
1912(明治45)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で 砂に埋まっている石が発見され、掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていた。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられていて、碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれている。

文化九年は西暦1812年、この年の4月に造られたことがわかる。裏には漢文で文章が書かれているが、次のような内容だ。
「寛政元年(1789)五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」
これだけ読むと「凶悪」なアイヌがこの地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということだが、果たして真実の歴史はどうだったのだろうか。
そこには、アイヌ人と和人との、あまりにも悲しい歴史があった。
ノッカマップイチャルバ
1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップというところで「イチ ャルパ」という催しが行われている。イチャルパとはアイヌ語で供養祭という意味だ。これは、寛政元 (1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、アイヌの人たちが中心になって催されている祭事である。
江戸時代の北海道は、ご存知のように蝦夷地と呼ばれていた。蝦夷地は松前藩の植民地同然、多くのアイヌ人は奴隷同然だった。当時の蝦夷地は米が獲れなかったので松前藩は年貢をとることができなかったが、蝦夷地の交易による利益によって藩は成立していた。
最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交 易していたが、しだいに飛騨屋などの商人にまかせるようになっていく。交易品としては、和人側からは米・酒・鉄製品、ガラス玉などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)などの産物が提供されていた。

ロシアと江戸幕府と蝦夷地
高価な黒テンやラッコの毛皮を求めて、シベリアから アリューシャン列島・千島列島にロシア人が進出してきた。1778年にはロシア人が クナシリアイヌのツキノエの案内で、根室のノッカマップに交易をもてめて来航。ロシア人は千島列島のアイヌとも交易を行っていた。
かたや江戸時代の日本は鎖国政策。この頃も、長崎での中国・朝鮮・オランダ、対馬での中国、琉球での中国貿易、そして松前での中国・ロシア貿易の他は、外国とは交易していなかった。
当時の江戸幕府は財政的に行き詰まっており、蝦夷地での交易の莫大な利益に目を付けたのが老中・田沼意次だった。幕府は蝦夷地に調査隊を派遣し、飛騨屋の横暴によるアイヌ人虐待も発覚したが、途中で田沼は失脚。結局、幕府は蝦夷地に対して何の政策も行わなかった。
アイヌ人の蜂起
1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起。松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた商船「大通丸」を襲い、標津付近のアイヌも加わって、海岸沿いにいた支配人、番人らも殺害した。
クナシリ島で蜂起にしたのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心で、合わせて41人が番人らの襲撃に加わっている。彼らはクナシリ島の若きアイヌリー ダーたちで、フルカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人、さらにメナシ地方(標津 ・羅臼付近)で49人を殺害。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人のアイヌ人が蜂起して、71人の和人を殺したのだった。

蜂起の背景と引き金
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、蜂起の原因を調べた。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らがアイヌを強制的に働かせるために行っていた数々の非道の実態が明らかになった。
アイヌの人々はわずかの賃金(品物)で、冬に食べ る食糧を確保できないほど働かされ、餓死するものが多く出るような状態であり、女性に対する性的暴力が続出したが、それに対する抗議をしても、さらにひどい暴力を受けるという状態だった。
アイヌたちは「このままでは生きていけない」と思い詰めていた1789(寛政元)年、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になると、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島に酒を持ってきた酒をサンキチが呑んだところそのまま死んでしまい、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、死んでしまうという不審な死が続いた。
これが毒殺であったかどうかは定かではないが、「和人に毒殺されたに違いない」というアイヌの疑心暗鬼が、放棄への引き金となったのである。
取り調べと37人の処刑
蜂起に関係したアイヌたちは7月16日までにメナシの183人とクナシリの131人がノッカマップに到着。取り調べが始まった。
アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせた。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人の合わせて130人が蜂起し、殺害に加わったことが 判明。もちろんなぜ蜂起したかについても詳細に取り調べられた。そして7月20日、直接の加害者である37人が重罪であるという理由で死罪が決定。
翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引き出されて、首がはねられていく。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげて牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒して結局37人全てを処刑したのだった。

ノツカマップイチャルパのヌサ(幣)場

ノツカマップ岬(ノツカマフ1・2号チャシ跡が所在)
アイヌ社会の終焉へ
この戦いを通じて、アイヌ社会は松前藩はじめ和人との力の差を思い知らされることになった。
蜂起前のように武力で立ち上がる道を完全に無くされ、本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなっていたこともあって、経済的にも従属関係となり、和人支配下で働かされるということが日常的になっていく。
政治的にも、アイヌ自身による独自の政治勢力が育ってアイヌ社会が発展する可能性は、限りなくゼロになっていったのである。
1789年のクナシリ・メナシの戦いは、北海道にとっても日本にとっても、そして何よりアイヌ民族の歴史にとって、忘れてはならない戦いである。
奇しくも1789年には、フランス革命が起こっている。
道の駅「スワン44ねむろ」

道の駅「スワン44ねむろ」は、クナシリ・メナシの戦いがあった根室半島北部から10数キロ北海道本島側に戻り、根室の街の玄関口となる国道44号沿いの、手付かずの自然を色濃く残す環境の中に位置している。
施設は全面ガラス張りになっていて、施設内からも日本有数の野鳥の宝庫「風蓮湖」や「春国岱」が一望でき、タンチョウ、オオハクチョウなどの鳥たちを見ることができる。
駐車場、休憩環境は?
駐車場は細長く続く。傾斜があるので、体を横たえての仮眠にはあまり向いていない。


休憩環境は抜群だ。





レストラン「バードパル」
豊富な海の幸を食材に、根室らしいメニューが用意されている。
座席数は100席。風蓮湖の景観を楽しみながら食事できる。


特産品等展示・販売コーナー「ショップバードパル」
地産品や根室銘菓、ここでしか買えない道の駅のオリジナル商品など、地元色に溢れた商品が取り揃えられていた。


鮮魚販売コーナー「東光 道の駅店」
水揚げされたばかりの根室の特産物「花咲がに」をはじめ、各種魚介類や根室ブランドの水産加工品を販売している。

観光インフォメーションコーナー
館内に設置されたテレビ型望遠鏡を使って、眼下に広がる風蓮湖・春国岱の雄大な自然を楽しめる。また、双眼鏡の無料貸し出しを行っていて、バードウォッチングもできる。

