たとえば京都発、ベイルート着。〜学生たちそれぞれの片道切符〜 第九話「役割分担」

『パレスチナ解放闘争史』出版の重信房子さんに聞く 民衆史としてのパレスチナ「私党」重信房子と日本赤軍 

謎多き「魔女」の素顔に迫る。

彼女は「司令官」

 指定された部屋をノックすると、開かれた扉の向こうに彼女が立っていた。だぶっとした黒いタートルネックのセーターにツイードのコート。髪はゆるくパーマをかけていたような記憶がある。レバノンのベカー高原にあったアパートの一室。あのころ、レバノンはまだ内戦下にあった。

 5月28日、懲役20年の刑期を満了し、東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)から1人の女性が出所した。日本赤軍のリーダーだった重信房子(76)である。

 オランダ・ハーグでのフランス大使館占拠事件(1974年)で国際指名手配中の2000年11月、潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕された。それから21年半。獄中で4回にわたる手術で9つの癌を摘出しながら、生き抜いて自由の身となった。

 出所には数10人の支援者やメディア関係者らが駆けつけ、近くの公園で会見が開かれた。彼女の背後には「WE♥FUSAKO」の横断幕が広げられ、報道陣から母親を守るように1人娘のメイが寄り添った。

 テレビ画面からは、帽子に遮られて顔がよく見えなかったが、流れてきたハスキーボイスは昔と変わっていなかった。

「かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です」「社会に戻り、市民の1人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません」

 記者たちに配られた彼女の「再出発にあたって」という挨拶文にはそうある。集まった記者たちの多くは娘よりも若い世代で、映像からははしゃいだ雰囲気が伝わってきた。

 それから1週間後、彼女が通った明治大学駿河台校舎(東京都千代田区)近くのお好み焼き屋で、1960年代をともにした約30人の活動家仲間たちが歓迎会を開いた。「彼女は少しだけビールを啜っていた。顔色は良かった。話といっても、お互い年取ったなあなんてことばかり」。参加した一人はそう笑った。

 支援者や旧友に囲まれた穏やかな時間が流れている。長い異国での活動と獄中生活から生還したのだから当然だろう。それでも、何かが欠けている。忘れ物とでもいうべきか。

 彼女の口からは亡くなったり、いまも獄中にいる元同志たちへの言及がなかった。有期刑だった重信と違い、そのうち2人は無期刑で服役している。ひと昔前と違い、現在の無期はほぼ「死ぬまで」を意味する。解散前から日本赤軍と袂を分かっていたとはいえ、彼らは「兵士」で、彼女は「司令官」だった。

 日本の市民社会に戻った元兵士たちの多くは姿を現さず、距離を置いて沈黙していた。日本赤軍の指導者。彼女の名を世に知らしめた、その最大の事実を出所の喧噪はかき消しているかのように見えた。

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熱狂的に出迎えた支援者たち

天性の人たらし

 重信が日本赤軍を率いるようになるまでの足跡については、彼女自身の手記や評伝などでたびたび紹介されている。

 敗戦の年に、東京都世田谷区で4人きょうだいの次女として生まれた。父は戦前、井上日召が主導した右翼団体「血盟団」とつながりを持つ人物で、食料品店などを営んでいたが、その高潔な性格からか商売っ気はなく、家計は厳しかったという。重信は幼少時から文学少女だった半面、高校時代には渋谷で不良を装い、高校卒業後はキッコーマンに就職した。19歳で教員を目指し、明大文学部の二部に入学する。

 入学と前後して学費闘争での学生処分に抗議する闘いに共感し、それを契機に学生運動に加わる。所属セクトは当時、三派全学連(新左翼系)の一翼を担った共産主義者同盟(ブント)だった。

 数年後、ベトナム反戦・全共闘運動が全国を席巻したが、1969年1月の東大安田講堂「落城」を機に運動は退潮に向かう。運動の行き詰まりからブントは分裂し、彼女は赤軍派に属することになった。

「重信の役回りは秘書。当時の赤軍派は塩見(孝也、議長)、田宮(高麿、後の「よど号」グループリーダー)、堂山(道生)の3人を中心に回っていて、重信は堂山さんの秘書だった」。当時を知る元赤軍派メンバーの1人はそう振り返った。

「頼れる人という印象だった。カネがなくてね。窮地になると、彼女がどこからかカネを引っ張ってきた。大島渚(映画監督)や松田政男(映画評論家)も彼女の大ファンで、新宿にあった『ユニコーン』という店で一緒によく飲んでいた」

 天性の人たらし。彼女をそう評する人は少なくない。その才能はオルグでも生かされた。「当時、隆盛だった『リブ』に加わるようなタイプじゃない。逆だね。重信は自分の『女』を利用する。だから『魔女』とも呼ばれた。時代もそんな振る舞いを後押ししていた」。後年、何人かの男たちが「オレこそが重信の本命の恋人」と吹聴していた。催眠術から抜けきれなかったのだろう。

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レバノン渡航当時の写真

大菩薩峠からパレスチナへ

 学生デモは素手からヘルメットとゲバ棒へ。それはすぐに火炎瓶と鉄パイプに取って代わられたが、警察力の増強はそれを上回った。軍事的な突破を果たすべく、赤軍派は「前段階武装蜂起」を掲げる。だが、その準備段階の訓練で壊滅的な弾圧(大菩薩峠事件)を受ける。

 前出の元赤軍派メンバーはこう続けた。「赤軍派の国際根拠地論はそんな苦境からひねり出した方針だった。海外の革命国家で訓練を受け、日本に戻ってくる。最有力の候補地はキューバ。一握りの集団で革命を成就したんで、自分たちの姿と重ねた。キューバから戦艦で帰ってくるなんて話もあった。ただ、接触したキューバ大使館からは『空想的すぎる』と一蹴されたな」

 それでも赤軍派はこの路線に従って、1970年3月に「よど号」ハイジャック事件を起こす。だが、直前に議長の塩見は逮捕され、他の幹部も逮捕、脱落が相次いだ。

 残されたのは後の連合赤軍事件で中心人物となる森恒夫、重信ら準幹部だけだった。森は国内の武装闘争に舵を切ったが、重信は国際根拠地路線の継続を選び、袂を分かつ。

 選んだ行き先はパレスチナだった。なぜ、パレスチナだったのか。当時、『世界革命運動情報』誌の発行に携わっていた松田政男は生前、「オレの影響だ」と話していたが、経緯は定かではない。

 ただ、同伴者はすでに赤軍派にはいなかった。白羽の矢が立ったのが、京大全共闘出身の奥平剛士だった。奥平は当時、京大助手の滝田修(竹本信弘)らをイデオローグとした「京都パルチザン」の一員だった。奥平は重信からの提案を承諾。警察からマークされていた重信の改名目的で、2人は婚姻届を出している。

「リッダ闘争」という運命の岐路

 偶然、目の前に転がってきたボールを拾うのか、他人の物と黙って通り過ぎるのか。それが運命の分かれ道になることがある。

 重信に「国際テロリスト」の肩書きを与えたのが、1972年5月にイスラエルのロッド国際空港で起きた「リッダ闘争(テルアビブ空港銃撃戦事件)」である。奥平を含む日本人青年3人が治安当局と銃撃戦を展開し、巻き添えになった観光客ら計26人が亡くなった。

 奥平は射殺され、京大生の安田安之は手榴弾で自爆したが、鹿児島大生の岡本公三は拘束(現在はレバノンに亡命中)された。

 日本赤軍の看板として語り継がれる事件だが、重信にとっては「転がってきたボール」だった。なぜなら、この事件への重信や赤軍派の関与はないに等しかったからだ。

 どういうことか。1971年の冬、パレスチナ勢力の拠点だったレバノンの首都ベイルートに渡った奥平と重信は、左派組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の門を叩く。奥平はハイジャック作戦などを遂行していた非公然の海外作戦部局に、重信は広報部門に振り分けられる。奥平は訓練を受け、PFLPと決死作戦の立案、準備に入っていく。

 奥平は出国直前、重信の要望で赤軍派に名義を貸した。だが、それは形式にすぎず、この作戦でも呼び寄せたのは京都パルチザンの仲間たちだった。パルチザンは全共闘の生き残りで、赤軍派も含めた前衛党主義と一線を画すアナーキーな集団だった。彼らは労働と闘争をともにする無数の小集団(五人組)を基礎にした革命を夢想していた。

 リッダ闘争はその国際版で、無名の国際義勇兵の作戦として策定された。それゆえ、声明文を用意せず、安田に至っては身元を隠すため、自らの顔を吹き飛ばしている。

 京都パルチザンの1人で当時、現地で作戦準備に携わった檜森孝雄(2002年に焼身自殺)は遺稿などをまとめた『水平線の向こうに』で「(奥平が)赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一回もなく」と述懐している。同時期に連合赤軍事件で拘束されていた青砥幹夫も事件の一報を聞き、「赤軍派の匂いがしないと思った」と語っている。

 作戦が極秘で進められる中、当時の重信は映画監督の若松孝二や足立正生が企画したパレスチナ闘争の宣伝映画の制作に協力したり、ベイルートの日本人社会ではアイドル的な存在になっていた。娘を懐妊したのもリッダ闘争が実行されたころである。奥平らと重信の間には、その日常のみならず、精神面でも大きな隔たりがあったと推察される。

 やがて作戦は遂行された。欧米諸国や日本の非難とは対照的に、アラブ諸国は絶賛した。だが、アクシデントが起きた。岡本の拘束である。「無名」の構想が崩れた。

 足元にボールが転がってきた。実行者たちの遺志を尊重するのか、赤軍派の作戦と宣伝するのか。重信は後者を選んだ。後に彼女はPFLP幹部の助言に従ったと説明したが、その人物はすでに亡くなっている。

 アラブ民衆の歓喜の熱狂に魅惑されたのだろうか。この事件は彼女に特別な地位を授けた。リッダ闘争という錦の御旗が彼女をアラブ諸国の元首クラスとも会える立場に押し上げたのである。1個のボールが一介の女性活動家に魔力を与えた。

人々を吸い寄せる魔力

「日本赤軍は共産同赤軍派の延長線上に見られがちだが、全くの別物。思想も理論も赤軍派とは違う。日本赤軍は重信が創った党。ただ、彼女は理論家じゃない。理論や思想ではなく、彼女の何かに吸い寄せられた集団だ」。すでに他界した元赤軍派幹部は生前、そう言い切った。

 リッダ闘争直後、「アラブ赤軍(後の日本赤軍)」として犯行声明は出したものの、その組織実体は乏しく、残っていたのは重信と事件で帰国できなくなった京都パルチザン系活動家の丸岡修(2011年に日本で獄死)だけだった。

 しかし、次第に雑多な人びとが集まってくる。重信らが渡航する以前から難民キャンプでボランティアをしていた医療関係者ら、欧州で脱走米兵の亡命援助をしていた旧ベ平連系の知識人ら、若松プロの宣伝映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」の上映隊グループなどである。

 そして、日本赤軍は1973年7月の日航ジャンボ機乗っ取り事件(ドバイ事件)を皮切りに、シンガポール製油所襲撃事件(74年1月)、ハーグ・フランス大使館占拠事件(74年9月)、クアラルンプール米大使館領事部、スウェーデン大使館占拠事件(75年8月)、ダッカ日航機乗っ取り事件(77年9月)と、立て続けに作戦を展開していく。クアラルンプールの事件では5人、ダッカの事件では6人が日本の獄中から超法規的措置で釈放され、組織に合流した。

 重信はヒロインだった。屈指の国際テロ組織のリーダーと叩かれる一方、1970年代から80年代にかけて、日本から竹中労や中山千夏、立花隆をはじめ、数多くの著名人や活動家らが彼女との面会を求めて渡航している。中国での27年間の幽閉後、1980年に帰国した元共産党政治局員、伊藤律も渡航を望みつつ、彼女と文通した1人だった。新左翼党派の派遣団や巷の不良少年までが海を渡った。

 なぜ、人びとはこれほど重信や日本赤軍に魅せられたのか。なにより彼女の「人たらし」という天賦の才覚が人びとを誘った。

 アジビラ調の文言が並びがちな新左翼の文書の中で、彼女が書く日本赤軍のそれは特異だった。1973年11月に発表された「アラブよりの招請状」には「やくざで底抜けにやさしかった多くの仲間たち、どうしていますか? キャンパスは、あたたまっていますか?」「街角は私たちの(出会いの)ために待機していることでしょう」とある。

 こうした言葉に誘われ、海を渡った人は少なくない。渡った先で「ちょっと前に、あなたが来る夢を見た」と告げられた人もいた。日本のシンパらへの手紙には、ベカー高原の草花を押し花にした手製のしおりが添えられていた。

 時代背景もあった。そのころには「叛乱の季節」は終わり、新左翼運動は100人以上の若者が落命した陰惨な内ゲバの陥穽にはまっていた。

 そうした中で「口先でいくらマルクス・レーニン主義をいおうと、団結しえず、分裂や内ゲバをくりかえすのは、その根拠に敵階級の思想を反映した立場があるからです」(『団結をめざして―日本赤軍の総括』)と断罪する日本赤軍は運動圏の希望の灯だった。

「(私たちは)死を覚悟することによって日和らない自己を確立するという程度の決意主義を根深くもっていました」(同)。こうした凄みが、ますます彼女と組織を神格化した。

目の前に現れた小柄な女性

 ノンセクト活動家だった学生時代、老舗の新左翼党派にキャンパスを追われた経験のあった筆者も1980年代半ば、彼らの言葉に惹かれて渡航した1人である。

日本赤軍は、1971.2月、赤軍派女性幹部の重信房子と「京都パルチザン」グループの奥平剛士が偽装結婚してパレスチナへ赴いたことから始まる。1972年のロッド空港乱射事件(テルアビブ空港事件)いわゆるリッダ闘争でデビューし、イスラム人民の信頼を獲得する。

 1974年頃、正式に日本赤軍として分党する。ハイジャック闘争を次々と成功裡に敢行し、クアラルンプール米大使館占拠事件(1975.8月)とダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)では超法規的措置で日本国内に拘置中のメンバーら計11名を釈放させた。

 しかし、国際警備網が整序されにつれて僅かの活動家が次々と逮捕され、イスラエルのレバノン攻撃により根拠地を失うことにより敗色濃厚に陥る。その後、爆弾闘争で失地回復を図るが、それも次第に封じ込められる。1980年代後半から2000年代にかけて、丸岡修、和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は壊滅状態に追い込まれる。党内対立も激化し、党の統制力を失う。

 2000.11月、日本赤軍幹部の重信房子が、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。後に支援者数名が犯人隠匿容疑で逮捕。これにより同組織の活動はほぼ壊滅したとされる。2001.4月、重信房子は、都内で開かれた支持者集会に、獄中から日本赤軍としての解散宣言を行なった。この過程を検証する。

 (総合雑誌2009.3月号情況所収の和光晴生氏の「日本赤軍とは何だったのか第1回」その他を参照する)

 重信房子がイスラムのパレスチナ解放闘争との結合を決意する。この背景には、所属する赤軍派の混迷があった。既に最高指導部が逮捕され、田宮らは北朝鮮へ向かい、森恒夫が新指導者として登場していたが、既に古株の重信は新指導部とはソリが合わなかった。

 よど号派は北朝鮮の拘束下に入り、身動きとれなくなっていた。重信は、これを見て、既成社会主義国家ではない革命戦場に革命の根拠地を求め始めた。こうした折、「京都パルチザン」グループの奥平剛士と繋がり、革命の夢を語りあった。その結果、パレスチナ闘争への合流で意思統一した。重信は、森指導部に決意を伝えたところ反対された。ならば赤軍派を止めてでも行くという堅い決意を述べたところ、森は「行く以上は、赤軍派として行って欲しい」と述べ、これを承認した。

 重信の「わが愛わが革命」(講談社)は次のように記している。 「67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。『房子、今日の闘争は良かった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな』。私は驚いて、酒の盃を手にしている父を見つめた。その日が、はじめてで、そして終わりであつた。父が、自分の青春時代の話をしてくれたのは。父は、昔、血盟団に加わっていて西田税やなんかと一緒にやっていたという。理科大かなんかに行っていて、東京に絶望して、九州へ帰ったのだという。父は、鹿児島の出身であった。

 父は続けた。2.26事件にしても、血盟団にしても、歴史は、あとで右翼だとか何だとかいうが、我々は正義の為にやったのだ。政治家が腐敗していたから、我々が権力を変えて、もっと人民が潤える社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく、自分が正しいと思うこと、これが正義だと思うこと、それだけをやれ! 『物知りにだけはなるな』。ものごころついたころからよく聞かされた父の言葉である」。
 「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」(幻冬社)は次のように記している。  「家に入りざま、敵のめちゃくちゃな所業の数々を家の者達に話しまくり、意気揚揚とお茶一杯飲み干した時、父がなんとんく厳かな感じで、昔の話をしてくれたのです。『いや、房子、本気で革命をやるのなら、あのようにやってはいかん。まず民心を重んじなければならぬのが第一。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンに過ぎぬ。井上日召は一人一殺主義と言われているが、そうではなく、一殺多生と言ったのだ。一殺多生は一人では出来ぬ』と」。 「あまり話したがらない父。父の前歴は知らなかったけれども、子供の頃、父と子の対話の中心は、人はどのように生きるべきかということ、そして天下国家を語ることでした」。 「赤軍派になってから、ますます父の意見を反動的なものとして、退けるようになりました。けれども、父と娘の対話は熱意に満ちたもので、父の哲学は私の心に沁みわたりました」。 「父は娘を信じるが故に、心強く励まし続けてくれました。『ちょっと仕事の都合で、外国へ行って来るからね』と旅立ちを告げた時、母は、明るく、着ていく服のこと、持ち物のことに気を配ってくれ、父は、『やすやすと帰ろうと思うな。しっかりと頑張れ』と言いました。もう会うことの無い娘の旅立ちを理解していたように思います。旅立って以降、家族から手紙は来ませんでした。『家族が手紙を書けば、房子に要らぬ気をかけさせる。誰も出すな』と、父の指示が家族にあったということを私は後から知るのです」。

1971.2.26日、赤軍派の女性幹部の重信房子(明治大)、「京都パルチザン」グループの奥平剛士(26歳、京大工学部)が偽装結婚してパレスチナへ赴いた。マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化の実現を目的として結成されていた共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき海外に革命の根拠地を求めて脱出したものであった。マルクス・レーニン主義に立脚するPFLP(パレスチナ解放人民戦線)へ共同武装闘争を申し入れ、その支援庇護を受けレバノンで活動を始めた。 

10月、安田安之(24歳、京大工学部)、山田修、檜森孝雄がベイルート入りし、奥平達に合流した。アラブ赤軍は、過激な武装路線のマルクス主義セクトとして、パレスチナ・ゲリラと共同し、又は単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各国で展開していくことになった。これを国際遊撃戦路線という。

重信、奥平、安田、山田、檜森の5名はアラブ赤軍又は赤軍派アラブ委員会と称し活動を始めた。PFLPの諸部門のうちの国際ゲリラ作戦を担当するアブ・ハニ氏が率いる海外作戦部局に所属した。

この年、若松プロが、ドキュメンタリー映画「赤軍-PFLP世界戦争宣言」を製作、真っ赤に塗ったマイクロバスを仕立てて、全国各地で上映隊運動を展開する。

1972.1月末、山田修が、ベイルートの海岸の岩場で水泳中溺死する。檜森孝雄が遺体を日本に送り届けることになる。日本に帰国した檜森は、丸岡修と岡本公三のオルグに成功する。2月末、岡本が出国。3月、丸岡が出国。

1972.5.8日、アラブ・ゲリラが、サベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブのロッド国際空港に着陸し、逮捕されている多数の同志の釈放を要求した。イスラエル政府は、強行手段によりゲリラを射殺した。PFLPは、報復作戦を計画した。

 「奥平剛士の両親宛遺書」は次のように記している。 「あす、僕らは、この辺境の基地を出発します。羊の群れが出撃する我々を送るでしょう。ずっと仲艮くしていた子どもらが手を振ってくれるでしょう。彼らが、僕らのあとを継いで銃を握ること、世界中の飢えた子どもらが我々のあとにいることを僕らは確信しています」。 

1972.5.30日、奥平剛士(バーシム・奥平)、安田安之(サラーハ・安田)、岡本公三(アハマッド・岡本)らがイスラエル・テルアビブのリッダ国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルをチェコ製のVz-58(よくAK-47自動小銃と誤認される)と手榴弾で攻撃し、結果的に民間人ら100人以上を殺傷(死者24人)した。岡本公三が逮捕され、残りの2人は自決した。

岡本公三氏によると、無差別射撃事件として報道されたが、真相は違うという。彼ら自身は警備兵に発砲したのであり、メンバーの一人である安田安之氏は投げた手榴弾が遠く壁にあたって遠くにいかず、他の一般客に被害が出ないようそれに体を覆い被せて亡くなったのだと証言している。真相は未だに不明である。

なお、この事件の首謀者たちは日本赤軍とは名乗っておらず、日本赤軍結党前の事件なので、日本赤軍の前史に属する。日本赤軍は、これを「リッダ空港銃撃決死作戦」として記念し、毎年5.30日に声明を発表することになる。

日本政府は、この襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った。