
奥平剛士と重信房子は、かつての日本赤軍の活動において、海外渡航のための戸籍を得るために偽装結婚し、中東を拠点に共に行動した同志です。 [1, 2]
出国と中東での活動
事件とその後
- 奥平剛士は1972年5月、テルアビブ空港乱射事件(ロッド空港事件)を実行し、現場で死亡する。
- 重信房子はのちに日本赤軍の指導者として活動し、2000年に逮捕、2022年に刑期満了で出所した。
重信房子がはじめて奥平剛士に会ったのは、一九七〇年の夏の盛りであった。ある重要な任務を負って彼女は東京を離れ、大阪にいることもあれば京都にいることもあった。逮捕状が出ているわけではなかったが、潜伏生活と言ってよい日々を送っていた。
それは八月のことだったと思う、と刑期を終えて二一年ぶりに社会にもどってきた彼女は言った。
よく蒸し風呂にたとえられるように、その年の京都の八月の最高気温は、いちばん高い日で三五・五度、いちばん低い日で二七・四度。周囲を低い山々にかこまれているものだから、滅多に風が吹かず、盆地の底にたまった熱気と湿気がなかなか逃げていかないのだ。
左京区北白川久保田町の一隅に、奥平剛士の住まいはあった。すぐそばを白川疎水が東西に流れていた。東へ行けば、あっという間に銀閣寺。そのまま南へ折れる疎水沿いを行けば、桜並木が涼しげな影を落とす哲学の道を経て、南禅寺にいたる。西へ行けば疎水は急に北へカーブして離れてゆくが、そちらとは反対側に目をやれば緑の懸崖が立ちあがり、山稜をなしている。大きな牛が寝そべっているような、なだらかな起伏をなす吉田山は、標高一二一メートルと聞けばたいして高くはないと思うけれども、平坦な街並みに突然ぽっかりと島のように浮かびあがるさまは、その向こうに大文字、さらに遠くに比叡の山々を置いて、神秘的でのどかだった。
吉田山を左手に見ながら今出川通りを西へ行けば、じきに両側に京都大学のキャンパスが見えてくる。路面電車がのんびりと走っていた。「北白川」の電停から乗れば造作もなくひと駅で「農学部前」に着くのだが、学生たちはたいてい歩くか自転車に乗って近隣の下宿やアパートから通ってくる。キャンパスをとりかこむ塀や門には、行動と決起を呼びかける立看板が競いあうように乱立し、高さ三一メートルの煉瓦ふうタイル張りのクラシックな時計塔には、チェ・ゲバラの肖像写真が高く掲げられていた。ゲバラは三年まえの一九六七年一〇月、ボリビア革命の途上で政府軍に生け捕りにされ、銃殺されたのだ。
九月二八日で二五歳を迎えようとしていた彼女は、明治大学二部文学部史学地理学科を卒業し、前年四月に政経学部に学士入学していた。文学部時代に教育実習を終えていたが、多くの友人たちがヘルメットや角材を置いて就職していったようにはできなかった。もう一度教師になるためにやりなおそうと学士入学してみたものの、ここでもそうはいかなくなった。
頼みとしてきた赤軍派のリーダーたちは、ほぼ全員逮捕されるか辞めるかしていなくなってしまった。それまでもっぱら救援対策や財務といった合法活動に従事してきたのに、急激な人員不足から非合法活動までも担わざるを得なくなった。海外に革命の拠点づくりをしようという国際部の任務がそれで、責任者のひとりとなった彼女は、東京にいればいるで嫌がらせのように公安警察につきまとわれ、いつまた逮捕されるやもしれぬ危険な状況にあった。そうした事情もあったし、国際部がめざす世界革命のための国際根拠地づくりの対象をパレスチナに求めようとしていたこともあって、相談に乗ってくれる仲間たちのいる関西へ生活圏を移していたのである。
その日彼女は、関西在住の友人につれられて京都市内をカンパ集めに歩いていた。京大出身の医者など三人ばかりに会わせてもらったところ、思いのほか赤軍派への批判も聞かれず、根掘り葉掘り尋ねられることもなく、あっさりとカンパをもらうことができた。それで時間が余ってしまった。まだ陽は高かった。
そういえば、と友人は言った。京大工学部の七回生で奥平剛士という男がいる。最近、交通事故に遭って賠償金をもらったばかりのようだから余裕があるはずだ。行ってみようか。
その青年は、これまで三度逮捕(いずれも不起訴処分)されている彼女のようには表立った活動歴もなく、ほとんど公安警察からはノーマークらしい。
そこは下宿とかアパートというのではなく、一風変わった住まいだった。
疎水に架かる小さな橋のたもとまで来たとき、「雲助」という居酒屋がまず目にとまった。あとで知ったことだが、奥平グループのたまり場だという。橋を渡った先は下宿屋を兼ねる民家やアパートが軒をつらねる住宅街で、京大、同志社、立命館の学生が多く暮らしていた。
友人はH家という一軒の家のまえで立ち止まり、勝手知ったように敷地内にはいって、門の左手に立つ小屋のまえに立った。それは納屋かなにかを改造したような板張りのなんとも粗末な造りで、戸板を手で引っ張って友人はなかにはいっていった。トイレや物置などによく使われる、金属のフックを小さな輪っかに引っ掛けるだけの簡単な内鍵を見て、不用心だなあ、と彼女は微笑ましくもあった。
室内は六畳の和室と二畳ばかりの板の間に流し台という簡素なつくり。足の踏み場もないほど雑然としたありさまに、
「山小屋みたいね」
と、彼女は思わず小さく声に出してしまった。男臭いというか、三歳下の京大生の弟と同居しているので、蒸せかえるような真夏の熱気には、ふたり分の若い男の汗や体臭がしみついていたに違いないのだが、彼女は全然気にならなかった。
ちょうど訪れたとき、奥平剛士はランニングシャツ一枚で板の間に坐り、「お釜だかお鍋だかを磨いていた」らしい。きっと山登りから帰って来たばかりだったのだろう。磨いていたのは、飯盒やコッフェルの類だったのではあるまいか。男所帯らしく蒲団が隅にたたんで押しやられ、たくさんの本とともに、キスリングやシュラフといった登山用具が雑然と置かれていたはずだ。弟は外出中で、彼はひとりでいた。
一九四五年生まれの奥平剛士は、七月二一日で二五歳になったばかりだった。重信房子と同年である。大洋漁業のエリート社員である京大農学部出身の父と専業主婦の母とのあいだに山口県下関市で生まれ、県立下関西高校を経て父親の転勤で岡山市に移り住み、県立岡山朝日高校から京大工学部電子工学科に現役合格した。東京オリンピックが開催された一九六四年のことである。
従兄の菅沼清(剛士の実父の兄の息子)によれば、岡山県内トップの進学校であった岡山朝日での成績はつねに五番以内にはいっており、担任からは東大へ行けとすすめられたが、父親の助言で京大にしたのだという。「なぜ東大に行かないのかという話はありましたが、私は京大ぐらいにしたらとすすめたことはある。大学でまた勉強の虫みたいになるのはつまらんから、少しのんびりすることも考えろ、と言いました」と父親も話している(奥平剛士遺稿集研修医委員会編『天よ、我に仕事を与えよ』作品社)。
教養課程で一度留年し、専門課程では二度留年しており、いまは四年生だったが、関西流の呼びかたをすれば七回生ということになる。
友人が話しかけても流し台のほうを向いたまま仕事の手を休めず、ちょっとだけこちらに首をねじって話を聞いていたが、それからすっと立ちあがり、磨き終えた道具を棚にしまった。
身長は一七〇センチを少し超えるくらい。ボクサーみたいな体つきをして、ランニングシャツから露出した肌は、もう何年も炎天下になじんできたように褐色に光っていた。肩や腕の筋肉が盛りあがっている。
「なにをやってるんですか?」
と、重信房子はいつもの調子で明るく声を投げた。
「土方やっとる」
と、彼はぶっきらぼうにこたえた。
じつはカンパのお願いで来たのだと言うと、
「ちょっとまえなら金はあったんやが、みんな呑んでしもたわ」
と、いかにも豪快に「ワッハッハ」と声をあげて笑うのだ。
それからようやく、こちらに向き直り、
「こんなとこ、女の人なんて来たことないで」
と言った。
足の踏み場もないこんな汚ないところへよくも来たものだとでも言いたげに白い歯を見せて笑う彼の顔は、よく体を使っている人のそれらしく小さく引き締まり、黒くて光沢のある頭髪が広くて聡明そうな額に斜めに流れていた。その顔を見た瞬間、彼女は、
「この人は男に好かれる人だ。女の人なんて眼中にない人なんだ」
と思ったという。
この直感が間違いではなかったことを、のちに彼女ははげしく知ることになる。ふたりに永遠の別れが訪れるそのときまで、彼はそのようにありつづけた。
肉体労働をはじめたのは一回生の九月ごろから。以来、七回生のいまにいたるまで一度も離脱することなくつづけていた。
京都駅南口の目のまえに、東九条という地域がある。そこは在日朝鮮人を住民の大半とするスラムであり、被差別部落出身者も暮らしていた。奥平剛士は大学入学後、底辺問題研究会というセツルメント活動に取り組むサークルにはいり、その活動先である東九条に通うなかで、地域活動のリーダーのひとりであった三〇代のある男と出会い、土木作業員として生計を立てている彼のもとで肉体労働に励むようになった。
被差別部落の出身であるその人物は、身長が一七〇センチあるかどうか。一九七〇年の日本人男性三〇歳の平均身長が一六五センチを少しこえるくらいだったから、大きいほうではあった。土方で鍛えた屈強な肉体、はげしい気性、そして情け深かった。勤勉で弁も立つうえに喧嘩っぱやく、仕事にたいしては手を抜かなかった。彼は「東九条青年会」という部落青年の集まりをつくり、生活のあれこれに困っている人びとからいつでも相談をうけて解決にあたろうとする「よろず屋会」のリーダーでもあった。
蜂の巣のように密集するバラックの町が火事で焼けるたびに京都市当局ときびしく対峙し、日本共産党の青年組織日本民主青年同盟が主導するセツルメント活動にたいしても、子どもらの宿題をみてやる程度の自己満足で東九条のなにがわかるものか、と学生たちに容赦なく批判をあびせた。彼は学生たちにとってスラムの喜怒哀楽の化身であり、学生という期間限定の薄青い善意を打ち砕く恐ろしい存在であったろう。おそらく一九歳の奥平剛士は、そうした彼の懐に飛び込み、自分の限界を越えようとした。それで彼の指導のもと土方をするようになり、酒とホルモンと議論と鉄拳の洗礼をあびながら成長し、やがて土木の現場でも殴り合いでも本人を上まわるようになった。
ヘルニアで彼が働けなくなってからは解体業を営む老夫婦の工務店で働くようになり、それは一棟につきいくらで解体するという請負仕事であったから、もはやアルバイトの域をこえて「奥平組」と呼んでもいいようなひとつの組をなしていた。見積りから図面引き、工程管理、現場監督まで一手に引き受けて、老夫婦に感謝された。もういっぱしの土方の大将だったのである。
彼はまた山によく登った。週に一度のペースで北山一帯から比叡にかかる山々に出かけ、ときに登山道をはずれて藪漕ぎをするようなしんどい登りかたを自分に課していた。夏休みには白馬岳を最高峰とする後立山連峰を単独で縦走したり、春休みにはまだ雪の残る滋賀の比良山地を山スキーで縦走したりしている。どういうわけかよく雨に降られ、濡れ鼠のようになって帰って来ることがたびたびあったが、このH家の離れにいるときも筋力トレーニングとストレッチを怠らず、冬場には耐寒訓練のつもりでもあるのか、窓を開け放ってランニングシャツ一枚で過ごしていた。
両親が暮らす岡山へ帰省するときは、片道二二〇キロメートルの距離を一昼夜以上かけて自転車で往復した。
このようにして彼は、日ごろから肉体の鍛練を怠らなか重信房子は、カンパの要請なんてどうでもよくなった。それを察したのか友人が、話題をチェ・ゲバラに変えた。奥平剛士は終始うつむき加減にしながら、ほとんどひとりでしゃべりつづける友人にときどき目を向けたり、笑みを投げたりした。
口数が少ないうえに目つきも鋭いので、怖い人かと思っていたが、じっと目を見ていると奥のほうにやさしい光がたまっているのがわかる。彼女が知っている活動家たちは、「大きなことを言ったり、外見はまじめそうに見えて実際はズボラだったり、仲間と革命を論じることをたんに楽しむだけといった人たち」も多く、そうしたなかで、このような物静かな、それでいてなにか推し量りがたい熱い核のようなものを感じさせる青年ははじめてだった。
たばこを喫わない男であることも珍しかった。
寡黙ながら彼はよく笑った。大声をあげたのは、さっきの「ワッハッハ」くらい。あとは少し厚ぼったい唇の隙間から「クックック」と抑えぎみに声を漏らし、楽しそうに肩を揺するのだ。
「それが嫌味に感じられないのは、彼のまじめな性格もあるでしょう」
まだ獄中にあったころ、彼女は私へ宛てた手紙のなかでそのように伝えてきたが、いま私の目のまえにいる彼女は、なにかを思い出したように笑みをひろげて、
「不潔……、不潔に慣れること、と言うんです。これはレバノンに行ってからの話なんですが、ゲリラは不潔に耐えられなきゃいけない。きっとゲバラから学んでいたのだと思います。彼はゲバラの本を全部読んだと言っていましたので」
獄中からの手紙では奥平について、「純粋な自己犠牲の精神につらぬかれた人」であったと評し、このように綴っていた。
「彼は誠実な人柄だと話をしていてわかります。服装や態度からも。当時は京大の闘いもバリケードが解かれて、多くの人が就職するか、闘うか、考えていた時代です。彼は闘いに思いを持っている人だったし、当面の生きるすべを『土方』に費やしていました。私はリッダ闘争のあとに、彼がノートの最後に書き残していたという詩、『天よ、我に仕事を与えよ』を読んで、あっ! と衝撃をうけました。まさに出会った時の彼自身を、私はそのように見たからです」
それは、こんな詩だ。
奥平剛士
これが俺の名だ
まだ何もしていない
何もせずに 生きるために
多くの代価を支払った
思想的な健全さのために
別な健全さを浪費しつつあるのだ
時間との競争にきわどい差をつけつつ
生にしがみついている
天よ 我に仕事を与えよ
これまで歩いてきた道に別れを告げ、これからの前途に黄金の核心を求めて生き急ごうとするかのような、いかにも若者らしい切迫した真情が吐露されている。この詩は、残された日記のいちばん最後(一九六七年二月二四~二六日。奥平剛士遺稿編集委員会編『天よ、我に仕事を与えよ』所収。田畑書店)に配置されており、以後、日記は書かれなかったか、廃棄されたか、どちらにせよ彼の肉声を直接伝える文章は、彼の死後、彼女のもとに届いたあの遺書以外には見出すことができない。
たいていの人間は世界や世間と折り合いをつけながら生きていこうとするものなのに、彼は二一歳のこのときをもってそうした妥協的な生きかたを捨て、なにか一大事が起こりそれに対処することが天命と確信できたら、いつでも命をさしだそうという覚悟を述べている。
この詩のように彼は、これから短い生涯をまっとうしていくことになるのだが、京大闘争もまだはじまっていない教養課程三回生の終わりのこの時期に、心の準備も怠っていなかったのである。
ところで、重信房子はカンパのみを求めて来訪したのではなかったのではないか。私はそう思い、彼女にこの質問を投げてみると、
「いいえ、ほんとうにカンパのお願いだけでした。彼と会ったあと、パレスチナの専門家とめぐりあって、そしていちばん最初に彼に話をしたのです」
と、とても爽やかに否定された。
ただし、このとき、彼女はすでにパレスチナに関心を向けており、さまざまな資料にもあたっていたのは事実である。赤軍派内でも、パレスチナに国際根拠地をつくろうという提案を彼女のほうから出して、承認されていたのだ。大阪や京都でしていたのは、どうしたらパレスチナの虐げられた人びとのために役に立てるかという、その具体化に向けての情報収集がおもな目的だった。
彼女を奥平に会わせた人物は、そうしたプラン――まだ〝思い〟ばかりで、ぼんやりとしたものにすぎなかったとしても――について知っていたのではないだろうか。この人物がだれなのか彼女は教えてくれないので、私は推測するしかないのだが、彼にとって奥平へのカンパ要請はむしろどうでもよいことだった。国際根拠地論の実践にふさわしい人物かどうか見てほしいと考えて、ゲバラを話題に出すことによって彼の気質を知ってもらおうとしたのではあるまいか。彼はのちに奥平が死んだとき、
「自分が重信に会わせなければ、奥平はあんなことにならなかったのに……」
と、嘆いた人である。
どちらにしても、彼女は私にこのように言うのだった。
「はじめて奥平さんに会ったとき、彼のことが深く心に残ったのはたしかです。だから私は、パレスチナの話が具体的に見えてきたとき、真っ先に彼の顔を思い浮かべたんですから。たった一回しか会っていないのに、彼に話してみようと」
赤軍派の機密事項なのである。奥平は赤軍派でもなく、どこの党派にも所属していなかった。ただし党派や所属をこえた革命家の集まりである「京都パルチザン」というグループに参加していたが、彼女はこの時点で、そのことは知らなかった。
合法的な海外渡航計画であるとはいえ、もし断わられたらどうするのか。外に漏れてしまったらどうなるのか。それでも彼女には、彼ならきっとこたえてくれるだろうという、はなはだ直感的で向こう見ずな確信があったのだ。った。
教養課程二年目の終わり、後期試験のいくつかをうけず、みずから選んで留年を決めたとき、追試をうけろと学生課が助け舟を出してくれたのに、「受けたら通るかも知れんから、受けん」と言って、職員の目を白黒させた奥平であった。父親には秋にはすでに留年の希望を伝えていたが、その理由とは、「物理や数学の演習問題をほとんどやってないから」(『天よ、我に仕事を与えよ』)。自分が自分に招いた境遇に情けをかけられるのを嫌う、正直で生真面目な性格だったのだろう。
なぜ留年したのか、はっきりとはわからない。ただ、はっきりしているのは、遊び惚けていたわけではないということだ。むしろ彼は真剣に生きていた。それは彼の死後六年を経た一九七八年一二月に後輩たちの手によって刊行された遺稿集『天よ、我に仕事を与えよ』におさめられた日記や読書ノート、両親をふくむ関係者へのインタビューを読んだらわかる。残念ながら日記は、前述のように一九六七年二月二六日までしかなく、これは教養部の留年が終わろうとする時期でもあり、入学以来つづけてきた東九条のスラムでのセツルメント活動に訣別した時期とも重なる。
二回生でリーダーのひとりとなった彼は、スラムの子どもたちに勉強を教えたり、公園で遊ばせたり、ハイキングへつれていくだけでなく、地域活動にも熱心に取り組みながら、生きる意味を求めて苦闘している。
セツルメント活動の本拠地の建物は、カトリックの神父をリーダーとして建てられた「希望の家」という施設であった。奥平たちは共学制の他大学や女子大もいれて「兄弟会」をつくり、その施設を兄弟会としてではなく個人として子どもたちに読み書きを教える場合に限って使わせてもらっていたが、九月には希望の家とのあいだで話し合いがもたれ、「来年二月に新館が完成するまで当分のあいだ休んでほしい」と、神父から出入禁止を通告されてしまった。その理由とは、「子どもの監督は専門家でないとできないし、学生にはそうした技術を学ぶ時間がない」というもので、神父はこのように言った。
「あなたたちにはこの地域の子どもたちを指導する力はない。地域の人、学校の先生、皆そう言う。青年を指導するのはよけい無理だ」
よろず屋会からも、三行半がつきつけられた。
「青年と学生が交わるのは最初から反対だった。青年と学生は違う」
あの東九条青年会のリーダー、そしてよろず屋会の舵をとる男が、このように言うのである。
これは奥平の一九六四年九月一七日の日記に書かれている。まだ活動をはじめて数カ月しかたっていない時点で、歓迎されざる存在として撥ねつけられたのだ。三日後、思うところがあったのだろう、「俺自身の前期活動の総括」と題して彼は日記にこのように書きつける。
「俺は何を何のためにやってきたのか。最初、底辺研に入ったのは、何もやらないでいるのがやり切れなかったこと。小島や秋本が学生運動に入っているらしいことに対する負けたくないという感情、つまり見栄。それに岡田さんの影響があった。
とにかくあの時は、俺が非凡な学生でないことを示すためにはどこかの部(それも左翼関係)に入らざるを得ぬような動機であった。
セツルメントが何であるかはっきり知っていたわけではない。ただ漠然と底辺の人に接することによって人間を大きくする(ごく卑俗な意味で)と思っていたにすぎない。
そのころの俺には左翼的な思想は全くなかったから。学生運動に入るのはいやだったことも、セツルをえらんだ理由の一つである」
すでに私たちは彼が一九七二年五月三〇日、イスラエルの地で華々しく死ぬことを知っている。しかしこれを読んでみると、はじめから革命一直線の思いつめたような青年などではなく、むしろ左翼思想や学生運動から意識的に距離をおき一個の人間としての成長を追い求める、ごくありふれた非政治的青年だったことがわかる。ただしそれは文学青年にありがちな内向的でヒロイックなものではなく、たとえば同年七月二八日の日記に見えるように、「研究者として資本家の望む一つの機械としての人間になることから逃れる道がセツルで見出せるのではないか」というような、近代資本主義が抱えてきた矛盾を乗り越えていくための現実的思考であり、彼は研究者になることを望んでいたのだ。
東九条青年会とよろず屋会のリーダーであり、土木作業に従事する人物は、日記やインタビューに「大杉」という名でたびたび登場する。彼との出会いによって奥平は土方をはじめ、セツルメント活動を離れてからも東九条とは縁を結びつづけたのだが、私はこの「大杉」という人物こそ奥平の核心を肌身で知る人ではないかと考え、東九条のほうぼうを訪ね歩いた。奥平にたいする思いの深さを、このようにインタビューで語っているからである。
「あいつの性格というのは、ともかく、『まず俺が、甘いか酸いか嚙んでみたる』というわけや。『正しいやつをわしがまず実行したる。ええか悪いか、初めから能書きは言わへん。俺からやったる。それによって、お前らがよかったらついて来い。間違うてんなら、どっちなと行け。寝ころべ。あっち向いて走ってもええ』。そういうとらまえ方を一貫して持っているわけや。わし、それが好きなんや。(中略)
そうかと思うたら、人間がね、本当に苦しんで、自分が弱気になったときには、ものすごく支えてくれる。わしが椎間板ヘルニアで腰を切る〔手術する〕時、誰かが電話をかけたんか、誰かから聞きよったんやな。まだおぼえてるわ。(中略)それで、『お前、切るのか? 切るのはやめとけ。わし、これから医者へ行って聞いてきたる』いうて、医者とひざづめ談判して聞いてきて、また帰って来て、説明しよったな。その時に、わし感服したな。『腰切るのは相当慎重にやれよ。動くのやったら薬と注射で癒したほうがええぞ』と。その時、びしょ濡れや。(中略)
よかったよ。地域の人に対しては、本当によかったよ。どんな人ともわけへだてのない、区別、差別も全然ないわな。兄貴がもっていたと思うけど、あの何でも学んでやろうという、貪欲な姿勢、あの姿勢ね。すべてをオールマイティにするのやと、自分のもんにひきいれていくんやと、そのなかで、おのれのもっている信念とどうなんかというとらまえ方というのは、わしらにはできんかもしれん」
体力のはげしい消耗とつねに危険がまとわりつく土木現場において彼は、まず自分が先に「正しい」仕事の手本を実践してみせ、それをもって人を引っ張ろうとする不言実行型の青年であった、と大杉は言うのである。率先垂範、去る者追わず型のこのような人間は、その厳格なありかたが孤独で冷たい印象を周囲に与えることがあるいっぽう、たとえひとりになっても黙々と最後まで目的を達成しようとする強固な自我を確立していたものと思われる。
大杉は自分が椎間板ヘルニアの手術をうけるときの奥平の親身な姿を語っているが、彼は同じインタビューのなかの別段落でも、請け負った仕事をひととおり終えて親方から手渡された工事代金をもって病室に駆け込んできた奥平の姿を伝えている。入院費用を心配したのだろう。「この金はあなたの金だから全部やる」と彼は言い、大杉は「なにいうてんねん。これはおまえが汗水流して稼いだ金やないか」と押しもどし、結局半分に分けようと譲歩させる。最悪の状態にある恩人にたいして誠意を尽くすことに躊躇しないのだ。
奥平が日本を離れるときも、ふたりは別れを交わしている。大杉の話しぶりからは、一緒にベイルートへ行こうとさえ思いつめていたような印象さえうける。それほどふたりの別れは、万感胸に迫るような切実なものだった。
「そやから、別れた時、剛士は『お前、偉なれよ、偉なれよ』と言うた。わしはこういう形で行くけれど、お前はお前のペースのなかで、一つきちっとつかんでやれよというね、一つの……、ともかく、『偉なれよ』と、念を押しよったわ」
その後、大杉は、奥平に会いにレバノンへ行ったのではないか、いや行ったはずだ、と私は聞いている。
専門課程に進んでからの二度の留年は、学生運動に身を投じたのが原因である。順当なら教養部時代の留年期間をふくめても一九六九年には卒業できるはずだったが、京大で彼と全共闘(全学共闘会議)運動をともにした友人によれば、「卒業は、しようと思えばすぐにできたはずだ。単位はほとんどとっていた」そうで、「ただ、あの時は、卒業とか就職とかいうことはまったく考えていなかったんじゃないか。入試粉砕闘争も含めて、あの頃の一連の闘争は常に先頭に立ってやっていた」(同書)という。
彼が全共闘の一員として紛争の現場に登場したのは、一九六九年一月二一日のことだった。学生部の建物を占拠する寮闘争委員会の学生六〇名を支援するために、他大学をふくむ全共闘支持派学生が正門まえに終結していた。彼らは寮闘争委員会と合流して全国学園闘争勝利全関西総決起集会を本部構内でひらこうとしていたが、これを阻止するために大学当局と一般学生、そして五者連絡会議(学生自治会の同学会、大学院生協議会、職員組合、生協、生協労働組合で構成)が正門にバリケードを築いて押しとどめようとしていた。
大学側は突入をはかる全共闘に放水するなどしてついに突入を防いだのだが、じつはこのとき彼は全共闘側に向かって放水をあびせていたのだ。
大学の自治連合組織である「五者」の実権を握っているのは、日本共産党とその青年組織・日本民主青年同盟(民青)であった。彼はこのとき民青に所属する学生のひとりとして防衛にあたっていたのだ。ところがどういうわけか前出の友人によれば、彼は突如ホースの向きをかえ、味方に向かって放水をはじめ、相手がおどろいて身を引いたところでバリケードをよじのぼり、正門の外に跳びおりたのである。このときから彼は全共闘の一員となり、工学部共闘会議の中心メンバーになっていった。
このままでは機動隊が導入され東大安田講堂事件の二の舞になりかねないと恐れた「五者」と一般学生たちは、ついに実力による封鎖解除を求めて学生部に突入し、一〇時間にわたる攻防を経て寮闘争委員会の学生たちを追い出したのだが、二月一四日午前二時半には、逆に全共闘五〇〇名が、教養部代議員大会にそなえて時計台内の法経第一教室につめていた「五者」八〇〇名にたいして火炎ビンと投石、ゲバ棒で攻撃をかけ、冷たい小雨のなか午前七時までつづいたこの衝突で二五〇名の負傷者を出した。そのなかに彼もいたのである。
このときの攻防に巻き込まれた経験を、歌人の永田和宏が『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)のなかで詳しく書き残している。永田は理学部の学生で年齢は奥平より二歳下であったが、「私自身は、大学のあり方を問い、『大学解体』や『自己否定』といったキーワードのもとでラディカルな行動を取る全共闘に、心情的には共感を覚えつつも、彼らの視野と要求の範囲が大学そのものに留まり、一般社会との連携の意識の乏しいのを不満に感じていた。これでは大きな政治権力を動かす力とはならないだろうと思っていた」のだそうで、「結局、どちらの運動、派閥にも加わらない、いわゆるノンポリ学生と言われる類の学生であった」としるしている。
永田和宏がどうして攻防に巻き込まれたのかというと、法経第一教室に籠城している「五者」の同級生山田の陣中見舞いに別の同級生とつれだって行ったからである。午前一時過ぎのことだ。
私と丹羽が山田を見つけ、しばらくのんびりしゃべっていた時だった。やって来たぞという声が聞こえ、いっせいに電気が消された。明るいと攻撃目標になるからだろう。しまったと思ったがもう遅い。逃げ出す術がない。取り敢えず、ヘルメットと角材(ゲバ棒)が渡された。こうなったら仕方がない。なんとか一緒に戦う以外に道はない。
しかし、机や椅子が完全に取り払われ、傾斜のついた床だけとなった大教室に隠れるところはどこにもない。しかも、扇状の大教室の後ろは、すべて窓。ガラスはすべて割れていたと思うが、そこからどんどん火炎瓶が飛んでくる。真っ暗な室内に飛んでくる火炎瓶は、床に落ちて燃えながら転がって来る。こんなとき、火炎瓶は怖くないのである。見えるのがありがたい。避けられる。
ところが怖いのは石であった。拳大以上の大きさの石がどんどん投げこまれてくる。闇の中を飛んでくる石は、当たるまでわからない。これは怖かった。できるだけ窓から遠ざかって、ひたすら火炎瓶を避け、石が直撃しないよう祈るばかりで、とても戦うなんてものではなかった。
誰かが、ここは広すぎて守り切れないから、今から法経四番教室へ移動する、と号令を発した。退却である。続けっ、ということで、みんないっせいに飛び出し、取り囲んでいた全共闘のゲバ棒とわたりあいながら、とにかく法経四番教室へ駆けこんだ。入り口の扉の内側に、たぶん机の天板だったのだろうが、長い大きな板片を幾重にも重ねて立てかけ、釘などないから、内側から十数人が集まって押さえていた。にわかバリケードである。
火炎瓶もどんどん投げ込まれるし、私の背中にも石が当たった。顔に当たらなかったのが幸いだった。窓から入ってこようとする奴めがけて、火炎瓶が投げ返され、火だるまになって向こうへころがり落ちた奴もいた。しかし、取り囲んでいる人数がどんどん多くなっているのが、こちらにいてもわかる。こちらには何しろ飛び道具がなく圧倒的に不利。
どのくらい持ちこたえたのだろう。このままではやられる。みんないっせいに飛び出そうということになった。ドアを開いて、とにかく突っ走れというのである。外では角棒を持った連中が取り囲み、集中攻撃にあうのは目に見えているが、籠って死を待つよりは、といった心境だった。不思議に恐怖は感じなかった。負けるのがわかっていても、総攻撃だと命令されて、死地へ駆け出す兵士の気持ち、その幾分かはわかったような気がしたと言っては傲慢だろうか。
こうした臨場感のある記録にはめったに出会うことがない。脱出を図って飛び出した永田和弘は、ほかのメンバーとともに両側から角材で滅多打ちにされながら、一目散に走って逃げおおせることができた。この文章につづけて、「この時はまだ角棒であり、鉄パイプでなかったのが幸いした」と述べているのを見ると、一九六九年冬の京都はまだいくらかは殺伐としていなかったようだ。
引用部に出てくる「大学解体」と「自己否定」は、全共闘運動の核心をなすテーマであった。彼らの時代には、中央教育審議会答申(一九六六年一〇月)が各人の個性、能力、進路、環境に適合する教育の多様化を提唱し、それはそれなりに評価できない内容ではないと私には思われるところもあるのだが、学生たちのあいだ(とりわけ党派に属する学生たち)では見せかけにすぎないものとしてうけとめられていた。大学の現場では相変わらず学問の専門化や細分化がすすみ、教員たちの大半は保身のために大学改革にいっこうに取り組もうとしなかった。京大教員で全共闘支持を表明して有名だったのが作家の高橋和巳(文学部助教授)である。「苦悩教の教祖」などと呼ばれ、全共闘世代からも圧倒的支持を集めていた彼の家は、奥平剛士の小屋からも近い同じ北白川にあった。
中教審答申が彼らに受け容れがたかったのは、そうした大学現場の意欲のなさに加え、愛国心教育を強調する「期待される人間像」という「別記」が添えられていたからだ。そこでは「自主的な個人の尊厳から出発して民主主義を考えようとするものと階級闘争的な立場から出発して民主主義を考えようとするものとの対立がある」との指摘がなされたうえで、「民主主義の本質は、個人の自由と責任を重んじ、法的秩序を守りつつ漸進的に大衆の幸福を樹立することにあって、法的手続きを無視し一挙に理想境を実現しようとする革命主義でもなく、それと関連する全体主義でもない。性急に後者の方向にかたよるならば、個人の自由と責任、法の尊重から出発したはずの民主主義の本質は破壊されるにいたるであろう」(「第1部 当面する日本人の課題/3 日本のあり方と第3の要請」)などと、マルクス・レーニン主義によって階級闘争と革命を目指そうとする新左翼各派を否定し、彼らが革命成就の最大の象徴としてとらえている天皇について、つぎのように述べられていた。
「象徴としての天皇の実体をなすものは、日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば、日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である。/天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである」(「第2部 日本人にとくに期待されるもの/第4章 国民として/2 象徴に敬愛の念をもつこと」)
天皇崇拝を前提とした愛国心教育の実践を呼びかけるこのような答申にたいして、正面切って自己の存在を否定されたうえに、これは学問の自由をいちじるしく侵害する権力の策謀であると新左翼勢力をふくむ全共闘学生はとらえており、同答申は学問の細分化からの脱却を主体性や多様性重視の観点からとなえてはいるものの、その本心は、国内の産業振興と国力増強のためであり、大学は高度な産業社会の発展に寄与しうる愛国的テクノクラートの養成機関であるべきだとする産学協同推進のアピールなのだと考えた。
それゆえ全共闘に参集した学生たちは、自分たちの立場を、産業社会と学問の自由とのあいだにあらわれた矛盾としてとらえた。そして彼らは「自己否定」という実存主義的な思考にたどり着き、そうしてそれを「大学解体」という、みずからの存在基盤を物理的に解体しようというスローガンにまで昇華させていったのだ。東大の入試粉砕闘争とそれによる入試見送りという日本の大学史はじまって以来の出来事は、こうした思考運動から生まれたものであったのだが、学生の反乱にほとほと手を焼いた国はついに大学の自治を無視して力で押さえ込もうとする「大学の運営に関する臨時措置法」(大学管理法)を国会に提出しようとしていた(同法案は一九六九年八月に成立し、二〇〇一年廃止されるまでつづいた)。
京大全共闘は東大闘争に呼応するように、五月二一日、機関紙『STRUGGLE』の一面トップで「5・23大学バリケード占拠へ!」と大きく見出しを掲げ、このように訴えている。
「学生部封鎖→全学バリケード封鎖は中教審答申、大学治安立法粉砕を闘う中で政府ブルジョアジーの我々闘う学生への恐怖と憎悪をさらに暴露して行くであろう。そしてこのような立法化策動が、日本帝国主義が要請するところの70年代へ向けての教育の帝国主義的再編をおし進める具体的綱領であることを暴露し、さらに大学自治、学問の自由などの幻想を打破して日帝の砦としての大学を解体し封鎖して行かねばならない」
ここにも「中教審答申」、「大学治安立法」(「治安立法」は彼らの批判的造語)の文字が見出されるように、彼らは国家によって大学が一元的に管理されようとしている現実にたいして、自己否定としての大学解体を求めて、ついに本部構内の各門にバリケードを構築し封鎖した。以後、負傷者八〇名を出す「五者」とのぶつかりあい、火炎瓶による正門の焼失とつづき、そして街頭にまで出て今出川通りをバリケード封鎖、とうとう機動隊と正面から衝突した。
奥平剛士にとっては、弟の純三が逮捕されたことが大きな転機となっているようだ。それは五月二三日のことである。純三は一年浪人して兄と同じ工学部に入学し、このとき二年生だった。
「彼としては、弟が先につかまったということで心苦しかったようだ。純三は三ヶ月間拘留されるんだが、その間、差し入れなどよくめんどうをみていたよ」と、「広沢」という友人は言い、別の友人「平野」は「保釈に際して家族の者が裁判官に呼ばれるのだが、おかあさんと彼が行った。その時、彼は裁判官の前で、足を机の上に投げ出して、一言もしゃべらなかったけど、えらそうな顔をしていたらしい」(『天よ――』)。
八月に大学管理法が国会で成立すると、京大は医学部が「重症校」に指定され、全共闘は本部構内封鎖にたいする自己批判を大学当局と「五者」に要求して無期限ストに突入した。九月一七日のことだ。時計台にたてこもったのは中核派を中心とする学生一〇数名だったが、これは機動隊導入が秒読み段階にはいっていることを察知した彼らが、東大安田講堂の最終局面と同様、みずからの旗を振りながら京大を象徴する時計台の頂上で検挙され、そうしてみずからの存在を全国にアピールしようという決死隊的願望にもとづいた行動であった。当日の急な決定だったらしく、その証拠に彼らはヘルメットと鉄パイプという軽装であり、東大安田講堂の攻防戦で空中からヘリコプターで催涙ガスを大量に投下されたことも想起する余裕がなかった。
奥平剛士は党派とは無関係にもかかわらず、土方の現場でいつも着ているねずみ色の作業服を着てセメントを持ち込み、煉瓦タイルをツルハシで剝がし、コンクリの練りかたを指導して、時計塔の頂上に砦を築いた。催涙ガスから身を守ってもらおうとしたのである。
彼はこのとき、文学部、工学部、教育学部などの各闘争委員会と、民青に追い出されて京大に居候している立命館大学の学生たちを中心に構成された「京都パルチザン」(正式には「パルチザン遊撃集団=共産主義共同労働団」)という、党派や大学の垣根を超えた遊撃的な革命家の集まりに参加していた。彼らはみずからそう名乗るのではなく、組織的な闘争方針を打ち出すでもなく、いわばノマド的集団であり、しかしながら彼らはすでに学内問題から関心を社会革命そのものへ移しており、神出鬼没の都市ゲリラとして権力の拠点破壊や資本現場の攪乱などを通じて革命の実現を模索していた。
いずれにしても京大当局はついに機動隊の導入に踏み切り、全共闘運動はこれを機に四分五裂していった。こうした一連の動乱のなかで、彼はリッダ作戦で行動をともにする工学部学生の安田安之、同じく山田修、そして立命館大学法学部の檜森孝雄と出会っている。檜森は大学当局と民青、機動隊によって排除された同大学の仲間とともに、五月下旬から京大教養部校舎に寝泊まりするようになっていた。彼らはそれを「亡命」と呼んでいた。
年が明けて一九七〇年の三月末、彼は心の整理をするためか、ひとりで一週間の山旅に出かけている。こうした流れを見てくれば、六九年にはとても卒業なんてできるはずもなかった。休講も長くつづいた。彼は安田、山田、檜森ほか工学部や京都パルチザンの後輩たちを率いて、もっぱら土木現場で汗を流すようになった。パルチザンの活動からも距離を置くようになっていた。
もう、なにも起こらない。心を決めて研究者の道にもどろうとしていたのかもしれない。そうしたときであったのだ、重信房子があらわれたのは。
ここでゲバラについて少し書いておきたい。あの小屋で重信房子が彼の存在を認める過程で話題となった人物だからである。彼女もまたゲバラに深く共鳴していたし、奥平の思考にも少なからぬ影響を与えていた。
一九六七年一〇月、ボリビアの高原地帯の寒村でエルネスト・チェ・ゲバラは処刑された。その死の報は同年の終わりごろになって、霧に包まれた幽谷の神話のように日本にも伝えられた。すでに同年の夏以降、『ゲリラ戦争』『革命戦争の旅』『ゲバラ 革命の回想』といった本人の手記があいついで翻訳出版され、ベストセラーとなった。死の直前まで書き継がれた日記も『ゲバラ日記』として四社から、また同日記をふくむ全四巻からなる『ゲバラ選集』も出版され、ふたりが出会った一九七〇年時点でもなおブームと言ってよい現象がつづいていた。
すべての戦争を内乱へ、内乱から革命へ、という彼の「国際主義」とその思想や行動は、彼の死によってある限定的な人びとのあいだに確信としてひろがっていった。それは信仰に近い対象にまで彼を押しあげて、京大では時計塔に遺影が高く掲げられた。シルクスクリーンにした肖像写真をリーフレットにして、学内や街頭で配る学生たちがいた。
わずか八二名のゲリラ部隊を同志カストロと率い、一艘のヨットに難民のように折り重なってメキシコからキューバへ上陸し、アメリカ支配の支柱として独裁政治を敷いてきたバティスタ大統領の軍隊と闘い、一時は十数名にまで部隊を減らしながら、分け入った山奥の農山村でゲリラ部隊を再編成し、二万の軍勢にたいして千の部隊でキューバ革命を成就させたゲバラは、新政府で国立銀行総裁、工業大臣などの要職に就き、国民の幸福実現のために精力的に働いた。アメリカによる経済制裁が予測されるなかで、革命から半年後には通商使節団を率いて世界各国を歴訪し、一九五九年七月には日本を訪れ、池田隼人通産相とも会談して翌年には通商協定を結んでいる。
彼の日本での行動はあまり報道されなかったが、長い巻き髪と黒々と豊かな髭、ベレー帽に戦闘服といったいでたちは、いまなお革命の途上に身をおく者としての矜持を世界中の人びとに伝え、ジョン・レノンは「世界でいちばんかっこいいのがエルネスト・チェ・ゲバラだ」と言い、本人と対面したジャン・ポール・サルトルは「二〇世紀でもっとも完璧な人間」と称賛した。来日時、彼はみずから望んで広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館の展示を見てまわった。原爆病院では被爆者を慰問して、そのあまりの被害の惨状に涙を流した。
しかしゲバラは、ある日忽然と、キューバからも、彼の行動を注視してきた世界中の人びとの視野からも消えたのだ。それは一九六五年のことで、二月にアルジェでおこなわれたアジア・アフリカ経済会議でソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」であると痛烈に批判し、盟友カストロに訣別の手紙を送った。政権からの離脱は、物資輸送を停止されたくなければゲバラを切れと迫ってきたソ連にたいして、カストロの心中を慮ったゲバラがみずから下した結論であり、一〇月のキューバ共産党大会において、カストロが彼から届いた訣別の手紙を読みあげることによって明らかにされた。
その後、ゆくえは杳として知れなかったが、アフリカのコンゴ革命で挫折を味わわされ、ボリビア革命の途上で包囲、生け捕りにされ、銃殺されたのだ。
切り落とされた両手首の伝説――一九九七年七月、ボリビアのバジェングランデ空港滑走路脇の地中から発掘された七体の遺体のうち一体がゲバラのそれと判定され、両手首がその死後切断されたことが判明した――とともに、他国の人民解放のために闘い、そして他国の地で果てた彼の死とその行動や思想は、奥平にとってもかねて鮮烈に受けとめられていたらしく、重信房子にもその思いの深さが伝わってきた。
山やジャングルや渓谷に潜み、五人一組程度の少数部隊をあちこちに配置して、都市にある敵を突発的に襲い、混乱させ、また襲い……と、このような波状攻撃は巨大な敵にたいして大きな成果をあげてきた。奥平は翻訳出版されていたゲバラの本をすべて読んでおり、思想や行動についてはともかくとして、そうしたゲリラ戦術の詳細と悲劇的でみじめな死の必然についてよく理解していた。たんに撃ち殺されて死ぬのではない。彼の最期がいかにみじめで苦痛に満ちていたかということも。
ボリビア軍に生け捕りにされる直前まで書かれた『ゲバラ日記』の冒頭には、フィデル・カストロが「必要欠くべからざる序文」を寄せており、盟友の銃殺のありさまをしるしているが、これを奥平は読んでいるのである。カストロはこの情報をだれからどんなルートで入手したのか明示していないので、ここでは綿密な現地取材と一次資料から再現されたその場面を、国際ジャーナリスト惠谷治の著作『1967年10月8日 チェ・ゲバラ 死の残照』(毎日新聞社)から引いておこう。
そして、チェはラモス(キューバ人。ゲバラを知っていた。CIA諜報員・引用者注)に家族たちへの伝言を頼んだ。
――アレイダに言ってほしい。私のことは忘れて、再婚して幸せになるように努めるように。子供たちには勉強するように、と。
妻のアレイダ・マルチは三十歳だった。チェには先妻イルダ・ガデアとの間に長女イルディータ(当時十一歳)、そしてアレイダとの子供である次女のアレイディータ(六歳)、長男のカミーロ(五歳)、三女のセリア(四歳)、次男エルネスティコ(二歳)の五人の子供がいた。末っ子のエルネスティコは、キューバを離れるときには一歳八カ月で、父親の顔を覚えている年齢ではなく、チェは不憫に思っていたことだろう。
チェからカストロと家族への遺言を聞いたラモスは教室を出た。外にはチェの最期を見届けようと、大勢のレインジャー兵や村人たちが集まっていた。
ラモスと入れ代わりに教室に入ったテラン軍曹は、手首を縛られ長椅子に坐って、壁にもたれかけているチェと目が合った。
――私を殺しに来たんだろう。
チェは静かに言った。手が震え発砲できないでいるテラン軍曹は、躊躇して口ごもった。
――何をぐずぐずしてるんだ。落ち着いて、一人の男を殺すことだけを考えろ。
戦闘で数多くの敵を倒してきたチェは、敗者である自分を殺そうとする兵士に対して寛容だった。処刑執行人を見つめるチェの眼光は鋭く、テラン軍曹の眼はかすみ、チェがとてつもなく巨大に見えた。チェが向かって来るのではないかと、一瞬、恐怖を覚えた。
――撃たんか! コバルデ(臆病者め)! ひと一人も殺せんのか!
その言葉を聞いた瞬間、一歩引き下がった軍曹は両眼を閉じて、無我夢中で引き金を引いた。
狭い教室に銃声が響き、硝煙が立ち昇った。チェは椅子から崩れ落ち、左足の付け根あたりから大量の血が土間に流れ出した。テラン軍曹は気を取り直すと、倒れているチェに向かって、今度は引き金を長く引き続けた。二度目の連射は肩や胸に命中したが、それでも解剖結果によれば完全な即死ではなかったという。
同書には、処刑の決定をラモスから告げられたときのゲバラのようすも書き写されている。それによると、「最高司令部からの命令が届きました」とラモスは言ったまま、「処刑」という言葉を告げられず口ごもっていると、ゲバラはこのように言った。
「分かってたんだ。それでいい。絶対に生きて捕まるべきではなかったんだ。それが間違いだった」
惠谷治は「ラモス手記」を引用して、「私を凝視する澄んだ目は涼やかで、表情は決然として落ち着いていた」と書いている。
同書が出たのは二〇〇〇年五月のことなので、むろん奥平は読むことはできなかった。けれどもカストロの序文によって、ゲバラが渓谷での銃撃戦で生きたまま捕まり村に引きずりおろされて銃殺されたことは知っていた。生け捕りにされたことを、彼は自分のことのように苦しく思っただろう。
「チェの死は国際共産主義運動の終焉であり、マルクス・レーニン主義、および、イデオロギーの無力化を決定づけたといっても過言ではない」と、処刑のもようをしるしたあとで恵谷は結論しているが、ゲバラの革命戦争は、殉教のようなその死によって日本の若者に広く知れわたり、赤軍派はゲバラの国際主義に触発されて日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮に渡った。そして一九七〇年八月、重信房子は奥平剛士のまえにあらわれた。
「フィデルに伝えてくれ。今回の失敗は革命の終焉を意味するのではなく、どこか別の場所で勝利するだろう、と」(同書)
このラモスに託されたというフィデル・カストロへのゲバラの遺言を、わがこととしてうけとめた者たちが日本にいたのである。
一九六七年二月一〇日の日記に(ゲバラの死の八カ月ほどまえ)、奥平剛士はつぎのような文章をしるし、ある覚悟について述べている。
革命家が、その非常の手段のいっさいを免罪されるのは、ただ彼らの心中、一片の私心なき清明さをもってのみである。
満身を挙げて、正義を行なう。しかしそれは口先では成就せぬ。すべての非常の手段権謀を駆使せねば大義は現実の世界にうちかつことはできぬ。しかしそれを用いる革命家はあくまでも、あくまでも清みわたって美しくなければならぬ。それが彼の唯一の生きがいであるはずだからだ。
頑固な潔ぺきとはちがう。泥まみれになって暗黒の中に〔「一点の星をさがして」と書き、抹消〕のたくるのだ。だがそれは心の中の唯一の星をまもりたいからこそだ。
正義遂行のための手段において、モラルの是非はいっさい問われないと彼は述べ、それを担う革命家の条件として「一片の私心なき清明さ」をあげている。ではその「正義」となにか、言及されていないのははなはだ残念ではあるが、ここでは革命的暴力の執行者の覚悟について自身に言い聞かせるように書くのみだ。岡山に転居するまで下関で生まれ育ったからか、どこか明治維新の志士めいた古風な考えかたをもっていたことが、ここにはしめされている。
実際、日記には吉田松陰や高杉晋作の名が散見され、ことに安政の大獄のさいに自重を呼びかける高杉、久坂玄瑞らにたいして松陰が書き送った手紙――「桂[小五郎]は僕無二の同志友なれど先夜此の談に及ぶこと能はず、今以て残念に覚え候。江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」――を引用したうえで、自分に言い聞かせるように、「諸君は功名するつもり/僕は忠義をするつもり」と現代語に書き直して、「やっぱりここだ。名前を出すためにマルクス主義を学ぶのじゃない。かっこいい論文でも書くためじゃない。/それが、日本の未来を切り開くために必要なのだ。行きづまり、破滅への道をたどるであろう情勢の中で、新たなる学問の未来を切り開くべきインテリゲンチャのつとめだ。そのために勉強しろ。じっくり勉強しろ。第一人者たれ!」と書いて、つづけて自己の内面をのぞき込むようにして、「まだ少しむりがある。こう叫ぶ言葉との間にまだ少しギャップがある。のりこえよう。徹底的に功名心を捨てよう」と、おのれを鼓舞している(一九六六年六月二二日)。
いまでは、「インテリゲンチャ」などという言葉は死語も同然となり、そのような意識をもって学問に取り組む学生はごく少数に限られているのではなかろうか。二〇二二年度の大学進学率は五六・六パーセントと過去最高に達し、産学協同はごくあたりまえに需要されている。学生にとって「自己否定」よりも「自己実現」のほうが大事な眼目となっており、学問の自由への疎外が自然化されてきたことによって、「否定」と「実現」の両極をいかに止揚していくかという思考運動をしなくなった結果、いかに自分にとって一生安楽で有利な企業にはいれるかが自己実現であるかのように勘違いされている。
奥平が入学した一九六四年の四年制大学への進学率は、男が二五・六パーセント、女がぐっと下がって五・一パーセント、平均すると一五・五パーセント(文部省統計要覧)にすぎなかったことを考えたとき、最高学府に進む若者たちの意識は、いまとはまったく違っていることを想像できるのではないだろうか。高校への進学率も、ようやく七割に達するかどうかだったのだ。
一九六九年にはGDP世界第二位となり、敗戦後四半世紀にして世界有数の先進国になったとはいえ、多くの少年少女たちは中学を卒業して大都市の工場や港湾、炭鉱、土建現場などへ集団就職し、低賃金に重労働、粗末で不衛生な住環境での暮らしを送りながら、地べたや鉄筋コンクリートの上、そして地底から高度経済成長をささえ、彼らを地引網で引きさらうように大量に雇い込む企業からは「金の卵」などと、本音もあけすけに呼ばれていた。
全国各地の農村からはこうしてつぎつぎと未成年がとられ、大阪で一九七〇年に開催される万国博覧会の会場建設やそれに関連する道路・上下水道・電気・ガス・電話・宿泊施設などのインフラ整備が国をあげて急ピッチで進むなか、親の世代も競って出稼ぎに出て、国の審議会で一九六六年にはじめて提出された「過疎」という言葉が、過疎化いちじるしい当の農村においてさえすっかり浸透していた。
高度経済成長がもたらした問題は、それだけにとどまらなかった。水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などに代表される山野河海空の化学物質汚染による深刻で猛烈な人体と生態系へのダメージ、またその被害者への国家国民あげての手ひどい差別と仕打ち、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』ではじめて世界に告発したように、化学物質まみれの残留農薬による食糧汚染も広範囲におよんでいた。過疎の村の田んぼからはタニシやゲンゴロウ、タガメ、川からはカワニナやホタルが消えた。太平洋ベルト地帯の大小の川と海はヘドロで埋まり、東京の隅田川を渡るとき、人びとは悪臭を避けるために電車の窓をいっせいに閉めた。公害被害者をささえ国と加害企業の責任を追及する民衆闘争が法廷内外ではげしく火を噴くいっぽう、石炭から石油へのエネルギー転換に端を発する炭鉱労働者の解雇問題をめぐって、九州や北海道では労働争議が激化していた。
海外ではアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦とのあいだで核実験合戦がつづき、キューバ危機によって両国は開戦寸前まで行った。ベトナムではベトナム解放軍と米軍とのあいだではげしい戦闘が終わるところを知らず、アメリカの一方的な横暴にたいして日本では「ベトナムに平和を! 市民連合」が結成され、セクト主義の陥穽にはまり込まず市民レベルでの連帯行動が長くつづいていた。
戦後日本の経済成長の背景には、まず朝鮮戦争特需があり、つづいてベトナム戦争特需がある。故郷の村には蚕を養い糸車をまわす母や老いた祖母がいて、骨身を削って親が貯めた学費を彼らはうけて大学へ進学した。彼らには、そうしたおびただしい戦争の犠牲者、自分のために家業を継いでくれた兄や弟、国や大企業の「労働力商品」として工場で汗を流す幼なじみの姿が目にすがり、うしろめたさが消えなかったのだ。初期マルクスの『経済学・哲学草稿』に彼らはいまの資本主義のありかたをただす原理を見出し、「人間疎外」「労働力商品」といったキーワードをさらに推し進めて、「自己否定」という原理的思考運動をそれぞれがもちあわせるようになった。
こうした世界情勢や各国でわきあがる革命への行動、それへの弾圧、そして環境破壊にまっしぐらにつきすすんでいく人類への危機的な観測が、「行きづまり、破滅への道をたどるであろう情勢」と奥平剛士に言わせていただろう。
東大と肩をならべる西の最高学府に進んだ彼のような学生たちは、いずれ国の将来を導いていかなければならぬインテリゲンチャとして、集団就職の少年少女や草深い故郷の田畑で汗を流す年寄や兄弟たちから見れば、とうていそこへはたどり着けようもない選ばれた者たちなのであって、彼ら自身、そのように思われていることを自覚していたし、罪の痛みのような優越の思いもあるのだった。社会的矛盾のあらわれのひとつとして自分たちと大学はあるのではないかという自意識を彼らの多くはもっていたし、自己と社会、自己と世界の関係を真剣に見つめ、古今東西の書に学び、ありあまる時間を教師や友人との議論に費やして、自省を怠らぬ学生もごくあたりまえにいたのである。
スラムに通い土方に汗を流す奥平剛士もそのひとりであり、スラムそのものの化身であるかのような「大杉」という人物を彼は師と仰いだ。それはしかしなにごとも黙って従うようなおとなしいものではなく、ともに土を掘り、同じ飯を食い、同じ酒を飲み、はげしい議論のすえに「大杉」の腕時計が吹き飛んでしまうほどの殴りあいをする関係なのであった。ふたりは言葉に羽をつけてその場をまるくおさめようとはしなかった。そうした肉体のぶつかりあいは、全身全霊をかけた対話であったろう。スラムあるいは被差別部落の解放というテーマを拳と拳の真ん中に置いて、世界の奈落であるかもしれぬそこに生きるということがどういうことであるのか、その世界観の諒解をたがいの身にしみ込ませるために必要な痛みの確認であったろう。
明治の日本に輸入された近代ヨーロッパの「理性」は、彼の言う「思想的な健全さ」を個人や家族やその集合体である社会生活に求め、そのいっぽうにおいて人間本来の「自然性」を抑え込みながら、近代国家の下層構成者として民衆ひとりひとりを富国強兵のための「徴兵要員」、殖産興業のための「労働力商品」として組み込んでいったわけだけれども、彼はそうした近代史の源流をナポレオンから熱心に学び、現状認識と未来のあるべき世界観をマルクスから学んでいった。
前者では、王政廃止、国民国家の建設、それにより王政下では徴兵されなかった農民をも「国民」として徴兵可能にし、その勢いをもって侵略戦争、領地拡大へと向かったナポレオンの近代主義を批判的に学んでいた。後者では『マルクス・エンゲルス全集』を読んで、資本主義とはやがて帝国主義に行き着かざるを得ないシステムであって、新種の奴隷制度に組み込まれた労働者たちから時間と金銭と体力と思考と生活などいっさいを搾取する構造の打破において、インテリゲンチャである自分たち自身が革命の核となり共産主義社会の実現に向けて闘うことは歴史の必然であるのかもしれないと考えていた。
彼は高校時代に読んだ阿部次郎の『三太郎の日記』に出てくる、「自覚とは因果の連鎖の中にある一つの環が自ら第幾番目の環にあたるかを悟ることである」という一節を、自身への警句として記憶にとどめていたはずである。アジア太平洋戦争で日本が亡びようとするころにこの日本という国に生まれ落ちた一個の卑小な存在として、彼は成長するにつれて、自分はいったい第幾番目の環にあたるのだろうかと、自己の歴史的位置を正確にとらえようとする宿命論者の孤影があるようだった。
「何故、われわれはここでこんなことをしなきゃならないんだ」
と、セツルメントの友人に尋ねられたとき、
「歴史がそう流れているからだ」
と、それだけを言って、あとはひとことも付け足さない男だった。
いかなる悲惨な運命が待ちうけていようとも、なにごとも宿命として受け容れて生きる、これこそがほんとうの自由の意味だと思い至っていた気配が彼にはあり、二十歳前後の若い肉体にはそうした老成した精神が宿っていたものと思われる。だからであろう、恋心を抱いていた女子学生にたいしても、彼女がアパートまでせっかく来てくれたのに、ドアのまえに出て、帰ってくれと追い返すようなストイックな一面があった。自分のほうが好きなのに、そんなへそ曲がりな行動をとってしまうほど、彼はなにごとかのために自己を殉じさせようとする気持ちをつよくもちつづけていた。
その恋心を抱いていた相手が卒業していく。彼はこのような長い詩を仲間たちの文集に書いて(一九六六年一月三〇日)、彼女への別れとした。
卒業するなつかしい仲間へ
君はあの瞳を見たことがあるか
眠られぬ夜の漆黒の闇のように
雪のふりつんだしんしんたる星空のように
すべてを包み込みすべてを吸いこんでいく
あせりたった若き小心者は
その瞳の深さにおびえた
俺は彼女と東九条の道を歩いた
すべての粘液が音をたててひからび
貧血した目が白いまぶしさに渦巻いた夏
雑炊とドブネズミの臭いを運ぶ霧雨の夕べ
裸電球の下 細いすすり泣きが凍りついたアスファルトの道を
俺はいつも黙ってうつむいた君と歩いた
浅井のおやじが君にくってかかり
何人もの子供が君の肩にすがり
何枚もの皿が子供の頭で割られ
いくつもの偶像が
苦い泥水をとばして砕けちった時
俺のろうそくが ぢりぢりと
脂汗をはぜて燃え尽き
小さな彗星となって青い光芒を
西の空に飛びちらせた夜
うつむいた君の瞳は
だまってすべてを吸いこんだ
俺は一度だけ君をオルグした
俺の目は切りきざむのが得意なはずだった
東九条を おばさん達を 子供らを 本のことばを
そして俺の舌はこねまわすのが得意なはずだった
矛盾を 階級を 教育の反動化を ルンペン・プロレタリアを
だが君の瞳の深さと静けさに
俺はだらしなくうろたえた
あの日あんなに口べたになったのは
寝不足のせいではなかった
そうだ、俺は君の瞳に
たけりたつ言葉ではなく、静かな「人間」を感じたのだ
君は故郷へ帰る 帰って保母さんになる
さようなら また会おう
そして今度はしみじみと話をしよう
その時は俺も自分の生活をもって
昔の思い出を
そして君の子供達のことを
静かに話そう
その日までさようなら
このようにして彼は、その人が故郷へ帰るそのときまで、指一本触れず見送ったのである。
この詩を読めば、意外なほど豊かな文学的精神が彼のなかに領土をひろげていたことがわかる。ランボーや宮澤賢治以外にどんな詩人の詩を読んできたのか定かではないが、ここにリズムよく紡がれた言葉の数々は鮮烈な印象を与え、詩人として出発の準備を整えようとしている二〇歳の青年の習作とうけとめられてもおかしくはない。スラムの脂くさくて荒々しい喧騒やおびえる子どもたちの顔が浮きあがってくるし、恋する相手の、よろこびも悲惨もすべて受け容れようとする慈母のごときまなざし、そのまなざしへと傾斜する心のゆらぎをみずから裁断し、放心したようにペンを置く若い彼の背中が見えてくる。
漢籍にも通じていた彼の日記には、自作の漢詩やその他の現代詩が幾篇かしるされているが、引用の詩をふくめて身辺に生起するさまざまな出来事を自己の精神の問題として彼は内面化し、そのたびに詩を書きしるすのだった。そうすることによって、ある段階を踏み越えていこうと彼はしている。そうして書くごとにおのれの文学的精神を自己を蝕む弱い精神として葬り去っていこうとしているように見える。
読書ノートをふくむ日記や友人たちへのインタビューを読んでいくと、大学入学から一年近くはセツルメント活動に関連する教育論や部落問題の研究書を集中的に読み、東九条での活動に熱心に取り組んでいる。つぎの第二期を遺稿集編者は一九六五年五月頃から六七年二月頃(二回生から三回生の終わり。セツルメント活動への懐疑と訣別の時期)としているが、それは「大杉」のもとで土木作業に本腰をいれた時期でもあって、革命思想の研究に没頭している。ノートに見えるだけでもシュテファン・ツヴァイク『ジョセフ・フーシェ』、エンゲルス『フォイエルバッハ論』、シェイエス『第三階級とは何か 他三篇』、スターリン『スターリン著作集 党内闘争論』、上田耕一郎『戦後革命論争史』、クロポトキン『革命家の思い出』、マルクス『経済学批判』、ソプール『フランス革命』、岡本隆三『長征――中国革命試練の記録』、ドイッチャー『スターリン』などなど、国ごとに生起した革命に関連する書物を書き手の立場がどうであれかまわず読んでいき、つぎの第三期(六七年春、四回生以降)にいたって集中的に読まれるのが『わが生涯』をはじめとするトロツキー自身の著作と彼に関する書物である。
表紙の裏やページの余白にメモが書きつけられており、それを順に見ていくと――、
「一九六五・九・二九、試験中。/自己の思想をつくりあげるために、まず混沌のどろ沼をこねまわそう。あらゆる金属をその中に投げこみ、とかし、まぜ、そしてその巨大なる混沌の中から美しいものをこねあげる努力をしよう」(シェイエス『第三階級とは何か』)
「我に力を与えよ、神よ!」(上田耕一郎『戦後革命論争史』)
「これが真の科学者の態度だ! 彼の科学的洞察は「支配者」のカベをやぶっている。そんな心の内側からの衝動が、おれにあるか?」(クロポトキン『革命家の思い出』)
「真にマルクスは天才だ!/すごい!/俺は心からの脱帽をおくる/満腔の歓喜と謝意をこめて」(マルクス『経済学批判』 ※「三三頁~五頁。商品で表示された労働の二重性に関する分析の部分に」書かれていると編者の注)
「この本を読む者は現実の苛酷さをすべて抱擁する情熱を必要とする。/この本の冷たい一言に凝結しているロシアの民衆の、革命家の、無数の涙と歓喜をよみとる熱い情熱を必要とする。/お行儀のいい読書人よ。/貴様には読んでおしゃべりする資格はない!/最も苛酷な、しかし最も美しい現実たる革命を批判する資格はない!/貴様の革命を理想の世界から現実の世界に引きずりおろせ!/一九六六・五・一八 T.Okudaira」(ドイッチャー『スターリン』)
以上は第二期の読書ノートに見出せるものであるが、「お行儀のいい読書人よ」以下のたたみかけるような激情の吐露は、他者にたいしてではなく自分自身に向けられている。スターリンの功罪を問うのではない。この冷酷で自己中心的なサディストのなかに非情な現実を見出し、革命とはいかなるものかに目覚め、みずからも革命家として自立していこうとする意識の流れが見えるようだ。
しかし、彼はそうした革命にまつわる本ばかりに読書の時間を費やしていたのではない。ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、チェーホフ、ロマン・ロラン、アルチュール・ランボーなどの小説や詩を熱心に読み、そして彼が高校三年のときに邦訳出版されたソ連共産党=スターリンの暗黒時代を活写したソルジェニーツィンの『イワン・デニーソビチの一日』も読んでいるので、フルシチョフのスターリン批判以来さまざまに暴かれてきたスターリンによる大粛清や強制労働などについて充分な知識をもっていた。そして、なにもそれはスターリン固有の特殊な性質によるものではなく、ロマノフ王朝以来、農奴制を基礎に据えたツァーリズムの独裁者的精神風土が革命を経てもなお指導者層に引き継がれたものではないかと考えることができた。また、いかに共産主義が優れたイデオロギーであったとしても、いまはまだそこへ至ろうとするためのごく初期のプロセスなのであって、権力者によってかくも真実を捻じ曲げられ、むしろ官僚的独裁国家というもっとも醜い暗部へと指導者たちが墜落してきた歴史の逆説をおおよそは理解していた。
すなわち彼は、共産主義社会に向かおうとする人類の成熟は歴史の必然であるとみなしながら、そこへ至るまでの道のりの困難さについて、まだまだ多くの犠牲がともなうことに思いをめぐらすことができていたと思われる。
日本の創作も夏目漱石や宮沢賢治を中心に読んでいる。とりわけ宮沢賢治にはつよいあこがれを抱いており、友人には「ケンつぁん」などと賢治の名前を呼びながら、童話や詩を諳んじてみせることがあった。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という賢治の言葉や、『グスコーブドリの伝記』に描かれる、冷害と凶作に苦しむイーハトーブを助けるために火山にわが身を滅するグスコーブドリの自己犠牲の姿に、彼は自分自身を重ねてみることがあったろう。「革命家はあくまでも、あくまでも清みわたって美しくなければならぬ」という日記の一節などに、そうした思いがあらわれている。
世界への理性的盲従を彼は拒否するとともに、革命の「大義」のために「すべての非常の手段権謀を駆使」しようとするならば自己の生命の滅却は必然なのだと、早くから自分に言い聞かせるようになっていたようだが、東九条のスラムで彼ともにセツルメント活動をしてきた京大の友人によれば、「セツルをやめる時期には、『もう、日本では何も起らへんのやから、俺が日本でやることは何もない』なんて、しきりに言ってたことがあった。ヒマラヤに行ってシェルパをやるんだとか、中近東の砂漠で発掘をやるんだとか、確かに地質なんかに詳しかったからね。でも、それはできなかったんだろうね。やはり、『革命家』ということが頭から離れなかったんだと思う」(『天よ――』)。心は定まったわけではなく、なお揺らめいていたのである。
彼はセツルメント活動に限界を感じるようになったころから、トロツキーを集中的に読むようになっている。これが第三期にあたる。日本共産党のみならず戦後左翼運動家たちは口をそろえて、「くさったトマトか、キャベツのように激論の敵手に憎悪の塊として」トロツキストという言葉を唾でも吐くように投げつけ、「この不思議な魔力のある言葉を、どちらが先に相手に投げつけるキッカケを見出すかで勝負は決まった」というくらい「狡猾で野心的な陰謀家」「小ブルジョワ的極左主義の個人主義的分派主義者」(栗田勇『トロツキーわが生涯』解説、現代思潮社)としてトロツキーを蛇蝎のごとく蔑んでいたが、そうした一方的なコミンテルンによる感情の刷り込みを乗り越えていこうとする思いがあったのではないか、彼は『永続革命論』『トロツキー わが生涯』『裏切られた革命』ほかトロツキーのほぼ全著作を読み、アイザック・ドイッチャーのトロツキー伝三部作『追放された予言者』『武装せる予言者』『武力なき予言者』(新潮社)を理解を深めるための伴侶として、ロシア革命の真実と歴史的誤謬にたいする正確な把握に努めながら、ソ連崩壊を予言したトロツキーの著作さえも批判的に読んでいこうと心掛けていた。
「あまりに粗暴」なるがゆえに「書記長の職務にあってはがまんできないものになる」、したがって「この地位から更迭」し、「もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっとていねいで、同志にたいしもっと親切で、彼ほど気まぐれでない、等々の人物をこの地位に任命する方法を熟考することを、わたしは同志諸君に提案する」(松田道雄編『ドキュメント現代史1 ロシア革命』平凡社)などと、名指しでレーニンの遺書にしるされたスターリンは、後継者として望まれていたトロツキーとそのグループを暗殺や流刑に処し、レーニンの遺書を隠したのだ(公開はスターリン批判後)。反革命の烙印を押され、同志をつぎつぎと殺され、ついに国外追放されたトロツキーは、紆余曲折を経てメキシコに亡命し、スターリンの放った刺客によって後頭部をピッケルで打ち抜かれ、悲劇的な死をとげた。
その生涯について、奥平剛士は薄っぺらな同情を寄せることをしていない。『わが生涯Ⅱ』の表紙裏に、あの有名なトロツキーの遺書の一節をまるまる書き写している。
私のもの心ついてから四二年、私は常に革命家であった。その四二年はマルクス主義の旗のもとに闘った。もう一度すっかりやり直すとしたら、もちろん二、三の誤りは正すにしても、私の生涯のコースはかわらないだろう。
私は一人のプロレタリア革命家として、マルクス主義者として、弁証法的唯物論者として、したがって妥協することのない無神論者として死ぬだろう。
ナターシャが庭からあがってきて窓を大きく開いた。大気が何物にもさえぎられずに入ってくる。
塀の向こうに草地が緑に輝いている。
その上はすみきった青空だ。
人生は美しい。未来の世代が、人生から悪と抑圧と暴力をぬぐい去ってせいいっぱい楽しむように。――トロツキー
そして奥平は、「彼の生涯を悲劇的だと憐れむ人がいたら、それはまちがいだ。彼の言葉を読む人は逆に自分が憐れむべき存在だと感じさせられるだろう。/彼はどんな恐れ、妥協、屈服とも無縁だ。真底からの革命家として死んだ。/歴史が彼の生涯の意味を証明するであろう」と自分の感想を書き、そのあと『永続革命論』を読んだ彼は、同書の見開きにこのように書き込むのだった。
第二次大戦へ向う全世界を覆った漆黒は、すべての光をこの一人の男に集中してしまったようにさえみえる。この瞬間、彼は、あらゆる理性の権化である。そしてその故にこそ、彼は全く無力であった。これが彼の、革命の、悲劇である。
彼は最後の瞬間まで、ことばを、したがってその理性的な力を信じた。俺らもまた、そうするであろう(傍点・引用者)。
彼の行く末を知る私たちにとって、この最後の言葉はじつに示唆的である。「ことば」という「理性的な力」を最後まで信じた詩人トロツキーは、それゆえに革命にたいして「全く無力であった」と述べるとき、なぜそのようにあらざるを得なかったのか、ロシア革命が世界規模の戦争に巻き込まれていこうとしている情勢を背景に据えて、彼は遠近法で絵を描くように個としての革命家の歴史的位置をとらえ返そうとしている。「ことば」や「理性」を、ここでは「良心」と置き換えてもいいのかもしれない。それを手放さないかぎりトロツキーのような「悲劇」は免れ得ないけれども、たとえそうであろうとも自分たちは彼と同じように良心に従うだろう。そう言っているのである。
セツルメント離脱とともに半年ほど片足をかける程度に在籍した民青からも去ったのは、以上のような意識の流れを見てくればわかることだ。そもそも彼は民青になど興味なかったのではないか。重信房子は奥平剛士から、民青加盟のおりに組織名(本名以外の組織内での通称)を決めてくれと言われ、「草加次郎」とこたえたのだと聞いている。そんな悪趣味な名前はやめてくれと言われ、とりさげたようだが、島倉千代子後援会事務所を皮切りに、麻布バーホステス宅、ニュー東宝劇場、日比谷映画劇場、世田谷の公衆電話ボックス、浅草寺境内などで未遂をふくむ爆発事件をおこし、吉永小百合への脅迫、上野公園おでん屋台主銃撃、渋谷東横デパート爆発脅迫、地下鉄銀座線爆発など一九六二年一一月から翌年三月にかけてつぎつぎと不穏な事件を起こし、いまなお行方知れずの犯人名を伝えてしまうほど、はなからやる気はなかったのだ。
「京都パルチザン」を撮影した土本典昭のドキュメンタリー映画『パルチザン前史』には、彼もほんの少しだけ映っているが、パルチザンの仲間たちが借りていた銀閣寺近くの一戸建て――彼らは「銀閣寺アジト」と呼び警察にたいしても同所を隠さず公然化していた――には、せいぜい二、三度程度しか通った形跡がない。パルチザンの提唱者でカリスマ的存在であった京大経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム・滝田修)にたいしても、ほとんど近づくことはなかった。
銀閣寺アジトから奥平の小屋までは五分も歩けば行ける距離にあったが、全共闘運動が散り散りになってから彼が打ち込んでいたのは肉体労働であり、スラムの子どもや青年たちへの独自のかかわりかたであった。一九六六年一月二二日、最初の留年を決めたころ、マルクスの『経済学批判』の扉に、「俺は親爺に感謝しよう/そして/俺自身の道を切り拓こう/限りなき下降のために」と決意をしるしたように、青白く痩せっぽちのインテリ青年は下層世界へと下りていく段階をいまやとっくにこえて、もはやひとつの「組」の経営者となっていた。周囲の後輩たちにとっては、学生でもなければ労働者でもない、ある次元へとつき抜けた存在として畏敬の対象となっていた。東九条で彼を鍛えた「大杉」という人物が、「わしは兄貴がうちたてた旗を、わしの現実のなかでひきつぐからね」(『天よ――』)などと、空港襲撃事件を引き起こしたあとになってからでさえ、手放しで称賛するほどに。
さて、重信房子の肩にのしかかっている問題とは、赤軍派の壊滅的状況が背景にある。
赤軍派というのは、ひどく過激で急進的な組織であった。奥平剛士が京大時計塔の頂上に砦をつくる直前の一九六九年八月末、共産主義者同盟(ブント)から分派するかたちで結成されたが、「世界革命戦争の防御から対峙に向かう世界党、世界赤軍建設」などといった、およそ地に足をつけて考えられたものとは思えぬような遠大なスローガンを彼らはいたって大まじめに掲げていた。
これはほとんどゲバラの思想をそっくり受け継いだようなものでもあるのだが、その難解な言いまわしを彼らが実践しようとしている行動において端的に説明するならば、首相官邸、自衛隊、警察といった公権力施設と、そこに帰属する人間にたいしてダイレクトに武力攻撃をおこない、権力中枢を混乱におとしいれる(「前段階蜂起」と彼らは呼んだ)。そして、そのいっぽうで他国の革命勢力と結びついて日本国内に革命を起こし、世界革命戦争を誘発させて世界の社会主義化を目指そうというものだ。そのために彼らは、キューバやベトナムなどを対象に海外における革命の根拠地づくり(国際根拠地論)を模索しはじめていた。
東大闘争や日大闘争をはじめとする全国の大学や高校でたたかわれた全共闘運動の機動隊導入による敗北と挫折が、生き残りをかけた彼らをかくも先鋭化させていた。徹頭徹尾、武装闘争第一主義へと純化した赤軍派は、その急進性ゆえに、結成集会にいたるまで同じブント内の他派と抗争を演じ、結果としてひとりの死者まで出していた。
彼らは東京における自分たちの拠点づくりにあせるあまり、高校生全共闘にまで応援を呼びかけ、明治大学の和泉校舎にいたブント議長グループに殴り込みをかけ、殴る蹴るの暴行、拉致監禁、リンチをふくむ自己批判の強要などをおこなっている。そうした陰惨な内ゲバはすでに中核派や革マル派など新左翼党派のあいだで多発しており、それまで東大闘争や日大闘争などを通じて集めていた多くの市民たちの共感を失う結果につながっていくのだが、赤軍派自身、目に余るようなあからさまな権力側の暴力的介入を目のまえにして、大衆的運動のひろがりには早晩限界が来るものと予見し、これからの権力との攻防に勝ち抜いていくためには武装部隊を形成する必要があると考えたのだ。
結成直後の政治集会で彼らは「世界革命戦争宣言」を発し、「ブルジョワジー諸君! 我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告する」、「君たちにブラックパンサーの同志を殺害する権利があるのなら、我々もニクソン、佐藤を殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君たちの家々を爆弾で爆破する権利がある」などと主張した。こうしたただならぬ直截な意志表明が少なからぬ共感を呼び、赤軍派への一定の流入者やシンパを集めたのは、いまの時代からは想像もつかないことだろうけれども、じつにあっけらかんとして向こう見ずな率直な呼びかけが、みじめに敗北を噛みしめてきた若者たちの心にストレートに響いたからである。
彼らは「大阪戦争」「東京戦争」と銘打って、警察署や交番を襲撃し、結成から二カ月後の一一月には、首相官邸への襲撃訓練のために大菩薩峠の山荘に集まった五三人が一斉検挙され、いきなり組織存亡の危機に立たされた。この深刻なダメージを克服するために、議長の塩見孝也をはじめとする赤軍派リーダーたちは、キューバ革命を成就させたゲバラやカストロの運動論にならってつくりだした国際根拠地論の具体的展開を急いだ。こうして海外に革命の拠点づくりをしようとして決行されたのが、一九七〇年三月末の日航機「よど号」ハイジャック事件であった。決行者九名は北朝鮮に渡った。
ところが、議長の塩見孝也は作戦決行直前に逮捕され(一九八三年に懲役一八年が確定、下獄。一九八九年一二月、一九年九カ月ぶりに出所した)、直後には設立メンバー全員が軒並み逮捕されて、赤軍派はいよいよ壊滅状態に追い込まれたのである。
重信房子も五月初旬、母の日のプレゼントを買いに両親と暮らしていた東京町田の都営住宅を出たところで逮捕された。この三度目の逮捕について朝日新聞は、一九七〇年五月一〇日の朝刊一五面で彼女の顔写真つきでこのように報じている。
赤軍派女闘士逮捕
警視庁公安部は九日、共産同赤軍派の女性最高幹部、明大二部学生重信房子(二四)=写真=を爆発物取締罰則違反、殺人予備容疑で東京・町田市内で逮捕した。
調べによると重信は、同派が昨年秋、鉄パイプ爆弾などを使って首相官邸を襲撃するため軍事訓練を行なったいわゆる「大菩薩峠事件」に関して昨年十月二十八日、東京都内で同派委員長、元京大生塩見孝也(二八)=日航機乗取り事件首謀者として逮捕、拘留中=ら同派幹部とともに謀議に参加した〝黒幕グループ〟の一人。同派の女性活動家の最高指揮者で、塩見らがハイジャックで地下に潜行してからは同派の組織全体を動かす重要なポストについていた〝女闘士〟だった。
「女闘士」とか「女性活動家の最高指揮者」などといった、いかにも凶暴な犯罪集団の女傑であるかのような書きかたにキワモノ的な扱いのありさまが見てとれるけれども、重信によれば逮捕容疑は口実であって、取り調べはもっぱら「よど号」事件について集中的におこなわれた。それまで彼女は救援対策や財務など合法活動を担当してきたので、極秘裏に進められた作戦計画など知る由もなく、不起訴処分となり六月に釈放された。
彼女はしかし三度も逮捕された「赤軍派の女性最高幹部」のひとりとして、反体制運動にかかわる者ばかりか、一般社会にまでその名を知られることになった。青息吐息の組織内では会議がひらかれ、国際根拠地論を具体的に検討・実践する非合法的活動の部署である国際部の担当を彼女は要請され、引きうけたのである。
彼女が奥平剛士のもとを訪れたのは、このような時期だった。
いまでは本人も、「これは肥大化した観念的な論理であり、実態は、権力の攻撃に対して、他の革命の支援を受けつつ、日本革命の展望を見つけようとする防御戦であった」(重信房子『日本赤軍私史』河出書房新社)と述べているように、国際根拠地論なるものは、ついに国内への活路を絶たれてしまった赤軍派の悲鳴のようなものだったのかもしれず、しかしながら当時のリアルタイムの彼らの感情としては、武装プロレタリアートの一翼として世界に伍して戦い、世界党や世界赤軍の萌芽をつくりだしたくてうずうずしているというのが実情で、このような自己批評などを差し込む余地などなく、武装闘争による革命を一歩も後退させないという覚悟に満ち満ちていた。
ただしリーダーの塩見孝也には、重信が言うような「防御戦」の感覚はたしかにあって、国際根拠地論の展開の急務は大菩薩峠事件後に切実なテーマとして浮上し、海外に革命の根拠地づくりをすることによって海外勢力から日本革命を支援してもらおうという、ある意味では逆説的な組織防衛論を目的とする内向きの思考転換なのであって、前衛的な革命運動家としての自負があるのであれば、そこに落ち込んではならないはずの「組織防衛の自己目的化」といった重大な陥穽にはまりかけていることに気づいていた者は少なかった。ブレーキのはずれた車を疾駆させるように、彼らは自己否定という大切なテーマをみずからに課してきながらも、武力革命に魂の刃を研ぎ澄まそうとするあまり自己正当化のアクセルにより深く足をかけていた。そのため内ゲバに走り、多くの友人や昨日まで同志だった者に死をもたらすまでの暴行をはたらくにいたったのだ。ただひとり、そのような組織論を突き抜けて、こととしだいによっては赤軍派を抜けてでも国際根拠地論を実践しようとしていたのが重信房子なのである。彼女はたとえ自分ひとりになろうとも、この道をつき進もうとしていた。
街頭のあちらこちらでは、だれかれなしに職質や別件逮捕がおこなわれていたし、私服警官による暴行(「白色テロ」と彼らは呼んだ)が横行していた。ハイジャック事件を未然に防げなかったことから、壊滅作戦に血道をあげるようになった警察のプレッシャーは容赦ないもので、彼らは日夜尾行を気にしつつ、「闇の中の後退戦」とは名ばかりのみじめな退行劇に内心悲鳴をあげていたのではないかと思われる。
しかし、それでも赤軍派に残った者は、自分たちの方針に露ほども疑いをもたなかった。重信房子自身、「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう。そのとおりだ、と」というゲバラの言葉をわがものとして揺るぎない信念をもっていたし、非道な内ゲバが決行されたことを聞いて、「そんなの革命じゃない」と、その場に居合わせた赤軍派リーダーのひとりに泣き叫んで抗議した彼女にしても、革命の大義に殉ずる思いから、また救対責任者として、逮捕されたすべての同志たちへのただならぬ思いから、むしろ彼ら以上に「真面目で、明大闘争でも一貫して妥協を排し、徹底抗戦派で頑張っていた」(塩見孝也『赤軍派始末記』彩流社)のだ。
赤軍派はブント関西派を母体として生まれている。とりわけ京都には、塩見孝也が頼りとする高瀬泰司がいて、高瀬もまた京都府学連委員長時代、後輩の塩見を代行に置くほど彼を信頼していた。塩見は同じ京大の三名とともに赤軍派の政治局委員を構成しており、ことあるごとに高瀬とは連絡をとりあって支援を仰いでいたのだ。
重信房子を奥平に会わせたのも高瀬ではないかと、奥平を知る数名から私は聞いているが、それは違うと重信本人は言う。奥平も一九七〇年の段階では、高瀬にたいして距離を置いていたと彼女は言うのだった。
塩見は「前段階蜂起論」や「国際根拠地論」の提唱者とみられており、生前の彼に私もインタビューしているが、とりわけ重信に頼っていたのは活動資金の調達だったということを知った。彼はこのように言うのである。
「重信はオルグ能力とカンパ集めの能力に抜きん出ていた。赤軍派の活動資金の大半を重信が支えていた」
私は北千住の先、荒川を渡った小菅にある東京拘置所に、何度目かの面会許可がおりて重信房子を訪ねたとき、毎月一〇〇万円以上の資金を赤軍派に納めていたと聞いているがほんとうか? と尋ねた。
わずか一〇分の面会時間、その最後の最後、付き添いの女性刑務官は体を折り曲げることなく直立不動のまま、彼女の後頭部もこちらの顔も見ることなく腕時計を一瞥すると、機械仕掛けの人形がつぶやくような声で「時間です」と言った。促されて立ちあがった彼女の背中に、私はそのように問いかけると、ドアの向こう側に歩き出しながら、顔だけをこちらに軽やかにふり向かせて、
「ありえますね」
と言った。
勤めていた銀座のクラブには、多くの文壇人や経済人がやって来た。貧しいながら躾のよい家庭で育った彼女は、気がよくまわり、だれに臆することもなく明るく立ちふるまうことができた。背中までかかるストレートのロングヘアと美しい顔は、こうした気性のよさも手伝って人気を集めた。学生運動やベトナム反戦についても臆せず率直に語るので、いざなぎ景気にわが世の春を謳歌する客たちを魅了したのだ。
彼女は協力してくれる文化人の友人たちなどからカンパを募り、公務員の初任給三六〇〇〇円、大卒の大手都市銀行員の初任給三九〇〇〇円、小学校教員の初任給三一九〇〇円(『値段史年表 明治・大正・昭和』週刊朝日編)のころに、目の玉が飛び出るようなたいそうな金額を、耳をそろえて毎月上納していたのである。
塩見孝也をはじめとするリーダーたちは、自分たちで稼ぎ出すのではなかった。もっぱら重信房子、そして彼女の親友であった遠山美枝子に稼いでもらいながら、自分たちはアメリカに渡りブラックパンサー党などの革命勢力と合体し世界革命の端緒をひらこうじゃないか、などと大声で語りあっていたのだ。ウーマンリブという言いかたでジェンダー問題がさかんに語られ、日本国内でも一部の女性たちが女性解放運動をくりひろげていたが、赤軍派はそれにはいっこうに無頓着で、日本の男社会をそのまま体現していた。
そして、彼女は京都にいるのだった。追いつめられた赤軍派の台所を背負い、国際根拠地論の新たな展開を胸に秘めていた。
一九七〇年の奥平剛士には、ここまで見てきたように大きく分けるとふたつの「場所」がある。ひとつは京都パルチザン、ひとつは東九条というスラムである。このふたつは、ある部分ではいくらかリンクし、ほとんどの部分ではまったく無関係に独立していた。そしてどちらからとも遠くあったはずの重信房子が、新しい場所に彼を導いていったという構図になる。
彼と近しい関係にあった人びとには口を閉ざす者が多く、ともに行動し、ベイルートへ渡ってからも在郷連絡役として重要な役割を果たした人物に私は会うことができなかった。なんとか話を聞かせてほしいと願って、手紙と自著を二、三冊、住所に送ってみたのだけれど、「受取拒否」でつき返されてきた。あいだにはいってくれた人もいたのだが、どうしても会いたくないとの返事。
また、ある人は、やはり彼を知るためになくてはならぬ人物のひとりだったが、京都駅まえから電話をすると丁重に断わられた。重要なポストに就いているその人は、いまの社会的立場をわかってほしいと言う。
その人は後日私に、自分の文章が載った本のページをコピーして送ってくださり、それには奥平の指導のもとで土方に励んだこと、学生運動に打ち込み二度逮捕されたことなどが書かれていた。添えられた手紙には、「三十年以上前に奥平氏と文字通り手作業で土台作りをした建物」がいまも変わらず立っているのを誇らしい思いで最近見てきたこと、チェーホフの『六号室』が面白いと言って語りあったことなどがしるされていた。
彼を知る人物に会うことはできても、やはりその人たちも、彼の人物像とリッダ作戦へのかかわりについて語ることを頑なに拒み、それとは直接関係のない外形的な事実関係についてなら話そうと言ってきた。私はそれに従った。
彼らは奥平が参加していた京都パルチザンの元メンバーであって、のちに赤軍派となった者もいればそのシンパもいたが、一九七〇年の時点ではノンセクトの者が大半であった。数人単位で思いおもいに動いていた彼らは、アジトそのものは公然化していながら、機密が公安に漏れることを極度に恐れ、別のグループとはよけいな話をしなかったし、彼らが借りていた純和風木造二階建ての銀閣寺アジトに奥平は意識的にほとんど寄りつかなかった。赤軍派の大量逮捕で自供があいつぎ、その自供がさらに大量逮捕を招いて、破滅へと追い込まれてきたのを知っていたからである。
ベイルートへ奥平が旅立つ前後からテルアビブ空港で命果てるまで、なんらかの指示や情報のやりとりをしていた人はごく少数に限られていた。「受取拒否」の人は、それを担っていたのだ。
この人たちがそうするのは(私に話してくれないのは)どうしてなのか、私にはわかるようでわからなかった。
ところが、京都パルチザンのメンバーであった元赤軍派活動家からある日、大量の資料が送られてきた。そのなかにハッとするようなメールのやりとりの記録を見つけて、なるほどこういうことだったのかと腑に落ちたのである。
奥平剛士がその死によって彼らの肌身に残していった傷口は、あれから数十年を経ても瘡蓋にすらならず、薄くひらいてときどき血を流しているのだった。そのメールの差出人もまた私の取材を断わった人であり、受取人は私の話をその人につないでくれた人であった。
奥平剛士という存在について、重信房子の理解とはまた別の異質な理解があることをそれで知ることができた。彼らは革命家としての実存をあの空港襲撃作戦以来喉首につきつけられて、おのれの実存をはげしく揺さぶられ、革命の外にはじき出された者として、空を撃つような日々を重ねてきたのである。
全文を引かせてもらう。
夜中にご免。しかし、夜中の話題だろう。
桜が満開に咲いたり、散り初めたり、散ってしまうと、それなりにふさわしい歌(和歌ですよ!)や詩があるが、これから咲こうかと言う時に思いつく言葉がない。ましてや、もうそんな齢でも、とうになくなった。それでも、この季節はそれだから辛いよね。
久しぶりに、I君やK君と痛飲した。春まだ浅い3月半ば過ぎ。と言えば何となくロマンチシズムが溢れそうだが、そうは問屋が許してくれない。ノスタルジアも何処かへ消えて行く。
飲むと、死んだ人たちがあれこれと浮かんで来るだろう。それは極く普通の話だが、何十年も経って、消え去りそうな記憶を刺激する、見ず知らずの人たちが居たとなると話しが混乱・混迷するみたいだ。奥平剛士、その人。
Kは、彼をモラリストと言う。それは、ボキャブラリーが間違っていて、飲んで居る中で、何度もストイシズムだと訂正したのだが、ダメだった。確かに、今では説明が誰にも、信じられないような二十代の青年の純粋さと猛々しさを合わせ持っていた人だった。だから、Iにとっては、Kもそうなのだが、60歳を過ぎた今も、常に辿り着けない自己批判の基準として、現に生きているのだ。だから、作家であれ、ノンフィクションライターであれ、第三者が自己の記憶と感性に踏み込んで来ることが、許せる筈がないのだ。
彼らは言う。ぼくらは結局何も為せず、何も残しは出来ないだろうけれど、奥平さんは、奥平剛士として、誰にも何も言わせることの無い存在として残った、と。
Iにとっては、彼は今も生きている。圧倒的な存在として。彼は、言う。あの人の前では嘘や言い訳が言えなかった、と。Kは、言う。一緒に仕事をして、そして、飲みに行って、君の話は詰まらないから帰れと、言われたと。そんな自己中心的な言い方に、荘厳かつ冷徹な判断を突きつけられた気がして、圧倒されたと。
ああ、この二人にとっては、それは確かに貴重な思い出だろう。ぼくも、彼のストイシズムはよく知っている。ネチャーエフだったか、サビンコフは反動だったか、それはどうでも良いけれど、とにかく、その純粋主義的なまでの革命家の在り方。世俗を絶って屹立することを目指すことを、観念的でなく、日常において平然と実行する姿勢。それでいて、母親への愛情と、「家」と言う意識を併存させ、気遣う優しさを持っていた。
いや、はっきり言おう。今だから、言える。それを僕は拒否した覚えがある。そんな「立派な革命家」は困るんだよ。君は良いだろう。しかし、君が、多分僕の息の根を止めてしまうよ。ぼくらは何もそんな立派な社会には多分生きて行けないような気がすると。だから、僕は、彼の紹介で一緒に行った土方を3日で止めた。だから、今、辛うじてぼくは生きても居られるのだろう。自分にすら妥協出来ないと 言う強い意志をストイシズムと言うのかも知れない。
KやIが、言葉にし切れないことが、彼についてはある、と言う。そうかも知れない。ぼくも、KやIに、説明し切れないことは当然ある筈だ。それは、誰にでもあるとすれば、奥平剛士が本当は何を考えていたのかは、もう誰にも分からないのだ。彼の行為だけが、歴史に残り、それは絶対的に希有のことではあるが、その行為の解釈は何とでも出来たとしても、最早絶対的にその真意を知ることは出来ない。その事実を、ぼくは受け入れている。
このメールは二〇〇九年三月二二日に書かれたものだ。檜森孝雄が焼身自殺をとげて七年が経過しようとしている。もうじき命日だから、IとKふたりと久しぶりに酒を酌み交わしたのに、彼の思い出よりも彼ら三人のテーマはおのずと奥平剛士に収斂していかざるを得ないのだ。ここには檜森の心にも去来していたはずの苦い思いまで語られているようだ。
差出人の暉峻中は一九六七年、立命館大学法学部に入学。法学部闘争委員会を経て京都パルチザンのメンバーとなった。ここに出てくる「I君」とは「受取拒否」をした人であり、「K君」とは本のページのコピーとともに手紙を送ってくれた人である。文中に「作家」とか「ノンフィクションライター」とあるのは、きっと私のことであろう。
奥平という青年は、「今では説明が誰にも、信じられないような二十代の青年の純粋さと猛々しさを合わせ持っていた人」であり、そして自分たちにとっては「常に辿り着けない自己批判の基準として、現に生きている」のだから、私のような「第三者が自己の記憶と感性に踏み込んで来ることが、許せる筈がない」と、暉峻中は胸のうちを吐露している。いま自分と彼らの立場を置き換えてみたら、自分も疑いなくそうしただろうと思う。
送信時刻は午前零時を少しまわったころ。ふたりと別れて数日経ってもなお心から奥平をめぐる議論のざわめきが去らず、だれかに打ち明けたくて、離れた町で暮らす友人にこのようなメールを書き送ったのだ。彼への思いには、たいへん複雑な感情が入り混じっていることがよくわかる。
「とにかく、その純粋主義的なまでの革命家の在り方。世俗を絶って屹立することを目指すことを、観念的でなく、日常において平然と実行する姿勢。それでいて、母親への愛情と、『家』と言う意識を併存させ、気遣う優しさを持っていた」奥平にたいして、暉峻中は「拒否した覚えがある」と言い、その理由を「そんな『立派な革命家』は困るんだよ。君は良いだろう。しかし、君が、多分僕の息の根を止めてしまうよ。ぼくらは何もそんな立派な社会には多分生きて行けないような気がする」と言っている。
これは土方をともにするなかで交わされた会話であったのではなかろうか。そして彼は三日で現場から離脱するとき、このように言ったのではなかったか。非常に緊張感の漂う会話である。離脱したことによって、「だから、今、辛うじてぼくは生きても居られるのだろう」と言っているのは、まさにいまベイルート行きを決めている奥平が資金づくりのために土を掘り起こしているなかで、この人物に「一緒に行かないか」ともちかけていたことを生々しく想像させてくれる。
おれは行く、ただ母親のことが心配だ、奥平家にも迷惑をかけてしまうだろうと、そのようなことを彼はこの友人に語ったのだろう。しかし、「純粋主義的なまでの革命家」として「世俗を絶って屹立すること」をおのれに課し、そして「観念的でなく、日常において平然と実行する姿勢」をもって彼は、離脱した者たちを京都に残し、ひとりで旅立つことを選んだのだ。
戦死の知らせを聞いた彼らは、宙ぶらりんにされたような気持ちになった。檜森孝雄も同様であったろう。そしてそれから三〇年後、檜森は苛烈な自死を選び、そして檜森の死から七年後、彼らは革命などから遠いところで生きている。あの奥平、安田安之、岡本公三の地平まで、もう行けはしない。「常に辿り着けない自己批判の基準として」一九七二年五月三〇日のあの日から数十年後のこんにちまで、絶えずおのれの実存を揺さぶる光源として奥平はありつづけてきたのである。
メールをうけとった友人は、翌日の夜になって返信を送った。これも全文引かせてもらう。
親愛なる先輩へ
I君やK君は、学年が近かったせいもあって時々は本音で語り合ったこともあった と記憶しています。みんな若々しい活動家でした。もちろん私もですが(笑)
ここのところ、東大安田講堂や日大の諸君の「物語」が、立て続けにTVなどで放映されたりしていますが、あれは決して「全共闘ルネッサンス」などというものではありません。むしろ私たちは、まさに今、徹底的に「右からの総括」をされているのであり、またそれらの動きに対して、こちら側からのちゃんとした反論をするかどうかが試されているような気がしてなりません。
それで、結果はどうかというと、やっぱり圧倒的に負けているような感じ……。 このことがとても不快ではあるのですが、そのこと自体は無理もないような気がするのです。私たちが歳を重ねて来た結果としての成熟が問題になっていると思います。
檜森にしても、奥平さんにしても生きていたなら、もっと違う展開があったろうと思うのですが、彼らは死を厭わないどころか、死によって自らの思想を完結させてしまったのです。一度完結してしまったものは他者の介在を許さないので、もう私たちは彼らとの対話ができない、それゆえに余りにもやるせない気持ちで過ごしてきました。
≫モラリストとストイシズム
そこには大きな違いがあると思います。
モラリストは別段、左翼だけの専売特許ではありませんが、ストイシズムは左翼一般に通底する独特の思想として、60年~70年代の暗い青春を彩ってきたものでした。
奥浩平・岸上大作・樺美智子・高野悦子……それらの死人列伝が意味するものは、やっぱりストイシズムです。
かつて寺山修司が「身を捨つるほどの祖国があるのか?」(マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや=引用者注)と問うたこの国に生まれて、案の定この国がそれほどの価値もないと、ある時点で納得していた私たちと、それでは合点が行かないと思って、あるかないかの仮想の「祖国」に殉じていった人たちが居ると思うと、暗澹たる気持ちになります。
I君やK君の、一見して外部への頑な過去への態度は、檜森が日比谷で自死した以降の私などとは対照的ですが、それはそれで判るような気がしています。でも、僕らはいつか、今も迫り来る「右からの総括」に対して、誰かがはっきりと対抗しなければならないと思っています。
この返信を送った早川義輝に、私は何度も会ってもらった。いまは別の人が住んでいる銀閣寺アジトの跡へも案内してもらったが、奥平剛士については直接には知らない。一九六九年に立命館大学に入学した彼は、学年的にも年齢的にもいちばん若く、いま奥平さんが来ていると聞いても、仰ぎみるような存在として近寄りがたかったという。
立命館で暉峻中の後輩にあたる彼は、「檜森」と呼び捨てにするほど檜森孝雄とは親しい間柄であった。全共闘の一員としてともに過ごし、京大教養部校舎に「亡命」していたのは彼らである。日記集『二十歳の原点』を遺して鉄道自殺した同大学の高野悦子もここに寝泊まりし、投石用の石を彼らに渡していたのである。
早川義輝は、空港襲撃作戦に参加せず生き残り日本で逮捕された丸岡修が獄中死をとげたあと、彼の妹や仲間とともに分骨された遺灰をベイルートへ運び、墓碑を建てて供養した。妹への遺言にそう書いてあったからである。奥平、安田、檜森の墓碑に丸岡の墓碑が加わり、献花を終えたとき、彼は額ずいたまましばらく立ちあがれず号泣した。重信房子の出獄時も獄舎のまえで仲間たちと彼女を出迎え、彼女の体調が回復するのを待って関西にある丸岡修の墓に案内した。
ここで早川義輝が整理しているのは、「モラリスト」であるのか「ストイシズム」であるのか、ということだ。六〇年代の学生運動にたずさわってきた奥浩平から高野悦子まで四人の死者の名前をあげて、彼らの手記を何度も読んできた経験から、いずれも彼らは「ストイシズム」であったと彼は結論し、奥平もその系譜にあるのではないかと言っていることに注目したい。これについては、儒教の影響、わけても陽明学の影響を指摘する奥平の後輩で日本教育史の専門家もいて、私から見ればどちらにもあてはまるように見えるのだけれども、モラルリストもストイシズムも言葉こそ洋の東西に分かれはするが、儒教の精神に包含され得るものなのではあるまいか。
奥平の家系をたどれば、福沢諭吉が出た豊前国中津藩の城主にいたる。たとえ貧しくともおのれを律し、お家のためなら命をもさしだす武家の頂点に君臨した家系であるから、儒教の教えは彼の家のなかにも流れ込んでいたのではないかと思われる。
ところで重信房子には、彼らに見られるような、奥平剛士に関する屈託のようなものはあまり感じられない。それまで一緒に生きてきた時間が、彼らのようには「歴史」となっていないからだろうか。彼らのなかには、奥平をあんな中東のゲリラ組織につれて行って死なせてしまった、その原因をつくったのが重信房子だとの思いを抜き去りがたくもつ人も多くいて、そうした彼らの屈折は、彼女が二〇年の刑に服し癌に苦しみながら出獄してきたところで解消しうるものではなかった。
彼らはこう信じて疑わなかったのだ。リッダ作戦を担ったのは赤軍派などではない。ましてや、あの事件直後、一方的に重信が発した「赤軍声明」の影響から、リッダ作戦は「日本赤軍」が決行したものと誤ってジャーナリズムに喧伝されることになった。作戦を担ったのはそうではなく、京都パルチザンなのだと檜森孝雄が主張していたように、彼らもそう確信していた。現実としては、そうではあったのだ。
彼らが私に話をしてくれないのは、自己の内面の問題なのである。「常に辿り着けない自己批判の基準として」奥平剛士はいまだに彼らのまえに厳然として存在し、「誰にも何も言わせることの無い存在として」圧倒的な姿で立ちはだかり、「嘘や言い訳」を許さず、「荘厳かつ冷徹な判断を突きつけられ」る存在として、彼らにもまたストイシズムの美徳を強いているのである。
奥平の呪縛と言ったら、言い過ぎだろうか。
では、もうひとつの場所「東九条」はどうか。
奥平の日記は京大入学後の五月八日から書きはじめられ、一九六七年二月二四~二六日、すなわち教養課程の終了時(三回生)までの三年間で終わっている。一年生の五月から底辺問題研究会というサークルにはいり、京大、立命館大学、ノートルダム女子大学、華頂短期大学、日赤看護学校の学生たちでつくる「兄弟会」のメンバーの一員として、京都駅南口の目のまえにひろがる在日朝鮮人を中心とするスラムにはいり込み、学校の勉強についていけない子どもたちや休みがちな子どものために勉強を教え、ハイキングにつれて行ったり、相撲や鬼ごっこをしたり、祭りを催すなどしてセツルメント活動に明け暮れていたことがわかる。
基礎学力の欠乏ゆえに机のまえでじっとしていられぬ子どもたちは、待ちかねたように彼の姿を見つけると、いますぐ遊んでくれと群がりせがんでくる。手を焼きながらも彼は、よく遊んでやっている。
この日記がセツルメント活動のスタートからそれを去るまでの記録であり、「まさに出会った時の彼自身を、私はそのように見たからです」と重信房子が評したあの詩は、セツルメント活動への別れの歌でもあったことはすでに書いた。
しかし、彼は東九条から去ったわけではない。
その東九条のスラムは、終戦から二〇年を経過しているのに、廃材やトタン板などを張りあわせて急づくりした痩せっぽちのバラックが狭い路地にひしめきあっていた。高瀬川が鴨川と合流するあたりのバラックは、ひとたび水勢が増せばちぎれとんでしまうような足場も貧弱なありさまで、生活排水をそのまま垂れ流すものだから川は濁り、悪臭を放っていた。大火も絶えなかった。
彼はそこで、あるひとりの強烈な個性とオーラを放つ一〇歳あまり年上の男と出会い、暴力と言葉の洗礼を全身にあびながら彼のもとで土方に精を出し、頼りにされる存在として成長していった。
時ありて
猫のまねなどして笑ふ
三十路の友の、ひとり住みかな
忘られぬ顔なりしかな
今日街に
捕吏にひかれて笑める男は
(一九六六年一一月一日)
彼はこのように日記に啄木の歌の一節を引き、「大杉」という男の、ある一日の痛切な断面に思いを寄せて、
俺には現実がある
俺はそれを酒場の女にみた
ばくちに体をはるたくましい若者にみた
つるはしをはねかえすかたい土くれにみた
俺の体からほとばしる汗と血にみた
(同年六月一〇日)
と、学問や知識や理論ではけっしてたどり着けない最下層の庶民の生活の根に、ともに肉体労働をすることによってはじめて触れることのできた実感を語っている。
被差別部落出身のこの「大杉」こそ、奥平の若い肉体と精神を根元から揺さぶり、暑苦しいまでの声援を彼に送りつづけた人物であった。私はこの人に会いたくて探しまわってみたが、東九条からはとっくのむかしに消えていて、所在を知る人はひとりもなかった。
「ふたりは顔がよく似ていたんです。彼のほうが身長は奥平さんより少し低かったけれど、差別されて育ってきた人だから向こうっ気がつよくて、一本気な人で、奥平さんのことを大切に思っていました」
奥平の後輩のひとりはそのように話してくれたけれど、この人も奥平の人物像やエピソードについては語ってくれなかった。
どうすればいいのか、私はやるべきことを見失い、東海道本線をあいだにはさんで北側にある崇仁地区へ、あてもなく足を伸ばしてみた。同和対策事業で建てられた背の高い団地が幾棟もならぶそのあたりもまた、古都京都のイメージとはおよそかけ離れたものさびしい風景であった。
ぶらぶらと歩きまわっていてもしかたがない。建って間もないように見える立派な資料館のような建物にはいってみると、ひとりの職員の姿もなく、がらんとした冷たい空間がひろがっていた。奥に向かって声を響かせてみると、奥から初老の男があらわれた。私はきっとこの人は部落解放運動を同地で担ってきた人ではないかと思い、「大杉」のこと、奥平剛士のこと、自分がいまなにを調べているのかを助けを求めるように打ち明けて、彼らと一緒に土方をしていた人を知らないか、と尋ねた。
するとその人は、しばらく考えてから、
「それは私です」
と、少し目を伏せ気味にして言った。
奥平剛士を知っている?
「知ってます。……いや、知っておりました。一緒にMさんのもとで働いてましたから」
遺稿集にある「大杉」というのは仮名であろうとは思っていた。下の名前も書いてないのだから。いま目のまえにいる人は本名を口にした。世間にさらしてはならないだろうと考えてMとしておくが、Mと一緒に働いた奥平の後輩からもそのように聞いているので、これが本名であることに間違いはないだろう。
名前を出してくれるなと言うので、この人についてもY氏と呼ぶことにするが、
「そりゃあ、すごい人やったでえ」
と、Y氏は言うのだった。
東九条で生まれ育ったY氏は、奥平とともにMのもとで土方に汗を流していたという。Mは「東九条青年会」という解放運動組織のリーダーで、Y氏も同運動に深くかかわり、いまでは崇仁地区の再開発にもかかわって、同地区の今昔を伝える教育活動のリーダーになっていた。奥平剛士より五歳下の一九五〇年生まれだというから、奥平が二〇歳のときこの人は一五歳。少年ゆえに鮮烈な経験があったようだ。
「アニキ……奥平のアニキことを話すなんて、はじめてや」
と、Y氏は言った。
「はげしい人やったんです、Mさんは。喧嘩っぱやいし、弁もたつ。度胸もピカイチや。差別をうけて育ってきたから、悔しい人でもあったんやけどな。中学生らが道端でシンナー吸っとるやろ。そういう子らがごろごろ東九条にはいてたんやね。それ見つけると、おまえらそんなもんやめえ言うて、シバくんや。もう二度としませんと泣いて謝るまで帰さへんねん。東九条の解放運動のリーダーが、あの人やったんですわ」
私は「アニキ」と言ったY氏の顔を、まじまじと見ていた。
「自分も学校は小学五年までしか行ってないねん。家の近くの段ボール箱をつくる工場に丁稚奉公に出たんですわ、一時間一一円でな。それから十代後半にセツルメントの連中からマルクス・レーニン主義を学ぶようになるんやけど、そのなかに奥平のアニキがいてたんです。講師をしたこともあったね。そりゃ、すごい人やったでえ、あのアニキも……」
Y氏は親しみを込めて、やはり「アニキ」と言うのだった。
「忘れるなんてできへん。相当シバかれましたよ、あのアニキもMさんにな。いちばん最初は、ぶん殴られて高瀬川に投げ込まれてんねん。それでもアニキは、あんな細い体してるのに、殴りかかっていくねん。自分が勝つまであきらめへんのです。一緒に土方やって、一緒にホルモン食うて、酒飲んで、しこたま議論を吹っかけられて、それでまたシバかれるやろ。悔し涙と血で顔をクシャクシャにして、もう来ないんやないかと思ってたら、つぎの日も朝いちばんにだれよりも早く現場に出て、ツルハシを振るってる。そういう人やった、あのアニキは。それでMさんにすっかり頼られるようになって、ぼくもアニキについて行ったんです。土方の場面でも、ものすごい仕事のやりかたすんねん」
そしてこの人は、あの空港襲撃事件について、このように言うのだった。
「ぼくは、ずっとこう思ってる。奥平のアニキは、京都パルチザンとか赤軍とか、そういうところからアラブに出て行ったんやない。あのアニキは、われわれの東九条から出て行ったんや。世界でいちばん虐げられてるのがパレスチナの人たちや。アニキはその世界最底辺の人たちとの連帯を目指して、東九条という最底辺のスラムから出て行って、闘って死んだんです。あの事件のことは、ぼくは車のラジオで聴いた。その日の晩にMさんから電話が来て、アニキの名前がぽんと出た。ええっ、と、ほんまにぼくはショックやった。ほんまにあのアニキ、命をかけたんやなと……。ただのテロリストで片付けてほしくない。アニキのことは歴史的にきちんと評価してほしいと思うねん」
このときはじめて私は、彼の肉体を見たと思った。