スキージャンプの「日の丸飛行隊」。笠谷、今野、青地の「金銀銅独占」から53年。札幌オリンピックのレガシーを巡った。

「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ、飛んだ、決まった〜!!」。

テレビ画面から、実況するアナウンサーの絶叫。
日本はもちろんアジアで初めて開催された冬季五輪、1972年札幌大会70メートル級ジャンプで、笠谷幸生は1回目を84メートルの最長不倒でトップに立つと、2回目も79メートルをマークし、日本に冬季五輪初の金メダルをもたらした。

そしてなんと、今野が銀、青地が銅。表彰台を「日の丸飛行隊」が独占したのだった。

当時私は中学2年生。
独特の深い前傾姿勢から勢いよく飛び出す笠谷。多くの外国人コーチが「常識はずれ」と評したその助走フォームを、教室で私をはじめ多くのいちびり生徒が真似をした。

実況放送を真似ながら踏み切り、友人に前から支えてもらって、あるいは机に胸を当てて空中での前傾姿勢をとると、自ら両手でズボンの後ろを、あるいはもう1人がズボンの裾を持ってバタバタさせる。

多くの人が「笠谷ごっこ」をしただろうが、私もすっかり「笠谷」になりきっていた。

しかし、90メートル級(ラージヒル)で7位に終わったあと「90メートルで勝たないと、ダメなんだ」と言った笠谷。彼が本当に欲しかったの90メートル級の金メダル。その競技が行われた大倉山を訪ねた。

メダル独占の奇跡的展開

ここまでは敬称略で失礼したが、金メダルに輝いた笠谷幸生さんは本当にすごい。それは間違いない。
しかしこの大会で金、銀、銅メダルを独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた日本の命運を決めたのは、「日本の切り込み隊長」と呼ばれ、勝負強さを買われて抜擢された金野昭次さんだったと、当時テレビに齧り付きながら私は思った。

日本の1番手として、競技開始後5番目に登場した金野は、「ウオーッ」という叫び声とともに1本目で82.5メートルの大ジャンプ。居並ぶ海外勢の出鼻をくじくとともに、笠谷ら続く日本ジャンプ陣に余裕と勇気を与えた。
もう1人の青地清二の1本目は笠谷に次ぐ83.5メートル。続く2回目は普通の選手なら「途中で落ちていた」失敗ジャンプだったが空中でバランスを立て直して77.5メートル。

この必死のジャンプを見た笠谷さんの兄、昌生コーチは「おまえに向けた『頑張れ』という無言のアピールなんだ」と、笠谷の背中を押した。

金メダルを獲得した後、インタビューで笠谷さんはこう言った。

「金、銀、銅の独占は先輩(青地)の成し遂げた快挙だと思っています。」

本当に欲しかったのは90メートル級での金メダル

「90メートルは勝てなかったからね」。

札幌五輪のジャンプは、今のオリンピックもそうだが、70メートル級(現ノーマルヒル)と90メートル級(現ラージヒル)が行われた。笠谷さんが日本の冬季五輪史上初の金メダルを獲得したのは大会序盤に宮の森で行われた70メートル級。その後大倉山で行われた90メートル級は1本目に2位につけながら、逆転を狙った2本目は横風にあおられて7位だった(7位でもすごいが)。

ジャンプ競技は冬季五輪の第1回の1928年大会から行われているが、当初はラージヒル1種目だけ。70メートル級は64年からで、札幌は3大会目だった。素人にとってはどちらもそれぞれ価値があるのだろうと思うが、「ジャンプを突き詰めるとラージヒル」と、多くの一流選手がそう言う。

「より遠くに」「より美しく」飛ぶのがこの競技。「世界一美しい」飛型と言われながら、笠谷さんは常に「世界一遠くに」と考えていたに違いない。だからこそ、70メートル級の金メダルよりも「本番」の90メートル級で金に届かなったことを悔やんでいたのだ。

青地さん、金野さんに続いて、笠谷さんもこの世を去った。

今ごろは元祖「日の丸飛行隊」として、90メートル級の表彰台を独占していることだろう。

五輪によって新たにデザインされた札幌

1972年、札幌市はアジア初の冬季オリンピック開催地となった。
オリンピックの開催は札幌のまちが変わるきっかけとなり、インフラが整備されるなど近代都市としての基盤がつくられた。また、競技施設の建設やロゴマークのデザインなどに一流のクリエイターが携わり、現在まで残されているものも少なくない。

今回の札幌の旅では、これらオリンピックの遺産(レガシー)をたどった。

最初に尋ねたのは、笠谷、今野、青地の金銀銅独占の舞台となった宮の森シャンツェ。

この競技場を舞台に、日本の笠谷幸生(金)、金野昭次(銀)、青地清二(銅)が表彰台を独占した快挙は、1972年冬季オリンピック大会のハイライトだ。

残念ながら通常は一般開放しておらず、大会開催時のみ見学可能と言うことで、私は笠谷さんが本当に獲りたかった90メートル級の金メダル、その競技が行われた大倉山に向かった。

大倉山ジャンプ競技場

日本初の国際規格のジャンプ競技施設である「大倉山シャンツェ」。

大倉男爵が資金を提供して、1931(昭和6)年に完成し、これまでに6回の改修工事が行われている。地上307mの場所にある大倉山展望台からは、正面に伸びる大通公園をはじめ、札幌市街を一望できる。

展望台では、まさに市街地に向かって飛び出すジャンパーの気分を疑似体験。この恐怖を快感と感じる選手たちは到底理解できない(笑)

札幌オリンピックミュージアム

大倉山には札幌オリンピックミュージアムがある。

札幌オリンピックミュージアム内の展示

スキージャンプ選手の視点を体感できるシミュレーターでは、迫力ある大型映像スクリーンの前に立ってラージヒルジャンプの疑似体験ができる。中学2年の時に、数えきれないほどやった「笠谷ごっこ」を「実況」を呟きながらやってみた。

スキージャンプ大倉山

北海道大学スキー部の山小屋として大正15年に建築された「パラダイス・ヒュッテ」の設計図があった。設計者はスイス人建築家のマックス・ヒンデル。昭和3年に秩父宮さまがこの「パラダイス・ヒュッテ」に滞在された際、北海道大学スキー部の面々を前に「将来日本で冬のオリンピックを開催するとなれば、雪質が良く、大学都市である札幌がいちばん適当であると思う」(秩父宮さま)と、冬季オリンピック招致の将来構想を語られている。まさに札幌オリンピック誘致の源であろう。

パラダイス・ヒュッテの設計図(札幌オリンピックミュージアム所蔵)

パラダイス・ヒュッテの設計図(札幌オリンピックミュージアム所蔵)

オリンピックで進んだ札幌のまちづくり

オリンピックは、札幌のまちづくりに大きな影響を与えた。

1967(昭和42)年にまちを近代都市へ大改造する構想が立ち上がり、インフラなど都市環境整備の契機となった。会場を結ぶ道路として五輪通や札幌新道などが造成され、交通をスムーズにするための橋梁も架設されていく。

開催直前の1971(昭和46)年には、北海道初の高速自動車道「道央自動車道(千歳~北広島)」と「札樽自動車道(札幌~小樽)」が開通。そして地下鉄南北線(北24 条~真駒内)が開通。同時に、冬でも快適に歩ける地下街が誕生した。地下空間の発展は、市民の冬の暮らし方やファッションを大きく変えていった。

競技場や関連施設、エンブレムなどのデザインには、日本を代表する建築家やデザイナーが関わった。プレスセンター(現北海道青少年会館)は黒川紀章、旧真駒内スピードスケート競技場(現真駒内公園屋外競技場)は前川國男の設計だ。聖火台のデザインは柳宗理が手がけ、雪の結晶が印象的な大会エンブレムは永井一正によるものだ。

大会公式ポスターは、1964年東京オリンピックのエンブレムでも知られる亀倉雄策らが制作。その前の招致ポスターは岩見沢市出身のデザイナー・栗谷川健一が制作した。

これらクリエイターの表現によって札幌のまちは世界へ発信され、市民は熱気とともに国際都市・札幌への変貌を実感するのである。

旧真駒内スピードスケート競技場(現:真駒内公園屋外競技場)

旧真駒内スピードスケート競技場(現:真駒内公園屋外競技場)にある聖火台

旧美香保屋内スケート競技場(現:美香保体育館)にある大会エンブレム

旧美香保屋内スケート競技場(現:美香保体育館)にある大会エンブレム

身近にあるオリンピックのレガシー

札幌市内に残されたオリンピック施設は、今も市民に親しまれている。このことが大切だ。

建築家の作品や聖火台は観光資源、旧オリンピック村は五輪団地として、美香保と月寒の屋内スケート競技場はスケートリンクを持つ体育館として利用されている。

大倉シャンツェを改修した大倉山ジャンプ競技場では、スキージャンプ競技の主要な国際・国内大会が盛んに開催されており、場内には「札幌オリンピックミュージアム」が併設され、ウインタースポーツの振興に寄与している。

主会場だった真駒内の通りや公園には、本郷新、佐藤忠良など著名な美術家の彫刻作品がまちに溶け込み、札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」は地下鉄駅の“駅メロ”として使われている。

真駒内の彫刻群

このように、大会後も活用され、身近なところにあって、実際に巡って楽しめる。これこそオリンピックの「レガシー」というものであろう。