
国の中心地から遠く離れた四国は、古来より様々な修行の場であり続けてきました。讃岐に生を受けた弘法大師・空海もたびたび四国の地で修行され、八十八ヶ所の寺院などを選んで四国八十八ヶ所霊場を開創されました。「遍路」とは、1200年前に空海が修行したその88の霊場を巡礼することで、お遍路する人のことを「お遍路さん」と呼びます。写真は、四国遍路八十八ケ所の最後の札所となる大窪寺に向かう道に設けられているお遍路さんの休憩所です(道の駅「ながお」の向かい)。
巡礼の旅は徳島からはじまり、高知、愛媛、香川の順にめぐるもので、世界的にも珍しい「回遊型」の参拝ルートが特徴で、その道のりは約1400kmにも及びます。すべての札所を巡拝することで願いが叶ったり、弘法大師の功徳を得られるといわれていますが、最近は参拝する目的も多様化していて、健康祈願や近親者の供養、健康増進、自分探しの旅など、人によって実にさまざまです。
お遍路の巡拝方法も、現在に至ってはこれといった決まりはなく、どこから始めても、また一度にすべてめぐらなくても大丈夫ということになっているようです。もちろん、1番から番号順に参拝することを「順打ち」と言って、これがオーソドックスな巡り方ではあります。88番から反時計回りにめぐるのが「逆打ち」。うるう年にこれをすると順打ちの3回分にあたるご利益があるとも。そして一度の巡拝で一気に全札所をめぐることを「通し打ち」、何回かに分けてめぐることを「区切り打ち」、また1県ずつ区切り打ちすることを「一国参り」と言いますが、現在は私のように「区切り打ち」で参拝する人が圧倒的に多いようです。

ただ、巡り方や装束は人それぞれでも、「弘法大師の教えが何であったか」も知らず、「同行二人(どうぎょうににん)」の考えすらも理解していなければ、その四国遍路はただのファッションでしかないでしょう。「同行二人」とは、遍路修行をしているときは常にお大師さま(弘法大師)と共にいるということです。四国遍路の場合は、その象徴として「金剛杖」がお大師さまそのものとされています。たとえ遍路修行を複数人でしていても、あくまで個人とお大師さまの「同行二人」なのです。
弘法大師・空海の教えがあって今ある私
弘法大師・空海は、宝亀五年(774年)に讃岐「屏風ヶ浦」(現在の香川県善通寺市)で生まれた。幼名は真魚(まお)。15歳の頃、高級官吏(官僚)になるために長岡京に上って学び、18歳で大学に入学。その頃に吉野や葛城山で仏道修行に励む修行者に出会って大きな影響を受け、自身の進むべき道が仏の教えであると決意するに至り、周囲の反対を押し切って大学をやめる。
求法のために生誕の地である四国の石鎚山や大瀧嶽、室戸崎などで虚空蔵求聞持法などの厳しい修行を重ねた(その修行の日々は『三教指帰』などに著されている)後、名前を「空海」に改め、遣唐使の一行として唐に渡り、長安の青龍寺にて恵果和尚より密教を学ぶ。帰国後、真言宗開創の許しを得て高野山や東寺を賜り、『即身成仏義』や『秘密曼荼羅十住心論』等を著すなど、密教を中心とした仏法興隆に努めた。
空海はまた、我が国最初の民衆のための教育機関「綜芸種智院」の建立や満濃池の修築など、教育普及や社会的事業にも尽力した。生涯を鎮護国家、済世利民のためにつとめ、人々が幸せであり、繁栄することを理想に掲げ、人間が自らの能力、才能を存分に生かしきる生き方を目指して努力することを勧めた人である。そしてこの教えこそは、いま私がここに生きていることのすべてといって過言ではない。

承和2年(835年)、高野山において62歳でご入定。その功績を称えられて、延喜21年(921年)に醍醐天皇より「弘法大師」大師号が贈られた。
お大師様を仰ぎ見続けた祖父
私の祖父は淡路島の出身だが、空海が開いたのちの東寺中学で学んだのち、教育者となった。真言宗への信心強く、人格者で、まさに弘法筆を選ばずの達筆でもあった。
普通は2人なのだろうが、実は、私にはおじいさんが4人もいた。一人は母の実父。母が生まれて1歳にもならないときに戦死。後に再婚した祖母の夫つまり母の義父が2人目。3人目は私が4歳のときに亡くなりとうに50回忌法要をした父の実父。そして4人目が、弘法大師・空海の教えに従って生きたおおじいさん。子どもがいなかったので、当時たくさんの戦死者が出た太平洋戦争後に、私の父と母を養子縁組によって子に迎え、そして私が生まれた。なので、ここで語る祖父は、私と血のつながりがない。
祖父は、淡路島ではまれにみる秀才だったらしく、生福寺の住職に取り立てられて、弘法大師・空海の教えをルーツとする京都の東寺中学(現洛南高校)で学び後に教育者となるのだが、何せ苦学をしたようで、生福寺の住職は「とことん金に困ったら勉学をあきらめるのではなくこれを金に換えて勉強せよ」と一枚の絵を祖父に手渡していた。その絵は、関西の絵画界に大きな足跡を残した田能村直入(住職の友人)の小作品だった。
この話を父から初めて聞かされたのは、関西大学にろくすっぽ行っていなかった19歳の春、「中退して京都市立芸術大学に行きたい!」と父に土下座をしたときのことだった。なぜ唐突に京都市立芸術大学の受験を父に許してもらおうとしたのか、そして、その時父が立ち上がって、箪笥の奥から取り出して私に見せた絵が祖父が大切にしていた田能村直入の絵であり、父はその絵を私に見せながら前段の話をしたのである。そこには、経緯に祖父が絡んだあまりに凄まじい因縁の重なりがあり、半世紀経とうとしている今でも身震いするほどだ。
因縁の一つ目は、それまで芸術方面に進もうなどと考えたこともなかった私が一人でぶらりと彦根城の桜を見に行った時に祖父の古本屋(祖父は校長を退任した後、淡路島で古本屋を営んでいた)に酷似した店を見つけ、いるはずのない祖父がそこに居るような気がして店に入ってみたこと。2つ目は、そのときの私はできれば京都の大学に進みたかったという漠然とした後悔があったのだろうか、そこで「京都市立芸術大学」と書かれた背表紙が目にとまりその本を立ち読みしたことである。その偶然は凄まじい。なぜなら私は、初めて京都市立芸術大学というような芸術の専門大学がこの国にあることをこの立ち読みで初めて知り、あまりに安い学費に驚き、実技と学科からなる入試の内容をむさぼるように読んだことがきっかけで、私はその1年後京都芸大の門をくぐることになるのだから。そして3つ目の極め付けは、件の祖父に託されていた一枚の絵の作者・田能村直入が、私が目指した京都市立芸術大学の前身である京都府画学校の創設者であり初代摂理(校長)だった人だったことである。
祖父はどれだけお金に困っても、その一枚の絵だけは売らなかった(だから今もここにあるのだが)。その絵は、きっとそこまでの施しをくださった住職の思いや精神の象徴であり、祖父にとってかけがえのない存在だったのだ。祖父が、育ての親とも言ってよいであろう住職の思いを見事に受け継いだことは、戦争で父を失い養女に出された母、農家の子だくさんで貧困の渦中にあった父との縁組みをして我が子たちとして引き受けた実践で明らかだ。そして弘法大師・空海の教えである「人は自らの能力、才能を存分に生かしきる生き方を目指して努力すること」を祖父は真に理解していたからこそ、私の将来は本人の好きにさせよと父と母に遺言として残していたからこそ、私の今日があると言って過言ではない。また、血のつながりのない私が「本物の愛とは祖父の愛」と、一緒に過ごした時間の一瞬たりとも疑ったことはなく、今日に至るまでその破格の人格を尊敬し続けている。
そんな祖父は私にとって、「大好きなおじいちゃん」であるとともに、「人生最高の師」でもある。「田能村直入の一枚の絵」は、真言宗生福寺住職と祖父による後世に対する愛の伝承を象徴する一枚なのだ。
写真は、1歳の私と祖父。

結願寺88番札所「大窪寺」へと向かう道
こうして、弘法大師・空海を仰ぎ見て人生を終えた祖父ありて、私もまた弘法大師・空海の教えの通り2人の子を世に送り出した。子育てという肩の荷をひとまず下ろし、いま両親を拙い老老介護で支えている私が、今回の旅で目的地にしたのは「前山」。さぬき市志度ICから12km20分弱。徳島県との県境に向かう道の山あいに広がる里である。四国遍路の結願寺88番札所「大窪寺」を前に、古より多くのお遍路さんが憩いのひと時を過ごしてきた場所であり、進めば深遠な讃岐山脈へ、戻ればさぬきの暮らしがある。歴史と今、自然と人の暮らし、土地の人々とお遍路さん。あらゆるものの交わりの地であり続けてきたような「前山の里」を訪ねた。


道の駅「ながお」と「交流サロン」で結願前にひと休み
前山地域のほぼ中央、四国八十八カ所霊場の第87番札所補陀落山長尾寺から遍路結願寺・第88番札所大窪寺に向かう県道3号沿いに道の駅「ながお」が、その向かい側に「さぬき市へんろ資料館(交流サロン)」がある。


へんろ資料館は「前山地区活性化センター」という名称の建物だったが、令和5年4月1日から市の条例の施行に合わせて正式に「さぬき市へんろ資料館」となった。その目的は、「四国遍路の歴史及び文化に関する資料を収集し、保管し、及び展示すること等により一般の利用に供するとともに、その調査研究を行い、併せて四国八十八箇所を巡るお遍路さんや四国遍路文化に関心のある人々、地域住民等による交流の場を提供することにより、四国遍路文化の普及、発信及び継承に寄与すること」とある。







資料館内には、へんろ資料展示室とサロン談話室がある。へんろ資料展示室には、江戸時代の紀行本や古地図、お遍路さんが残した納札など貴重な資料を約300点展示。前山に残されたお遍路の歴史的資料が一堂に集められていて、古い納経帳や往来手形も見られる。また、歩き遍路者は、遍路終了証明書を兼ねた「四国八十八ヵ所遍路大使任命書」を無料でもらえる。
サロン談話室(交流サロン)には、お遍路ではない方々もいて、ここで休むお遍路さんと言葉を交わす姿が見られた。

資料館の向かいの道の駅「ながお」も、まさに最終の大窪寺へ向かう参拝路の途中にあるということで、この道の駅の雰囲気は道の駅というよりも遍路の休憩所そのものだ。店内にはBGMにオルゴールが流れ、 遍路の旅の最終章を演出している。








道の駅だけに物産館もあるが、農産物直売や特産品販売の影は薄く、「遍路関連グッズ」の販売が主体との印象を受けた。










今回「前山地域」を訪れたが、私は両親の老老介護の傍ら全国旅を続けていて、私が「お遍路さん」になるのはその旅の中で四国を訪れた時に限られる。「区切り打ち」を重ねて88箇所巡りを完了する日は遠い先になるのだろうが、続けていきたいと思っている。