
第8話も、第7話の主人公・リクルートに10年いた絹谷公伸に続いて、リクルートに20年いて外に出て通用する強烈な力を身につけたあと、その後同じ20年をさらに素晴らしい人生として生き、リタイアしてから最もやりたかったことを手に入れた、すばらしき元リクの物語だ。
R80、つまり1980年リクルート入社の中澤さかな(本名:等)は、私の新人時代は東京でいい仕事を連発する憧れの存在だった。
私の倍の20年間リクルートにいる間に、制作、営業、編集、マーケティング、マネジメント、そして新規事業…と、この会社で学ぶべきものは全て学び身につけ、使うべき素晴らしい制度「早期選択定年制度」を使って42歳の働き盛りでさっさと退職した。
そして山口県萩市が全国公募していた新規道の駅の支配人に応募すると、見事合格。
奥様と3人の男の子たちを連れてIターン移住し、道の駅「萩しーまーと」の初代駅長に着任した。
その後、道の駅を類稀な大成功に導くと、全国各地から引っ張りだことなり、内閣府の「地域活性伝道師」として飛び回り、まさに八面六臂の大活躍。テレビにも出まくった人なので、ご存知の方は多いはずだ。
「♪毎日毎日、僕らは営業の、数字に追われて嫌になっちゃうよ。ある朝僕は選択定年の、制度で海に逃げ込んだのさ♪」
お読みいただく時のBGMは、今回だけは絶対に「およげ! たいやきくん」でお願いします。
父に連れられて、琵琶湖へ。そこで釣りの虜に
たいやきくんは店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込んだが、中澤は誰とも喧嘩していないし、ましてや逃げ込んだのでもない。
最後まで自分の役割を全うし、専務取締役から「ありがとう、お疲れ様」と、労いという「卒業証書」をもらっての退職。これこそ、リクルートを「卒業」するということであろう。
ちなみに、私のように、会社とうまくいかなくなって自分から飛び出すやつ、元リクのほとんどはこれであって、みな「中退」である。そして、退職当時の私の上司・藤田洋のように不同意性交、セクハラをメンバーに対して繰り返して、そこまで酷くなくても甚だしい業績不振とかを含め、会社からダメ出しされて辞めたやつは、みな「退学」なのである。
元リクの皆さんも、心して、日本語は正しく使わなければならない。
さて 中澤さかなの故郷は、滋賀県である。
日本一の湖の畔で育って、父親に連れられて釣りをするのが何より楽しみな、日本中どこにでもいる田舎育ちの素朴な少年だった。
少年の頃には、誰もが夢を抱く。
中澤少年は人生にどんな夢を描いていただろう。
私は、夢の片隅にかもしれないが、「ずっと釣りをして暮らす」、そんな夢があったのではないかと勝手に想像している。もしそうであれば、とても素晴らしいなと。
大学は、関学。クァンセイ学院大学に進んだ。私の娘の大先輩、ということになる。
魚好きが高じてか、中澤は水産地理学を専攻した。
そして、大学時代に、かけがえのない友人ができた。
西岡譲二。
のちにウエーブインターナショナルというマーケティング系の会社を起業し、大きく成長させた人である。彼もまた中澤を唯一無二の親友だと言い切り、互い誰より強く絆を結びあう友人関係が今も続いている。
実に素晴らしい。
大学時代には相当釣りの腕を上げていた中澤だが、リクルート人開の一本釣りに釣られてしまうとは、皮肉なものだ。
1980年、大学を卒業し、新卒でリクルート入社。
採用ピーク時には1000人を超える人数を採用するようになるリクルートだが、この年はまだ、その20分の一程度、67名の精鋭採用の時代だった。
キャリアのスタートは「制作」だった
中澤は、教育機関広報事業部の制作に配属され、東京勤務となった。
ガラス張りの自社ビルG8ができるのは翌年のこと。テナントビルの一室に彼の仕事場はあったが、非常に手狭で、彼にはデスクが与えられなかった。
正確に言おう。デスクは製図版だった。
中嶋康博、定成透の両先輩のデスクの間に、小さな製図板を置いて、そこで仕事をした、というかさせられた。

写真は最新の製図板だが、きっとこんな立派なものではなく、机と机の間に置けたということは相当小さくて粗末な製図板であったと思われる。
それが、彼のキャリアのスタート。あまり恵まれたとはいえない仕事環境なのであった(笑)。
ただ、製図板の周りには、見ているだけで勉強できる、錚々たる先輩たちがいた。
林顕法、網野千文、大嶽一省…。
デスクも、2年目の1981年にG8ビルが竣工すると職場はそこに移ってデスクも与えられ、職場環境は劇的に向上した。
写真は自分のデスクが与えられて?喜ぶ中澤。ちなみに後方のくわえ煙草の男は、隣の製図板がなくなってどこか寂しそうな定成透。

中澤は、デザインとコピー、敢えてどちらが得意だったかと言えば、コピーだったのだろう。
大学や専門学校の、分厚い学校案内パンフレットを見事に仕上げる達人だった。
そんな仕事が認められ、HR(当時の広告事業)部門の制作で頭角を表していた千葉望とペアで、クリエイター採用のバンフを手がけたこともある。
こうして制作部門でも素晴らしい仕事をしておられたが、本人曰くは「制作の仕事はあまり馴染まなかった」そうだ。
そして、「営業がやりたい」と自己申告。ついでに琵琶湖も恋しくなってきたので(曰く東京も馴染まなかった)ので大阪への異動も願い出た。
すると、なんとそのどちらの希望も叶えてもらえることになった。
中澤は、入社して2年半過ごした東京を後にした。そして、大阪支社で、大学や専門学校などを顧客とするKKK営業の仕事に取り組むことになったのであった。
一年後輩の杉坂隆司とシノギを削って
営業の仕事は、彼がイメージしていた通り、制作よりもずっとしっくりきた。そして営業成績も、当然なのだろうがバッチリだった。
すんなりと営業マネジャーにも昇進し、12クオーターにわたって、1クオーターが3ヶ月だから、実に4年間、一度も目標を外さなかった。
これが、KKKでは伝説になっている一課杉阪隆司、2課中澤等の時代である。
ただ、中澤は常に目標達成していたが、その達成率で、杉坂を一度も上回ることができなかった。
社歴的には1年後輩、でも営業としては数年の長があった杉阪が、常に中澤の前に立ちはだかった、そんな4年間だった。
この頃を中澤は、「杉阪は素晴らしい男、彼と競えて本当に良かった」と振り返る。
ちなみに杉阪隆司と言えば、当時は同期R81の経理社員・白川とのコンビで社内芸人として名を馳せたし、今も毎年M1へのチャレンジを続けているし、落語家としても修行を重ねている。なので「そちら」つまり「芸人」「芸達者」「お笑い」のイメージが強いかもしれないが、実は押しも押されもせぬKKKのトップ営業マンであり、R82の同期、暴れ馬代表格の新留英二を簡単に手懐けるなど多くの後輩を大きく育てた敏腕マネジャーでもあった。
この物語がもし「社内芸のDNA」へと飛び火して展開するようなことがあれば、今注目され始めている木村ライダーから遡ってルーツである杉阪、東京でいえばリクルートコスモスの社名ともなった藤原和博のCOSMOS=情報音楽部に行き着く、そんなDNAを語ることになるやも知れない(笑)。
「サンロクマル」に手を挙げて
しっくりきていた営業のキャリアだったが、リクルートの制作部門は再び中澤を必要とする。
「住宅情報の編集長をやってくれ」
元々マーケティングには詳しい。営業も制作も両方できる。そんな中澤を欲しがる事業部はたくさんあったろう。
人事は絶対なので、気が進もうと進むまいと、一旦はやらなければと、中澤はしばらく住宅情報誌の編集長を続けた。
そんな中澤の心の中で、日増しに強くなっていった思いがあった。
「このままでは嫌だ。リクルートに入ったからには、一度は新規事業をやらなくては…」
当時、「サンロクマル」と言う情報誌が立ち上がったが、累積赤字を増やして苦しんでいた。
「360°」と書いて、「サンロクマル」と読む。
それまでのリクルートの事業は、住宅、結婚、就職、進学…など、「領域」ごとに情報誌を出していたが、それに対し、「サンロクマル」は、特定エリア=街の領域情報は全て掲載するというコンセプトで始まっていた。
だから「全方位」と言う意味で、「360°」。埼玉の大宮から始まって全国展開を進めたが、黒字化の壁は厚く、各地で苦戦した。
中澤は、この「サンロクマル」を成功させたいと思った。そして、住宅情報の編集長を兼務してでもいい、関西で「サンロクマル」を立ち上げていきたい!と、手を挙げたのだった。
意気に感じた「サンロクマル」の担当役員、キーさんこと木村義夫は言った。
「やってみろ!」
京都、茨木高槻、大阪、堺、神戸、姫路…。
顧客に飛び込み、次々に版元を立ち上げていく。
よそ者を嫌う京都では、相当の苦労があったが、西光正至と力を合わせてなんとか立ち上げた。
しかし、関西のどの版元、つまり地域版も、なかなか黒字化しなかった。
運命の取締役会前夜、発言封じの動き
「サンロクマル」は撤退の流れにあった。
そして、いよいよ取締役会で、「サンロクマル」を存続させるか撤退するかを議論し、決定する段取りとなった。
中澤は西日本の責任者として、東の責任者とともに取締役会への参加を要請され、東京に向かった。
東京に着くと、取締役の福田峰夫に呼びつけられた。数年後にはKADOKAWA社長になる、あの福田峰夫である。福田は中澤にこう言った。
「撤退が既定路線だ。もういいだろう、事業存続はあきらめろ。明日は余計なことは言わないように。」
赤字部門は極力なくしたい河野栄子社長に命じられてのことか、福田峰夫の単独行動か、それは中澤も知らないし私などの知るところでもない。
しかし、少なくとも私は、こうした「姑息な行動」は大嫌いである。
理由はただ一つ。
福田峰夫が本当に会社のことを思って動くのなら、正面きって担当取締役である木村義夫を話をし、彼の説得にこそ力を注ぐべきではないのか。
しかも木村義夫は専務である。一般的に(笑)専務は社長の次にエライわけで、福田が会社のことを思って本当に撤退させたければ、専務をウンと言わせれば良かったのである。
上に弱く、下には強い。
福田は、現場からは何も言うなと、「下」の中澤を抑えにかかった。
世の中では、こういう人を「謀に長けた人」「根回し上手」などと言うのだろうが、所詮は上に気に入られ、自分が生き延びることだけを考えた、小さな小さなサラリーマンのみっともない行動に過ぎないではないか。私が最も嫌いな人間のタイプである。もちろん、こういう人が好きだとか、必要だとか、支持する人はいるのだろう。
かくして取締役会は粛々と進み、中澤も福田峰夫に命じられたままなんらの発言もせず、いよいよ「撤退」が議決されようとしていた。
「ナカザワあ〜!」。取締役会で炸裂した木村マジック
その流れの中、木村義夫の甲高いしゃがれ声が、会議室を切り裂いた。
「ナカザワあ〜!」
河野栄子社長以下、取締役全員の目は、その大声の主にいったん向き、そして、中澤に向けられた。
木村は続けた。
「中澤、お前、新幹線に乗ってわざわざここに来たんやろ。なんか意見がないんか?言いたいことあるやろ?あるんやったら、なんでも言わんかい」と。
中澤の目が、ハッと醒めた。
そして、一気に捲し立てた。
「携わってくれているメンバー、業務委託の人たちに申し訳がなさすぎます。なんとかあと少し、チャンスが欲しい。それが本音です。チャンスをいただけないでしょうか?」
600名近いメンバーがいた。社員はわずかしかいなくて、その大半が業務委託の女性だった。
「長く黒字化できていないことは本当に申し訳ありません。明らかに私の力不足です。私のやり方が下手で、マネジメントがダメなんです。しかし現場にいて確信していることは一つ、マーケットはあると言うことです。しかも、それはとてもとても、とてつもなく、大きい!」
取締役会は、「サンロクマル存続」を議決し、終わった。
木村義夫が、福田峰夫に発言を封じられていた中澤に口を開かせなければ、ホットペッパーは生まれていなかった。
私の憧れの人、木村義夫
私はリクルートでの10年足らずの間、半年間のKKKを除いて、ずっとHRつまりは当時の広告事業だった。
だから、木村義夫の下で働けたことがない。
この年で「笑顔絵」を描く画家となったが、それは長年、人相学と心理学を勉強してきたからに他ならない。
人相学的には、初めてその尊顔を拝んだのは44年前であるが、木村義夫の顔は私の興味を惹いてやまない、素晴らしい人相だった。
すべてを告白すれば、第6話で書いた池田友之もそうだった。
リクルートへの未練はそんなに大きなものではない私だが、池田と木村の下で働きたかったという思いは、確かにあった。
二人にある種の「憧れ」を持ったまま私はリクルートを退職したが、2010年、その木村義夫と会食させていただくという栄誉に浴したことがある。
当時私は京都の中小企業を対象とする経営コンサルを仕事にしており、その中の1社の「幹部候補への研修」を、R88安田仁秀が代表を務める教育会社「ラーニングバリュー」にお願いしたことによって、私にとって夢のような会食は実現したのだった。
キーさんこと木村義夫は、この会社に、出資しておられ、現在も監査役を務めておられる。これから飛躍させたい「ラーニングバリュー」に、いい機会を与えてくれてありがとうと、一言お礼を言いたかったのだという。
研修の契約前なら、「接待」かも知れなかったが、研修が全て終了し、こちら側からの支払いも全て済んでからのこと。
人の成長についての話は尽きることがなく、憧れのキーさんとの時間はあっという間に過ぎたが、初めて接するナマのキーさんは私の、今では初対面でもその人の大きさを見抜く(笑)目の確かさにさらなる自信をつけていただけるような、想像以上の人物だった。
本筋に関係のないファンの絶賛はこのぐらいにしよう。
「サンロクマル」〜「ホットペッパー」の成功を信じ続けたただ一人の男
「サンロクマル」に話を戻す。
木村義夫が凄いのは、苦労して事業を立ち上げ、関西の各地域で奮戦する中澤の事業への情熱と思いを汲んだことももちろんそうだ。
役員会での「サンロクマル」撤退の流れを、存続へ、大逆転へ流れをつくったこともそうだろう。
だがそれもこれも、誰ももうダメだろうと事業を否定する中で、役員の中でただ一人、成功を信じて疑っていなかったからのことである。
のちに「サンロクマル」を「ホットペッパー」に生まれ変わらせ、4年後に売り上げ300億、営業利益100億の高収益事業に大化けさせた平尾勇司は、その過程と戦略をまとめた「Hot Pepperミラクル・ストーリー」の中で、当時の経営陣と木村義夫についてこう語っている。
「経営陣からはおもしろがられ期待はされていたが、あてにはされていなかった。『おもしろそうだけどホントにマーケットはあるの?うまくいくのかな?ま、赤字が大きくなるのだけはやめてね」 こんな感じだろう。なぜなら、誰もまだ成功すると信じていなかったから…というよりも、どうやれば成功するのか誰もわかっていなかったからである。例外が(ひとり)いた。木村義夫(当時専務取締役)である。彼だけがその成功を信じていた。もし、木村義夫が重役という役職にいなければ、とっくの昔につぶされていたはずだ。それだけは間違いない。」
リクルートが1兆5000億円もの借金を抱えて、毎年1000億円近い返済をしていた最中、「サンロクマル」の累積赤字は36億円に達し、もしこのままさらなる累積赤字を積むことは、担当役員として当時返済に追われていたリクルート経営の足を大きく引っ張ることになった。
改めて、言おう。
彼が、福田峰夫のように自分のさらなる出世や保身を優先し、先の取締役会においてサンロクマル撤退に同意したならば、結果として2000年からのリクルートの躍進の原動力となったすべての狭域ビジネスモデル、つまりはホットペッパーだけでなく、タウンワークの大爆発もなかったのだ。
それって左遷ですか?それとも会社としての期待ですか?
黒字化は為せなかったが、中澤の関西各地での営業、版元立ち上げの奮闘によって狭域のマーケット、それは日本全国各地にあって、それが確かに大きなものであろうと言うことが、取締役会で確認された。
しかし、この事業の黒字化がとにかく急がれること、すでに土俵際にあることもまた、間違いないことだった。
ここにおいて木村義夫がさらにすごいのは、この事業を誰に託すべきか、責任者をスパッと交代させたことであろう。
中澤は振り返る。
「僕のままじゃダメだったろうね。やり方を根本的に変える必要があったと思う。僕のやり方ではない、全く違う方法を木村さんは求めたんじゃないかな」
木村義夫は、当時支社事業部にいた平尾勇司を呼んだ。
「あ〜〜平尾、君にやってもらいたいことがある」
と、木村は切り出した。
「なんですか?」と平尾。
「サンロクマルをやってほしい」
一瞬、平尾の顔が歪んだ。7年で36億円の累積赤字を抱えるに至った、いわば「お荷物事業」ではないか。
平尾は木村に問うた。
「それって、左遷的な人事ですか?それとも、会社が私にすごい期待をされての人事ですか?」
木村は静かに目を瞑った。
両者が黙ったままの、長い沈黙の時間が続く。
木村が口を開いた。
「あ〜〜〜〜〜〜〜、どっちもや」
平尾は言った。
「わかりました。やらせていただきます」
こうして、住宅情報の編集長を兼務しながら「サンロクマル」で戦って、かつてなかったマーケットを掘り始めた中澤さかなから、「サンロクマル」を「ホットペッパー」に生まれ変わらせて売上500億超、利益100億超を毎年叩き出す事業に育て、さらに「タウンワーク」を含めた狭域ビジネスモデルを確立した平尾勇司へとバトンは渡された。
ちなみに、中澤と平尾は、1980年入社の同期である。
42歳の二人に大きな転機が訪れた2000年は、リクルートのさらなる体質変化が始まった年でもあった。
選択定年制がさらに進化していく人事制度革命元年
リクルートでは、1989年から「フレックス定年制度」を導入し運用していた。
これは、38歳以上の従業員が38歳から60歳までの間で自由に定年年齢を選択できるという制度で、当時世間からは「38歳定年制」とも呼ばれていた。
これは「法律上の定年」ではなく、あくまで自由な意思決定によるもので、企業内の成長だけでなく、退職後起業などにより企業外での新たな成長を求めることを推奨する企業風土から生まれたもので、一般の企業であれば働き盛りの入り口と位置付けられるであろう38歳で退職金の額が最大になる制度設計がミソだった。
さらにはセカンドキャリア支援制度などが加わって、リクルートの従業員は20代や30代前半のうちに、自分の人生後半のキャリアについて考えざるをえない、そんな環境にあった。
中澤は2000年、42歳で、この「フレックス定年制度」をリクルートを去ったが、当時リクルートの人事制度は目まぐるしく変化していた。
たとえば1997年に方針を発表し、1999年末に断行した、法定外の福利厚生制度の全廃は大きな波紋を呼んだ。
寮や社宅、扶養家族手当などをなくしたため、なんて残酷なことを、と、当時テレビで何度も取り上げられたし、従業員、家族からの批判も大きかった。
「利子補給制度があると聞いていたのに」「新幹線通勤制度があると聞いたから伊東に家を買ったのに」等々、枚挙にいとまはない。
しかし逆の立場、つまり「雇用される能力」、すなわちエンプロイアビリティを保証する会社を目指していた人事部門からすると、例えばいい社宅に入っていればエンプロイアビリティが高まるわけではないという対論があった。
それよりも、社宅や寮などを維持するためのお金を従業員の能力開発に全部つぎ込んだほうが、エンプロイアビリティは上がる。
そうした信念に基づいて行動していた村井たちは、逆風吹き荒れる中、一連の人事制度の変革を推し進めたのである。
リクルートの人事制度は2000年からさらに革新的になっていく。
R83の村井満が人事部長から人事担当役員となって全社の人事部門に2004年まで在籍する間に、彼は矢継ぎ早に人事制度の改革を進めたのだ。
勤続10年以上、または勤続5年以上かつ32歳以上で退職する従業員に対し、退職金に加えて1000万円の支援金を上乗せして支給する「OPT(オプト)制度」、退職後も1年契約でリクルートから業務委託を受けられる「IO(イオ)制度」等々。
リクルートを再び活性化した「キャリア・ビュー制度」
私がもっともすごいと思ったのは、2000年に導入した「キャリア・ビュー」という制度だ。
これは、1年契約で最長3年までリクルートの従業員として仕事をしてもらい、3年勤めたら100万円の退職金を支払うというものである。
私はこの制度が導入される8年半前に退職していたが、当時の私の生活と照らして考えると、最高の制度の誕生に思えた。
今は亡き、漫才の横山たかし師匠のように、私はハンカチを噛んで涙を流して、悔しがった。
「笑えよ〜〜〜」
私の場合、3年間どころか9年半頑張って高いお給料をいただいていたが、全部飲み代に消えてしまって、確か、退職時に手元にあったのは100万足らず。起業に非常に苦労した覚えがある。
そう考えると、3年間頑張って100万円もらえるなんて、最高じゃないか。
そして、起業しようと思っている人、自分の力で生きていこうと思っている人にとってみれば、この制度はいわゆる社会人版インターンシップのようにも見える。実践のフィールドをリクルートが提供し、そこで実力をつけてネクストステージに飛び出してしていくことにおいては、なんと素晴らしい制度ではないかと。
ただ、この制度には反対も多く、役員会を説得するのに半年ぐらいかかったという。
人材輩出を標榜し、借金完済に向けて人材の流動化に積極的であったリクルートの役員でさえ、「いくらなんでも3年で退職なんて、そんな不安定な契約に誰が来るんだ」と当初は半数以上が反対した。
人が採れなくなっていたリクルートに新たな人材を
しかし制度を設計した村井は怯まなかった。
この2000年ごろは金融不況の余波で経済環境も厳しく、リクルートの採用も大幅に縮小して大卒が3人しか採れなかった状況だったからだ。
そのような時でも、このキャリア・ビュー制度があれば、本当に優秀な人間は採用できるという確信が村井にはあった。
村井はついに役員会を説得する。
「最初は10人から始めてみましょう」と。
すると彼の思惑通り、優秀な人間が採用できるようになった。
大企業に入って群れて仕事するという感覚ではなく、いつか自分で独り立ちすることを覚悟している自立した人間からすれば、この制度は千載一遇のチャンスと捉えられたのだ。
また、この制度は、優秀な人材を採用できるということ以上に、大きな別のメリットをリクルートにもたらした。
キャリア・ビュー制度を使ってリクルートに入ってくる人はどんどん入れ替わっていく。人は入れ替わっても、インターネットなどに象徴される新しい情報が彼らによってどんどん社内に持ち込まれるようになったのだ。
村井はこう振り返る。
「その後、リクルートが大きなイノベーションを起こしていけるようになったのは、固定概念を打ち破って、人の流れを変えていったことが大きなきっかけになっているとも思うのです。」
縁もゆかりもない萩市へ移住
中澤がリクルートを退職した2000年には、残念ながらまだキャリア・ビュー制度もなく、それより勤続20年の中澤にとってはより大きな魅力となっただっただろう、「勤続10年以上、または勤続5年以上かつ32歳以上で退職する従業員に対して退職金に加えて1000万円の支援金を上乗せして支給するというOPT(オプト)制度」もなかった。
リクルートを退職する決意をしたことについて、中澤はこう振り返る。
「東京で2年半、関西で17年半、朝早くから夜遅くまで働き、休日も接待や社員の結婚式などで、家族とコミュニケーションを図る時間もあまりない、そんな状況でした。ぼんやりとですが、いつまでも続けられる仕事ではないなと感じていたこと、そして、子育てをするにはやっぱりのどかな田舎がいいと考えたことから、勤めて15年目には『いずれは退職し、港まちで第二の人生を始める』と妻には宣言していました。会社を退職したのは、サンロクマルと離れたタイミング。42歳のときに、いわゆる早期選択定年の制度に乗っかっての退職でした。」
さて、何をしようかな、と自らのネクストステージを考え始めたちょうどその頃、萩市で道の駅の駅長を全国公募していた。
ある程度の計画は進んでいたが、まだ建物も立っておらず、まだまだ更地の状態。他の地域や業態も考えなかったわけではなかったが、完成したものを運営するよりも、立ち上げの段階から関われることに大きな魅力を感じた中澤は、この全国公募に手を挙げた。
あと、というか、何よりというか、大好きな海と魚がすぐそばにある環境に惹かれたことも大きかった。
結果、中澤は初代駅長への就任が決まり、家族で、縁もゆかりもない萩市へ移住したのだった。
萩シーマート、初代駅長として
中澤は、駅長として着任後、まず、それまでに計画されていたプランに目を通した。
そのプランは、大手コンサルタント会社が立てたものだったが、内容は建物ばかりが豪華な、中身がきわめて薄いものだった。
具体的には、商品に競争力がなかったり、開業後の減価償却費が収支試算に考慮されていなかったりと。
「このままスタートしたらいずれ確実に赤字になる」
中澤には容易に想像できた。
しかし、頭ごなしの否定はダメ、ましてまったく萩を知らないよそ者がそれをしては、絶対ダメである。
当初の計画では、「萩しーまーと」は全国各地にある観光海産市場「おさかなセンター」をモデルにしていた。だから中澤は、全国10カ所の「おさかなセンター」、そして30カ所以上の道の駅を視察して歩いた。
すると、それらの施設に共通した課題が見えてきた。
それは、平日と休日、そしてハイシーズンとボトムシーズンの売り上げの大きな差である。
売り上げが乱高下する観光市場は押し並べて、経営を安定させるのが非常に難しい。
経営を安定させるには、安定した収益が不可欠である。
それをクリアにするにはどうすべきか。
中澤は考えた。
そして、「ターゲットを地元住民に絞る」という策を決意するのである。
今でこそ、中澤の仕事、成功をベンチマークしてそうした道の駅も出現している。
しかし、当時、道の駅とは、外から人を呼び込むための手段、そうした概念しかなく、それまでの観光市場でも、道の駅のコンセプトとしても、考えられないものだった。
成功への道筋は、マーケティングの中にしかない
「成功させるには、しっかりとマーケティングを行ない、コンセプトから見直すこと。それしかない!」と、中澤は、その基本プランを、白紙に戻すことを決断し、言った。
「基本プランを、白紙に戻す。」
もちろん、大いに驚かれ、そして反対された。
中澤は言った。
「これまでの基本プランには、旅行会社との提携もプランに組まれていましたね。しかし旅行客を連れてくるのには1人当たり150円〜200円の手数料が必要になってきますよ。果たしてそこに勝算はあるのでしょうか。果たして回していけるのでしょうか。私が白紙に戻す決断をしたからには、腹を括っています。皆さんに理解していただきたいのはただ一点、自ら儲ける仕組みを作らないと意味がないということです。」
そして中澤は、こう提案した。
「魚介類を売るだけでなく、青果店や精肉店などの個店も集約することで、地元住民も足を運ぶ『公設市場』をコンセプトにしましょう。地元住民に愛される施設は観光客にも愛されるはずです。まずは『萩の台所』を目指しましょう」と。
越生くんならわかってくれると思うけど、と前置きしてから、中澤はこう言って笑った。
「よくある『おさかなセンター』や道の駅では面白くないし、何よりそれ以上の成功は望めないわけで。市や事業体の幹部を説得するのには、リクルートで培ったプレゼンテーションのスキルが大いに役立ったよ。反対者する人はそれだけ熱心だから反対するわけで、議論もできてやりやすいんだけど、お手並み拝見みたいな傍観者もいるよね。正面きって反対しないが何もせずに見てるだけ。そして、失敗したら足をすくってやろうって。そういうタイプの人間って、どこにでも、何やっても、いるじゃない。でもね、僕はね、人と争うことが何より嫌いなんだ。喧嘩なんてとんでもないこと。ラッキーなことに僕の場合は味方してくれる人も比較的多くて、ちょっとは苦労したけど、なんとか大きな方向転換ができたんだよね。」

地元スーパーマーケットと戦わない
ターゲットが地元住民となると、どう考えても競合は地元のスーパーマーケットということになるだろう。
しかし、生来戦うこと、人と争うこと、傷つけあうことが大嫌いな中澤は、値段や量など、同じ土俵に上がっての勝負を選ばず、スーパーマーケットがやらないことを探した。そこで目をつけたのが地魚だ。
中澤は、250種類にものぼる萩産の魚に着目した。
つまりスーパーマーケットに並ばないような、地元の魚を徹底して、数多くそろえれば、地元の客もひきつけることができるのではないかと考えたのだ。
かくして「萩しーまーと」の商品比率は、地元産8割、県外他地域の生産物2割となる。
これはスーパーマーケットでは絶対にできない割合だ。
「日々の買い物はスーパーマーケットでいいんです。ただ、息子が帰省するとか、親族が集まるなどのハレの日に買い物に来ていただける存在。私たちが目指したのはそんな施設です。」
スーパーマーケットとの差別化として徹底したことはもう一つあった。
それが、対面販売だ。
陳列された商品を歩いて回ってカゴに入れながら、レジに進んでいくスーパーマーケットとは異なり、販売者と顔を向き合わせて買い物をしていただこうと。
そこでは自然とコミュニケーションが生まれる。挨拶程度のものから、食材の良さや調理方法に至るまで。
人と人とのふれあいがあることも、「萩しーまーと」の大きな魅力となっていった。

初年度いきなり年間売り上げ8.6億円!
開業前から「萩しーまーと」は失敗するといわれていた。
その下手で意地悪な予想はもちろん、中澤の耳にも入っていた。
萩しーまーとは、2001年4月に開業。初年度を終えてみれば、年間売り上げは予想を遥かに上回る8.6億円。
中澤は「予想」を見事に覆してみせた。
「(失敗を予想した人は)人口や立地などいろいろな要素からそう考えられたのだと思います。しかし、いざオープンしてみると8.6億円、これは予測を超えた初年度の数字でした。3年ぐらいで安定飛行となり、5年目で単年度黒字を達成しました。売り上げのピークは大河ドラマの舞台になった2015年の約12億円、現在は約11億円です。」
道の駅の年間売り上げの平均は2億円程度である。
驚くべきは売上だけではない。「萩しーまーと」の坪効率は一般的なスーパーの平均値の2倍強。これは、なんなら都心のスーパーマーケットに勝るとも劣らない数字ではないか。
人口5万人弱の萩の地元住民がターゲット。仮に商圏を半径50km以内と広く想定すれば山口市の北部が入って、それでも人口は15万人程度である。この人口での年間利用者数140万人、売上10億円超えは、普通ではありえない現象だった。
10億円と言うのは、リクルートの事業感覚では「端金」に思えるかもしれない。
しかし、私もそうだが、いざ独立し、小売、飲食などの事業を経験した人なら、10億円という売上の意味と価値は痛いほどわかるはずだ。
地魚を使った独自商品、端緒は「マフグ」
しかし、「萩しーまーと」の営業を始めてから、中澤は自分に地魚の知識が不足していることを痛感する。
アマダイは煮たり焼いたりして食ベるものだという認識でPRしていたところ、地元の方から萩では普通「刺身で食べる」という事実を聞かされたのだ。
「萩のことを何も知らないくせに偉そうなことを言うな」というような口撃を受ける。
そこから中澤は、地魚についても、萩についても、もっと知らねばと漁師のもとを尋ねるなどでプロの情報を集め、勉強を続けた。
そうした努力が実ったのがマフグだった。

小ぶりなマフグはトラフグの10分の1程度の価格で売られていたが、地元の漁師に言わせると「トラフグに匹敵するおいしさ」と高い評価だった。だったらそのおいしさをPRしようと、「ふぐの王様」がトラフグならば、「ふぐの女王」がマフグだと、萩市を代表する魚としてさまざまなイベントで打ち出したのである。すると、高く評価され、今では県外にも多く出荷されるようになったのだった。
「きっかけは、地元の方しか知り得ない情報です。それをどう活用するのかを考え、提案するのが私の役目。地域の資源発掘に積極的になったのはこれがきっかけの一つです。」
「い・け・た・ルージュマジック
「い・け・な・いルージュマジック」は、日本のミュージシャンである忌野清志郎と坂本龍一とのコラボレーションシングルで、忌野の実質的なソロデビューシングルとして大ヒットしたが、それに負けないぐらいヒットしたのが、東京の百貨店で高い人気を誇る「オイルルージュ:金太郎のオイル漬け」。あまりの人気に品薄状態が続く商品だが、これも「中澤マジック」が生んだ独自商品の一つである。

オイル・ルージュは、いわば「オイルサーディンの金太郎バージョン」だ。
金太郎は、萩市では多い年では年間80トンほども水揚げされるが「雑魚」と言われていた地魚で、地元住民にとっては普段使いの惣菜魚だった。
しかし、よそから来た中澤にとっては、他ではあまり見かけない可愛らしい朱色の、ちょっと気になる魚だった。そこでいろいろと文献を調べたところ、実はフランス料理で使用される地中海の高級魚「ルージュ」の近縁種であることがわかった。
その事実がわかってからは、金太郎が持つ美しい朱色と旨味を生かした商品の開発を目指して地元業者と共に加工品の開発に取り組み、本気の試行錯誤を重ねた。そして「オイル・ルージュ」に辿り着く。
すると「オイル・ルージュ」はすぐに人気商品となり、県外から求めて来られる方もいるほどに。金太郎自体もメジャーとなり、イタリア料理で使われるなど飲食店でもどんどん扱われるようになっていった。
その結果、1kg当たり200円台で取り引きされていた金太郎は、2倍から3倍、500円〜600円台の価値に跳ね上がり、今ではすっかり萩市の名物となった。東京はもちろん地元でも高い人気を誇り、多くの客が、この独自商品を求めて中澤の道の駅「萩しーまーと」を訪れている。
地元にとっての雑魚が、今まで知り得なかった魅力を発掘し、打ち出し方を変えるだけで名物へと「大出世」したのである。
13名中3名が「元リク」。内閣府国務大臣が眼を剥いた
ネットから「中澤語録」を拾ってみた。
「探せばヒントは見つかるものです。商品開発の他には、鮮魚売場で好きな魚を選んで、館内のレストランで調理してもらう『勝手御膳』や、毎週金曜は水揚げしたばかりの鮮魚をトロ箱単位で売り出す格安販売会なども実施しました。こういった他にはない取り組みをすることで、メディアに何度となく取り上げてもらえ、話題となり、『地元に愛されている道の駅』というイメージが伝わって、観光客にも集まってもらえるようになったんです。」
「(成功に必要なことは)とにかくマーケティングです。基本に従った忠実なマーケティングを遂行することです。私が考えるに、道の駅の成功・失敗に立地は関係ありません。きちんとマーケティングを行い、競争優位性を確保すればどこでも成功できる。地方ではまだまだマーケティングが重視されませんが、ここさえ押さえれば私じゃなくても誰でも成功へと導くことができる、と私は考えています。たとえ不利な立地だとしても、他にはないものに取り組むこと。差別化する要素は探せば必ず見つかります。私は特別なことをやったわけじゃありません。基本のマーケティングを行なったのです。」
「首都圏でマーケティングの知識をしっかりと身につけた人は地方でも絶対に輝ける、私はそう思っています。その知識は地域を活性化し、人々の生活を豊かにする宝物です。Uターンや移住を考えている人の多くが抱える問題は、働く場所がない、ということだと思います。でもそんなことはない。むしろ、地域の役に立てる人財となれるはずで、そういった人物を求める自治体や企業は多いはずです。」
実際に成功させてきた人の言葉には説得力があるが、最後のコメントは、元リクには特にリアリティがある。
後に内閣府国務大臣室に任命された「地域伝道師」最初の13名中の3名は、 なんとリクルートOBだったのだ。
当時の国務大臣は、こう言って目を剥いたという。
「リクルートって人材の宝庫と言われているが、本当だな!」
内閣府認定「地域活性化伝道師」として
道の駅「萩しーまーと」は、地産地消の推進をはじめ、積極的な地域産品情報のメディア発信、さらには地域食資源のブランド化や新たな特産品開発を地域協働で実践した結果、中国地方屈指の道の駅となり、平成27年には国交省から全国で6か所しか選ばれない「全国モデル道の駅」となった。
国交省選定の全国モデル駅に育てあげた名物駅長として知られる存在となった中澤は、同道の駅の駅長〜専務理事を務めながら、先ほど触れたように内閣府認定の「地域活性化伝道師」13人の一人に選ばれた。
全漁連プライドフィッシュプロジェクト企画委員会運営委員長、萩市観光協会副会長、水産大学校非常勤講師、青森県東北町観光アドバイザー、沖縄県うるま市農水産アドバイザーなどの役職も務めつつ、全国の市町村の道の駅や水産物直売所の開設、水産資源開発のプロデュースのため、全国各地を飛び回る日々が始まった。
全国の市町村の道の駅や水産物直売所の開設、水産資源開発のプロデュースなど、中澤がこれまで関わったプロジェクトは50を超える。
全部ではないが列挙してみよう。
道の駅・直売所の整備および地域食資源を活用した特産開発
●道の駅/萩しーまーと整備計画(山口県萩市2000~)●道の駅/きさいや広場新設計画(愛媛県宇和島市2008~2010)●道の駅/たけはら新設計画(広島県竹原市2009~2011)●地域水産資源の活用計画(青森県鰺ヶ沢町2009~2012)●道の駅/ベイファーム新設計画(岡山県笠岡市2010~2013)●地域水産資源の活用と直売所のリメーク計画(三重県尾鷲市2010~2013)●離島水産資源の活用と活性化WS(福岡市西区小呂島2012~2015)●秋田由利本荘地区の特産品開発(秋田県由利本荘市・にかほ市 2012~2015)●道の駅/日立おさかなセンターリニュアルと新規商材開発(茨城県日立市2013~2016)●道の駅びんご府中整備計画(広島県府中市2014~2017)●道の駅/海の京都宮津整備計画(京都府宮津市2013~)●漁師食堂「えぶ庵」の整備計画(熊本県芦北町2013~)●道の駅象潟整備計画(第二期)基本構想策定(秋田県にかほ市2013~2016) ●道の駅うご端縫いの里整備計画 (秋田県羽後町2014~2018)●水産加工&直売施設「加領郷魚舎」整備計画(高知県奈半利町2014~2017)●地域活性化拠点施設の整備計画(沖縄県うるま市2015~)●地域食資源を活用した特産品開発(兵庫県宍粟市2017~)ほか●地域特産品の開発WS(秋田県男鹿市2016~)●地域活性化拠点施設の基本計画(山形県鶴岡市2016~)●新たな水産加工製品の造成(秋田県水産漁港課2016~)●地域水産業振興計画(富山県氷見市2016~2017)●宗田節文化の再生(土佐清水市2017~)●道の駅/大谷海岸の再生計画(気仙沼市2017~)●道の駅/盛岡の整備計画およびコンテンツ造成(2020~) ほか
私は放浪の画家なので、日本全国を車で旅し、道の駅で仮眠をさせていただく日々を送っている。なので上記の道の駅はこれまでにほぼ利用させていただいたが、中澤プロデュースによる道の駅はどれもが個性際立っていて、本当に素晴らしい。
今や萩はホームタウン。中澤らしい生き方がここにある
さて、第8話の主人公として中澤の物語を書いてきたが、その最大の意図は、第一の人生がリクルートでの20年、それからの25年が地域活性に奔走した第二の人生だとして、中澤の素晴らしすぎる第三の人生を歩んでいること、今の人生こそを伝えたいからである。

萩に移住後も、仕事は上記のようにとても忙しかったが、中澤はその隙間時間でボート免許を取得し、念願の愛艇も購入した。
1艇目は〈サカナ-Ⅰ〉と名付けたヤンマーLF20Zだった。
センターコンソールのディーゼル船で、初心者にも扱いやすい舟だったが、波風の強い萩沖ではスプレーをかぶることが多く、中澤はすぐにキャビン艇を探すことにした。
ほどなくしてマリーナの紹介でヤマハFC-24S/Dを入手するが、それを〈サカナ-Ⅱ〉と命名し、今度は今なお、20年以上乗り続けている。

高性能の魚群探知機もさることながら、エンジンはボルボ・ペンタのAD31/SXドライブ。燃費も相当悪いらしいし、修理の際の見積もりは気絶しそうな金額らしい。
これまでオイルパン、ターボチャージャー、排気エルボ、ドライブギア、チルトシリンダーの交換など、合計すると3ケタ万円かかったという相棒には、お金に換算できないプライスレスな愛情を注ぎ、大切に、いたわりながら、付き合ってきた。性能的には相当の速度(ノット)で走れる舟だが、エンジンには決して無理をさせないそうだ。

当初はエサ釣りをしていたが、やがてジギング、つまりルアー(擬似餌)を使った釣りに転向する。
釣り素人の私が、難しいんでしょ?と訊くと、中澤は笑った。
「それがね〜、意外にバイトが多くて、あ、バイトというのは魚がエサやルアーに食いつく(アタリ・ヒット)ことをそう言うんだけど、けっこうかかってくれるんだよ。しかも、かかれば大物。しかもタックルもシンプルでメンテも楽。いいことずくめでね、ハマってしまったよ。」

大物って、イッコーもビックリ「ど〜んだけぇ〜!」
2026年の1月31日、かつて取り逃した大物にリベンジできたと彼のブログにあったので、転載させていただこう。
沈船→HSE→HSN 9:30~12:30 晴/曇り 最低気温3℃ 波高1.5mうねり 北西微風 水温14.7℃ 中潮:満潮10:31
シケの合間を縫って出航、朝一は指が凍てつくので9時半出港と遅出。沈船で活餌確保、7尾釣るのに約30分、25cmサイズの青アジでやや活餌には大きすぎる感じ。
月曜日に座布団ヒラメを目前バラシしたポイント・北東側50mバラ根に直行、期待しての一投目、待てど暮らせどバイト無し。活餌サイズが大き過ぎて喰い込みにくいのかもしれない。キジハタ・カサゴのバイトもないのでエリア内をウロウロ、風が無く潮も流れないのでコンディションとしてはNG。
今日は空振りかなあと思いつつ、北側50mラインに移動。ベイト反応も芳しくなく諦めモードで流していたら前アタリが出て続いて押さえ込み、フッキングを入れると一瞬重量が乘ったがスッポ抜け。フックを避けて活餌の腹に噛みついたようだ。
居るのは判ったので同じラインを再度流す、辛抱して待っていると狙い通り前アタリが出た。ヒラメ40と言われるけれど、そこまで待てないが自分的には充分待ってフッキング。乗った!強烈なファーストダッシュにオシコン201HGのドラグが滑る。何度も反転して走るので青物?と思ったくらいの好ファイトで寒ヒラメ70cm/3.5kgをランディング。先日の目前バラシに凝りて、水面で空気吸わせて大人しくなってから手網入れした。

▲この時期の寒ヒラメ、しかもこのサイズになると食べ応え十分。まるで高級旅館の座布団のように分厚くよく肥えている。
中澤曰く「座布団」だが、70センチってそれ以上じゃん。
「晴釣雨読」いいね、「老人と海」超いいね!
「この萩沖には、大物を遥かに超えるバケモノがいてね。それを仕留める(釣り上げる)のが夢なんよ」と中澤。
「まさに、巨大な魚と老漁夫の死闘の物語、ヘミングウエイの『老人と海』じゃないですか!そのバケモノ(超大物)に引っ張られて、ず〜っと沖にどこまでも連れられて、なんて、ロマンだなあ〜」と私。
4年前、65歳で道の駅「萩しーまーと」を退職。ほかの役職やアドバイザーなどのいわゆる「仕事」は、徐々に静かにフェードアウトさせて、69歳の現在に至る。
定年退職だから、当然「退職金」は出た。
しかし、な、なんと。中澤はその受け取りを辞退している。
「考えてみ。売上10億の商売だよ。利益はそこから必死で搾り出す、とても価値あるものだよね。従業員たちがちゃんと分け合っても一人あたり大したお金じゃない。ところがその利益の中から僕がまとまったお金を貰っちゃうのはね、とても忍びなくて…」
金持ち喧嘩せず、というが、コツコツ働いてきた結果としての貯蓄はあるにせよ舟にもお金はかかるわけで…。
金、金、金と、金の亡者が多い(失礼)元リクの中で、こんな人もいらっしゃるんだと。
ほ、ほ、ほ、惚れてまうやろ〜〜〜〜!
「ちょっとカッコ良すぎません?僕なら絶対もらいますよ。旅の資金もカツカツですし。お金の余裕があったら、道具を買って釣りもしたいな。実は僕、淡路島育ちでして、子どもの頃、イカ釣り漁船に乗せてもらって、イカを釣った経験はあるんですけどね」と口を滑らせてしまうと、「越生くん、明日の早朝、沖に一緒に出てみる?」
と誘われた。
誘っていただいたのは1月27日、真冬である。
波風の強い萩沖で木の葉のように揺られ、しかもスプレーを頭からかぶる勇気はとてもない。
「あ、あわ、いや、ふ、冬の日本海は、ちょっと無理かもですw。次回、ベタ凪の時にぜひお願いします」と尻尾を巻いて辞退した。

中澤さかな、上から読んでも下から読んでも「なかさわさかな」なその人は、海況の穏やかな日を狙って週に3〜4回程度出航し、暴風雨などで出られない日は読書三昧。
彼は今、そんな素晴らしき「晴釣雨読」生活を送っておられる。
