
1991年の秋に私がリクルートを辞める時には同じフロアで働いていたR83村井満が、急遽全社の人事部門に異動になったのは、1992年のことだった。
求人分野の広告は不掲載という会社も増え、リクルートに教育トレーナーなんてやってもらいたくないという不買運動に近いようなことも起こって、リクルート事件が長期化の様相を呈してきたことはじわじわとビジネスに影響し始めていたが、何よりバブル崩壊による経済の冷え込みによる経営環境の悪化が、大きな負債を背負ったリクルートを容赦なく襲ってきた。
そんな状況下で、村井は上司である人事担当役員・関一郎と相談し、リクルートは全社の人事部門でアルバイトの採用にストップをかけることを決断する。
リクルートはご存知のように年間何百人もアルバイトを採用するような会社で、このA職がそれまでのリクルートの成長の大きな原動力でもあったが、これを一斉にやめたのである。
会社が緊縮財政、つまりは危機管理モードに転換したことを、従業員全員に知らしめたいと考えてのことであった。
1992年と言えば、私も大好きな中島みゆきのファン層をさらに広げんとする広告キャンペーンが始まったが、そのコピーは大尊敬する仲畑貴志が書いた。私は当時一瞬でノックアウトされたが、今後いくらAIが能力を高めようとこれは絶対書けないと思う。
「殺してやろうと思った。けど、中島みゆきを聴いて、やめた。」
第7話は、ダイエー傘下に入った1992年以降、危機管理モードの中でさまざまな人事制度を投入して債務減らし人減らしを急いだリクルート、それに応じてリクルートを飛び出していった転職者の、互いのネクストステージの物語である。
中島みゆきの「時代」「地上の星」「ファイト!」あたりをお好みで聴きながら、お読みくだされ。

キーワードは、「エンプロイアビリティ(employability)」
リクルートがダイエー傘下に入った1992年。
G8の近く、銀座にしては質素というか、かなり地味な、とある小料理屋に、2人の男が深夜になると毎日のように現れるようになった。
2人は奥にある小上がりに直行し、ひとり、また一人、とそこに遅れて加わってきて、彼らは午前2時や3時まで、侃々諤々の議論をし続けた。
2人の男とは、リクルート人事部長の村井満と、彼の上司である人事担当役員の関一郎である。
関と村井は、人事部門の仲間を巻き込み、連日、極限の状態にある会社で人事はどうあるべきかを議論し続けていた。
その議論は職場だけでは終わらず、彼らは場所をその小料理屋に変えて、続きをやったのだ。
「リクルートらしい人事のあり方とは?」
「人が働くモチベーションの源泉はなにか?」
リクルートらしい人事のあり方を、来る日も来る日も議論していった末に、彼らの間であるキーセンテンスが共有されるようになってきた。
「リクルートは雇用を保証するのではなく、雇用される能力を保証したい」
まず、従業員の首を簡単に切るような会社はダメだろう。
しかし、従業員の首を切らないからといって、そのことだけでは必ずしも優しい会社であるとは言えないだろう。
本当に優しい会社というのは、従業員をクビにしない会社ではない。
そもそも会社というのは、今まさに自分たちがその危機に瀕しているように、いつ何どき潰れるか分からないのだ。
そんなとき、どこでも生きていける能力を従業員に与えうる会社こそが、本当に優しい会社ではないのか、と。
村井、関たちが見出したキーワードは、「エンプロイアビリティ(employability)」だった。
よそからの借り物ではない「リクルートらしい人事制度」を模索して
やがて彼らはそのキーワードを軸に、リクルートの人事コンセプトをまとめ上げるに至る。
それは、こういう表現となった。
「リクルートは雇用を保証するのではなく、雇用される能力、つまりエンプロイアビリティ(employability)を保証する会社でありたい」
つまりは、リクルートで能力をつけた人がどんどん外で活躍することを、むしろ奨励していこうと。
「リクルートに残ることがゴールではない。目の前にチャンスがあったらどんどん出ていけ。そのためにお金が必要だったら30代でも退職支援金を出そうじゃないか」
「どこでも働いていく力を従業員が身につけることが、結果的にはリクルートという会社の価値になる」
ここに、リクルートの新しいDNAの方向性が、明確になった。
リクルート事件があって、バブル崩壊があって。
会社が極限の状態にあり、しかも財務的にも破綻しているという追い詰められた状況だったからこそ、よそからの借り物ではない「リクルートらしい人事制度」が、この方向性から次々と生まれていくのである。
それにしても、これは、当時の世の中ではかなり非常識なコンセプトだっただろう。
また、「ただ人を減らしたいだけじゃないのか?」という残念な受け止め方をされる場合も多かった。
それでも村井と関の二人を中心に、人事部門ではこの新しい「リクルートらしい人事制度」について、さらなる議論が重ねられ、その後の様々な人事制度がこの方向にアラインされていった。
それは、クリエイティブに目覚めた制作組織において起こった
「エンプロイアビリティ(employability)」。
それは、リクルートがリスタートして、窮地からの脱出を図るための、乾坤一擲。
このリクルートの新しい人事コンセプトが、会社を離れていくものとの間でwin-winとなって結実した典型的な例がある。
それは、リクルートに残っていたナンバーワンクリエイターの社外転出という形で起こった。
当時、リクルートの制作部門はいまだかつてなかったほど、活気があった。
リクルートのDNAとしては傍流でありヨハ的な存在でしかなかった「クリエイティブ」と言うものに関一郎が火をつけ、彼の誰も真似のできない切り口と推進力によって仕掛けられた大きな流れは、市販誌として読者によって磨かれ続けてきたSJ(転職情報誌部門)のクリエイティブと合流。リクルートの中に、遅まきながら「クリエイター」という概念が生まれ、そのうねりは1989、1990、1991と、年々大きなものとして広がっていたのだ。
その関一郎自らが、極端に状況が変わってしまった翌1992年に、どん底からリクルートを救っていくために突き詰めた人事コンセプトは、初めて覚醒していたリクルートのクリエイティブ人材たちの「自分たちは社外では通用するのだろうか」という自問自答につながっていく。
誰もがリクルートの苦境、関一郎の苦悩はわかっていた。
その上で、従業員たちが新しい人事コンセプトをどう受け止めるか。
人一倍感受性の強いリクルートのクリエイターたちだからこそ、あるいは何よりクリエイティブを大切に考えていた関一郎のメッセージだったからこそ、制作畑の従業員たちのハートにこそ、深く刺さったのかもしれなかった。
去る者と、去る者は追わぬ会社との間のwin-winとは
そもそもがだ。
到底返せるとは思えない、返せても20年かかるのではないかと言われたほどの金額の借金を背負ったのである。
ましてや会社の一員ではあっても個人としてその一部を借金したわけでもなんでもないのだ。
それを、会社が返済するために働くことなど、誰でも馬鹿馬鹿しいことだろう。
ただひたすら日々の仕事に忙殺されていたリクルートのクリエイターたちが、その馬鹿馬鹿しさにも気づき、外に目を向け始めたのは当たり前のこととも言えた。
会社としても、紙からデジタル化、紙を介さないネット上での情報提供の時代が迫っていることはわかっていた。つまり、いずれはクリエイターたちが必要のないリクルートになることは見えていたのだ。
すると、クリエイターが辞めていってくれることは「渡りに船」ということになる。
つまり、辞める者が社外で通用するという条件つきで、辞めるものと辞めてもらうものとの間でwin-winが成り立つことだったのだ。
そんなリクルートのクリエイターたちが、社外で通用するのかを試そうとした場があった。
TCC=東京コピーライターズクラブである。
説明する必要はないびだろうが、念の為。
TCCは、東京を中心に日本全国で活躍するコピーライターやCMプランナーの団体である。おそらくは世界で最大のコピーライターの集団だ。毎年4月に、前年度に実際に使用された広告の中から、優秀作品を選出している。
そんなTCCの優秀作品審査に、リクルートのクリエイターたちは「採用広告」という自分たちのスタイルで挑むようになっていったのだ。
やった!リクルート史上初にして最後、TCC最高新人賞
彼らの中からTCC新人賞を受賞するものが初めて出ると、1995年、快挙が成し遂げられる。
もはや社内のアドコンテストなど受賞は当たり前となっていたリクルートクリエイティブのエース絹谷公伸が、TCC最高新人賞を受賞したのである。
「TCC賞」「新人賞」と、「最高新人賞」ははっきり言って、格も意味も全然違う。
「最高新人賞」という年間一人だけの最高の栄誉に輝いたリクルートのクリエイターは、後にも先にも絹谷公伸だけ、最初にして最後である。デザインを担当したのが「カマりん」ことR81でブレーンに転じた鎌野昭一出会ったことと合わせて、私にとっても最高に嬉しいことであった。
そのTCC最高新人賞を獲得したコピーは、大阪府警察の採用ポスターでの「大阪府警!」
当時、大阪南港にもこうして貼られたように、大阪の至る所にこのポスターが貼られた。
「ビジュアル」は、「大阪府警」というたった四文字。最後についた「!」が、非常に効いている。
これがインパクトのあるビジュアルの役割を果たし、誰もに「なんだなんだ?」と思わせておいて、左下に、私はこれがキャッチの役割を果たしているとも思うが、「いい人が捕まらなかったら、どうしよう。」とある。
実に見事ではないか。
皆さんお分かりだろうし、私の蘊蓄をくどく重ねるまでもないが、警察官募集広告としての「いい人をつかまえたい」という本音と、「悪い人を捕まえる」という大阪府警のミッションとの、「韻の踏み方」も最高だ。
これは「大阪府警察官募集広告などつまらないもの」という固定概念の根本的破壊であり、先入観を逆手にとって大阪府警のイメージまでもを変える力を持った、革命的広告であった。
最高新人賞受賞時の、絹谷のコメントがイカしている。
「TVの映像でしか見たことのなかった大地震。まさか自分がそっち側に立つとは夢にも思いませんでした。TCC広告年間のアイドル?最高新人賞に自分が経つなんぞはそれ以上のまさかな出来事です。もひとつまさかは、あの大阪府警さんがこの案をOKしてくれたこと。これは田口警視はじめ採用チームのみなさんのおかげです。今日からは無事故・無違反・無犯罪で、このご恩に報いるつもりです。」
(TCC年鑑より引用)
キョンキョンが投げた豪速球をノービジュアルで投げるということ
絹谷のこの名作を見て、思い出したCMがある。
80年代半ば人気絶頂だったキョンキョン(小泉今日子)だから成立した、1986年の武田薬品工業「ベンザエース」のCMだ。

キョンキョンがCMに出ればどんな商品でも売れた時代。そんなキョンキョンに、稀代のコピーライター仲畑貴志は「ベンザエースを買ってください。」というあまりにストレートな言葉を、あえて言わせた。
もちろん仲畑は「買ってください」という言葉がそれだけで届くと信じてのことではない。
「(広告が言いたいこと)わかっているでしょ」と。
当時、広告の表現技術が向上し、コピーもどんどん上手くなっていた。
上手いのは良いことだが、「口の上手いやつ」という表現があるように、上手さが必ずしも説得力を持つわけではない。
広告って結局、「買ってくれ」と言うもので、それをあれこれと広告では言うのだが、それをストレートに気持ちよく言ってしまおう、そういう好きになってもらうやりかたってのもある、と仲畑はこのコピーを絞り出した。
この表現は、野球で言えばただのストレートに見える。しかし、キョンキョンという当時のとてつもない存在に投げさせたことで、時速160キロの豪速球となった。
ちなみに、薬だからといって、「飲んでください」「使ってください」「お試しください」ましてや「服用してください」なんぞは、どれもキャッチャーミットに届きすらしない。
あくまでキョンキョンというビジュアルが前提で、「買ってください」、これしかないのである。
この言葉がキョンキョンの周りでスパイラルを描き、一周回って、猛烈な到達速度を持つ豪速球となって、たった15秒でCMを見るものの脳にカゼ薬=ベンザエースを刷り込んだ。
ベンザエースは、差別化や効能表現が極めて困難な「薬品」の中で、キョンキョンを起用した広告で売上を大きく伸ばした。
カゼ薬なんて数え切れないほどある中で、風邪をひいて薬を買いに来た人が、みんなベンザエースを買っていく。他の薬品メーカーは「勘弁してよもう〜」と悲鳴を上げただろう。
キョンキョンなしで、超がつくお堅い組織とアタマを納得させた奇跡のプレゼン
しかし「大阪府警」という概念には、キョンキョンのような破壊的好イメージはないわけで。
ただ「大阪府警」という四文字は、誰もが気になる、あるいは人によってはドキッとする?特殊な力を持つものであることに、絹谷は突破口を見つける。
「これがビジュアルだ!」
キョンキョンに言わせた言葉が「買ってください」でしかあり得なかったように、「大阪府警」の四文字は、この、やや太めの明朝体、これしかない。
「ゴチック体」を選択した途端、到達スピードは半減。気を衒った書体なんぞでやったら、キャッチャーミットに到達すらしなかった。そして、四文字に「!」をつけることで、圧倒的にインパクトが増した。
大阪府警が大阪府警たる書体、もっとも大阪府警らしい書体で、画面いっぱいに大声を上げて何を言ったか。
「あれ、何か、言ってるぞ、左下に小さく書いてある。どれどれ…」
「いい人が捕まらなかったら、どうしよう。」だって…。
あとは、もう、「大阪府警!」だけが機能する。このポスターが大阪のどこかしこに貼られれば貼られるほど、大阪府警が警察官を募集していることが大阪中に知れ渡るのだ。
絹谷は、誰もをこの「型」にはめた。シンプルだけに、「型」にハマるしかない。
その結果、ポスターの効果を破壊的に、つまり野球で言えば時速160キロの豪速球へと、引き上げたのだった。
広告の言葉は誰を通過するか、何者が言っているのかで、そのスピードやニュアンス、届き方が大きく変わる。キョンキョンという人そのもの、また、大阪府警!の明朝体の文字が大阪府警そのものとなって、それがメディアとなり、キャッチの力がそれに掛け算されるように、この2つの広告が伝わるスピードはとてつもなく速くなったのだ。
このように、効果的な広告を打てば、求人広告は確実に届く。商品は確実に売れる。
だからこそ、一生懸命クライアントを説得するわけだが、実際には説得し難しいことも多い。
サントリーのような企業は「広告をやったら売れる」という広告の効果を長年にわたって実感しているし、クリエイティブと広告効果の相関をきちんと理解しているから、優れたクリエイターの感性とコンセプトワークとを疑心暗鬼にならずに受け入れてくれるわけだが。
そうでない多くの組織に、突き抜けた、あるいは業界では「振り切った」とよく言うが、斬新なクリエイティブをプレゼンで通すことには困難が常に付き纏う。
たとえば、私がここで行ったような分析、説明を、すればするほどダメである。
だからこそ。
「説明するより実物としてお見せしました。その瞬間、府警の幹部のみなさんの目の色が変わり、そして腰を上げ、『これ、これだよ、これがいい!』と食いついてくれました」
そう振り返る絹谷のプレゼンテーションの場面、絹谷の恩人・田口警視殿には大変失礼ながら、私などは、警察組織は超がつくお堅い組織で、その頂点に立つ人たちはダイヤモンドのようなアタマをしていると思っておるわけで。
だから、大阪府警幹部のこわいこわい目からとんでもなく分厚い鱗が落ちるその奇跡の瞬間を、私はその場に侵入して、ぜひ見てみたかった。え?警官侮辱罪と不法侵入?田口警視殿、ご勘弁を!
「ちかごろの犯人は頭がいい」と、「音が進化した。人はどうですか。」
殻を破って一歩踏み出したことによって、大阪府警は、かつて一度も経験したことのなかった、応募者増と質の変化に、大きな手応えを感じた。
だから、この絹谷の手法を、シリーズで展開したのである。
かくして絹谷は、翌1996年には「ちかごろの犯人は頭がいい」という、1作目の踏襲ではないまたまた斬新な切り口で、この年もTCC賞を受賞する。
絹谷公伸の大阪府警のポスター第二作を見た時には、私がリクルートに入社した年に、仲畑のCMに「ウォークマン」を買わされてしまったことを思い出した。
CMを見た私は翌日会社に行くと、早速隣の席に座って私を指導してくれていたR81の林弘幸先輩にウォークマンを発注した。彼の実家は電気屋だったから。
ウォークマンは発売時からどんどん売れていたので、すでに多くの人が持っていたし、世の中的に知られていた。他社でも同様の商品は出ていたけれど、最軽量ということを追い求めた結果、ソニーは先駆者的な存在になり、ウォークマンはヘッドフォンステレオの代名詞になっていた。
ウォークマンは常に改良されて進化していたので、毎回CMで新たに伝えるべきことはあったが、ソニーオリエンでソニーの担当者は仲畑にこう言ったそうだ。「今回は大きな変更がほとんどないんです」と。
仲畑は、これまでの改良点訴求とはアプローチを変えて、クリエイティブの力をもっと活用しませんかと提案する。提案したのは「猿」だった。
お猿のチョロ松が出演し、一倉宏の「音が進化した。人はどうですか。」のコピーと相まって、爆発的効果を生み出したウォークマンのCMだった。お猿のウォークマンのCMは誰が見ても「面白い」と感じてもらうことができ、クリエイティブがジャンプした結果、商品も180パーセントアップした。
精密機械だからと冷たいイメージでやっていたのでは、使う人たちみんなの持ち物にはならない。だから、機械的なイメージからチャーミングな方向にいったほうが、絶対に得になるし、しっかり伝わるという確信が仲畑にはあった。
第二弾では、大阪府警も「悩める人間の集まり」でしかないと「自白」させた
翌1996年にTCC賞(クラブ賞)を受賞した絹谷の「大阪府警!」ポスター第二弾のコピーは、「ちかごろの犯人は頭がいい。」である。
犯人が紙袋を被って顔を隠しているビジュアルは、ウォークマンで言えば精密機器イメージとはかけ離れた「猿」がもたらした効果に匹敵するものだった。
融通が効かないお堅い組織、人によっては怖いイメージを持つ大阪府警ゆえに、そのままお堅いイメージでメッセージしたのでは、みんなの心には届かない。
そこで絹谷は、大阪府警ポスターのシリーズ第2作目を、「ちかごろの犯人は頭がいい。」とやったのだ。
多くの未解決事件を抱え、知能犯たちに手を焼いて困っている大阪府警の刑事の誰かが、イライラから思わず発した愚痴のような呟きだ。
つまり自分たちも喜怒哀楽のある人の子、時には悪いこともしてしまう(笑)未熟な人の子なんだ、と、そこまでは言わせなかったが、捕まえるのに四苦八苦している「人間味」を曝け出すような一言として表現することで、クスリと笑える共感を実に巧みに誘っているではないか。
その上で、「あなたの知力を試してみませんか。」との「本論」である。
ここにおいて、かつての「警察官募集」は、「一緒に悩んでくれる仲間募集」「なんとか助けてちょんまげ」みたいな、親しみの持てるメッセージへと変わったのである。
お堅いイメージからチャーミングな方向に振ることで、府民にとって大阪府警はすごく近い存在になるし、頭のいい犯人の逮捕に頭を悩ませ手を焼いている、とても人間臭い組織なら、そこに入って助けになってもいいかな、という気にもなるだろう。
実に素晴らしいアイデア、もとい、産みの苦しみを紹介しよう。
「ボクは打ち合わせの時、アイデアが湯水のように出るというタイプではありません。だから、アイデアを考えるよりも消費者にとってチカラのあるものってなんやろか…それを考えた方が早いのです。B全の紙にチカラを持っていると思うことを描いて、廊下に貼って、駅を歩く人の速度で実際に歩いて、パッとその紙を見る。何百回とやって一番強かったモノがこれ。労作ですワ。」(TCC年鑑より引用)
ちなみに上のポスターのコピーは絹谷ではない。
スタイルは、まったくの絹谷パターンで「犯人へ、」というキャッチから「逃げてもムダよ。スゴイ人大量採用。」で受けるコピーで、絹谷の後輩である別のコピーライターがTCC賞をとった。めでたしめでたし。
絹谷は翌1996年、電通、博報堂のクリエイター中途採用に両方合格。
電通に転職したため、大阪府警から発注を受けていたリクルートは別のコピーライターを立てて、クリエイター流出のピンチをなんとか凌いだと思われる。
1996年5月のTCC優秀作品選出の審査では、絹谷は下記の錚々たる面々の一角にいた。
審査委員長:仲畑貴志/審査委員:秋山晶/安藤隆/石井達矢/一倉宏/糸井重里/岩崎俊一/魚住勉/梅本洋一/大島征夫/太田恵美/岡康道/岡田亜子/岡田直也/岡部正泰/小野田隆雄/佐倉康彦/佐々木宏/佐藤雅彦/白土謙二/杉山恒太郎/鈴木康之/谷山雅計/戸田裕一/長沢岳夫/中村禎/西村佳也/林尚司/日暮真三/眞木準/絹谷公伸/山崎隆明
(TCC年鑑より引用)
リクルート最初で最後のTCC審査員。コピーライター人生最高の思い出をリクルートに置いて、絹谷は1996年7月、電通の社員となった。
銀座の料亭で一席設け、リクルートクリエイティブのエース絹谷公伸の門出に祝杯をあげてくれたのは、関一郎と、今は亡き坂本健だった。
仲畑貴志と絹谷公伸の不思議な会話と、二人の原点
絹谷公伸のコピーを、仲畑貴志のコピーをセットにしてに私なりの解説を加えたが、もちろん意図的に、である。
仲畑貴志は、半世紀近く前に私を広告の世界へと誘ってくれ、いま私が画家となってなお文章の力を大切にしようと思わせてくださる、私より11歳上、絹谷より16歳上の大先輩コピーライターである。
彼に憧れたのはいいが、そのままなんらの行動を起こさず距離も詰められずに68歳の今を生きている私とは違って、絹谷は実際に仲畑の事務所を訪ねて彼に教えを乞うたし、ともにTCCの会員として、少なからず直接の接点を持ち続けている関係だ。
遡れば、関一郎が仲畑を、リクルートのブレーンに光を当てようとクリエイティブコンテストを始め、その審査員として仲畑を招聘したことが二人を近づけた。
その後1995年に絹谷はTCCにおいて「最高新人賞」に輝き、コピーライターとして表舞台に踊り出たが、絹谷作品と仲畑作品には同じ鋭さがあり、同じ匂いがする。
ここまで絹谷の作品と中畑の作品をいちいち並べて論じたのは、「だから」である。
絹谷が、初めて会った仲畑との会話が、実に興味深い。
「君、どこの人間なの?」と仲畑。
「大阪です」と絹谷。
「大阪のどこよ?」
「生野区です」
「おお生野区か。それなら君は、いいコピーが書けるな」
実に不思議な会話、多くの人には意味不明であろう。
本音と建前、本能と行動様式にギャップがある、それが人間
当たり前に存在する言葉を、皆が共感できるように表現をアレンジし、メディアに乗せて発信すること。それがコピーライターの仕事である。
コピーライターは皆そうなのだが、絹谷と仲畑には2つの共通点がある。
一つは映像に強いこと、そして、もう一つはコピーが人間臭いことである。
ではなぜ人間臭いのか?
二人は「人と人の間の言葉を拾う」タイプのコピーライターであり、「人の本能と行動様式の隙間」にクリエイティブの源泉を求めるゆえ、生み出されるコピーが人間臭いのである。
もちろん、それぞれにスタイル、自在な展開があって、何から何まで似ているということでもない。
ただ、私は、先ほど紹介した会話に、なぜ二人のコピーはすごいのか、その共通点は何か、という理由のほぼすべてを見るのだ。
絹谷が高校卒業まで育った生野区は、大阪でも一二を争うコリアンタウンである。もちろん現在の当該地域住民が特別視されるべき理由となるものではないのは当然だが、事実、子どもながらに、うかうかしていると生存が脅かされる(?)緊張の中で絹谷は育った。
幼い頃から、番長的ガキ大将の暴力にひれ伏す理不尽、その理不尽に巻き込まれない対処法や未然防止法を自然に身につけ、柔軟でシンプルなコミュニケーション力を磨いたのだ。そして、どんな環境の中にあっても、巻き込まれないために一歩距離を置いてマイペースを乱さない生き方も身につけたのだった。
では仲畑貴志はどうだったか。
彼は京都市南区の唐橋大宮尻町にあった洛陽工業高校に通っていた。
ここ唐橋大宮尻町周辺は、歴史的に被差別部落(同和地区)が存在した地域の一つである。
南区は京都駅の南側に位置し、歴史的に河川の周辺や旧街道沿いに被差別部落が形成された経緯があるが、唐橋地区は平安京の羅城門跡の近くに位置し、江戸時代には「穢多」村の系譜を引く集落が存在した。ご存知の通り、江戸時代における身分制度の下で、特定の職務を強制されたり、地域を制限されたりする理不尽は長く残り、この地域の人には、代々、長期間にわたり経済的・社会的に厳しい立場に置かれてきた方が多い。
仲畑貴志は、本当の京都に生きて、人間の本質を知った
京都の南区に過去の身分制度に基づく差別の構造があったこと、大阪生野区がコリアンタウンとなった歴史、それらはもちろん、現在の当該地域住民が特別視されるべき理由となるものでは断じてない。
しかし現実には、そうした建前とは別に、なぜかその地域がそう「見なされる差別」として残っている。
仲畑が毎日通っていた高校は、同和地区のど真ん中にあった。
しかも彼が通っていたのは65年も前のこと。それだけに、「差別」「軋轢」の日常が、まだ生々しくそこにあった。
彼がさまざまな理不尽を毎日目にし、体験し、「人間の本質」を多感な少年時代に身に染み込ませたであろうことは容易に想像がつく。
私自身、学生時代以来京都で仕事をした期間が通算30年以上あって非常に長く、こうした京都ならではの理不尽の中で人生を送ってきた人との交流は少なくない。
団塊の世代である仲畑よりもさらに5歳上、親の代に北朝鮮からやってきて差別社会を這い上がり、不動産取引で一時京都の長者番付上位の常連だった私がよく知る人物もその一人だ。
「子どもの頃、夜になると、周りの大の大人が大酒を浴びるように飲んで、大声で泣き喚くんや。そんな彼らの姿を俺は毎日見ていた。子どもの俺は俺で、俺をやっつけようとやってくる奴らと、毎日やり合っていた。やらなければやられる。手段を選ばず倒して、そして逃げた。理不尽などという言葉ではとても包みきれない、そんな日常やったね。」
「金に困ったから、なんでもやったよ。もちろん賭け麻雀もやった。ヤクザとやって、ここで負ければ金を払えない、命を取られるかもという局面では、心臓が音を立てて鳴るんよね。ドキドキなんて音じゃない、それは、チコーン、チコーンという変な音なんや」
「キミな、京都ではな、ヤクザと同和。この両方のドンを抑えないと、大したことはできへんよ(この人はつまり両方と仲良くしつつのしあがったと言うことだが)」
京都の次に長く暮らした神戸にも、私が子どもの頃は特に、そこら中に差別の名残が残っていた。
私の人生で縁をいただいた、新宿歌舞伎町駆け込み寺で有名な玄秀盛も、神戸出身だ。時期的には、私と彼は子どもの頃にすれ違っていたかもしれない(笑)。

「殺してやろうと思った。けど、中島みゆきを聴いて、やめた。」
玄は、差別のシャワーを浴びた少年時代、青年時代を経て、40を超える職を転々とし、現在、新宿歌舞伎町でホストに金をむしり取られる女の子たちの駆け込み寺として、日々悪人どもと対峙するに至った。
「父親は韓国の済州島から密入国で(日本に)来て、神戸で働いてた。母親は在日で、母親以外の処を転々と住むところを変えて暮らしてた。覚えている女の人だけで5人かそこら。」
「三重、京都、奈良、大阪、行くたびに全く環境が違う、名前も変わるし、国籍も変わる。学校も小学校2年の時だけで3回変わってる。誰が自分のお母ちゃんかなと言う事で、小学校2年の時は北朝鮮の学校、小学3年になったら韓国系の学校で、これが全く違うんや。」
「父親自身は働かないので常に女性に食べさせてもらっていた。 だから女性の処に行ったら、そこの家族に連れ子として連れまわされる。父親がまた違う女のところに行くもんやから、そこに居られへんようになるから当然家出するわな。」
「警察に補導される、父親が呼ばれる。父親は密入国したけどその頃は外人登録を持っていたかな。そういう繰り返しを小学校で8回、中学校で5回。勉強?そんなんする暇あらへん。兎に角自分の生活のこと、飯をどうしようかしか考えてなかったな。」
「子守をし、新聞配達をして、忘れもしない1,200軒(配った)。初任給1000円は母親に取られたけどな。小遣いは貰ったことが無いので新聞配達でもらう金を栄養補給に使った。中学生で煙草をやってたりシンナーを吸ってたりするので走るのが辛い。万引き、年上の高校生に対して恐喝、窃盗をする。」
中学2年になったら密入国した母親が借りた家に一人で住むようになる。手に負えないのでここに一人で居れと。月のうちの1週間分の食費しか貰えないのであとは恐喝。補導は5~6回されたな。学校の方も家庭環境が判っていたので退学とかは成らなかったな。中学って、退学ないんか?」
「仕事は、最初、自動車修理工場。シンナーが吸えるからな。仕事しながら半年ぐらいシンナーを吸ってラリってた 食事もろくにせずや。次に寿司屋に就職した。食べれるからな。その後転職、転職。職種で20職ぐらい、転職の数で40回ぐらい変わった。殆どあらゆる職種を体験する。人の動きばっかり見ていたので仕事作業は1回やると6割は覚えられた。盗み聞き、盗み見は得意やったわ。」
その後の彼の人生はさらに壮絶だったが、紹介するのは少年時代だけにしておこう。
人間なればこその「差別や偏見」、「本音と建前」「本能と行動様式」の隙間
結局、私はここで何を言いたいか。
言いたいことは、2つである。
一つは、「差別」するのが人間、「偏見」を持つのが人間、「本音と建前」を使い分けて生きているのが人間、「本能と行動様式」にあまりに大きな隙間があるのが人間ということ。
それがいい悪いではない、それが人間だということだ。
もう一つは、上記に指摘した人間の本質を、何にも誤魔化されることなく見つめることこそは、クリエイターとして持たねばならない、当たり前の「目」であるということ。
だから、おそらく同じ目を持っているであろうと感じた絹谷に対して、仲畑はこうした解説、枝葉を全て端折って、「おお生野区か。それなら君は、いいコピーが書けるな」と言ったのだった。
言い換えればこうだ。
「きっと君は、大人になる過程で人というものを知っている。だから、人の心を射抜くコピーが書けるだろうよ」。
冒頭に紹介した、「中島みゆき」のプロモーションコピーのようなコピーは、この二人に共通する視座からしか生まれない。
「殺してやろうと思った。けど、中島みゆきを聴いて、やめた。」
ちなみに、玄秀盛には本気で殺してやろうと思った奴が3人いたという。
彼はシャバにいる。だからもちろん、実際には殺していないが、ひょっとすると中島みゆきを聴いてやめたのかもしれない。知らんけど。
話を戻そう。
テーマは、理不尽の理解者がなぜいいいいコピーが書けるか、である。
仲畑貴志が見ていた日常の景色、それは京都の街。
雨の京都を彷徨う野良犬に、仲畑は、懸命に生きる人間を見ていた。
それが1981年、CM史上、不朽の名作「トリスの味は人間味」に化けた。
「トリスの味は人間味」、犬も人間も、雨の中を彷徨っている
トリスのCM「雨と犬」篇、コピーはこうだ。
「いろんな命が生きているんだなぁ~、
元気で。とりあえず元気で。みんな元気で。
トリスの味は人間味。」
絵コンテを書いたりする予算が無かったから、仲畑がプレゼンに使ったのは銀行のメモ用紙だった。
1枚目に「主人公、犬一匹」、2枚目に「時は、たそがれ時。」
と、文字だけのコンテだった。
それは、仲畑の故郷・京都の街中を、子犬がさまようという企画だった。
企画当初は、なんと、商品も決まってなかった。
が、これは企業広告だということになって、最終的にサントリーの出発点であるトリスに着地したのだった。
このテレビCMは、カンヌライオンズで金賞を獲ったが、私に言わせればそんなものは当然、いま見ても、国や時代を問わずに通じる、間違いなくクリエイティブの金字塔なのだから。
撮影は、黒澤明監督率いる黒澤組。
「人間じゃなくて犬が街中をウロウロしている姿を撮ってもらうわけだから、ある程度のスケール感をもって撮影しないと、映像として成立させるのが難しい」
そう思った仲畑は、監督は高橋典、撮影に宮川一夫、照明に佐野武治という黒澤組に映像を託した。
名作が完成した。
本当にいいクリエイティブは、やはり一流のスタッフィングでやると、さらにどこまでもジャンプするのだろう。
仲畑がいいコピーを書けるよと言った、その必要条件を満たすのかもしれない大阪市生野区に生まれ、18歳までそこで育ち、神戸大学農学部を卒業してリクルートで10年、32歳でリクルートから電通に転職し、その後22年間第一線のクリエイターとして活躍してきた絹谷に、「リクルートと電通、どこがどう違うかな?」と私が問うと、彼からこういう答えが返ってきた。
「まさに人間万事塞翁が馬ですね。リクルートにいた10年間は、僕にとってなくてはならないかけがえのないものでした。まず、リクルートのすごいのは、組織でしょう。たくさんのことを学べたし、何よりメチャクチャに鍛えられましたよね(笑)。その組織は、強靭かつ柔軟です。だから電通より圧倒的に素晴らしいと思います。でも、あくまで私の好き嫌いで言うと、と言う但し書きをつけて言いますが、人は電通が面白い。さまざまな文化に深く接し、自分の言葉で語れる人は、電通に圧倒的に多いです。組織はリクルートが圧倒的に勝り、個人の、文化的であるという面での面白さ、それは電通が圧倒的に勝る、といったところでしょうか。」
もっとできる、もっと良くできる。とことん突き詰めるということ
続けて、「第二の人生の場として電通を選んでよかったと思えたことは?」と問うと、一段ギアを上げ、熱っぽく語ってくれた。
「電通の、電通たるクリエイティブとは何か、ということを教えてもらったことでしょうか。その場面というのは、こうでした。私が日本を代表するビール会社のCMを担当させていただき、クライアントのOKもいただいて、その「完成」したCMを、上司というかエグゼクティブ・クリエイティブディレクターの三浦武彦さんに見せに行った時のことでした。
三浦さんはそのCMを見て、こう言ったんですよね。
『ビールのCMってのはさあ、抜けた絵(おそらく爽快感溢れる、それが突き抜けた映像のことだろう)が必要なんだよ。もう一回、撮り直したら?もっとできる、もっとできるよ』と。
『これいいね、ありがとう』と、クライアントからはOKが出ているんですよ。だから完成したんです。それを『やり直した方がいいよ』と。長野県まで行って、撮影隊を再編成して。電通が勝手にクオリティを上げるためにやることですから、1500万から2000万円ものお金を、まるまる電通の持ち出しで、それでも『やった方がいいよ』ですよ!普通、あり得ませんよね。」
三浦武彦とは、電通の執行とは役員兼エグゼクティブ・クリエイティブディレクターであり、自身の出身大学である多摩美術大学の客員教授でもあられる日本のクリエイティブ界の大御所だ。
ADC賞,MEDIA Outdoor Adver-tising Awards,東京インタラクティブ・アド・アワード等の受賞歴多数…と紹介するより、JRやポカリスエットなど数々のテレビCMの名作をつくった人、特に山下達郎の「クリスマスイブ」に乗せて流れまくった、牧瀬里穂の可愛さがたまらないJR東海のクリスマスエクスプレスのCM、みんなを泣かせた強烈なCMをつくった人と紹介する方がピンとくるかもしれない。
「三浦さんからクリエイターとしての社会への向き合い方、プロジェクトの起点として一枚絵とコピーから映像を構築するメソッドを教えてもらった」と、彼を崇拝する一流クリエイターは枚挙に遑がない。
そんな彼に、「撮り直した方がいいんじゃない?」と言われ、実際に、絹谷は、CMの映像を撮り直した。そして、「抜けた絵」が入って生まれ変わったそのCMを見て、「こういうことか!」と、作った本人である絹谷は納得し、そして感動したという。
「確かに、すごく良くなった。断然良くなったんです。三浦さんが教えてくれた、もっとできる、もっとできると突き詰めることって、このことなんだと。クライアントがOKを出して完成したCMを、もっよやれるからと、会社の懐から2000万円も切り出してまでやり直して、とことん良いものにする。これこそが、電通のクリエイティブであると。こんなとんでもないことを実際に体験させてもらえたんです。電通に来て本当に良かったと、心から思ったことでしたね。」
コピーライターとしての力量を買われて電通に入社した絹谷が、一枚絵とコピーから映像を構築する三浦メソッドを知った瞬間かもしれない。それが、絹谷が今大阪芸大の「映像学科」の教授となるそのきっかけであったならば、彼にとって本当にかけがえのない出来事だったろう。
私が絹谷に教えてもらった「このこと」は、この物語の端緒、第一話で投げかけた、AIによるクリエイティブ制覇は起こるのか?という問いへの答え、「AIによるクリエイティブ制覇は起こり得ない、と私が断じる、その絶対的根拠の一つとなった。
50年も前の古典的コピーなら、AIはとうに学習しているし、書いちゃうんじゃない?
もし、「クライアントが十分満足してOKしている完成広告に、1500〜2000万円もの大金を犠牲にダメ出しするような芸当までもがAIにできるのなら、もう、人間がクリエイティブをやる余地はない。しかし、そんな非合理極まりない、大損こくような判断、AIには絶対にできるはずがないのだ。
第一話で、息子がAIにやられちゃうんじゃないかと心配して悩むR89の金鋭に、「大丈夫だよ」と言ったものの、その時はなぜ大丈夫なのか、私はちゃんと説明できていなかった。
なので、「AIに広告クリエイティブは置き換えられてしまうのか」という問題について、クリエイティブというものを掘り下げている今、ここ第7話で、きっちり決着をつけておきたいと思う(笑)。
まず、非常に具体的に、人間臭い仲畑貴志のコピーやCMディレクションをAIがやれるようになるのだろうか?ということを考える。
敢えて、古典的コピーを引っ張り出して考えてみよう。もう半世紀近く前のコピー、1979年の新潮文庫の「知性の差が顔に出るらしいよ…困ったね。」というのがAIに書けるか、ということをだ。
新潮社からはオリエン(広告制作の前提やゴールイメージなどの情報をインプットする機会)のときに「ライバル角川に勝ちたい」という話など全くなかった。つまり、半世紀後の今で言えば生成AIに「ライバルを意識してライバルに勝てるコピーを書け」と要望しなかったということだ。
オリエンを終えて、仲畑は勝手に、次のように考えた。
1970年代終盤から、角川は自社で出した書籍を映画化し、莫大な予算を組んで総合的に本を売り出している。でも新潮文庫のバジェットは、角川とは規模が全然違う。では、世の中に膾炙している敵の力を利用して話題をつくるのはどうだろう、と。
おりしも映画「野生の証明」(1978年 角川春樹事務所)が公開されたが、角川が打ち出していたキーワードは「野生」。小説と映画のタイトルにもなっている。では「野生」の角川に対して「知性」という言葉をぶつけてみたらどうだろう。「知性」という言葉はパワフルではないが、本という、知識や人間のふくらみに関わる商品にどのようなコピーがよいか考えてみると、この際、自らに戦略的な縛りを課すことも必要かも、と。
その結果生まれたのが、「知性の差が顔に出るらしいよ…困ったね。」というコピーなのだ。
AIに「エビフライの尻尾」「桃井かおり」へのこだわりはあるか
仮に、「知性の差が、顔に出る。」と、AIにここまでできたとしよう。
あと関門は2つ。
一つはアートディレクション、もうひとつがタレント選びとコピーとの組み合わせだ。
言葉の意味機能からすれば「知性の差が、顔に出る。」だけでよいのではないかと。実際、仲畑は当時クライアントからこの指摘を受けている。
確かに、言葉の持ちやすさ、使いやすさや伝わるスピードなどを考えると、コピーは短いほうがいい。でも、その言葉に込めた意図は、そぎ落とした機能だけで伝わるわけではない。仲畑はそれを、「エビフライの尻尾」理論と名付けている。
エビフライの尻尾は、食べない人がほとんどだ。
でも食べないからと言って、最初から尻尾が取られたエビフライが出てきたら?どんなにおいしかったとしても、それはもうエビフライとしてのビジュアルアイデンティティを持たないものになってしまっている。
このコピーで言えば「知性の差が顔に出る」はエビフライの身、「困ったね。」が尻尾である。
コピーも意味として伝わる部分だけでは、伝わりにくい。まさに「エビフライの尻尾」こそが、多くを伝えてくれるんだと。
これをAIが学んだとしても、何でもかんでもこれをつければ良いというものでもないわけで。そして、あの広告でこのコピーは、桃井かおりの口から発せられなければならなかった。
AIは、桃井かおりでなければこの言い方はない、とプレゼンしてくれるのだろうか。
おしり、うんちが匂う、そうしたことへの感性をAIはどう処理する?
次に、これも古典だが、1982年のTOTO ウォッシュレットのコピー「おしりだって、洗ってほしい。」が、AIに書けるかを考えてみる。
「おしりだって、洗ってほしい」のCMコピーはこうだ。
「皆様、手が汚れたら洗いますよね。こうして、紙でふく人って、いませんわよね。
どうしてでしょう。紙じゃとれません。おしりだっておんなじです。おしりだって洗ってほしい。」
このコピーには、破壊的な対案があった。
「手が汚れたら洗うように、おしりも洗った方がいい。だって、おしりは洗わないと少~し付いてますよ」。
TOTOは「少~しついている」の部分を気にして、「いや、そこまで言いますか……」と。
結果、その部分は取ってしまうことになったが、仲畑が今でも「少~しついている」の方が良かったと振り返るように、私も、絶対に、「洗わないと少~し付いてますよ」」のコピーが世に出ていたら、最初はバッシングされても結果的にはのちの流行語大賞が当時あれば確実にとったと思う。
テレビCMに起用されたタレントは戸川純。演出は、川崎徹。
あの内容を伝えるには、どこか浮世離れした彼女の存在感が大事だと言う判断、AIにできるだろうか。肉感的な女優さんが同じことをやったら、そりゃ、まずいだろう。
(少しだけついているうんちを想像して)匂ってしまっちゃ困るわけで。
もうそこは、人間の感性でしかないのだ。
なんでもかんでも、クリエイティブ・ジャンプすることがいいわけじゃないが。
しかし「洗わないと少しついてるよ」ということをストレートにコピーで伝えられたら、この商品は確実に売れると、仲畑は確信していた。
AIに、そんな確信は持てるのだろうか。
「だって、そのほうが面白いんだもん。」
では、数々の名作コピーを量産してきた仲畑貴志は、生成AIについては、どう考えているのだろう?
AIについて直接言及しているわけではないが、彼はこう断言している。
「クリエイティブの時代は、またやってくる」と。
まず、自身が大活躍したクリエイティブの時代については、「個人」が成立していた時代だったから起こったことだ(クリエイティブに花が咲いたのだ)と分析した上で、「個」には「興味深い何か」があるのだと。そして、それがクリエイティブの源泉なのだと結論づけている。
その上で、現状のクリエイティブは振り抜けていないという。
振り切れていないというのは、匿名の投稿意見を気にして、縮こまった広告表現の時代が続いている状態が続いていることを指しているようだ。
そして、しばらくはこれが続くだろうと。
(個を出すと異論に晒され)どんどん(個を)脱色していかざるを得ないから。
SNSなんかのいろんな声を気にするうちに、いつの間にか「個の主張のない状態」になってしまったのだと指摘した。
そこに、最大公約数的という意味では最高の答えを出す生成AIがやってきた。
だからこそ、仲畑は断言するのだろう。
「必ず、(また)クリエィティブの時代が来る」と。
その理由は?と問われ、彼はこう言った。
「だって、そのほうが面白いんだもん。」
「僕は、「風俗」をやります!」
第7話の主人公、かつて私の一番弟子だった絹谷公伸は、師匠であった私をとっくの昔に追い越し、戦友、親友を通り越し、一周回って今やただの飲み友達である。
数日前も大阪で、深夜3時半まで(笑)、絹谷と熱く熱く、広告コピー、小説、映画、生成AIと人間のこれからの生き方、私たち自身の生き方などを語り合った。
その中で、絹谷は生成AIと人間の折り合いについては、こう言った。
夜中の3時、相当に酔っている中での会話ゆえ、彼の正式見解ではないと言うことを断っておかねばならないだろうが。
「きぬやん、もし、生成AIにクリエイティブまでやられたとしたらどうする?」
「やられることはありえないけど、もしやられたとしたら、ということですよね?」
「そう、仮定の話だよ」
私はそう言って、興味津々で彼の顔を覗き込むと、彼は私の目をまっすぐ見つめて、きっぱりこう言った。
「僕は、風俗をやります!」
彼の名誉のために言っておくが、彼がどスケベで、自らの欲望を日々満たしたいがために「風俗をやる」と言っているわけではない(割とスケべな方だとは思うけれども)。
「風俗=つまり人間の性欲を満たすための産業」は人類の歴史上、世界のどこからも、無くなったことがない。
バーチャルで近いことができても、本物の、あの快感は、本物の、ナマの〇〇でしか得られない。
「風俗」は、ヒトの「本能と行動様式の間の隙間」に生まれるビジネスの典型である。
だから、AIにできない代表格として、象徴として、ビジネスとして「風俗をやる」と言っているのだ。
それにしても、「僕は、風俗をやります!」とは、AI論争の渦のど真ん中に投入したくなる、なかなか秀逸なコピーではないか。
書店で小説を買うヒトを見て思った。
2022年11月24日、仲畑貴志がTCCに寄せたコラムに私はいたく感動したので、コピペしてパソコンに残していた。
それを全文引用させていただく。
「ヒトが、ヒトの生活のコトを読みたいと思う不思議。ヒトが、ヒトの心の動きを知りたいと思う不思議。どうやら、ヒトはヒトに、最も興味を抱くらしい。
おそらく、ヒトにはヒトが、最もミステリアスなんだろう。
本能と行動様式の間に隙間があるからなんだな。
ヒトは、巣の作り方も教わらないと作れない。だから世界中、バラバラの様式の家を作っている。
ヒトは、教わった言葉しか話せない。だから世界中、バラバラの言葉を使っている。
地球上には、推定870万種の生物が存在するが、ルールを確認しながら生きている生物なんて、他にはいませんからね。
本能と行動様式の、その隙間を埋めて……ぶつからないように、ルールが生まれた。うまく生きるために、文化を生み育てた。
映画のテーマも、ほぼすべて、ヒトのアレコレです。
ヒトは、なにをしでかすか分からないから、いちばん興味深い。
ハラハラしたいから、胸を熱くしたいから、ホンワカしたいから、深くうなずきたいから、ヒトは映画を見ている。
プロモーションが、第一目的の広告ではあるが、ハラハラしたいから、胸を熱くしたいから、ホンワカしたいから、深くうなずきたいから……というヒトの希望に応えるような広告をこさえよう。と、思って書いたコピー。
『その青い星からは、音楽が聴こえてきた。音楽があるなら、ヒトが住む。ヒトが住むなら、愛がある。「地球人だろ。」』
ヒトは、「個」は、今は縮こまっているだけで「興味深い何か」を失ったわけではない
我々は、ヒトである。
ヒトには、「個」には、「興味深い何か」がある。
そして、それがクリエイティブの源泉であった。
ネットの時代になり、匿名の投稿意見を気にして、縮こまった広告表現の時代が訪れた。炎上を気にして、「興味深い何か」を隠してしまうようになった。
だから、「情報が人間を熱くする」は、「個」があった時代の幻想となった。
リクルートはいち早く、クリエイティブのエースでありリクルート最後のクリエイターだった絹谷公伸を籠から出して空に放ったが、それは絶好のタイミングではなかったか。
リクルートの中に細々と続いてきた求人広告クリエイティブという「かもめのDNA」はぷつりと切れて完全に途絶えたが、すっかりかもめでなくなった何やら無機質な別の飛行体は、「個の主張のない時代」「個性を脱色したコミュニケーションの時代」を今、空高く、羽ばたいてはいないが悠然と安定飛行しているように見える。
しかしヒトは、「個」は、今は縮こまっているだけで、「興味深い何か」を失ったわけではない。
だから絹谷は大学教授として、未来にクリエイティブな人を残していくだろう。
私は人生の最後に選んだ「絵」と、文章による主張とを、AIが迫れることと、ヒトにしかできないこととの隙間に、それはどんどん狭くなるのかもしれないが、少なくとも私は縮こまることなく確実にそこに置いていくのだ。
そんなことより。
もと一番弟子、今は飲み友達であり人生の良きライバルとなってくれた絹谷と、あと何十回、何百回(笑)一緒に飲めるだろうか。
一回一回を大切にし、互いの生存と使命の進捗を確認し合い、楽しく、大真面目に、この世の中に残すべきものを語り合っていきたい。