インスタ映え「園部城もどき」の史実錯誤に、道の駅「京都新光悦村」で憤る(トイレ△仮眠○休憩△景観△食事△設備△立地○)

園部城は、園部公園内の案内図にある「こむぎ山」と書かれた所にあった山城でした。室町時代から戦国末期、ここ園部は、織田信長に抵抗して最後は磔にされる丹波八上城主・波多野氏の勢力圏であり、家臣の荒木山城守氏綱が居城とした園部城があったのです(冒頭の画像は荒木氏の「抱き牡丹」紋)。ちなみにこの場所は現在は山頂の本丸跡に戦関連の碑があるものの植物園になっていて、これといった遺構はありません。

天正6年(1578)4月の明智光秀の丹波攻めで波多野氏は滅亡。園部城も落城し、この山城が廃城となって以降しばらくは記録が途絶えてしまっています。そして40年の激動の歳月を経て、その園部城をベースに近世城郭を造ったのは小出吉親でした。この40年間の小出氏についてはだいたい以下のようなことでした。

吉親は和泉岸和田5万石の小出吉政の二男です。織田→(一時明智)→豊臣の目まぐるしい時代、豊臣秀吉の一門として遇されてはいた小出氏ですが、それでも三好一族の様な過度な厚遇ではなかった事で、豊臣家とは少し距離がありました。それが関ヶ原での一族両面作戦を可能にし、大坂の陣では徳川に与する事で生き残りへの道を開くことができたわけで、ツキも味方した小出氏でした。

徳川の時代となり兄で嫡男の吉秀(出石藩主)が岸和田藩を継ぐと、兄の領地を受け継ぐ形で吉親は出石藩3万石の大名となりました。そして大坂の陣が終わり、江戸幕府の態勢が盤石になると、兄の吉秀は旧領の出石への転封を言い渡され、吉親は押し出される形で園部へと移封されたのでした。

園部陣屋の誕生

小出吉親は園部に入ると宍人城を仮住まいにし、園部城の跡地に新たに「築城」を始めた。居館を水堀で囲み、周囲に家臣団屋敷を輪郭に配して、背後の小麦山は詰め城とする650m×450m規模の本格的な城郭は2年がかりで元和7年(1622)に完成する。

ところが幕府からは“園部城”の名称は許されず、“園部陣屋”が名称として指示され、櫓の建築は許可されなかった。 吉親の石高は3万石だったので“城持ち大名”でも良かったはずだが、すぐ近くの出石に小出宗家の城(有子山城)がある事が考慮された幕府の判断だったと思われる。

陣屋から城、そして高校へ

吉親が「園部陣屋」を築いたその後、小出氏は10代にわたって陣屋を守り、明治維新を迎える。幕末の戊辰戦争が起こると京都御所の安全が問題視され、園部陣屋が明治天皇の行在所として候補にあがる。こうして園部陣屋は明治政府の許可を得て明治元年(1868)から2年の歳月をかけて櫓門・巽櫓、三層櫓などが築かれて城の体裁を整え、ようやく園部城と呼ばれるようになった。

明治になって「日本の最後の城」として完成した園部城は、南北600m、東西400mの城域を持ち、約2kmの堀をめぐらし、大広間・大書院を容する御殿のある本丸の四隅には巽・太鼓・巣鴨・乾の4基の櫓を配していた。しかし、わずか3年後の明治5年(1872)、園部城は廃城となり、多くの建物が取り壊されてしまう。

現在は、京都府立園部高等学校の敷地となっていて、巽櫓、番所、太鼓櫓(八木町の安楽寺に移築)など一部の建物が現存している。そして櫓門は、同高校の正門として利用されている。

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桜の時期に、150年の歴史ある正門をくぐって入学し、ここで学び始める生徒たちの未来に幸あれと願う。

南丹市の浅知恵と安易さ丸出しの天守もどき

園部城は京都府南丹市にあり、市役所に隣接した市の中心部にある。南丹市は、2006年に船井郡園部町を中心に周辺5町が合併して出来た新しい市だ。その南丹市が、市役所のすぐ南に「南丹市国際交流会館」をつくった。

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天守台石垣はこんな高さはなかったし、似せているとはいえ当時の3重櫓は裏山にあたる小麦山の山頂にあったので位置も異なる。また、建物の中はホールや会議室で、かつて堀があった場所をなんとプールにしている。

園部城とは全く関連ない建物を、多くの人は「あ、園部城だ」と言ってインスタにアップするだろう。かつての園部城の太鼓櫓は、市内の安楽寺に移築されて現存するわけで、誇りある郷土を正しく守る使命を帯びているはずの地方自治体でありながら、こうした南丹市のお粗末な「センス」には、開いた口が塞がらない。

道の駅「京都新光悦村」は、園部城から2km

園部城からわずか2キロほど北、京都府南部の京滋バイパス大山崎JCTから京都府北西部の宮津天橋立ICを結ぶ京都縦貫自動車道の「園部IC」を降りてすぐの場所に道の駅「京都新光悦村」はある。

道の駅の名は、駅のすぐ近くにある産業拠点の名称からとったものだが、本阿弥光悦の「光悦村」のモノづくりの精神をということで昭和の時代から構想され、自治体主導の工業団地開発としては小規模だったにも関わらず、造成が完了した平成を経て、令和6年現在なお全64区画中10区画がまだ空いている。

道の駅の駐車場。施設規模なりの広さはちゃんとある。照明もしっかりしていて、アイマスクをすれば仮眠はさせていただきやすそうだ。

トイレを利用させていただいた。これまた、施設規模なりの便器数。

ウォシュレット。

ちょっとだけ休憩するなら、自販機前のここがいいかも。

クリーン白米仕上げの温心米

道の駅「京都新光悦村」の施設は、農作物直売所を兼ねた物産館とレストラン。

道の駅の特産品として、目玉になっているのは地産の米「温心米」だ。

「米煎餅」など、温心米を使った加工品も販売されていて、「手作り寿司コーナー」なんかもある。ここでは「鯖寿司」「押し寿司」「巻きずし」「ちらし寿司」「助六寿司」など地元の主婦会が作る寿司が販売されていた。 珍しい企画商品としては「一升餅」。 園部町には満1歳の誕生日には「一生(一升)食べるのに困らないように」の願掛けで、 「一升餅」を振る舞う伝統行事があるのだが、誕生日の1週間前までに予約すれば「一升餅」を購入することができるということだ。

温心米以外では、瓜、すいか、守口大根、キュウリを漬けた「るり漬け」、隣町の美山町(現南丹市美山町)の特産品の「美山牛乳カレー」や「美山茶」、 京丹波町の特産品の黒豆を用いた「丹波しぼり黒豆」「丹波黒豆羊羹」、 近隣観光地の丹波高原産の「食彩庵のジャム」などが特産品として販売されている。

チーズケーキのお店だがご飯物もある

「チーズケーキのお店」ということだが、残念なことに私が到着した時間には営業を終了していた。チーズケーキだけではなく、スープセット、パンケーキ、ソフトクリームなども楽しめるそうだ。また、ここでも温心米を用いたご飯物メニューはあって、「牛すじゴロゴロカレー」や「たまごがけご飯セット」が人気だそう。 そういえば、たまごがけご飯の醤油「たまごちゃん」とか、温心米+たまごちゃんがセットになった「たまごがけご飯セット」も物産館で販売されていた。きっと美味しいのだろう。