
リクルートという会社にも、きっと「真夏」の季節はあったろう。
で、それはいつだったか?
2014年に10月16日に上場し、以降時価総額で日本のトップレベルに位置するようになったことをもって「真夏」とする向きがあるかもしれない。
しかし、それは全然しっくりこない。
真夏の光と影、光が強ければ強いほど、影は暗く濃いからだ。
上場が真夏の光だとすれば、当時およびその後のリクルートにはそんなに濃い影は見えない。
ギラギラと太陽が輝く一方で、真っ黒なブラック企業としての影を落としたリクルートの真夏は、それは間違いなく、1987年から1991年までの5年間だったと私は思う。
私はこの5年間を、勝手ながら「バブルートの時代」とネーミングしている。
1988年6月から始まったリクルートバッシングに関係なく過去最高の業績を続けた、この「バブルート」の時代は、物語の著者である私も必死についていったが、この時代に最も利益を叩き出して輝いた偉大な「関一郎」の時代でもあった。
彼が光り輝く一方でこの時代は死者を何人出してもおかしくなかったブラック極まる過重労働の時代であり、このことについては物語の中でどうしても触れないわけにはいかない。
第5話は、リクルート事件で世間が騒然となった頃、私の目の前で起こっていた「現場」の物語。第4話で書いたものがクリエイティブ残酷物語の前半にいた先輩たちの無念の代弁だとすれば、後半の生々しい展開を体現した私自身の無念と叫びである。
HR(当時は広告事業)の、真夏の「光」と「影」。それは「たまたまリクルート事件はあったけどな」みたいに、バブルに完全に乗っかった、当時のリクルート膨張は凄かった。
まあ、サザンオールスターズがこの頃にヒットさせた名曲「真夏の果実」でも聴きながら、お読みくだされ。
事件にならないはずだったものが事件に
第3話で書いたように、リクルート事件の発端は、1984年12月に始めた未公開株のばらまきである。
そして1年10ヶ月経った1986年10月30日のコスモス株店頭公開で、1億2000万円という大金を手にした川崎市助役の振る舞いが不自然で、リクルートがコンピュータ事業のために川崎駅前に建てたビル建設に疑惑があるのではないかと睨んだ朝日新聞横浜支局が、彼とリクルートとの関係を追いかけ始めた。
しかしこの件についてだけ言えば、朝日新聞が本件の賄賂性を追いかけ始めた1988年にはすでに収賄5年、贈賄3年のうち、少なくとも贈賄側の公訴時効3年が経過していた。
江副が株のばらまきを始めたのは1984年12月であり、助役が未公開株を譲渡されたのは、どうやらその「初期」のことだったようである。助役が株をもらったのが1984年12月だとすると、すでに1987年12月の時点で贈収賄つまりリクルートに対する公訴時効が成立してしまっていた。
実際、神奈川警察は捜査を断念した。贈賄側の時効成立によって、神奈川県警は、本件捜査を断念したのだった。
いうことは、新聞社としていくら追おうが、(犯罪として)立件されない、ということに等しい。
それでも諦めなかったというか、道義的に許せないと執念を燃やした朝日新聞の記者の独自取材で「事件」として成立するはずもなかった小ネタが、「大事件」に変わっていくのだ。
その始まりは、リクルートが、1988年6月18日の朝日新聞全国版社会面に「贈賄の疑いあり」とスクープされたことだった。
公務員である川崎市助役が、リクルートコスモスの未公開株を売却して多額の利益を得たことの「道義的責任」を問う内容だった。

「人はカネでどうにもなる」との決めつけ、驕りが、致命傷に
そして同日昼のNHKニュースでも、同様の内容が報じられた。
「これは贈収賄事件ではないのか」と、まるで同様の内容にすぎなかったが、警察も立件を諦めていた本件を、朝日新聞だけでなくNHKも独自に追っていたことは、国民に対するインパクトを倍増以上に高めるに十分だった。
独自にこの件を追っていた他の新聞各社、追っていなかった新聞も慌てて、取り残されまいと一斉にこの件に食いついた。
ただ、報道の中身を見れば、どれもこれも立件されない可能性の高い件をさも犯罪のように、やや感情的に報じたにすぎず、この段階ではそこに「道義的責任」はないのかと読者、視聴者に問いかける、ただそれだけの内容でしかなかった。
そして、「もらって何が悪いの?」と開き直った森喜朗元文部大臣のコメントと顔が新聞紙上に踊った後、さらに朝日新聞は、7月6日の朝刊一面で、安倍、宮沢の政界首脳の名を出し、中曽根に至っては首相在任時に譲渡されていたと報じたのだった。
ここに至って、国会の審議はストップしてしまう。
国会はたちまち疑惑追求一色の場と化し、世間は騒然となった。
そんな中で、ニュースで、あの衝撃的な映像が流されたのである。
1988年9月5日、日本テレビがリクルートコスモスの松原弘室長が楢崎弥之助代議士に対して贈賄(現金授受)をする様子を捉えたビデオテープを放送したのである。
日テレ上層部は抑えてあったはずだが「はみだしカメラマン」にやられた
これはダメだった。
楢崎に「追及の手を緩める」という見返りを求めた「贈賄」であることは、テレビを見た誰の目にも明らかだった。
江副の無罪は、この一件で無理になった。
江副、間宮、松原の3人で楢崎への贈賄は決めたと言われるが、その3人ともが、まさか楢崎ごときと、そして膨大な広告出稿でどれだけいい目をさせてやっていたのかわからないほどの日テレから、まさか「おとり捜査」のようなやり方を食らうとは思ってもいなかっただろう。
人は怖い。
自分の利を、思わぬところで見出すから。
人間など、要は、私利私欲の塊に過ぎないのだ。
楢崎の議員宿舎に隠しカメラを仕込んだ日テレのはみ出しカメラマンなどは、「どうせダメだった俺の人生、もうなんでもやってやる」とやけっぱちになった行動にすぎなかった。のちに「真実のためならなんだってやる!」なんて正義漢ぶってたが、顔は引き攣り、いかにも小物でしかないこと丸出しであった。
報道直後の記者会見で楢崎は、松原からの金銭提供があったことを認める一方、これを「賄賂」ではなく「リクルート側の工作」としたが、結局日本テレビのビデオ映像を証拠として9月8日に松原の行為が贈賄罪に当たるとして、東京地検に告発した。
ことここに及んで、10月19日、ついに「特捜=東京地検特捜部」が動いたのである。
告発されたら、そして証拠映像を提出されたら、動かざるを得ない。
こうしてリクルートへの強制捜査が、ついに始まったのだった。
昭和の時代の最後っ屁。本当にやっちまったなあ、1000人採用
強制捜査開始の半年前、リクルートは1000名を超える新入社員を4月に迎え入れていた。
R86より200人も多い850名をR87として迎えたあと、さらにR88はなんとさらに200人規模で「増し増し」の採用人数だったが、この採用数の異常な膨張の過程で、日本のトップ大学の、とりわけ理系の超優秀人材を育てている自負を持つ教授陣たちは、リクルートがそうした最優秀層の理系人材を見境なく獲得していくことに対して猛烈な批判を始めていた。
彼ら大学教授は、リクルートの事件を叩くことなどどうでも良かった。
事件で内閣が倒れようと、政治などはどうにでも再生するからだ。
むしろこれまでの工業立国、今後IT立国を目指す日本の設計図、ビジョンの中で最重要となる「日本の頭脳」とも言える人材を、一社でどんどん囲い込んでいくリクルートの行為が、日本の今後を危ういものにするのではないかと本気で憂う、必死の声だった。
穿った見方かもしれない。
この後、日本のバブルは弾け、銀行、不動産は決定的なダメージを受け、そして経済は沈み、以降30年間にわたる停滞の時代を迎えてしまう。
リクルートの理系人材の独占的採用に待ったをかけようとした各大学の教授が恐れた、「メーカーの国際競争力の著しい低下」「ITの領域でアメリカだけでなくあっという間に各国の後塵を排するようになった開発力低下」は、現実のものとなったのだ。
しかし、R88の本人たちはどうだったのか。
「1000人採れ」
「理系のトップ人材だ」
江副の大号令に逆らえない必死の「人開組織」に、どれだけ騙されたのだろう。
卒業した大学、教授たちからの制止を振り切ってリクルートを選んだ時から「裏切り者」扱いもされたであろう。しかしそれもこれもすべて、自己責任の範疇である。
理不尽だったのは、彼らがまさか、自分が入社した会社が、入社2ヶ月で新聞やテレビで叩かれ始め、その4ヶ月後にはなんと職場に強制捜査が入るに至って「犯罪者」、「反社会的」とのバッシングを受けるなどとはこれっぽっちも思っていなかったことだろう。
自分の人生にとってベストと錯覚した彼ら若者たちに、「事件」に関しての何の罪があろうか。
私は「かわいそうに」と、呟いていた。
昭和は、川の流れのように平成へ
強制捜査開始のその頃、すでに述べたが、当時事業の大黒柱だった広告事業の現場においては「営業」は各社から媒体への出稿を取るために奔走を始めていた時期であり、「制作」は、その出稿の内容を提案したり、原稿制作を始める時期であった。
私の目の前では、営業も制作も、仕事の超繁忙期「ピーク」にまさに突入しようとしていた。そして私自身、顧客を訪問すれば、反応は2つに分かれていた。
既存のクライアントからは「ご祝儀株の譲渡なんてどこでもやっていることなのにね、ここまで叩かれて気の毒だ。頑張りなさいね!」と応援を受けることが多かったが、新人の営業が新規アポをとった会社を訪問すると「ふざけた会社だ。二度とくるな」と言われることもあった。
「直接なじる場面が欲しくて社長室に通したのか、なんてやつだ」と憤ったし、帰りの道で若い営業マンを慰めるのは大変だった。
社内は、胸に「かもめのバッジ」をつけて怯まず出かける社員と、外ではバッジを外してうつむき加減な社員とに分かれた。これも前者が多かっただろうか。
連日、ニュースステーション久米宏にボロクソ言われ、リクルート許すまじの雰囲気は日増しに高まる中、さぞ営業は大変な思いをするだろうと心配したが、バブル景気のパワーは凄まじく、フロアの隣の大手を担当する「平尾組」では、かつてない大型受注をいただいてガッツポーズで会社に戻ってくる兵も多く、事件が事業の逆風になっているとは、正直、感じなかった。
1988年10月ごろのバブルの勢いは、それほど強い力でリクルートのビジネスを後押ししていたのだ。
6月18日の朝日新聞スクープ、そして4ヶ月後には強制捜査という段階を経て、リクルートの事業とは無関係の世間一般からはすっかり白い眼で見られるようになってしまった1988年が、兎にも角にも終わって年が明けた。
そんな1989年1月7日、昭和天皇が崩御され、激動の昭和がついに終わりを告げる。
私はその前日1月6日の深夜まで仕事に追われた後、R85池辺正博とスナック「ローゼン」で待ち合わせ。
仕事の打ち合わせとガス抜きを兼ねて朝までの時間を過ごし、ほぼ寝ないまま会社に行くと、天皇陛下の崩御のことと、顧客から仕事をいただけないどころか過去最高の売り上げとなった昨年末の営業結果の話で持ちきりだった。
時代は、昭和から平成へ。
街には、1月11日に発売された「川の流れのように」。
5ヶ月後にこの世を去る美空ひばりの最後の声が、リフレインしていた。
私を支えてくれた最高の恩人、それは花田美穂子
私はマネジャーに昇進する前年、制作ページ数日本一、つまり仕事量日本一の制作プレーヤーだった。
翌年いきなり企画制作課、編集政策課を兼務し、合計およそ40名、神戸・京都を入れればおよそ60名の部下を持つプレイングマネジャーとしては、リクルートに強制捜査が入ったことなどどうでもよかった。強制捜査が入った10月19日のことははっきり覚えているが、制作メンバー全員でかつてない「ピーク」をどうやって乗り切るか、それだけしか頭になかった。
恐怖が大きい分、できる準備は怠ってはいなかった。
これからやってくる史上最大のピークは、気合や根性、体力で乗り越えられるものとは到底思えなかった私は、R85「花ちゃん」こと花田美穂子(冒頭笑顔絵のモデル)という我が人生最大の恩人に支えてもらって、おそらくかつてない規模の仕事量をこなすべき新しい体制をつくり、彼女に「統括」の役割を担ってもらった。
制作拠点数にして、10拠点。
このエリアの仕事全てを、責任者(マネジャー)としての私と、私の右腕「花ちゃん」二人が統括すべき立場にあったが、この全ての制作拠点を二人でぐるぐる回りながら統括するのは到底無理だったと思う。
そこで、大阪の制作拠点全てを支社に集中させたのだ。
これが当時「一括」と呼ばれた、大きな体制変更だった。
これでほとんど目が行き届かなくであろう神戸と姫路、そして京都と京都南には、当時もっとも信頼していた一番弟子の絹谷と、営業経験も豊富なベテラン亀山を、そして原稿を校閲含め完全に仕上げてもらう編集制作にR81岡上はつえを配して、私と花ちゃんに考えられうる当時「最強の体制」を作り上げ、かつてない制作ピークの大津波に備えようとしていたのだった。
と、こう書いたら私が仕切ったように聞こえるが、実際は、私が神戸から本町を経由して、大阪のことをほぼ何も知らずに体制作りに入る前から、大阪のメンバーの人心を掌握し、力量や個性を把握して、奈良、和歌山を含めた大阪全域、そして滋賀、京都、そして兵庫県に分布する広範囲の顧客に対応するための、ほぼベストな体制を構築できたのは、花ちゃんのおかげでしかなかった。
そして花ちゃんは、この体制を「机上の空論」に終わらせることがなかった。そこが、彼女のもっともすごいところだった。
全ての拠点だけでなく、メンバー全員の現状に日々気を配り、ピンチのメンバーに手を差し伸べ、バランス感覚に著しく欠けている私の、その足らない部分のすべてを、花ちゃんが補ってくれた。
平静ではなかった、平成の幕開け@現場
元号が昭和から平成となった頃には、現場はすでに正月そっちのけで忙殺され、2月になると過去最大の売り上げイコール過去最高の仕事の津波に飲み込まれていた。
そんな1989年2月13日、賄賂を贈ったとして、常に私たちの先頭を走ってきた江副浩正がついに逮捕された。
制作は、世間から大バッシングを受けるその環境の中で、みんなが仕事量のピークに突入していた。
高市早苗の真似をすれば、朝から深夜まで「働いても働いても働いても働いても働いても」こなしきれない仕事。
リクルート許すまじという世論の中、何をモチベーションにして踏ん張ればいいと言うのか。
いつ死人が出てもおかしくない状況に追い込まれつつあった私たち制作の状況を横目に、関西広告事業の部長・土屋洋はといえば、私のデスクの5m先で新聞を読みながら、過去最高の売り上げと利益に左うちわだった。
彼は日曜日にはのうのうとゴルフを楽しんで、部としての危機管理を何らしなかった。
かと思えば、超がつくほどのミーハーである彼は、私が担当する阪急電車様の仕事で沢口靖子を取材することを聞きつけると、取材当日朝、見たこともない最高級のスーツに身を包んで胸にはたしか薔薇の花を挿して出社したかと思うと、取材場所にセッティングされた阪急系列のホテルに、勝手についてきたのである。
「私が責任者です」
彼は沢口靖子が現れるやいなや満面の笑顔で彼女に握手を求め、どんだけ〜と思うほど鼻の下を伸ばしに伸ばして、自分一人で沢口靖子に個人的興味本位の質問を浴びせ続けた。他の大手企業の社長取材などでは決まって居眠りをするくせにだ。
結果、私は、大いに仕事の邪魔をされたのだった。
そんな部長のもと、私の大切な60人の部下たちは、人間的に素晴らしい物、特に誠実な者、責任感のある者から順に、心を、そして身体を病んでいった。
「死者を出してはいかん!」
私はその一心で、すでに関西広告事業部としてかつてない達成率で営業数字を達成していることを踏まえ、上司である部長・土屋洋に訴えたことがある。
「いつ死者が出ておかしくない状況に追い込まれている制作の今の状況も見てほしい!死者が出るかもしれません!」
部長なんて何も偉くない。所詮は私利私欲しかないサラリーマン
「(死人が出ようと)受注は止められない。(今は)いくらでも売れるんだから仕方ないよ。それに…」
ここまでは予測していた通りの答えだった。
「それに…なんですか?」
私が問うと、土屋は耳を疑うような言葉を発した。
「僕はね、仕事を優先して親の死に目にもあってないんだよ。仕事とはそういうものなんだよ」と。
「(会える)親の死に目に、仕事を優先して会わないなんて、そんな人間、いるんですね。それは人として立派なことなんですか?私はサイテーだと思いますけれど」
間髪入れず彼にそう言い放った私は、この上司には金輪際一切頼らない、また、真面目に付き合わない。そんな値打ちはない」と決めて自分の席に戻ったが、しばらく席から立てなかった。
親の死に目に会うことより仕事が大切と言い放った男、それが私の上司なのだ。利狂人と揶揄されるだけのことはある。みんながそうではないと信じるが、こういう類の人間が大多数なんだな、この組織は。
そしてこの時、こうも思ったことをはっきりと覚えている。
「今はそうではないが、俺もやめ時を考えなくては」。
そんなこんなも含め、これが当時の我らが最高責任者、部長様である。
しかし所詮サラリーマンで、責任感もない小さきもの土屋洋を、私は責めなかった。
「仕方ないだろう、彼も」と。
彼の苦しい立場も察してやったのだ。
銭ゲバ会社のリクルートが自分から受注を止める、なんてことは絶対にあり得ない。
土屋でなくとも、そんな「愚行」をする営業部長はいなかったろうし。
それに、彼の頭の中を、私は見透かしていた。
土屋が、地獄へと突入した制作組織に対して何もしなかった理由は、私にはわかっていた。
全てを私の責任として押し付ければそれでいいと、彼は考えていたはずだ。
私が警鐘を鳴らした通りに仮に制作組織から死者が出ようと、土屋は死者が出たその組織を私に管理させていた。つまり、悪いのはすべて管理責任者である私だと、そう言い張れると。
もし、私の部署のメンバーが死んだら、それは管理者としての私の責任であるという「理屈」の上に、いざという時の言い逃れのトークを完璧に用意して、だから戦場を横目にニコニコして安心して過ごせたのである。
我々は、死んでもやり切るしか道はない。
それがリクルートで制作に配属された者たちの運命だったのだ。
ついに私自身が行き倒れになって…
土屋を見切った私の相談者は、当時リクルート大阪支社として設けていた「相談室」のカウンセラー木田マス子へと変わった。私の部下たちで危ない状態になっているメンバーを逐次報告しに行き、彼女には本人へのカウンセリングなど手を尽くしていただいた。
こうした方法にもすがらないと、と進言してくれたのは、やはり花田美穂子だった。
そしてメンバーの負担を少しでも分散しようと、人開、ここはつまり人の採用と教育などの開発を担う部門だが、そこの関谷和宏、安川元祥にしばしば相談し、A職の採用を助けてもらった。
A職採用と言っても、何せバブルの絶頂期である。
こちらが思うような人材を、そんなに都合よく採用できるわけもない。
今は立派になっておられるだろうから失礼かもしれないが、当時は消費税の存在、そのパーセンテージすら知らなかったチャラ男ヤンキーの畑中には、消費税の%と電卓の使い方から教えて伝票をチェックしてもらったし、呼吸をするように嘘、言い訳をする原田には手はかかったが素質を感じたので私の机の前に座らせて直接指導した。
人は、上司、先輩が適当な関わりで済ませることなく本気でど真剣に関われば、必ず育つ。
前年に神戸で私自身がA職採用していた三枝義浩は、面接時まともに日本語を喋れなかったが、当時見抜いたクリエイティブの素質が開花、言葉が不自由だったにも関わらず仲間とのコミュニケーション、顧客に対するプレゼンなどで鍛えられ、メキメキ成長して心配した社員試験の面接にも合格(笑)。
神戸には大黒柱の絹谷がいる、ということで私がすぐに大阪に引っ張ると、北浜エリアのクライアント中心にまさに大車輪の活躍を見せてくれた。
しかし。
当時「鬼」「鉄人」とも言われた私自身が、ピークの最終コーナー手前で徹夜徹夜を繰り返していた1989年の3月、午前中にクライアント二社を回ってプレゼンを終えたその帰り道、朝飯昼飯抜きで扇町公園前を歩いていた私は突然気を失って、行き倒れたのである。
気がつけば、北野病院のベッドの上だった。
腕には点滴の針が刺さっていた。
何時間も気を失っていたのだろう、病室の窓から見えたのは夕陽。びっくりした。
看護師(当時はまだ看護婦さんと読んでいたが)が、私が目を覚ましたことに気づいてこう言った。
「ごうごうとすごいいびきでしたよ。お疲れがとても酷いです。点滴を十分打ちましたので、歩けると思いますし一時的には少し回復しますが、気をつけないと過労死の一歩手前だって、先生が言ってましたよ。」
点滴のおかげで、私は夕方会社に戻った。
「ただいま」
そう言うと、私を支え続けてくれていたかけがえのない右腕・花田美穂子が、泣いていた。
「おいたわしい、かわいそう」と。
もしこの時、私が死んでいたら
もし私がこの時死んでいたら、私の上司であった土屋洋は警察やマスコミや労基にこう言ったと思う。
「私はね、彼に再三注意していたんですよ。自己管理しなさいと。まず第一に彼は仕事の整理ができていなかった。机の上に書類が山積みで、こんな状態で効率よく仕事なんてできない。だから私は彼の書類をゴミ箱に捨ててまで、彼の指導には熱心だったのです」
確かに私の机の上の山積みの書類を土屋は捨てた。
しかしその山積みの書類が、その先にある土屋の顔を見たくなかったための「目隠し」だったことを彼は知らない。
また、土屋はこうも言っただろう。
「彼は大酒豪でしたからね。彼の睡眠不足は、仕事だけが原因じゃないですよ、彼の場合はね。私は酒を嗜みませんが、自分の体を蝕んでまで酒を飲むなんて、愚かとしか思えませんよ。彼は自ら死に向かって暴走したんですよ、私が必死に止めたのに。ほら、見てください他のメンバーたちを。みんな、元気に笑顔で仕事してますよ」と。
しかし、いくら彼が伝家の宝刀「詭弁」を弄して得意の責任逃れをしようとも、部下の私が死んだら、間違いなく彼の首ぐらいは飛んでいたはずだし、あの時、1989年3月に私の「過労死事件」まで起こっていたら、1988年4月に巻き起こった「1000人採用批判」、続いて起きた「リクルート事件」にさらに続く「過労死事件」の「トリプルバッシング」を受けることになっただろう。
私が死んでいたら会社は変わったか、いや変わっていない、間違いなく
土屋洋の言い逃れを否定する証言者は、メンバーたちを必死になって支えてくれた木田マス子、花田美穂子、岡上はつえだけでなく、R82同期の福田悦子、豊島一浩、酒井博孝、一番弟子・絹谷公伸、二番弟子・三枝義浩、杉野裕俊、矢野美穂、村木恵子、大河内香、岡田八重子、山西香…。つい全員の名前を書き連ねたいほどの、目の前の40人、神戸、京都を入れれば60人もの愛する部下たち全員だ。

彼ら彼女らは、誰一人労基に駆け込んで助けを求めることを選択せず、私と一緒に戦ってくれたが、いつも最後にオフィスを出て朝は遅刻などしたことのない私の背中もきっと見てくれていて、酒など飲まずとも誰より寝ていないだろうことなど、みんなが知っていた。
私が独身のままこの時30歳で死んでいたら、彼らは私を過労死に追い込んだ会社と、私に全ての責任を被せようとしていた土屋洋と、戦ってくれたはずである。
過去、自死を含めてリクルートは死者を出していた。私も、この時に死ぬ可能性は十分にあった。
江副浩正の場合は、転倒による頭蓋骨の骨折およびそれによる脳の損傷が致命傷となったが、警察の現場検証によれば、気を失って、何らの防御姿勢も取れずに頭部をまともにコンクリートに打ちつけたとのだろうと。
ならば、扇町公園前で歩いていて突然意識を失い歩道上で昏倒した私も、そうなっていてもなんらおかしくないわけで。
私は幸い大きなカバンをかけていた右肩からコンクリートに落ちたらしく、いったん肩と、持っていたカンプ(広告企画を顧客にプレゼンするために原寸大で素案を描いたもの)がいくつも入る巨大な鞄の上に倒れたおかげで右側頭部は骨折に至らなかったが、それでも打撲痕は今も残っている。
だから、リクルートはツイていた。
危なかったメンバーも、なんとか守ろうとして死にかけた私も、死ななかった。
ただ、少なくとも過去に死者を出しているにもかかわらず、歴史に学ぼうという姿勢、学習能力というDNAは、少なくともこの時点でリクルートには皆無だった。
高卒新入社員制作配属者の青春はどこに
「バブルートの時代」、リクルートは、史上最高の売上ではなかった年などなかった。つまり毎年、我々がこなす仕事量は史上最高だったわけである。
この地獄の89年のピークは、桜が咲く頃に終息しようとしていた。幸い私の部下から死者は出ず、私も死なずに、リクルート事件で内定辞退を多少なりとも考えたであろうが内定辞退をせず入社してきた850名を超えるR89の新人たちを会社に迎えた。
大阪の広告事業部門にも神戸、京都を含めると20名ほどの配属があって、のちに物語を大きく盛り上げてくれる、偉大なる「しんたろーとケンイチロー」こと高橋信太郎、信國幹一郎の名コンビもその中にいた。
そんな、普通なら希望に満ち溢れているのが普通かもしれない1989年4月の、桜が散り始めた週末明けの月曜日の「朝会」で、私の部署のメンバーの一人が号泣し始めた。
今どき「朝会」をやる会社組織は少なくなっているだろう。しかし当時のリクルートは部署ごとに、毎朝「朝会」をやる部署もあったし、私は月曜日の朝だけは、部下およそ40名が互いに元気?生存?を確認し合える機会としても「朝会」は貴重だった。
突然号泣したのは、住宅情報制作部門から異動してもらい新大阪エリアのクライアントの原稿制作を任せていたR82の酒井博孝だった。
彼は泣きじゃくりながら、ただただ、「すいません、すいません、すいません」と、何度も繰り返し、みんなに頭を下げ続けた。
後で事情を聞くと、リクルートの研修ではない、週末にどこか他社の自己啓発セミナーを受けて、これまでの自分の人生を振り返り、誰に対しても無責任であった自分がなんて酷い人間だったかとわかり、みんなに謝るしかなかったのだと。
もちろん彼は無責任などではなかった。苦しい中でも人一倍明るく振る舞って、暗くなりがちな職場のムードを前向きにしてくれていた男だった。
ただ、自分から自己啓発セミナーに飛び込むほど、彼は「何かがおかしい」と感じていた。そして、こんな過酷な日々が続く「異常な日常」に疑問を持っていたのは彼だけではない。
みんな、何かに、誰かに、救いを求めていただろう。
酒井は自己啓発セミナーに救いを求めたか思えば、彼と同じ高卒R82同期の豊嶋一広は、会社に来なくなった。
酒井も豊嶋も、18歳の時から地獄のような労働環境の中で7年間も働いてきて、ようやく25歳、青春真っ盛りの年齢に至っていた。
豊嶋は関西のマンモス私大、関西大学キャンパスの近くに住んでいた。前年もこの時期会社に来なくなったから、桜が咲く頃は豊嶋は危ない、とわかっていた私は、しまった、やはり…と思った。
「18歳から大学で4年とか長いやつなどは6年も7年も、まさに青春はキャンパスにある。自分はどうだ?18歳からブラック企業で働き詰めではないか?俺には青春が何かわからない」
豊嶋にとって、朝会社に向かう道すがらどうしたって目に入るその関西大学キャンパスの桜は、青春がなんだかすらわからない今の自分の人生を問うてくる、そんな存在だったろのだろうと私は思う。
彼は桜を見るたびに、大学に行かなかった自分の選択、あるいは行けなかった事情を、どうしても悔いてしまう、きっとそうだったに違いない。

人には、死ぬべき時に死ぬ勇気が必要だ
1989年の春、ピークが終息し始めた頃には、私の大切な部下、素質ある若者たちが心身ともにボロボロになって、リクルートを去るものが出始めていた。
希望に胸を膨らませたかどうかこの年に限ってはわからないが、R89の新入社員たちが入ってきた3週間後、4月25日には、政治不信を招いたとして竹下登首相が退陣表明。
内閣は吹っ飛び、直後の参議院議員選挙において、自民党は歴史的な大敗を喫した。
世の中で起こっていること、そして現場の地獄絵図、そしてそれを犠牲に過去最高の利益がリクルートにもたらされて。
この3つの様相が今目の前で同じ時に起こっていることが、私にはもはや説明不能、理解することすら不能であった。
そして秋までに、塗園みどり、角前庸道という、能力もさることなががら、非常に人間らしい美しい心を持った二人の部下を失った。
私にとってさらに決定的だったのは、結婚退職という形ではあったが、私の右腕であった花田美穂子が会社を去ったことであった。
私はリクルートで、かけがえのない最高の出会いをいただいたが、その中での最高の出会いは、花田美穂子との出会いだった。
もちろん恩師・江副浩正、最初の上司・蔵野孝行、大阪の父・岡崎坦、2番目の上司・田中勝、私を容赦なく鍛えてくれた平尾勇司の「上司のロイヤルストレートフラッシュ」が、私の自慢だし、私を成長させてくださった最高最強の5人ではある。
一方、一緒に働いた「三大戦友」は、R85花田美穂子と、同期だが5歳年下のR82藤江まびな、R86絹谷公伸の3人である。
彼ら彼女らは、私がもっとも信頼し、頼りにし、そして惚れ抜いた、最高の人間、真のパートナーだった。

我が人生を振り返った時、私のリクルートからの引き際は、間違いなく、彼女がいたから私がいたと断言できる、その花田美穂子が退職したタイミング。それがベストだった。
なぜならピークを切り抜けた秋に花田美穂子、塗園みどり、角前庸道を見送って憔悴しきっていた私に、あまりといえばあまりの仕打ちが待っていたからだ。
その仕打ちがどれほど酷いものだったか。
それは、大阪の「関西広告事業部企画制作課および編集制作課のマネジメントに加えて、さらに新たに東京の「企画室」との兼務を命ず、という、機械ではない人間に命じるようなもので到底ない、あり得ない辞令だった。
「プツン」
私の心の中で、大きな音を立てて、何かが切れた。
水戸光圀が「死ぬべきときにのみ死ぬことこそ、真の勇気である」と語ったように、真の勇気には冷静さが求められるが、私にこの時、真の勇気というものが備わっていたならば、おそらくこの時、リクルートでの人生に、自ら冷静にピリオドが打てていたはずだった。
失われた2年間、これは余計だった
では、この時なぜ私はリクルートを辞めなかったのか。
思い起こせばあと2つだけやりたかったことがあったからだった。それが東京に行けばできるかもしれないと。
一つは、話者の統一だった。
情報誌と言いながら、その情報は「当社は」で始まる一人称の「広告」と、「同社は」で始まる三人称の取材記事のようなものが混在した、奇妙奇天烈なものだった。
編集者とは言い難いあまりにも無責任なリクルートのスタンスに憤っていた私は、最後の仕事としてこれをなんとかしたかった。手段としては、関西版でフォーマット化を強烈に押し進め、リクルートのスタッフたちによる「執筆」「編集」であるという方向づけを進めていた。この延長線上に、それは可能であるだろうと。
もう一つが、読まれずに大半が捨てられる紙の減量だった。
手段としては「ダウンサイジング」。江副を筆頭に会社の経営ボードは「紙なき情報提供」つまりデジタル化、ネット時代を予見していたことはわかっていた。いずれ紙媒体はシュリンクするだろう、しかし、まだ具体化できていない。
時代の「つなぎ」でしかないものの、他に手段がない以上、ダウンサイジングは必須のことと私は信じていた。
しかし、この2つとも「重要ではあるが緊急ではない」「緊急でも重要でもない」と判断され、私の情熱の全ては失われた。
結局、1989年9月末の「やめ時」を誤ってから1991年9月末までの2年は、私にとっても、私に成果に到底見合わない給料を払い続けたリクルートにとっても、全く意味のない、不毛な2年となったのだった。
1989年9月末に辞めなかったがために、少しは私がもう少しは頑張るだろうと期待してくださっていたかもしれない関一郎、網野千文両氏、そして何より企画室、編集企画課のメンバーには本当に申し訳ないこととなった。
あの時プツンとキレたがわずかに繋がっていた心の中の何かが、毎週東京と大阪を1〜2往復するようになった1989年、冠雪が始まった美しい富士を眺める新幹線の中で、完全にキレてしまったことを思い出す。
私の心は、もう元には戻らなかった。
金に狂ってしまったブレーンと、冷静であり続けたブレーンと
豊嶋が、リクルートを去った。
その豊嶋を拾ってくださったというと豊嶋には失礼な言い方になるが、自らの会社、株式会社図羅に豊嶋を迎え入れてくださったのは、この笑顔絵のモデル、巽歳宏だった。

豊嶋は、クリエイターたちが楽しんで仕事ができる、クリエイターを大切にする組織の一員となれたことで、笑顔を取り戻した。そして、私と再会できた10年ほど前、巽歳宏は私にこう言ってくださった。
「豊嶋君は、本当にいいコピーライターになったよ、越生さん。」と。
豊嶋だけではない。巽さんには、私の力不足でフォローしきれなかったたくさんの若手たちを助けていただいた。
若手を助ける、そんな大義名分?で夜の繁華街に飲みに連れ回すブレーンもいたが、それはことごとく、自分への発注を確保するための「枕営業」みたいなものだった。
その証拠に、飲みに連れ回した若手がリクルートを辞めると、もう用はないとばかり、まるでその子たちの人生に無関心になる。
つまり彼ら彼女らは、金づるでしかなかったのだ。
そして、リクルートをやめても独立して経営者になったり、転職した後、クリエイティブな仕事を発注する力があるものには引き続き関心を示し、擦り寄った。
その露骨さがあまりに悲しい。
しかし、巽歳宏はそういう人間たちとは、人としての格が違った。
若い人材を潰してはならない、そんな、ある意味大人としては当たり前かもしれない責任感を強く持つ、リクルートおよびその周りにはほとんど見られない存在だった。
その証拠にもなるだろうが、団塊世代の巽ではあるが、80路を迎えてなお、若者の未来に資するために教育の現役で働いておられるのである。
「越生さん。リクルートは間違っていますよ」
当時彼は、目に涙を溜めて、私にこう言ってくださったが。
結局、バブルートの時代には、全国のリクルートの制作部門において、かつてない大きな犠牲を払ったのだった。
「江副さん。あなたが株をやった100人のおっさんたちはもらった株を売り飛ばせば数千万、あるいは億単位の金が濡れ手に泡だったわけで。こんなはずじゃなかったと、社会人としてのスタート時点にいきなり死ぬ思いをし、大きくつまづいて会社を去る自分の会社の若者たちに、次の人生の開拓資金になるように、せめて売れば100万円ぐらいになる未公開株を渡して見送ってもバチは当たらなかったんじゃないでしょうかねえ?」
いや、これは違うか。
もしあなたが、巽のような、そんなハートの持ち主だったら、こんな「とてつもない、化け物のような会社」できていませんでしたよね、江副さん。
これほどの怒りの源泉は何か
今から話すことさえなければ、「かもめの悪しきDNA」として制作残酷物語をこれほどリアルに書き残すことはなかったかもしれない。
私は、悪夢の1989年当時、土屋洋を責めることをしなかったし、それ以降もずっと黙って「元上司」として波風立てることなく、リクルート退職後の四半世紀を過ごしていた。
土屋洋が突然、どうしても許せない存在に変わったのは、2016年のことであった。
「人生も仕事もすべてがつらいです。お母さん自分を責めないでね。最高のお母さんだから」。
そんな遺書メールを母親に送り、2015年12月25日朝、電通の新入社員・高橋まつり(当時24才)が東京・門前仲町にある女性寮から飛び降りて亡くなられた、そのことが連日新聞やテレビで報じられている最中だった。
このことについて、土屋洋は、SNS(フェイスブック)で呟いたのだ。
のちにしつこく攻撃してくる私を友達から外しブロックし、やり取りも何もかもを彼は消してしまったので正確に復元はできないが、彼はその時、以下のようなことを言い放ったのだった。
「電通は許されない。社員を守るのは会社の当たり前の義務である。」
ここまではまだ良かった。彼は続けてこういうことを言ったのだ。
「私はリクルート横浜支社を預かっていた時、女性社員が心を病んだことを経験している。手を尽くし、心を尽くして対処。私は彼女の未来を支えた。その後も、過重労働になりがちなリクルートの体質を変えようとさまざまな提案を続け、間違っても悲劇が起こらない環境づくりに尽力した」と。
「はあ?」
「どの口が言ってる?」
「なんでそんな嘘がつけるんだ?」
私は信じられなかった。
土屋が私たち関西広告事業部のトップとして、史上最悪のブラックな労働環境を自ら強いた当事者だったのは、この美化自己陶酔も甚だしい横浜時代を懐古した時代の、その後であり、実際、部長のデスクから豊嶋や角前や塗園が倒れていくのを眺めてなお無策であり続けた彼の姿を、私は隣の席から見続けていたし、現場にいた誰もが土屋は無責任なただの傍観者であったことを知っている。
電通の高橋まつり氏の自死について、三田労基署は9か月後の2016年9月30日付で「1カ月(10月9日~11月7日)の残業時間が急激に増え約105時間に達した結果精神障害を発症し過労自殺に至った」と、労災認定した。
この月105時間の残業というものは、はっきり言ってそんなレベルのも残業など、リクルート土屋洋部長時代の彼の部下、制作担当およそ40名、神戸京都を入れると60名の全員がやっていた、当たり前のレベルだった。
私もそうだったが、責任の重いリーダークラスのメンバーなどは、もっと過酷というか殺人的な150時間を超える早出、残業、休日出勤を、しかも半年近く連続で続け、その期間の最大のピークである1月2月には200時間レベルに達しようかという、そんな状態だったのだ。
自分が本を出したい、その手段として恩人をダシにした
だから、電通自死事件の時、土屋洋は黙っていればそれでよかった。
電通憎しなのか、黙っていられなくても、せめて自分で自分をヒーローのように美化する嘘を書かなければよかったのだ。
「いくらなんでも酷い言い草、何が労働環境改善に尽力だ?大嘘じゃないか、許せない!」
私はSNSで土屋に噛みつかずにはおれなかった。
ただ、この男を許すことができない理由はもう一つある。
この翌年土屋は、馬場マコトとの共著で「江副浩正」という本を出版したが、これほど嘘つきで歪んだ人格の土屋である。
自分が本を出したいという実に土屋らしい身勝手な動機であることなど見え透いていたが、問題は恩師である江副について、筆者である自分都合で自分を美化し、そのために都合よく恩師をダシにして語ることが私には目に見えていた。
どうせそうなることがわかっていた私は、彼がこの出版に取り組んでいることを事前に知った時、このことについても猛烈に抗議した。やめなさいと。
何度かのやり取りの後、彼は、SNS上では勘弁してくれと、私に直接面会を求めてきたので、私は応じた。
東京まで行って、彼に会ってやった。
この時もそうだが、彼はいつもそう。
話を逸らしに逸らす。
遡ること27年前、自分は(仕事を優先して)親の死に目に会ってないんだと、部下が死にそうな現状とまるで関係ない話で、問題の核心から逃げたように。
この夜も、自分が本を出す意味は「間宮舜二郎の描いた絵に江副さんが踊らされた、そのことを書いて江副の無念を晴らす、そのことに意味があるのだ」と、私が引き下がるまで、私の前で泣いて見せた。
何ヶ月か経って、本は出版された。
読んでみると、間宮の「ま」の字も、そこにはなかった。
怒り狂った私がまたSNSで抗議をすると、彼は今度は、何の返事すらよこさず早々に私を友達から消し去り、そして、ブロック。私の抗議から逃げたのだった。
自分のことしか考えられない人間の末路。飼い犬のフン、何それ?
呼吸をするように詭弁を弄して自分を美化したり都合の悪いことから逃げたりする彼は、まあそんな狡賢く自分勝手で意地汚い人間ではあるが、「悪人」とまでは言えないかもしれない。
そうだな、悪人というのは「藤田洋」のような人物で、土屋洋は人に直接危害は加えない以上、愚か者の範疇に収まるだろう。
彼を擁護する元リクの多くは、紳士の皮を被ってはいるが狡猾な本質に触れない薄っぺらな関係ゆえにそれを知らないだけで、彼をいい人だと思っている者さえ少なくない。そのまませいぜい上っ面の付き合いを続ければいいだろう。
そんな彼はいま鎌倉と言う素敵な街に住んでいるらしいが、そんな美しいまちの中を彼が飼い犬を連れて散歩している姿を見かける人も多いようだ。
一事が万事という。
彼は、犬を飼う人間の最低限のマナーである糞の処理をしないのだと。
フンを拾わず、目立たないところに足で蹴って隠す、そんな姿が鎌倉の住民に目撃されている。
見られていないと思ってるかもしれんが、見られているんだよ!
リクルートをなんと定年まで勤め上げ、その間、間違って私を含め結構な人数の上に立ってきた偉人・土屋洋に、私からラストメッセージを送っておく。
「土屋さん。いい加減、恥ずかしくありませんか?詭弁を弄したり本を出したり、血眼で無知な人の承認を求めたりしなくても。わかってますよ、あなたを知っている人があなたがどんな人だってことぐらい。そういえばまた本を出されると聞きましたよ。今度はどんなふうにして自分を美化しているか、怖いもの見たさで読んでしまうかもしれません(笑)」
まずは、もうそろそろ、これ以上承認を求め続けなくたっていいじゃないですか?ということを伝えてあげたいな。あまりに滑稽で、惨めだもの。
「私だって、電通自死事件の際、嘘八百で自分をアピールしようとさえしなかったら、ここまで書かなかったでしょう。あれで、あなたは自ら、私からのリスペクトをゼロどころかマイナスにしたのです。」
承認されたいがために、嘘を並べて自分を美化することは苦しいのではないか、解放されてもいいのではないか、とも申し添えてあげたい。
「でも、それもこれも、すべてはもういいでしょう。
ただ、一つだけ。せめてそろそろ自分の飼い犬のクソの始末ぐらいはしないとね。あなたのそうした欠落した人格は同類の多いリクルートだから目立たず、間違って人の上に立って来たけれど、人生の最後ぐらいは最低限、一人の社会人らしくおなりになってから、自分の人生をおしまいにしてください。ぜひ普通の人として、人間をご卒業くださいまし」