーティーンだ。
すると、いつも「クーポンでお世話になっている」ホットペッパーが「平積み」されていた。
いや、ホットペッパーにしては小さい。
半分以下?のサイズだ。
手に取ると、「Hot Pepperミラクル・ストーリー」。
「これは経営組織の指南書である」と江副浩正推薦の文字が踊る帯がかかっている。
その帯に隠れるように、小さく著者名があった。
「平尾勇司」
あ、平尾さんや。えっ?平尾さんがホットペッパーのトップやったんや、と、リクルートを離れて17年の浦島太郎は、そんなことさえ、初めてこの時に知ったのだった(笑)
当然、買ってもよかった。
しかし、雨は全く止む気配がなく、書店には申し訳ないが他の本を買えばいいか、と、立ち読みで読破してしまった。
私は平尾勇司にはなれない
一気に読めた。最高に面白かった。
読みながら、平尾さんの厳しくも楽しそうに働く姿が目に浮かんだ。
「ああ、懐かしい。あの平尾さんが、ここにいる。」
読み進めるにつれ、「楽しい」という言葉を本気で事業の中心に据えメンバー(部下たち)をその気にさせ、本質的なビジネス構造とそれを実現するための全く新しいフラットな組織づくりを実現していくプロセスが生々しく展開していく。ミラクルストーリーが進展するにつれ、平尾さんはどんどん大きくなっていくのが、手に取るようにわかった。
私の知る平尾勇司の2割だけはそこにいたが、後の8割は、私が全く知らなかった、「ビッグ」になった、そして今風に言えば、「アップデート」された平尾勇司だった。
この頃、私は、コンサル先の会社で新規事業を提案し、面白そうだから君自身がやってみろと「代表取締役」の立場を頂戴して、自らその新規事業に取り組んでいたところだった。
この本を読んで元の場所に戻したときに、私の腹は決まっていた。
「ああ、俺はやはり経営者などをやる器ではない。素質も、適性も、資格もない。平尾さんのような偉業は、私には無理だ。俺は一匹狼で生きていくよりないのだ」
Hot Pepper ミラクルストーリーの立ち読みをしたことによって、私は翌日朝、コンサル先のオーナー社長が出社するや否や、「(いったん引き受けた新会社の)代表取締役を辞したい」と申し出た。
「今さらなんだ!」「何があった?」
オーナーにそう問われて、何があったかは言わずに、私はこう答えた。
「金輪際、経営者としては生きないことをピンになった8年前に決めていたのに、迂闊に引き受けてしまい申し訳ありませんでした。経営者という立場は、ピン芸人の私には向いていないのです。販売促進、広告宣伝だけでなく目標数字を明確にして必達せよというフレームワークなら、問題なくやれます。そういう仕事でよければ、業務委託契約で引き続き使ってください。」
平尾は「本」を通じて、なんちゃって経営者、なんちゃってマネジメントからの引退を促し、私に引導を渡してくださった。だからこの17年後、私は迷うことなく画家になれたのだ(笑)
世界一のピザをいただきながら
17年後の夏。
画家になった私は感性を呼び戻すための放浪の旅の途中、広島で暮らす平尾に会いに行った。
再会の場は、広島市西区の「Pizza Riva」だった。
この店は、「真のナポリピッツァ協会」認定の専門店で、ピッツアイオーロ大岡修平氏は2012年、「ナポリピッツァオリンピック」のクラシカル部門でゴールドメダルを獲得している。
ここで、まさに「世界一のピザ」をご馳走になったのだが、この、あまりにも素晴らしい時間のことは書き留めておかずにはいられない。

ピッツァの種類は、トマトベース、チーズベース、包み焼き、本日のオススメも合わせると、約70種にもおよぶ。石窯で熱々に焼かれたピッツァは、薄く伸ばされた生地の上にたっぷりの具材、そしてコルニチォーネ(ミミ)まで、世界一と言われるだけのことはある、最高の味わいである。







前菜から始まって、すすめていただくまま遠慮のかけらもなく大きなピッツァを何種類何枚もいただき、そしてデザート。
ホットペッパーを仕掛けた平尾、仕掛けられた越生の関係は、この名店では、平尾は「おごる人」、私は「食べる人」の関係である(汗)。
いったんここまで差がつけば、もう埋めようはないわい、と私は完全に開き直る(笑)。
平尾はお酒を嗜まれないが、イケる口の奥様と私は、ビールから始まって、ワイン(フルボトル)をがぶ飲みしてあっという間に空に。
サンフレッチェのトップアスリートも通い詰める広島No.1のピッツェリアに、まるで場違いな、味音痴大食漢大酒飲みと、水を得た魚になった酒豪の奥様は満面の笑顔、それがこの写真だ。

「平尾さんの笑顔、ちょっとひきつってません?ごちそうさまでした、そして、誠に申し訳ございませんでした〜!」

「立ち読みで済ませて本買ってません」と告白すると…
3時間あまりくっちゃべりながら世界一のピザをいただいた後、それでも話は尽きずで、このあと私はなんと愛犬「ワクちゃん」が待つご自宅にまで押しかけたのであった。



ご自宅に上がり込んだ私は、すでに充分に仕上がっていた。
平尾勇司の奥様、大変美しい方なのだが、彼女がなみなみと注いでくださる焼酎をずずずと吸いながら、私は、17年前の6月の雨の日、京都の老舗本屋「丸善」で、「Hot Pepperミラクル・ストーリー」を一気に立ち読み読破したことを話した。
「ほんと、(本の内容が)おもしろすぎて、一気に読んでしまったんですよ!」
「買ってくれたんだろ?」
「いえ、おもしろすぎてしっかり頭に入ったので、買いませんでした。」
「買えよ!」
「いや、平尾さん。たった一回の立ち読みでしたが、内容は頭に叩き込みましたよ。本部・トップが律しないと組織は腐る、フォーカス&ディープ、「楽しい」こそが事業の原動力でしょ?それにしても、1万円やそこらの掲載単価で、売上の3分の1の100億円超の利益を叩き出す狭域ビジネスモデル、あまりにもすごいですよ。ネットを見据えつつ敢えて紙でスタート。僕がやりたかった完全フォーマット化を究極まで進めちゃって、営業が原稿を書くというイノベーションも。もう制作なんてお呼びじゃないわけで。僕なんてとっとといなくなっていて、助かりましたよ。」
私が立ち読みを正当化しながら言葉を返すと、平尾は優しく微笑んだ。
「Pepperミラクル・ストーリー」を読まない元リクはモグリである
でも、やっぱり、立ち読みは確かにいかん。
叱られた翌日、Amazonで購入して再度読んだ。
やはり実に面白かった。

ホットペッパーに携わった時代が、平尾のビジネスマンの集大成のような気もするが、その集大成は全て「Pepperミラクル・ストーリー」に自ら書いておられる。
「これは経営組織の指南書である」と、我らが恩人・江副浩正が絶賛してやまない一冊なのだ。
それをここに、転載、転載、コピペ、コピペで紹介するのは、あまりにも野暮というものだろう。
なので、平尾のホットペッパー時代についてはここに書かない、その代わりに。
40,000人超に読まれてきたロングセラーであり、元リクならばモグリでない限りは手元にあって当然だろう(笑)「Hot Pepperミラクル・ストーリー(東洋経済新報社)」を、ぜひ再読されたい。
ひょっとして、まさか、手元にこの本がないという方は、Amazonでポチれば明日着くので、今すぐにぜひポチッとやって、お読みいただきたい。
私が京都の丸善で一気に立ち読み読破できたように、内容は極めて濃いのに、実にわかりやすく書かれているので、ホント一気に読める。
特に「現役」で組織にいる人。悪いことは言わない、この本から学ばないことは人生の損失だ。だから読まなくては!
神奈川営業部の鬼部長も平尾勇司だが、ホットペッパー大成功の稀代の戦略家もまた、平尾勇司であって。
その真骨頂は、すべて、この本にある。

第9話はここで終えるが、次の第10話の主人公・R86の辻本秀幸がタウンワークを立て直した際、狭域事業領域全体をみていた平尾に教えを乞うたくだりも書くことになる。
みなさんに「Hot Pepperミラクル・ストーリー(東洋経済新報社)」の再読を促し、その凄さを改めて確認していただいた後、平尾と辻本の師弟関係を描く第10話の中で、平尾の狭域事業モデルの核心部分にはしっかりと触れることにしよう。
