「郡山合戦」と「郡山城」を道の駅「北の関宿安芸高田」から高みの見物!(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事◎設備○立地○) 

尼子晴久が三万の大軍を率いて吉田郡山に侵攻してきたのは、天文九年(1540)のことです。最初、尼子軍は「風越山」というところに本陣を置きました。風越山は郡山城からやや遠い上、標高も555メートルと高く、大軍の収容には向かないところでした。ここを本拠に郡山攻撃をするつもりというよりは、ここは単なる「着陣地」。「後方兵站基地」のような役割と多少の「防御機能」を整えるためだったようです。

尼子軍はほどなく、青山、光井という並び合う山に陣を移します。青山、光井はもう、郡山城とは目と鼻の先。こちらの陣は多数の郭を備えた巨大なもので、単なる合戦用の一時的な城というレベルではなく、完璧・完全なる山城でした。わずか数ヶ月でそのような巨大な山城を完成させてしまう尼子家の実力は凄まじいものというほかありません。

いっぽう迎え討つ毛利の方はどういう状況だったのでしょうか。そもそも、尼子家と手切れになった時点でいずれこうなることはわかっていたと思われますが、当時の郡山城は歴代当主が使っていた小城でしかありませんでした。攻めれば毛利はひとたまりもなかったはずなのに、取り囲んだ尼子晴久はそうしなかった。毛利を囲むことで、大内が引きずり出されてくることを予測し、大内氏との合戦を想定していたようなのです。どうやら巨大な青山光井本陣も、多分に援軍としてくるであろう大内軍を誘き寄せたあとの戦いを想定していたようです。

結果としては、計画通り大内を引きずり出すことに成功したものの、尼子は逆にやられてしまいました。正確には尼子家は敗北したというよりも、自ら「退却した」のだという説があります。いい気になった大内方がこのあと月山富田まで攻め込んで完敗したことを考えてみると、その説も説得力があります。だとすれば尼子晴久は、祖父・経久をも凌ぐやり手ですね。早逝しなければ、その後も毛利元就の思うがままにはならなかったでしょう。

毛利が一貫して本拠とした山城・郡山城

郡山城は、南北朝時代に安芸国吉田庄の地頭頭として定着した毛利氏が、その勢力を拡大していくなかで、一貫して本拠とした山城である。城は、はじめ郡山東南の一支尾根で小規模だったが、毛利元就(1497〜1571)の時代に標高約400m、比高約200mの郡山全山に拡大された。

城域は東西約1.1km、南北約0.9kmで、南側の麓には内堀が巡り、城内には270段余の平段や、大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺などの寺院も建立された。城下には祇園縄手、家取縄手、たて縄手などの道路が整備されて、三日市、六日市、十日市などの市と町が形成されていく。

御蔵屋敷跡

毛利元就・一族墓所(洞春寺跡)

毛利元就危機一髪を脱したカモフラージュ大作戦

戦国時代、中国地方の覇権を2分したのが周防(山口)の大内氏と山陰の尼子氏である。毛利元就は最初山陰の尼子方についたが、毛利家の家督問題に介入してこられたことなどから周防の大内氏に乗り換える。これを良しとしない尼子晴久が天文9年(1540)9月安芸国へ侵攻。3万の大軍で43歳の毛利元就が籠る吉田郡山城を取り囲み、大内・毛利と戦ったのが、冒頭に触れた「郡山合戦」だ。

三の丸下通路の石垣跡

囲まれた毛利元就は、一族郎党から近隣の農民、町民に至るまで老若男女問わず総勢8,000人の領民すべてを城の中に入れた。兵の数は2400足らずだったが、毛利方は女人や子どもに至るまで竹や棒の先に金紙・銀紙をつけて城内の壁際に並ばせ、打ち振らせて多くの兵がいるように見せたと言われる。

尼子軍は、民家に火を付けて元就を挑発するが、元就の真意を読みかねてしばし防御に徹する。小競り合いの一つ、鎗分・太田口の戦いでは、元就の陽動作戦に引っ掛かって尼子軍数十名が討死した。池の内の戦いでは、尼子軍は援軍の小早川勢を攻撃したが返り討ちに合って兵を減らしていく。青山土取場の戦いでは、尼子誠久が1万の兵を率いて吉田郡山城に火をかけながら進軍したが、元就は軍を3分割していて、元就が率いる軍は尼子本隊を引き付けておいて、残り2軍は伏兵として潜ませていたのである。

周辺には竹柵や逆茂木をめぐらし、山中や林の中にはこの伏兵を潜ませて、数カ月にわたって得意のゲリラ戦で尼子軍の郡山城侵攻を防いだことで、12月に待ちに待った大内方の援軍1万との合流がかなう。城の中にいた毛利軍は年が明けた天文10年1月、ついに城を出て大内軍と合流。尼子軍に総攻撃を開始した。長期の派兵で疲れ食料も残り少なくなっていた尼子軍との厳寒での乱戦を制し、尼子の全軍を撤退させたのであった。

道の駅「北の関宿安芸高田」にアクセス

道の駅「北の関宿安芸高田」は、郡山合戦があった郡山城から目と鼻の先にある。中国自動車道の高田ICを降りて直ぐ、広島県北部の旧美土里町(現安芸高田市美土里町)の場所なので、高速道路を使ってしまう?と、郡山城の山城としての立地を実感する間もなく道の駅に到着してしまう。

かつて尼子軍3万の兵が郡山城に近づいていく道のりを少しでも実感しようと思えば、ここには一般道を利用して訪れることをお勧めする。

もしくは、道の駅の駐車場に車を置いて、郡山城跡まで、少々遠いが時間があるなら歩いて行くというのもいいかもしれない。

駐車場、トイレ、休憩場所について

さて 道の駅「北の関宿安芸高田」には、物産館、レストラン、コンビニエンスストア(ローソン・ポプラ)がある。

平日だけかもしれないが、利用客の多くが利用しているのはコンビニだ。

駐車場からコンビニに直行するお客さんが多かったし、駐車場には県外ナンバーの車は少なく、地元客の利用が中心に見えた。

一方、私たち観光客を迎えてくれるのは「神楽」である。 広島県北部は、日本で最も神楽が行われている地域なのだ。

道の駅「北の関宿安芸高田」はモニター越しではあるが、常時神楽を鑑賞することができる。また、物産館内では「神楽の面」が販売されている。さすがに購入するとなると高いw。見るだけならタダなので、私は穴が開くほど見た。

「山の市・海の市」

農作物直売所を兼ねた物産館は、なぜか「山の市・海の市」という名称。 本駅が位置するのは中国山脈の山中であり、瀬戸内海からも日本海からも、海からは遠く離れている。「山の市」とともに「海の市」とも銘打たれているのは、「昔からこの地はお米や野菜が豊富に採れた」→「海側から農作物を購入する商人が多く訪れて農作物の代わりに海産物(干物)をここに置いて行った(物々交換)」 →「その干物をここで販売するようになってから、海の市・山の市と呼ばれるようになった」という3段論法らしい。

ということで、その伝統を今でも受け継いで、道の駅「北の関宿安芸高田」では地元産の野菜と、瀬戸内や山陰水揚げの魚の干物とが数多く販売されているのである。

いくつかオススメをピックアップしておこう。まず、地産の米「桑田米」。 雪解けのミネラルたっぷりの清流を引き込んで育てた米で、ツヤ、風味、甘味、粘りともに素晴らしく、「天使のお米」とも呼ばれている。 わずか60戸程の農家しか生産に携わっておらず、一般に出回ることはほとんどないというお米だが、 本駅では普通のお米とほとんど変わらない価格で購入することができる。

次に「夜叉うどん」。 秘伝の旨辛スープが入ったこのうどんは、安芸高田の公認グルメだという。 具材とスープが一体になって冷凍保存されているため、食べたいときに火をかけるだけ。お菓子では「神楽門前湯治村のカステラ饅頭」、 柚子とバターがたっぷり入った「ゆずヴぁたーケーキ」、 お酒では地酒の「うっぷんばらし」「神の蔵」といったところが私的オススメだ。

「ながいきラーメン」だけではない大衆食堂

道の駅「北の関宿安芸高田」の「食」の施設は、「ながいきラーメン食堂」だ。

ラーメン専門店と、大衆食堂が合体したようなレストランである。

「百までうまい」がキャッチフレーズ?の「ながいきラーメン」には麺にウコンが1000mg配合されているという。 脂っこいスープを飲み干すと健康に良くないといわれるラーメンだが、健康成分であるウコンを綿に配合しているところがミソである。大衆食堂としての真骨頂は、約30種類の惣菜が用意されていること。麻婆豆腐、揚げ餃子、白身魚フライ、鶏の照り焼き等々、好みの皿を取って食事を楽しむスタイルになっている。

どの皿も美味しそうだし、価格もリーズナブル。利用客に地元の常連が多いというのも頷ける。