
第5話では、私の心の中の何かを半分切った男が、大阪の私のデスクの5m先にいたことを話した。
が、東京⇄大阪のピストン兼務が始まってすぐ、かすかに繋がっていた心の中の何かを完全に断ち切った男がもう一人、東京の私のデスクの5m先にいた。
それが当時の企画室長・藤田洋である。
多少仕事はできたが、リクルートの女性を手当たり次第に犯した、セクハラ男というか犯罪人である。もういろんなところで書いてきたので、この男についてはもう書かない。書く値打ちもない。
改めて書かなくても、のちにJリーグチェアマンとしても名を馳せる村井満が、人事畑10年の結論として、退職理由の8割が「半径10m以内の人間関係」にあると説いているが、私の場合もまさにその通りであったことを村井も知っている。そして、当時同じフロアの10m圏内にいた全員が彼の罪を覚えているはずだ。
そう、当時人が辞めたのは、リクルート事件のせいでもなければ、会社の将来展望が見えないからでもない。そうではなくて、「私はこの組織のためにここまで努力したのに、(半径10m以内にいる)自分の上司は結局、「自分の出世のことしか考えていないやつだと分かったから」心の中の何かが簡単に切れたのである。
さて 第6話は、ダイエー中内功のまさに10メートル圏内に入ったリクルート幹部、そして、変質した江副の10メートル圏内で言いなりになるしかなかったリクルートコスモスとファーストファイナンスの友人4人の、悲劇の物語である。
嗚呼、人間なんて。一皮剥けば、なんて愚かで醜いものであろうか。
第6話は、吉田拓郎の「人間なんて」あたりを聞きながら、お読みくだされ。
事件に負けてなるものか、前を向いていたリクルートだったが
リクルートコスモス未公開株のばらまきは、1988年に事件化し、翌年には内閣も吹っ飛ばしてしまうというとんでもない展開となったが、昭和天皇の崩御によって昭和から平成に変わってもなお、経済のバブルはとめどなく膨張を続けた。
リクルートも特に事件直後、つまり1989年から1991年にかけては、従業員は皆、結束して、そして前を向いていたように思う。問題を起こしたのは江副さんとその側近であって、自分たちの商品やサービスが顧客に直接迷惑をかけているわけじゃないんだと。
私が辞めたは1991年9月末だったが、この頃まではみんなむしろ以前よりも意地を張って胸も張っていたような。そんな気持ちが、事件直後は好景気にも後押しされて、結果リクルートは増収増益を続けていた。
1989年、1990年、1991年、そして突如やってくる1992年の転落の日まで、位田尚隆社長の元、リクルートのほとんどの事業は快進撃を続けたのである。
ここまでのことを現場の様子と対比して書いていこうとして、第2話、第3話、第4話、第5話に及んでしまったが、それにしてもずいぶん紙幅を要したものである。
この、事件何それ?と言わんばかりの快進撃は、リクルート本体には見られたが、事件と深く関わったグループの不動産会社リクルートコスモスとノンバンク・ファーストファイナンスには、不動産バブル崩壊の足音が次第に大きく聞こえるようになっていた。
それでも株と不動産投資をやめられなかった江副の暴走は、グループ全体で2兆円の負債という、国家予算でしか耳にしたことのない金額に膨らむまで止まらなかった。
すべての流れが変わった、運命の1992
しかし、1992年。
1992年になって、不動産バブルが大崩壊。
いったん崩れ始めると、もうどうにもならなかった。
その結果、コスモスが抱えた負債は社長責任、つまり池田友之の経営責任となり、江副の暴走はまず、リクルート創業以来の大切な仲間であった池田友之を「自己破産」と言う地獄の淵に追い込むことになる。
次に江副は、コスモス、ファーストファイナンス両社合わせて1兆8000億円にものぼる負債をリクルート本体で支援するとことを求めたが、これには位田尚隆や河野栄子といった当時の経営陣も含めて、リクルートの社員の多くは同意しなかった。
すると、あらぬことか、江副はここでも独断で暴走する。
リクルートの保有株をダイエーの売却するという手に打って出たのだ。
これは、自らの財産は守り、借金はリクルートに押し付ける形で、リクルートグループの不良債権問題から逃げ出したと言われても仕方がないだろう。
もしリクルート事件がなくて、この時経営トップとして残っていれば、まずは江副自身が当時1000億円あった「私財」をすべて差し出すのは当然。つまりは自己破産ということである。
肩書き的には、コスモスの社長は池田友之であったので彼が自己破産に追い込まれたわけだが、元を糺せば池田は江副の暴走を止めに入って巻き込まれた身。実質的には、コスモスとファーストファイナンスの負の遺産は、リクルート事件には欠かせなかった「黄金の合法スキーム」の延長線上に膨らんだものであり、リクルート事件が江副主導であるならば、当然、江副の暴走によってできた負債と言って間違いないのだから。
ダイエー中内功にリクルートの救済を願い出たことについては、不動産バブル崩壊によって莫大な不良債権を抱えたファーストファイナンスとコスモスを救済するために、江副が持ち株をダイエーに売却する決断をしたというのが一般的な理解だが、自分は助かるが途方もない借金をリクルートに背負わせるというシナリオであり、自分の資産は守られる代わりにリクルートを売った、もっと言えば、借金返済の可能性がもっとも高いリクルートを銀行団に売り飛ばしたと見られても仕方のない行為であった。
リクルート社内の混乱
中内功がリクルートを買うらしいと知って、リクルートの中では猛反発するものたちが出た。
音頭をとったのはリクルートの表の顔・藤原和博と、裏の顔・東正任。
この二人が手を組んで、「これは大変だ、反対しなくちゃいけない」と松永真理はじめ同志を20人ぐらいを集めたという。もちろん密かに。表立って、リクルートのビルの中にではない、近くのホテルに集まったのだった。
「スーパー(の軍門に降る)なんて許せない!」
放っておかれたら潰れる分際が、なんとも失礼な言い草ではないか。
仮にリクルート事件がなくそのまま江副政権が続いていたとしたら、江副は経営陣や銀行団によって退陣を迫られてもちろん私財のすべてを失ったし、リクルートは倒産したに違いないのだ。
「責めるなら、てめえの独断専行でつくった莫大な借金を押し付けてきた江副を責めろ!」
私がもしその場にいたら(お呼びじゃないが)、救世主・中内功をディスる奴らに向かって、そう叫んだと思う。
結果的には、ここで言うまでもなくリクルートはご存知の通りダイエー傘下に入ったわけだが、自分の代わりにリクルートコスモスの社長をさせていた盟友の池田友之を自己破産させ、自分が独断専行でつくったグループ全体で2兆円とも言われる負の遺産をリクルートに押し付けて逃げた江副に、リクルート内部から落胆の声が相次いだ。
一部には正面切って糾弾しようとする動きもあったようだし、あるいは「江副が独断専行で勝手に借金を膨らませたコスモスやファーストファイナンスなど助けなくても良い!」と気色ばむ幹部も少なくなかったようだ。
経営者である前に、人間であれ
スケールはまるで違うが、私の後輩、いっときワイキューブの成長神話で有名人となったあと行き詰まり民事再生に救いを求めた安田佳生にしても、DMIをつくっては見事に潰したR82同期の佐藤博幸にしても、借りた金を返せずに破綻する際は経営トップが逃げずにせめて全財産を差し出して責任をとるなんてのは、経営者としてイロハのい、一丁目一番地、当たり前のことである。
そこから逃げるなんて考えられない。ハナから経営者の資格ゼロである。なぜなら、社長の立場で会社経営を破綻させるということは、大勢の人たちに借りた金を返さない、貸した金を返してもらえないから、あるいは職を失って路頭に迷う人がたくさん出る、重大かつ深刻な、私に言わせれば「反社会的行為」であるからだ。
そんな当たり前のことをしないで逃げるのは、もちろん経営者失格であるし、その前に人間としても失格であろう。
盟友・池田友之には自己破産を強いておいて、さらに自分がつくった莫大な借金をリクルートに押し付けて自分だけ逃げた江副の行為は、さすがの人格者・池田にしても、借金を押し付けられたリクルートにとっても、おそらく怨念とさえ言える禍根となったに違いない。
リクルート社を救った中内功は、9年後の2001年にダイエー経営不審の責任をとって退任、最後は全ての財産を失ってこの世を去るという、あまりにも残酷な末路となった。
江副浩正は私にとって「恩師」である。それは間違いない。
しかし、多くで「1兆8000億円の借金を返すほどの企業を育てたのは江副だ」と称賛する声には、それは違うのではないかと反論したい。
結果、リクルートコスモスとファーストファイナスの膨大な借金を耳を揃えて返したのは、位田、河野、柏木らサラリーマン社長、3人を一貫して人事の中枢で支えた関一郎ら役員の皆さん、そして、その時代にいたリクルートの従業員たち一人ひとりなのである。
中内さんにお出会いさせていただく前に、私はリクルートを辞めていたが、せめて、今のリクルートがあるのは中内功のおかげ、そして江副に押し付けられた借金を返しきった奇跡の10年間を乗り切った諸先輩のおかげ。
このことだけは、今もリクルートという会社で働いている人には忘れていただきたくない。
有利子負債1兆4000億円を本業キャッシュだけで完済した異常な収益力
さて その借金完済について、その道のりにいなかった者としてはリアルは語れない。しかし古巣が見事に借金を返していく過程に、会社に残った先輩たちや後輩たち親しい方の大活躍があったことは存じ上げている。この物語ののちの展開に、何人かの「偉人」を紹介するが、ここではなぜ巨額の借金をリクルートは返せたのだろうかということについて、総論的に触れておきたい。
バブル崩壊後、保有する不動産を処分するなどしたが、ファーストファイナンスの不良債権、リクルートコスモスの不動産含み損なども本体で引き受けたリクルートの有利子負債は、1995年には1.4兆円に達していた。
非上場企業であったため株式市場からの資金調達という選択肢はなく、返済原資は「本業の営業利益」と「銀行借入の借り換え」とに限られた。当時の営業利益は約600億円規模であり、単純計算では完済に20年以上を要する水準だった。
おそらくほとんどの人が完済するのはとても無理、もし奇跡的にできたとしても20年以上はかかるだろうと思われた巨額の借金である。
1992年にその返済に取り組み始めた経営陣は、絶望的とも囁かれる中、シビアな財務再建に取り掛かる。「毎年の利益をどう返済に回すか」という資金繰りに鬼の形相にもなるだろうが、一方で現場に対しては、活気ある企業風土を失わず、明るく働けるように、笑顔で振る舞わなければならなかっただろう。まさに、顔で笑って心で泣いて、の長い年月ではなかったか。
新卒・中途の就職情報誌、住宅情報、じゃらん、ゼクシィといった媒体群は、掲載料を広告主から受け取るビジネスモデルであり、在庫リスクや大規模な設備投資は必要としない。
これらの事業が、売上に対する限界利益率が高く、営業人員の増減で収益を調整しやすい構造を持っていたことが、奇跡の借金返済を可能にした要因の一つだったろう。
30歳以上の退職者に1000万円を加算するというOPT制度を1997年に導入すると、社員には「独立支援」として受け止められ、経営側から見れば1.4兆円の債務返済のために固定費を圧縮する財務施策として、これも借金返済に寄与した。
私がもっともすごいなと思うのは、返済期間中も事業投資を完全に止めたわけではなかったことだ。
債務圧縮と事業拡張を同時に進行させた奇跡的な経営は、本業のキャッシュ創出力に余裕があったからこそ可能だったが、返済のために縮小均衡に陥ることなく、返済しながら次の収益源を仕込むという二面戦略を成立させるためには、投下資本の小さい情報サービスという事業モデルである必要があった。
2001年には、第8話で登場するR80中澤さかなの「サンロクマル」から同期R80平尾勇司にバトンが渡されて誕生するホットペッパーは、まさにそれを絵に描いたような事業モデルだった。
第9話に登場する平尾勇司によって、狭域ビジネスの快進撃が始まった。
奇跡的に完済できたとしても20年以上かかるだろうと見られた1兆4000億円もの有利子負債を、位田→河野→柏木の3社長以下役員、従業員の努力によって半分の10年で完済したことこそ「リクルートの奇跡」であったと、なんちゃって経営者として、経営コンサルタントとして少しは経営の勉強をした私は、しみじみとそう思う。
株に始まり株に終わったビジネス人生の、そのはじまり
めでたしめでたし、で、この物語はそうは簡単に終わらない(笑)。
未来のためにも、なぜこんなこと、こんな事件、こんな悲劇、こんな残酷物語が現実に起こったのか、徹底的に分析しておかねばならないだろう。
江副の常人には到底理解できない人間性は、一つの出来事やましてや断片のみからでは、絶対に理解できない。側近中の側近ですら彼の暴走は止められなかったのだから。
私の知るところを総動員して、恩師・江副浩正の創業=1960年から1992年までの32年間を振り返ってみよう。
一般に語られる起業家としての江副とは別に、株や不動産が大好きという別の顔は、実は元からあった。
学生時代から、つまり創業時からそうであったという証言は多い。
そもそもリクルート創業の1960年がどういう年であったか、その時東大がどうであったか、その時江副が何を考え何をしていたのか、ここを知ると、少なくとも江副が相当の変人であったことは容易にわかる。
江副は、当時の「正統的な東大生」ではない。
1960年の東大は、学生運動の先頭に立っていて、そこに何らの興味すら持たなかった時点で、これはもう相当の変人なのである。そのことは歴史が浮き彫りにする。

そもそも近代日本において、組織的な学生運動は1918(大正7)年に東京大学から始まっている。
東京帝国大学で学生運動組織「新人会」が結成されるとともに、新人会が中心となって学生聯合会が創設されて以来1960年代末まで、東京大学の学生運動は、日本の大学の頂点に立つ特権的地位や人材の豊富さなどによって、日本の学生運動の思想的先端であり、リーダー層を輩出する基盤であった。
東大闘争は、全国の医学生たちが1940年代後半から連綿と続けていた「インターン制度の廃止」を要求する運動で大きく盛り上がった後、江副が起業した1960年3月31日には、安保闘争としてピークに達していた。
60年安保にも、後輩の死にも、我関せず
1960年の安保闘争において、東京大学と全学連(全日本学生自治会総連合)は、戦後最大の国民運動のまさに中心となっていた。
当時全学連は、共産主義者同盟(ブント)が主導権を握り、「全学連安保決戦」を掲げて羽田空港での訪米阻止行動や国会突入など、過激な直接行動を展開したが、その中心には、当時の「正統的な東大生」たちがいた。
江副はそんな闘争を横目に起業したが、2ヶ月半後の1960年6月15日、国会構内へ突入した全学連デモ隊と警官隊が激しく衝突。この混乱の中で、江副の1つだけ年下の東大文学部学生、樺美智子が命を落としている。
「東大生の死」は国民に大きな衝撃を与え、岸信介内閣への批判と安保改定反対運動は最高潮に達したのだった。その後、新安保条約は自然成立したが、岸内閣は総辞職に追い込まれた。
江副が起業した1960年という年はそんな年であり、その運動の中心に「正統的東大生」はいたのだ。
身長は160センチ、体重は50キロにもそれぞれ届かない小さな身体が、激しい闘争の輪に加わらなかった理由の一つかもしれないが、江副は学生運動になど見向きもしないで、新聞部に入っていた。
しかも、新聞部にいたら当然記者として取材して、ゆくゆくは新聞社に入ろうと思うのが普通だろうが、江副はカネを生む広告の方に目をつけていた。
それもこれも、全てが「普通」ではなかった。
簡単に言ってしまえば、イデオロギーなどよりカネ、そう言うことだったのだろう。
起業してしばらく経過した頃、江副は金策に困ったことがあった。まるで比較にならないが、私も会社を作って最初の2年は順調だったが3年目に金策に困ったことがある。
江副浩正にしてそうだったとしたらまあ凡人経営者には普通のことだったと、自分を慰められる。
株大好きは、父からの遺伝だったのか
金策に困っていた江副の元に、父親から三井鉱山(現、三井コークス工業)の証券が送られてきた。
「いざというときは、これを証券会社に持って行って金に換えるように」
そう書かれた手紙が添えられていたという。
これが、江副の「株」への興味に火をつける。父譲りの『ギャンブラー』の資質が自らのなかにあると、江副が父から株券を渡されて、気づいてしまうのだ。
金策に走り回るかわりに、株の利益をアルバイトの給料に充て、印刷代を賄うことができてしまったことは、その後江副を株狂いに変えてしまったきっかけであったことを考えると、あまり良い事ではなかったろう。
証券会社に就職した同窓生の目には、江副が日々株の魅力にとりつかれていくように見えたという。
「株売買で損失を出させてしまった客の損失補てんや、思惑株の誘導のために当時の証券会社が行う、日常茶飯事的な内部操作を仕掛けてやったが、その成功体験、何より初手の快感が、江副を株売買の虜にしてしまったようだ」と。
江副は、ずぶずぶと、株の深みにはまっていった。
リクルート事件に象徴されるように、その後の江副浩正の人生は「株」に大きく左右された。
後年には、膨大な資産を背景に『信用取引』が肥大化。江副の株式投資はますます過熱し、ついにはハイリスク・ハイリターンを狙うギャンブラーと化した。
兜町では、江副の資金は『江副ダラー』、仕掛ける株は『江副株』とひそかに呼ばれ、仕手師の1人とみられるようになっていた。
最終的に江副がのめりこんだのは、『売り』『買い』の仕手戦にあって、さすが兜町の強者でも危険すぎてほとんど手を出さない、『売り』から入る極めて特殊な手法だったといわれる。それもやっかいなことに、破たん願望すらを秘めていたと。
事業で成功すればするほど、江副自身は膨大な負債の蟻地獄に身を沈めていったが、結局、死が訪れるその日まで、その蟻地獄から抜け出すことはなかったのだった。
G8のディーリングルームとパシーナは事件を起こすサティアンだった
1981年に銀座のG8を建てた時、江副は、社長室の奥にディーリングルームまで作っていた。
ここで最新の求人情報、経営情報を集めてそれをフル活用し、「売り」「買い」を繰り返して運用益を上げていたのだ。
また、不動産情報で得た一流ディベロッパーの開発情報を、彼らの競業でありリクルートの子会社であるリクルートコスモスに流していた。これは彼が後に不動産投機に走る、その序章である。
これら江副の「やり方」は、法整備すらされていなかった当時は合法であったかもしれないが、まさにインサイダー取引そのものだったと言えるだろう。
さらにリクルートの採用事業が軌道に乗るに従って、江副のもとには好景気企業情報がいくらでも入ってくるようになる。なぜなら景気がよく、事業を拡大しようとする企業や、新たな事業を興そうとする企業は、前年度から大量の新卒者を採るからだ。
新卒採用数の増減は、その企業の好不調のバロメータなのである。
採用情報などを利用した株の空売りは兜町では「仕手筋」と見られたが、「日本株式会社人事部」と言われるようになったほど各社最新の採用情報をもとにして、江副は個人としても卓越したプロの投資家に育っていったのである。
G8ビルと言えば、リクルートの下にあったパシーナというピアノバーは江副の社交場だった。
ちなみに、なんでパシーナという店名かというと、住所が銀座8-4-17だから。8417でパシーナ。なかなかのネーミングである。
そのパシーナのママが、JALを辞めた40歳くらいの上品な美女だったが、事件で最初に名前が出た森喜朗をはじめとする政治家たちも、彼女に吸い寄せられるようにしばしば訪れた。加藤紘一、安倍晋太郎、経世会の自民党政治家たちと江副が、親しげに話している姿は、多くの社員が知るところである。
社長室の奥のディーリングルーム、そしてパシーナ。今から思えば、まさにリクルート事件の第一サティアン、第二サティアンとも言える拠点であった。
江副にとって不動産投資は何だったのか?
江副がビジネスの拡大と同時に行ってきたのが株売買、ともう一つが不動産投資だった。
私は、最初はこうだったと思う。
リクルートの財産は人材が全てである。
何か特許や特殊な技術をもっている訳ではないから、最高の人材を常に採用し続ける必要があった。ゆえに採用には毎年最大限の人手とお金と時間をかけてきた。しかし、「陸ルート」などと運送会社に間違えられていた無名な時代はなかなか有名大学から人が採用できなかったのだ。
1981年に、東京銀座8丁目にガラス張りの本社ビルを建てたら、東大や早慶上智ほか有名大学から、京都の烏丸通りに支社ビルを建てたら京都大学から、神戸の三宮に同じくビルを建てたら神戸大学から優秀な学生がどんどん採用できるようになった。
だから全国の一等地に、ガラス張りの、学生に見栄えのするビルを建てていったのだと。
次に、リクルートの事業がしばしば「虚業」だと揶揄されたことが大きいのではないか。江副自身もおそらくそう思っていた。いつか誰かに真似されて、廃れていくやもしれない、だから新しいことをまたやって、と言う繰り返しではなく、儲かったお金で何か『確かな物』を買って残しておきたいという思いが彼の中にあった。それが不動産ではなかったのだろうか。
決定的だったのは、江副が株にのめり込んだように、「不動産を好きになっちゃった」ことであろう。なぜ好きになったかといえば、単純に「簡単に儲かるから」だ。
不動産に投資すれば、100億円があっという間に200億円、500億円があっという間に1000億円になってしまったという経験を江副はしてしまう。そんな時代、そんな世界の中で、江副浩正の経営感覚は大きく狂っていく。
情報誌事業だってボロ儲けだったが、どんな情報誌だって、付加価値をつくり出す丁寧さは必須だった。その「面倒臭さ」が不動産の仕入れ→付加価値付→販売にはあまりない、転売などはより簡単に利益を産むと、江副にはそう見えてしまったのだろう。
付加価値をつくり出す丁寧さが、江副の頭の中からどんどんなくなっていった。
そんな過程で、江副はかなり早く、1974年、それまで実態はほぼなかった株式会社リクルート映画社の事業目的を「不動産」に変更し、商号を「環境開発株式会社(のちに1983年リクルートコスモスとなる)」に変更して、当時大阪万博後の不況の中、分譲マンション第一号となる「ネオコーポ行徳」の販売を皮切りにリクルートの不動産事業を動かし始めている。
そして3年後の1977年には、不動産専門のノンバンクであるファーストファイナンスを立ち上げたのであった。
R82の環境開発〜リクルートコスモス参戦
景気の回復に乗って環境開発は年々事業を拡大。1982年、つまり私が入社した年に、同期でも優秀かつユニークな人材が、環境開発の配属を命じられた。
全くの別会社だが、私と交流を続けてくれた男が二人。
谷義成は九州大学、藤川ジュンは東北大学。
ともに、この国の国立大学の雄である。
だからこそ、と言っていいだろう。谷の大学時代の専攻は知らないが、藤川は建築学科を卒業している。不動産、マンション開発の仕事には必須となる容積率だの建蔽率だのの宅建資格はもとより、高度な建築そのもののノウハウを持っている男である。
ただし、R82同期のキーパーソンの一人、京ケ島宏が言うには。
建築学科卒という立派な学歴は「学歴詐称」で、藤川ジュンは「リクルート初の中卒採用」だと言う。
環境開発で仕事をさせてみたら、あまりのバカさ加減に、「完全狂人」「チンパンジー」などとあらゆる罵倒の言葉に晒されたのだと。
そんな特殊な脳に、2017年の9月に脳腫瘍がとりついて、藤川は緊急手術。
「医者は良性だっていうんだけど心配で仕方がないんよ・・」
「何言ってんだよ。良性なら良かったじゃんか」
「でも俺を心配させないようにウソついてんじゃないかな?・・」
「最近は医者もちゃんと伝えるんだよ。
大体お前はバカだけど悪いヤツじゃないから、悪性にはならないよ」
「なら、いいんだけどさぁ・・」
と京ケ島宏が藤川ジュンを励ましたおかげで、藤川は無事シャバに復帰。医者もびっくりするぐらいの完治ぶりで、早速快気祝いと相なった。
快気祝いに来てほしい面々を京ケ島が問うと、「俺よりバカなヤツを」という藤川の指名で集まったのがこのメンツ(左から3人目、花を持っているのが藤川)。

実際には、藤川よりバカはこの世にいないが、藤川はこのメンツは全員自分より馬鹿だと思っているようだ。
我々R82同期の中で、江副さんが伸ばしたかった環境開発株式会社(後のリクルートコスモス)の人材として選ばれた人間は、他にもまだいる。
リクルート裏の顔を自認、江副浩正お気に入りの東正任門下で、冒頭の笑顔絵に描いた橘茂昌だ。
彼は、江副さん直々にリクルートコスモスへと引っ張られた。出向ではなく、転籍だったと思う。
日の出の勢いでマンション販売戸数を伸ばし、あっという間に業界トップの大京観光に迫った黄金時代を経て、リクルート事件の主役の一人となり、1992年に不動産バブル崩壊に沈むまで、この間、彼らR82コスモス組の波乱の社会人生活はたった10年。この後、橘は自らの会社トゥゲザーアライブの社長として、コスモスを飛び出してからも同じ業界で頑張っているようだが、後の連中の、今日までの歩みはほぼ不明である。
というか、彼らは環境開発〜リクルートコスモスの時代について多くを語らないし、その後、おそらく大変な試練もあったとは容易に想像できるが、そのことについても誰にも語らないのだ。
これまでの同期会で見かけたのは橘だけ。
この橘は、2015年2月に私が単身赴任で東京生活を始める際に、同期を集めて盛大に歓迎会ライブを開催してくれた、本当にいいヤツだ。

同期会に参加しないなら、と、谷義成にも会いにいくなど、人として素晴らしい橘茂昌。

「1年半、待つのだぞ」
リクルート事件の舞台裏で主役となったのがリクルートコスモスであったとすれば、さらにその裏で暗躍したのが、江副が1977年につくったグループのノンバンク「ファーストファイナンス」だっただろう。
リクルートコスモスの未公開株は、ばら撒いたとはいえ、安値で、リクルートの子会社のファーストファイナンスが融資したお金で、100人近い欲ボケのジジイどもに株を買わせていた。
その期間は1984年12月から1985年4月までの間、と言われている。
だから、逆に言えばファーストファイナンスがなかったら、リクルート事件は起きてないとも言える。
江副としては、政治家や有力者に銀行口座をつくらせたり、わざわざ彼らの口座番号を聞いてお金を振り込んだりするのが面倒くさいから、「だったら、うちでやりますよ。ファーストファイナンスという会社があるんだから」と、江副は株売買をお手軽に、とばかり「パッケージ化」してしまったのだ。
つまりファーストファイナンスが融資をして、1年半後に店頭公開予定の未公開株を買わせる。株は下がるかもしれないと言うのが江副が贈賄に当たらないという根拠だけれども、当時の相場環境でいうと、とんでもない高値をつける可能性が極めて高いリクルートコスモス株を、何もせず勝手に貸してくれる金で手にしたら、1年半ほど待てば大金持ちなのである。
ファーストファイナンスから借りた金は、それは返さなくていい金であった人もいたかもしれなかったし、返すにしても、その金額は手にした大金の、ほんの一部。手元には、一夜にして数千万から億単位の金が転がり込んだのだ。
この夢のようなスキームは、たとえば川崎市の助役など木端役人にはこの上なくありがたいことだった。

「大五郎、3分間待つのだぞ」は1972年、当時第ブームだった木枯し紋次郎をパロったボンカレーの大ヒットCMだが、12年後江副は株購入資金をファーストファイナンスで用立ててやった欲ボケジジイたちが一攫千金を待ちきれずに「ちゃん、いつまで待ったらいいの?」と問われるたびに、江副はこう言ったとか、言わなかったとか。
(1986年10月30日まで)「3分間、いや1年半、待つのだぞ」と。
事件で「暗躍」させられたファーストファイナンスR80榊昌彦は自殺した!
グループ内の、急成長不動産会社リクルートコスモスと、何らの負担も審査もなく超簡単融資を提供するファーストファイナンスの合法的なスキームをつくった江副。
この見事な、完璧なスキームは、1984年12月から見事に機能した。
「株は上がるかもしれないけれど、下がるかもしれないものなんだから。」
そういう建前を含め、ファーストファイナンスの現場で欲ボケ老人どもとの融資の契約を粛々と進める社員の中に、R80の榊昌彦もいた。
榊昌彦は、私がR82として働き始めた神戸営業所の、3m先にいた「人教」部門のリーダーだった。
彼はほぼ毎晩、私の同期・R82の佐藤博幸とトップセールスの一人だった坂本精治を連れて飲み歩いていたので、榊、佐藤、阪本の頭文字をとって3S(スリーエス)と呼ばれていたが、私も残業を終えた後は決まって彼らに合流、毎晩のように榊と一緒にいて、酒場で色々教えていただいた、そんな仲であった。
そんな彼が、ファーストファイナンスに異動し、そして、何らのやりがいもなかったであろうこの馬鹿馬鹿しいスキームをこなす中で、自らの命を絶った。
私がこの悲劇を知ったのは、ずっと後のことだ。
なぜなら、転籍すれば別の会社、リクルート本体の中ではその訃報が回らなかったのだ。
リクルート本体が採用した、神戸大学経済学部卒の俊英の命が失われたのにも関わらず。
私は絶叫した。
「一体、リクルートは、人の命を、人の人生を、なんだと思っているのだ!」
ずっと後で彼の死を知った私は、1982年の秋から翌年秋まで1年間、彼と毎日のように通った神戸三宮のスナック「フロンティアパート2」に行って献杯しようとしたが、彼が人知れず亡くなったように、その店もまた、人知れず存在を消していた。
江副は逃げたが、コスモスのお前たちR82は逃げきれたのか?
だから、R82の環境開発出向の同期たちにも。
当時、環境開発〜コスモスとファーストファイナンスのスキームの中でどんなことがあったのか、つまり彼らの深い心の傷に塩を塗るであろうことなど、怖くて、何より可哀想で、私はとても彼らに訊くことができないのだ。
頭脳明晰な先輩、榊昌彦が自ら命を絶つほどのストレスって、どれほどのものであったろう。
ファーストファイナンスの榊だけでなく、おそらくコスモスの谷、藤川、橘にも、誰にも言えないことがきっといっぱいあるのだろうと。
当時、リクートコスモスやファーストファイナンス等々、グループ全体の負債の多くは不動産がらみだった。1992年前後から、彼らが現場で動かしていた担当プロジェクトは、どれもが大きな問題を抱えていただろう。端的に言えば、どの案件も時価が取得時の価格を大幅に下回り、ニッチもサッチもいかない、そんな状況に追い込まれていたはずである。
進むに進めず引くに引けず。
いったいどうやって現状を打開するのか又は処理するのか…といった案件ばかりではなかったか。
同期R82には、この業界が長い、中村Bという素敵な男がいる。
しかし、私は、彼が素晴らしい人格だけに、当時のことを訊けない。
トップで何もかもを指示していた江副は、逃げてはいけないのに逃げた。
お前たちは、どれだけ傷ついたことだろう。
サラリーマンで、逃げる権利だけは与えられていたはずのお前たちは、人生のとてつもない理不尽から逃げ切れたのだろうか?
私はそれだけが、気になっているのだ。
だからリクルートと競合していて、比較的コスモスに近かった業界の友人に訊いた。
「なんでコスモスは失敗したの?」
「やり過ぎたんだよ」
北は北海道から南はオーストラリアまで。本業とした用地仕入れ→マンション販売だけではない、ビル、ゴルフ場、リゾートも…。
彼はこう続けた。
「しかも、高値で買い続けた。それが致命的だった」
江副は明らかに変質していたし、暴走し、そして、堕ちた。
不動産バブル崩壊。
結局リクルートグループは、業界に2兆円突っ込んで、それをゼロにした。
持っていた不動産を処分してなおグループにもたらされたのは、1兆4000億円もの有利子負債だった。
リクルートコスモスの未公開株を配ったことが彼を転落に導いたとされ、当時の法律では違法ではなく「冤罪」だとの見解もある。
しかし、たとえリクルート事件がなかったとしても、リクルートコスモスの不動産投機とファーストファイナンスの貸付金の不良資産化により、江副はいずれ行き詰った。
事件が起ころうとなかろうと、「そのこと」に、何らの変わりはなかったのだ。
「安比売却」。それは河野栄子の復讐だった
3代目社長の河野栄子は、前任の位田社長とともに半分程度に減らしたものの、なお巨額の有利子負債を抱えて喘いでいた。
バブルが完全にはじけ、景気はどんどん冷えていく一方。顧客からの注文も思うように入らない。
事件のおかげでブランドイメージが悪くなっていたところに、未曽有の不況が襲ってきた格好で、位田が河野にバトンを渡した時点でも、やはりリクルートはこのままいくと潰れるのではないかという人が多かった。
とうにリクルートの外に去っていた私も、クリエイティブが「河野栄子」、もとい、「どうのこうの」と言っている場合ではないリクルートの「苦境」については、可愛い後輩たちが会社に残っている以上、気が気ではなかった。
しかし、結果から言うと。
リクルートは、「兆」を超える有利子の借金を、民事再生などで社会に迷惑をかけることなしに、何と全額を、全て自力で返済したのである。
この「兆」を超える借金を債務免除等無しに返済したのは歴史上、リクルートと佐川急便だけである。
もちろん、その茨の道にいなかった私などが借金返済までの10年を語る資格などないわけで。
故にこの物語は借金返済のプロセスには詳しく触れない。
ただ、借金を返していく過程の中で一度、江副がその生涯を終えたことを聞いた時に二度目、まさに背筋が凍る思いをしたことが、二度あった。
一度目は、江副の肝入り、愛してやまない安比高原のリゾートをわずか30億円、まあ、ただ同然で、加森観光に売却した時だ。数千億規模の有利子負債がまだ残っているのに対し、30億程度では焼け石に水、だからこそ、河野栄子が江副に事前には一言も話さずにそんな金額で売り飛ばしたということを知った時、彼女の意地のなんという見せ方、積年の江添への恨みの見事なまでの晴らし方に、私の背筋は凍ったのだ。
ある執行役員が事後報告として安比売却伝えると、江副は「なぜ事前に話をしなかったのか」、と彼のネクタイを掴んで激怒したという。河野はその悔しい思いを、きっと江副にさせたかったのだろう。
同時に河野は、安比をタダ同然で、江副の知らないところで売り飛ばすことで、あのプロジェクトは失敗だった、ということも世間に示したかったのだ。
安比の帰りの運命の転倒、再び背筋が凍った
「あれは江副さんへの見せしめだよ」
「河野栄子の江副への復讐のカタチだろう」
ある日、一緒に飲んでいた先輩が、衝撃の安比売却についてこう吐き捨てた。
なぜだろうか、その言葉を聞いて、辞めて10年も経つ私の頬を、熱いものが伝って、落ちた。
江副浩正の独断専行の暴走によって背負った気の遠くなるような借金を、「よくぞ返したな、みんな!」と、私の退職後も頑張った仲間に対しての気持ちが、何にもそこに役立ってないOBのくせに突然込み上げた、そうとしか説明できない。
もし他に涙の理由があるとすれば、この河野栄子の行動、つまり江副に何らの相談をすることなく進めた安比売却は、江副に対する彼女や社員の思いからすれば当然のことで、何を相談する必要があっただろうと、河野栄子の積年の思いへの共感があったかもしれない。
そして、さらに10年後。
2013年2月、私の背筋は再び凍りついた。
江副にとっては、我が子のような安比だっただろう。
河野の意地によってリクルートと無関係になったとはいえ、かつて自らが開発し愛してきた安比リゾートに、江副は足を運んでいた。
2013年2月初旬も、江副は安比でスキーを楽しんだ。
そして、その帰り、江副は東京駅のホームで昏倒してこの世を去ったのだった。
なんということだろう、安比をめぐる、この恐ろしい巡り合わせは。
今、このことを書きながら、河野栄子の秘書を長らく勤め上げたR82同期の中川裕弥子の顔が浮かんでいる。2週間前の同期会で、私は彼女にこう言って労っていた。
「お前、すごいよ。とんでもなく恐ろしい人に仕えて、ほんとよくやったな!」と(笑)。
借金完済ができたからできる、事件の総括。
あらゆる物には表と裏がある。
よく言われることである。
江副にも、藤原和博などがよく口にする「江副A」と「江副B」、それは江副浩正という一人の人間の表と裏なのであろうが確かに存在したが、それは第5話で描いたリクルートの真夏の光と影と、私に言わせれば、その本質は同じである。
これは、転落のきっかけが成功に由来する、といった人間を語る上で不可欠な短期的観点などはるかに超えて横たわる盛者必衰の理、輪廻転生の理の前には、実にちっぽけに展開した人間のエゴの物語に過ぎない、それが、江副浩正という人の人生の、結論であろう。
今あるリクルートが、いくらリクルートのホームページ上の社史から創業者・江副浩正の名前を消そうと、リクルート事件をなきものにしたいと望もうと、リクルート事件抜きに、リクルートはない。
なぜなら、歴史というものだけは、江副浩正のDNAを会社から抹殺することを決して許さないからだ。
ただ、この物語も、そろそろいったん事件から抜け出して次の展開を書いてみたいとも(笑)。
第2話からずっと、事件の進行と現場とを対比しながら描いてきたので、当時を知らぬ人には色々あったのだろうが、よくわからないよ、と突っ込まれても致し方ないほど、事件の描写に関してはひどくとっ散らかった。
最後に、リクルート事件とはいったいなんだったのかを簡単に振り返って、事件に絡む物語にピリオドを打ちたい。
リクルート事件をおさらいしておこう。
発端は、1988年6月18日の朝日新聞横浜支局のスクープ記事。川崎駅前再開発を巡り、企業誘致の責任者だった川崎市助役の融資付未公開株の売買疑惑を報じた。
まもなく株のばらまきが空前な規模に広がっていることが発覚。リクルートの子会社であるリクルートコスモスの未公開株の譲渡先は、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄元通産相、森喜朗元文相など大物政治家をはじめ政界、官界、財界、地方自治体、マスコミ、教育界などの有力者76人に及んだ。
リクルートコスモス株は86年10月31日に店頭公開し、初値は1株5,227円。有力者たちの購入資金は全額、リクルートの金融子会社・ファーストファイナンスが融資。元手は一切かからず、売却益だけが転がり込んでくる仕組み、濡れ手に粟の錬金術だった。
「秘書がもらった」と弁明する政治家は物笑いになり、「秘書が、秘書が」が流行語になった。
株バラマキの主役はリクルートの創業者・江副浩正(2013年に76歳で逝去)。
「東大が生んだ戦後最大の起業家」といわれた人物だった。
3つの誤算
この事件において、江副が予想だにしなかった誤算は3つあったのではないか。
まず、稲盛和夫に第二電電メンバーからまさか外されたという1984年の誤算、まずこれが大きかった。
この結果、急遽NTTに接近するためにコスモス未公開株を真藤恒以下NTT幹部にばら撒く必要に迫られたが、NTTに絞ると賄賂性が強調されてしまう。敢えてばら撒く対象を大きく広げて、つとめて満遍なく均等を心がけるばら撒きなら「ご祝儀株」で誤魔化せると考えたのに、リクルート川崎テクノピアビル建設の過程でそこで世話になった川崎市の助役が朝日新聞に尻尾を掴まれた。
大金に慣れてないのは彼だけでなかっただろうが、「素人」の金銭感覚が自分とはあまりにも違ったというのが2つ目の誤算だった。
彼に3600万円分のコスモス未公開株を、ファーストファイナンスから購入資金を融資するという至れり尽くせりで譲渡して、1億2000万円という、小物公務員にとっては身の丈に合わない大金を稼がせてしまった。
その結果、所詮小物公務員の脇の甘さ、具体的には露骨に慌てて金に換えてしまうなどバカさ加減が目立った。それを朝日新聞に目をつけられてしまい、ついにスクープされてしまうのだ。
3つ目は、これが最大の誤算だったろうが、経済界の日常茶飯「ご祝儀株」など知らない、またそんなことには縁のない、一般の日本国民を敵に回してしまったことではないか。
「道義的に許せない」
「早く立件して処罰せよ」
江副の理解では、事件にはなったが、自分は無罪。贈賄などしていない。なぜなら、株というのは上がる可能性もあるけれど、下がる可能性もあるわけだから利益の提供とは言えない。それは株の真理でしょ?と。江副には違法行為の意識など皆無だったからこそ、大胆かつ広範囲だった「ご祝儀株ばら撒き」のスキームに対し、庶民が、江副は金でなんでも手に入れようとするけしからんやつだとこれほど感情的になるとは。アンチ江副、リクルート憎しで日本全国を敵に回すことになるとは。
言い訳できない、決定的な2つの失敗
誤算は誤算、思うようにいかないのは人間誰も一緒である。
また、誤算だけであれば、ひょっとすると江副浩正は犯罪者にはなっていなかったかもしれない。
しかし、江副は、やってはいけない失敗を、三つもしてしまった。
まず、中曽根内閣の官房長官を務めた大物、藤波孝生の官房長官公邸を1984年3月15日に訪ねたことが一つ目の失敗である。
「呼ばれたから行っただけ(江副本人の証言)」だったが、藤浪と会談する中で、江副が就職協定に関する相談をしたと疑われた。そしてこの時、藤浪が「しかるべきところから人事院に話がある」と発言したというのである。録音が残っているわけでもなく、真実は本人のみぞ知るにも関わらず、就職協定の変化そのものが藤浪の口利きによるものであると、東京地検は認定してしまうのだ。
藤浪は、公明党を離党した衆議院議員池田克也とともに、1989年5月22日、受託収賄剤で在宅起訴され、1999年10月21日、4年の執行猶予はついたが懲役3年の実刑判決を受ける。
これによって、藤浪は犯罪者となった。
池田はともかく、将来の総理候補の一人とも目された大物・藤浪孝生の政治生命を断ってしまったそのこと、江副の痛恨の極みであった。
二つ目は、国会でのリクルート追及の急先鋒だった楢崎弥之助に、賄賂を渡して追及の手を緩めさせようとしたこと。この2つ目の失敗は致命的だった。
藤浪の件にしても、この2つ目の、国民のほとんどが初めて見たであろう「賄賂の現場=証拠」さえなければ、検察もおそらく「状況証拠」だけでの立件はできなかったと思われる。
それにしてもこれは、あまりにも人を舐めた、言い逃れのできない大失敗だった。賄賂と誰にもわかってしまうことをやってしまったことで、もう、これを境に江副の無罪主張を誰も信じなくなったのだった。
2つの失敗さえしなければ無罪だったかもしれない
検察の強引な立件は、江副の無罪を信じて疑わない従業員たちから、なんらの捜査進展がもたらされないことで批判の矛先が向いた東京地検の焦りによるものでしかなかった、私はそう考えている。
江副の有罪が確定したのは2003年だったが、その6年後、村木厚子氏の冤罪事件が起こる。
2009年に大阪地検特捜部が捜査した「郵便不正事件」において、当時の厚労省局長だった村木厚子を虚偽公文書作成容疑で逮捕・起訴したが、あろうことか主任検事による証拠改ざんが発覚し、2010年に無罪が確定した、あのとんでもない冤罪事件である。
このことで、検察ともあろう組織のあまりにずさんな捜査と供述誘導が明らかとなり、日本の刑事司法に大きな波紋を広げたわけだが、検察の大失態は、まだ続く。
大田原加工機冤罪事件である。
大川原化工機事件は、生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可を得ずに輸出したとして、2020年3月11日に警視庁公安部外事第一課が神奈川県横浜市都筑区の大川原化工機株式会社の代表取締役ら3人を逮捕したが、杜撰な捜査と証拠による冤罪が明らかになった事件で、これは記憶に新しい。
そもそも犯罪が成立しない事案であったことは、江副の「ご祝儀株ばら撒き」も同じだった。
会社の代表者らが逮捕・勾留されたが、検察官による公訴提起が行われ、社長ら4人は約11か月もの間身体拘束された後、公訴提起から約1年4か月経過し第1回公判の直前であった2021年7月30日に、検察官が公訴取消しをした。
ここに、検察も人の子、手柄を焦った検察のあまりの人間臭さが露呈された。
私は、リクルート事件においても、状況証拠と推測しかない中で藤波への贈賄を認定した東京地検にも、同様の焦り、過ちがあったのだろうと思っている。
言ってしまえば、サラリーマンが上司にお中元お歳暮を欠かさず媚び諂っていた時代、自分のことを棚に上げて、ご祝儀株にだけやきもちを焼いて吊し上げようとしたに過ぎない。
国会空転に激怒し、内閣が倒れるに至っても、それでもなかなか立件できない検察を、国民みんな同調圧力を爆発させて焦らせた。
国民の多くは、理由も言えずに「許せない」というだけだった。
もっと言えば、濡れ手に泡の欲ボケジジイたちに嫉妬したに過ぎなかった。
リクルートの何が悪かったのか、江副の行為の何が違法なのか、ちゃんと説明できる国民があまりに少ないことに、当時私は失笑を禁じ得なかった。まあ、その辺の、日本国民の民度などは、35年経ってもちっとも変わってはいないけれど。
創業者の落とし穴「独断専行」で天才から凡人に帰った恩人
ただ、有罪を逃れられないものにし、実際に立件された失敗は上の二つだが、それだけならリクルートの従業員たちはまだ救われた。
事件とは無関係に、1987年秋には社長を位田尚隆に交代することを決めて10月の役員会でその手続きを済ませていたし、代表権を持った会長の座も、1988年7月6日、日本経済新聞の森田社長がコスモス店頭公開前に未公開株を買っていたことが発覚して辞任に追い込まれたその夜、江副もその後を追うように手放していたからだ。
リクルートなら、事件だけなら簡単に乗り越えられたのに、自ら創業したリクルートが潰れてしまう危機に創業者江副自身が追い込むことになった最大の失敗を、江副は犯してしまった。
それは、言うまでもない、独断専行の暴走である。
株のばら撒きを始めた1984年の頃には、大沢武志、池田友幸、森村稔ら信頼できる仲間の制止を無視し、独断専行で「過剰投資」に突っ走った。
不動産のあまりのうまみに夢中になり、のめり込んでいた株売買だけなく無茶な不動産投資を重ねていったのだ。
リクルートという会社が好きで、京都大学法学部高坂ゼミの俊英を多数送り込み続けた高坂正堯は、江副が暴走を始める前の1981年に名著『文明が衰亡するとき』を刊行。文明の興亡や繁栄を「振り子」のように極端から極端へ揺れ動く過程として描写し、歴史の変転、国際政治、経済における力の均衡が一方に偏った後、反動的に逆方向へ動くメカニズムを指摘していた。
江副ほどの天才にして、「振り子」の概念のその意味も、そしてバブル崩壊の予告もわからず、振り子が戻る時期を大きく見誤った。
振り子は戻り、バブルは弾けた。
そして、「天才経営者」に大きく振れていた自分自身の振り子もまた、ただの「欲ボケの凡人」に帰したのであった。