
リクルートの先輩・杉阪隆司さんや、芸大の後輩・河原有伽ちゃんをはじめ、友人知人の何人もが予選に参加し、史上最多1万330組の漫才コンビがエントリーして競い合った今年のM-1が終わりました。エントリー数だけでいけば、まだ成長を続けているようです。
今年の優勝者は「令和ロマン」。史上初の「連覇」でしたね。私はそれより司会の上戸彩ちゃんに萌えました。なんて可愛いんだろう。今田耕司の生放送をものともしないアドリブセンスと進行もさすがでした。この二人は、毎年見たい鉄板コンビです。
さて 今年の優勝者を含めると、M-1の歴代優勝者はちょうど20組になりました(誕生からの24年うち4年中断、令和ロマンが連覇したので正確には19組)。お笑いも進化します。飽きられたら即消えていくお笑いの世界で、1度休止となる前の最初の10年の優勝者で「完全に過去の人になった」コンビがいないというのは、何よりすごいことだと思います。
ただ、一度休止があって再開された2015年からは、少なくとも漫才の「質」が明らかに落ちていたように思います。唯一5年前の「ミルクボーイ」が「これぞ漫才」というものを示してくれ、歴代最高得点で圧勝しましたが、以降の優勝者のレベルは再びガクンと、さらに落ちたように思っていました。もっとはっきり言えば、M-1スタート時から前半10年の優勝レベルに達した後半9年の優勝者はミルクボーイだけ。そう見ていたのは、私だけでしょうか。
M-1が始まったのは2001年、23年も前のことです。今どき稀な(途中4年間休止)「長寿企画」を生み出したのは私の2つ年上の2人、谷良一さんと島田紳助さんでした。

今一度、彼らが意図していたM-1の原点を確認した上で、良くも悪くも変わったこと、ついでに漫才そのものの歴史、現在地、未来についても思うままを書きました。「老害評論」との誹りも上等、漫才というものを愛してやまない私個人の独断と偏見でよければ、どうかお読みください。
漫才ブームを20代前半でガチ体験した世代の発想
谷良一さんは、1956年滋賀県生まれ。81年京都大学文学部を卒業し、吉本興業に入社した。間寛平、島田紳助などのチーフマネージャー、劇場支配人やテレビ番組プロデューサーを経て、2001年に漫才コンテスト「M-1グランプリ」を創設する。2010年まで同イベントのプロデューサーを務め、2016年から2020年まで吉本興業ホールディングス取締役。2023年11月、M-1グランプリ創設を描いた『M-1はじめました。』を上梓した。
島田紳助さんも谷さんと同じ1956年生まれ。京都市南区唐橋出身、京都学園大学(現・京都先端科学大学)中退。島田洋之介&今喜多代から芸を学び紳助・竜介のコンビで第一次漫才ブームの先頭を走ったあと、東京で司会者として開花。明石家さんまやオール巨人と同期で吉本興業には2011年まで所属した。代表番組には「オレたちひょうきん族」「オールスター感謝祭」「開運!なんでも鑑定団」「行列のできる法律相談所」「クイズ!ヘキサゴン」などがある。
この、同い年の2人は、1980年から1982年のたった2年間に起きた空前の「漫才ブーム」を20台前半でガチ体験した世代。そんな2人が2001年に立ち上げた漫才コンテストが「M-1」である。
M-1グランプリ開催を伝える2001年8月11日付の新聞記事(出所:デイリースポーツ、朝日新聞朝刊、日刊スポーツ、スポーツ報知、スポーツニッポン)。以下、谷良一、島田紳助についての記述では、「M-1始めました:谷良一著」「京大生によるOB谷良一インタビュー」「紳助の語録」などから編集を加えて引用させていただいている。「漫才論争」については一家言持つ社会学者で文筆家の太田省一氏のご指摘はじめ論争の履歴を私に可能な限り遡った。また、独断と偏見による記事とはいえ、新聞各紙の報道、雑誌の特集記事などは多数参考にした。
M-1を生み出すまでの谷さんの歩み
谷さんは京大生だったが、大学にはほとんど行かず、年に10日ぐらいしか行かなかった年もあったという。学校には行かずに何をしていたかというと、酒を飲む、本を読む、そしてアルバイト。就職は、「気楽に、自由にやれそうやな、スーツじゃなくてもいいんちゃうかな」と考えて吉本興業へ。吉本興業が採用した京大卒業生は2人目だった(実は私もリクルートで京都芸大生の2人目だったw)。
新人研修を終えての最初の仕事は、いきなりやすし・きよしのサブマネージャーだった。以後マネージャー業務だけでなくテレビ番組や劇場のプロデューサーもしつつ、タレントの営業にもついていくなど、いろんなことをどんどん1人でやらせてもらい制作の現場で23年のキャリアを重ねていった。
オワコンだった漫才をどげんかせんといかん
45歳のときに漫才プロジェクトをやれと言われた谷さん。これは「再び漫才を盛り上げる」ことを目的としたものだったが、谷さん1人だけの「プロジェクト」だった。谷さんは大好きな漫才を盛り上げろというプロジェクトということで、嬉しくて張り切ったという。
谷さんがこの仕事を命じられた当時は、漫才が全然駄目だった暗黒時代。東京は言わずもがな、関西ですら漫才番組がなくなっていて、漫才はほぼ「オワコン」だった。谷さんが入社した1980年ごろは漫才ブームまっただ中で、それを見て吉本に入社したのに…。よし、また日本中を巻き込む形でお笑いブームを起こしてやろう。意気込んだ谷さんは、ダメもとで読売テレビの本番前の楽屋に紳助さんを訪ねた。
谷さんに知恵と力を貸した紳助さん
多忙極まる紳助さんだったが、本番前の短い時間、谷の話に乗る時間をとった。18歳で弟子になり漫才の道に進んだけれど、漫才をずっとやる気はなく、夢は東京で司会者になることだった紳助さん。漫才は最初から10年でやめる計画(実際は8年でやめた)で、コンビを組むときに相方の竜介さんにも10年しかしないと話してのコンビ結成だった。ただ、自分の夢が叶っていくにつれ、漫才に対して「利用したような罪悪感」が募っていったという。
「会社から漫才を盛り上げろと言われたのですがなんか知恵貸してください」と頼られた紳助さん。力を貸すしかないと決めた紳助さんは、審査員のなり手がないと聞くと、自ら松本人志さんに直談判。「彼が快く審査員を承諾してくれたことは非常に重要なことだった」と振り返る。「演者が審査結果に納得するには、松本人志がいてくれないと困る。当時、若手のカリスマだった彼が快くOKしてくれ、自分がが引退するときも『M-1頼むな!』と伝えたが、彼は約束を守ってずっと審査員を続けてくれた」と。
谷さんにとって島田紳助は最強だった
「漫才プロジェクトであがいていたときに、紳助さんから漫才のコンテストをやろうと言われた。私はそのことばを頼りに動いた。なぜあんなに動けたんだろう。自分ひとりで考えてやったことだったら、あんなに自信を持って行動できなかったし、きっと途中で挫折していただろう」と谷さんは当時を振り返る。
「M-1を始めたときの夢は、日本レコード大賞のような存在にすることだった。昔はレコード大賞という一つのイベントを日本国民みんなが楽しみにし、それが長く続いた。M-1もそんなふうになれば良いなと。スポンサーが見つからなくても、テレビ局に断られても、参加者が集まらなくても、絶対やってやる、絶対できると思って行動した。心のどこかで絶対にうまくいくと確信できていたのは、M-1は紳助さんと一緒につくったからだった。」
前半10年の優勝レベルに、ここ9年で達したのはミルクボーイのみ
ここでM-1の歴代優勝者を振り返ってみよう。2024&2023年「令和ロマン」 2022年「ウエストランド」 2021年「錦鯉」2020年「マヂカルラブリー」2019年「ミルクボーイ」2018年「霜降り明星」2017年「とろサーモン」2016年「銀シャリ」2015年「トレンディエンジェル」2010年「笑い飯」2009年「パンクブーブー」2008年「NON STYLE」2007年「サンドウィッチマン」2006年「チュートリアル」2005年「ブラックマヨネーズ」2004年「アンタッチャブル」2003年「フットボールアワー」2002年「ますだおかだ」2001年「中川家」。
歴代優勝者、とりわけ1度休止となる前の最初の10年の優勝者で「完全に過去の人になった」コンビはいない。彼らの非常にレベルの高い安定した漫才、あるいはピン芸や司会などを今も楽しむことができる。しかし、一度休止があって再開された2015年からは明らかにレベルダウン。5年前の「ミルクボーイ」が「これぞ漫才」を示し歴代最高得点で圧勝したし、ミルクボーイに迫った「かまいたち」がいて非常にレベルの高い年だったが、以降の4年間の優勝者のレベルはまたガクンと落ちたと私は感じていた。
2020年のマヂカル ラブリー優勝で巻き起こった漫才論争
4年前の2020年『M‐1グランプリ』には史上最多(当時)となる5081組(今年のおよそ半数)がエントリーし、決勝の平均視聴率は19・8%(歴代3番目)。優勝したのはマヂカルラブリーだった。前年2017年にも決勝に進出したがこのときは10組中最下位で、その際の審査員・上沼恵美子の「よう決勝残ったな」といった手厳しい講評は記憶に新しい。マヂカルラブリーは上沼恵美子にリベンジを果たし、「優勝と最下位の両方を経験したコンビは大会史上彼らだけ」というおまけもついた。
ところが、この決勝で彼らが披露した2本のネタをめぐって、論争が起こった。まずSNSに「あれは漫才なのか」という投稿が相次いだのだ。いくつかの理由が語られたが、ボケ役の野田クリスタルがとにかく「ほぼ喋らずに終始バタバタしていた」からだったことが最大の論点となった。
「漫才ではない」のか、「見たこともなかった漫才」なのか
振り返ってみよう。決勝ファーストラウンドのネタは、「高級フレンチ」。マナーを知らないと言う野田に村上が基本的なことを教える。すると野田が「シミュレーションしてみる」と言い出し、いきなり奇声を上げて窓を突き破ったり、丸太でドアを壊したりして店に入ろうとする。以後「センターマイクから離れたところで」野田の一人芝居が続いた。ファイナルラウンドのネタは「電車のつり革」。電車のつり革につかまると負けた気がするので、つかまりたくないと言う野田が、車内でつかまらずに我慢するが、とうとう床に寝転がってバタバタする様子に、相方の村上が「ひとりセンターマイクの前で」実況風のツッコミを入れるというものだった。
2つのネタとも「掛け合い」はほとんどなされない。笑いの大半は野田クリスタルの〝無言〟のパフォーマンスだった。しかも優勝したとあって、異論を唱える視聴者が続出。「あれは漫才なのか」「いや漫才だ、見たこともなかった漫才だ」と論争が展開され、漫才の定義そのものを問うような論争にまで発展したのだった。
すっかり定着した「コント漫才」というスタイル
これより前、親しいもの同士による日常会話の形式をとる「しゃべくり漫才」に対して、何らかの設定を決めて役柄を演じる「コント漫才」なるものは数多く演じられてきた。コント漫才でM-1を制覇したのは、2007年、「ピザのデリバリー」の場面を店員と客に扮して絶妙の掛け合いを展開したサンドウィッチマンだった。
ただ彼らのコント漫才は、コントのような設定はあっても、そこに富澤のボケと伊達のツッコミによる「掛け合い」があり、設定も親しみやすく多くに受け容れられたため、是非論も漫才論争も起こらなかった。サンドウィッチマン以前にもコント漫才は存在したが、敗者復活から数えると3本ネタを披露して優勝したサンドウィッチマンによって、以降M-1においてもすっかり定着していった。
万人受けしないこと前提の「開き直り漫才」
もともとマヂカルラブリーの芸風、特に野田クリスタルの芸風は、万人受けはしないマニアックなものである。ピン芸人としての野田は、2020年のR‐1グランプリでも優勝したが、ピンの芸風も万人受けを狙ったものではない。ましてや世代を問わず多くの人が見るM‐1で、「何じゃこれ?」「何が面白いのかわからない」「全然面白くない」と思った人が一定数いたのは当たり前のことだ。その中に「あれは漫才なのか」という疑問を呈する人がいたわけだが、単にマヂカルラブリーのネタが自分の好みではなかった理由づけに過ぎない向きも多かった。もちろん審査員でありながら、前年に「嫌い」というだけで、他の審査員が高評価しても最下位になるような極端に低い点数をつけた上沼恵美子は審査員として論外だが。のちに審査員から外されて当然だった。
ではお前はどう思うんだ?ということだが、マヂカルラブリーのネタは「漫才に違いない」し「新しい笑い」だと思う。また「野田と村上のコンビは才能・力量も十分」だとも。ただ、正直に言うと、私の当時の手元のファイナルラウンドの採点では、マヂカルラブリーには「見取り図」より低い点をつけていた。すでに述べているが前年のM-1では、優勝のミルクボーイが「漫才=しゃべくり漫才」の王道スタイルで漫才かくあるべしを示し、またそれがM-1史上最高得点を叩き出していた。また、ミルクボーイを脅かした「かまいたち」もいて、この年は非常にレベルが高かった。なのでその翌年の私の期待値は高過ぎたのだろう、「マヂカルラブリー」「見取り図」を含め10組の漫才は期待外れの連続だった。ただ、この年に限らず今年を含めてここ4年、エントリー数の倍増と反比例するように、決勝および優勝者のレベルダウンは著しいと思ってきたことに間違いはない。
漫才は、「ダウンタウン以前」「ダウンタウン以後」に分かれる
漫才を、もっと長いスパンで捉えてみる。漫才というものは、昭和初期のエンタツ・アチャコ以来、長い間(具体的にはダウンタウンが登場する1982年まで)2人が言葉の掛け合いでもって笑わせるしゃべくり漫才がその「基本形」であった。この「基本形」は、1980年にツービートや紳助・竜介らの本音漫才が席巻した空前の漫才ブーム(1980〜1982年)でも変わらなかった。
このボケとツッコミの定型を最初にかつ先鋭的に崩したのがダウンタウンだった。松本が「一人大喜利」をしたとき、ツッコミなしのボケだけでも笑いは成立するということを証明してしまう。この新しい漫才の笑いは、笑い飯やオードリーなど多くの漫才師に受け継がれた。自ら漫才のスタイルを変革した松本人志は、「漫才論争」の際にもM‐1審査員を務めており、「あれは漫才なのか」という疑問にこう答えた。「漫才の定義は基本的にない」と。彼にすれば当然の考え方だ。でなければ、ダウンタウン以降の笑いはその多くが「漫才ではない」ということになってしまうのだから。
漫才の歴史は「ダウンタウン以前」「ダウンタウン以後」に大別される。「ダウンタウン以前」は伝統的なしゃべくり漫才、「ダウンタウン以後」は、「崩す笑い」が台頭してより自由なものとなったのだ。「マヂカルラブリー」が「ダウンタウン」ほどの革命を起こすパワーがあると私は思わないが、野田クリスタルが相方と生み出した「掛け合いのない漫才」が、のちに「あれがあって漫才の可能性が広がった」と評価される可能性はあるだろう。
審査は難しいが、今年はまず審査員の人選が進歩した
今年のM-1決勝の審査員は「オードリー」若林正恭、「かまいたち」山内健司、「アンタッチャブル」柴田英嗣、「笑い飯」哲夫、「NON STYLE」石田明、「中川家」礼二、「博多華丸・大吉」博多大吉、「ナイツ」塙宣之、「海原やすよ ともこ」海原ともこの9人。漫才の本質を語れる人物が揃い、己の好き嫌いのみで審査になってなかった上沼恵美子、明らかに審査眼を持ち得ていない山田邦子がそこから消えたことは前進したことの一つ。ではあるが、評価するのが人間である以上、それはどこまで行っても「主観」に過ぎない。
こうした「主観」と言う根本的な問題を解決するために、フィギュアスケート、体操、アーティスティックスイミング、馬術や飛び込みなどスポーツのあらゆる「判定競技」については、ルールのほかに、「技ごとの評価点数」や「採点基準」など非常に細かく決められ、「誤判定」を抑止しようとしている。倒せば勝ちの格闘技も、判定になった場合に「誤審」がないよう、採点基準は常に進化してきたし、点数で決着するサッカーにもVAR、野球にはリクエストによる判定変更が認められるようになっている。
かたやM-1は、「漫才論争」を経て、逆に「面白ければなんでもあり」が確認され、より自由になった。今年の決勝は歴代王者を中心に編成された上記9人の審査によって優劣がついたが、その結果は皆さんの評価と一致しただろうか。ちなみにファイナルの中では「真空ジェシカ」が一番だと思ったし、決勝を戦った10組の中で私が最高得点をつけたのはエバースだったので、私の「主観」とは一致しなかった。
今年の「M-1」を盛り上げたのは「令和ロマン」、いい仕事をした
ファーストステージの寸評。今年のM-1決勝は、なんと昨年の優勝者・令和ロマンがトップバッターとなった。「終わらせましょう」と言う最高のつかみから入り、昨年から一段レベルアップした漫才を見せつけた。私の採点は95点。これによって、いきなり今年の「レベルダウン」は回避され、以降、楽しい戦いが展開することとなる。ヤーレンズは、「石川啄木」とか「チェ・ゲバラ」とか「鈴木宗男」とか、文学や政治や歴史に疎い人にはなんのことやらわからない、遠かったのが敗因か。私の採点は93点。真空ジェシカも政治をいじったが、よりわかりやすいところでボケツッコミを連発し、高得点を叩き出した。何より川北の笑いのセンスは抜群だ。私の採点は令和ロマンを上回る96点。
敗者復活から勝ち上がったマヨリカは、構成は真空ジェシカと似ているが、より身近な高校同窓会のあるあるネタ。ただ「あるある」をちょっと外しすぎたか。敗退決定後の「大急ぎで負けに来たん」「(この後)優しい人と一緒にいたいですね」のコメントが一番面白かった。私の採点は91点。ダイタクは一卵性の双子コンビだが、お決まりの年齢ネタでつかんだが、酷似した見た目を逆手にとってのインパクトを出しきれなかった。見た目も声もテンポも似ているので、やっぱりそれを逆手に取ったネタのキレが勝負だと思うのだが。勝手なアドバイスに過ぎないが、たとえば、幼い頃に離れ離れになって、育った環境で全く別の人格になっての再会とか。私の採点は89点。
ジョックロックはワンパターンの型で勝負したが、この型自体にミルクボーイほどの完成度と支持がない。だからこのパターンにネタを載せても点数は稼げない。私の採点は88点。バッテリィズは、アホに何かを次々に教えていくだけの構成で、型も何もあったものではなかったが、ガリレオガリレイやあいだみつをアホ扱いする超アホなエースのキャラが炸裂した。最後の「そいつアホや」は一発ノックアウトのハードパンチで決勝トップに躍り出た。私の採点は94点。ママタルトはネタの出来が良くなかった上にあまりに不健康そうな190キロのジェスチャーのキレがイマイチ、そして息切れ。将来性も疑問だった。私の採点は87点。
エバースには97点という最高点をつけた。実際、もう少しでファイナルの3組に入れたのに惜しかった。まず、ネタが良かった(構成も)。笑いを取るためのセリフの完成度もあった。キャラもいい。間も個性的だ。ほんの少しだけ、ややこぢんまりとまとめた感があって爆発的な点数を逸してファイナルに届かなかった。抜群の将来性を感じたので、今後の躍進に期待しつつ応援しよう。トム・ブラウンは残念、クレイジーぶりが見事にすべった。敗者復活の21組のネタもすべて見たが、私の採点は85点で、敗者復活の21組中につけた点数の中でも最下位だった。
ファイナルラウンドに残った3組の顔ぶれは、私の採点では「エバース」と「バッテリィズ」が入れ替わるが、まあ例年に比べては比較的妥当な顔ぶれだったと思う。「令和ロマン」の去年から一段上げてきた漫才レベルと、「真空ジェシカ」の笑いのセンス、「バッテリィズ」のエースのアホさ加減の戦いとなった。
ファイナルステージでは、「真空ジェシカ」はアンジェラアキをいじり倒した。「静かすぎて隣の長渕の声が」のくだりでは、思わず手を叩いて大笑い。私は96点をつけて優勝を確信したが。「令和ロマン」は1つ目のネタから一点、極端な「コント漫才」で勝負した。この一年あまりブレイクできなかったが「俺たちの実力を確認しろ」とばかり、漫才のスタイルとガラッと変えての渾身の2本目だった。私の採点は1本目と同じ95点。慶應ボーイコンビの勝利の方程式の前に、「バッテリィズ」はアホ一直線で挑むしかない。私の採点は93点。審査員の皆さんが優勝としたのは「令和ロマン」だった。相当の覚悟で挑んだであろう、この1年の2人の精進が報われたハッピーエンドとなった。
M-1 生みの親2人の、今のM-1に対するそれぞれの思いとは
谷さんと紳助さんの2人が生み出した「M-1」だが、現在の「M-1」への思いや接し方はまるで違う。
「M-1の生みの親としては、(M-1が)最初の精神である「その日のできだけで決める漫才のガチンコ勝負」だということを忘れてしまって、単なる1つのお笑い番組になってしまってほしくない。」と谷さん。「けれど、M-1ができてもう23年になるわけですよ。人間で言ったらもう成人した大人で、立派に育ってますから、親がどうこう言うべきことではない。今関わってくれているスタッフもいるし、漫才師は毎年優勝に向けて頑張っているから、ぼくは口出ししません。」
かたや紳助さんは。「やめてから1回もM-1見てませんが、やめた世界に興味がないんでしょうね。(笑)数年前、オール巨人と久々会って、M-1終わったばかりだったんでしょうね、飲みながら漫才大好きオール巨人は、私にミルクボーイの素晴らしさを熱く語りました。いまいちの反応の私に巨人が、お前どう思うねん? と聞きました。私の答えは、それ誰?本当にミルクボーイ知らないし。そしたら熱血巨人が、お前作ったM-1ちゃんと見ろよと、怒りました。まあ、今も道でミルクボーイに会ってもわかりませんが」。
前しか向かない、済んだことには興味はない。実に紳助さんらしいスタンスだ。ただ、歳を重ねて変化もあるようで。「お互い気がついたら、爺さんの歳になりました。過去を思い出しそれを肴に酒を飲むという、典型的な爺さん。その思い出が沢山ある方が、間違いなくうまい酒を飲めます。私の人生において、M-1も最高の酒の肴です。それは全て谷が、いたからと感謝しています。谷、あの時M-1を商標登録しておいたらよかったなー。(笑)」。
私たちは「笑わせてほしい」「レベルの高いバトルを楽しみたい」だけ
M-1「生みの親」である2人が作り上げた「その日の出来だけで決める漫才のガチンコ勝負」という「形式」は23年間守られてきた。一方、その中で、決勝に出てくるコンビの「漫才」の「変質」は著しい。すでに述べたが、新しい笑いがダメなわけはない。より面白ければ、我々は楽しいのだ。ただ、面白い、笑える、というだけならそれは何も「漫才」でなくとも良いわけでもある。
漫才の新しさ、新しい笑いを作り出そうと、多くのお笑い芸人が日夜奮闘している。それは素晴らしいことだし、M-1を模したR-1はピン芸人、W-1は女芸人、キングオブコントはコント師たちの切磋琢磨の機会も、そのレベルはともかく数は増えている。そうしたことも「M-1」があってのことだったと私は思う。改めて言うが、笑いたい私たちだって、面白いものがあれば幸せで、それが何も「漫才」でなくてもいいのである。すでに「落語」は定義も文化としても確立しているので置いといても、次に伝統があって形式らしきものが明確なのは漫才。それが「面白ければなんでもあり」なら、ひょっとすると「M-1」「R-1」「キングオブコント」「W-1」などのカテゴリ分けも、あまり意味のないことなのかも知れない。
私自身、お腹が痛くて泣くほど笑った記憶を辿れば1978年の正月の松の内、関西ではその最後は15日だがその日に京都花月に行ったときに遡る。明石家さんまの師匠・笑福亭松之助さんが出てきて、落語を始めると思いきや、私以外の数人しか入っていなかった客席にしばし無言。「やる気起きまへんなあ」「アホらしいですなあ」「ほんでなんで来はったんですか?」と私たち数人に語りかけながら持ち時間のすべてを独り言に費やした、これが私的には「最高の笑い」だった。
M-1がM-1として輝き続ける必要はテレビ局にしかない
M-1について言えば、谷さんがM-1で目指した漫才の「オワコンからの脱出」はすでに十分果たせているだろう。初期の目標が達成されたことに、谷さんには「おめでとうございます」と言いたい。そして、谷さんの「単なるお笑い番組の一つになってほしくない」という願いに関しては、すべてはすでにテレビ局に委ねられている。M-1が輝き続けて存続する必要は、もはやテレビ局にしかないのだ。
マヂカルラブリーが優勝した2020年からたった4年で、M-1へのエントリー数は倍増した。素人芸人問わず「出演したい」「優勝したい」「人生を変えたい」と、所謂「身内」で盛り上がってはいる。しかしレベルダウンを指摘した2020年の「マヂカルラブリー」以降、2021年「錦鯉」、2022年「ウエストランド」、2023年「令和ロマン」の各優勝者は、まだまだ「人生を変える」に至っていないのではないか。昨年優勝者の「令和ロマン」も、優勝してもあまり変わらなかった人生を、今度こそは変えるために。そして、変えるためには連覇しかないと考えて、再び過酷な戦いに挑んだのだと私は思う。
「身内のイベント化」はまだしも「レベルダウン(あくまで私の感想)」は致命的だ。敗者復活組21組の全てのネタも見て、決勝で見た13本のネタと合わせて34本。今年ようやくレベルアップに転じた確信はある。それが単年のことに終わり、優勝しても人生がさほど変わらないということが続けば、「身内のイベント」としての魅力さえ半減するだろう。そして「レベルダウン」が証明されてしまえば、途端に視聴者を長時間の生放送から遠ざけてしまうだろう(私などは上戸彩ちゃんが降板しない限りは見続けるが)。そして、その時には。当然スポンサーが離れてイベントそのものが成り立たなくなり、M-1の歴史は幕を閉じるのだ。
「生みの親」2人は、今の「M-1」をどう思っているのか


現在の紳助さんは、TOSHIにそっくり。引退時も若々しかったが、それから10年以上経って68歳になったが、ずいぶん若返ったようにさえ見える。島田紳助さんは、芸能界を引退してからメディアからはほとんど姿を消しているが、そういえば2024年4月1日の『モデルプレス』で今田耕司さんが彼の最近の様子にちょっとだけ触れていた。
「紳助さん、今はキャンピングカーで日本を気ままに旅してるみたい。全然芸能界に戻る気配ないなって感じる」と。
元々、世界を旅するのが夢だった紳助さんが、今は日本中を自由に旅行している。しかも車中泊で。って、私と一緒じゃん(笑)。エンタメを極めた人が、楽しむことが「車中泊全国ツアー」ということは、やっぱりこれこそが一番のエンタメ、面白いってこと。いつか礼文島あたりでバッタリ会ったりして(笑)
谷さんの出版があって、16年ぶりに言葉を交わした二人
谷さんは、M-1の創設について本を書くことになった。M-1はテレビ局が作ったイベントだと思ってる人も多いが、本当は吉本が作ったということも本の中で言いたかった。一方で、紳助さんの心の中には「M-1は島田紳助が作った」と言われ、私ひとりが手柄を取ってるような後ろめたい気持ちがあった。「俺と谷が作った、思い出の作品だと思っていたのに」。
谷さんが「M-1グランプリ」の立ち上げについて初めて書き下ろした「M-1はじめました」の帯を、紳助さんにダメもとでお願いしたことから、谷さんが番組プロデュースの現場を離れて以来、16年ぶりに2人は言葉を交わした。
「帯はこっちから書かせてくれと頼みたいくらいや」
紳助さんの言葉に、谷さんは涙したという。