
「脇城」は、徳島県美馬市にあった城郭です。地形が虎が伏せているように見えることから虎伏城とも呼ばれます。『異本阿波志』によると、戦国時代初期に、脇権守という人物が居館を構えたのが脇城の始まりであるとのことです。
その後、三好長慶は父・元長が堺の顕本寺で一向一揆に攻め殺されて、領国阿波に雌伏していましたが、天文二年(1533)に脇城を築城し、三河守兼則に守らせました。『脇町誌』によれば、この三河守兼則なる人物は三好一族で、三好姓とされています。なお、現在の脇町、新町、岩倉清末などはこの時に建設された町であるということです。
脇町というと、今では「うだつの町並み」で有名です。今回私はここ脇城跡に来る前に、道の駅「藍ランドうだつ」に寄ってきました。武家町とは趣が異なる白壁のうだつの町屋や藍商の船着場であった跡を見て、脇城の城下町から廃城後は商都として発展を遂げた、その見事な変化に驚き、しかと確認しました。

驚いたのはそれだけではありません。築城から23年後の弘治二年(1556)、三好長慶は京都で武田信玄の異母弟信顕と会い、武田信虎とともに追放され流浪の身となっていたとされる武田信顕を招き、脇城主としたことを知りました。信長を東から脅かした武田信玄の子が、まさか西の讃岐地に転じていたなんて。あまりに意外な人物が意外なところに出てきたことにも驚きました。武田信顕は、信玄から駿河に追放された武田信虎によって密かに養育されたとしか考えられませんが、果たしてどうだったのでしょうか。
土佐 対 阿波、四国の中での泥仕合い
天正七年(1579) 、土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻し、長宗我部勢は重清城を攻め落とし、その勢いで脇城・岩倉城にも攻め寄せてきた。長宗我部勢の攻撃はすさまじく、武田信顕は岩倉城主・三好康俊と共に必死に抵抗するも、ついに土佐勢に降伏する。三好康俊と武田信顕は「われらは今心ならずも土佐勢に従っているが土佐勢は明朝本国に引き返すので、その際に供に追撃して土佐勢を破りたい」と、勝瑞城にひそかに書状を送ったとされるが、これは土佐勢による謀略だった。
この書状を信じた阿波勢(三好軍)はまんまとおびき寄せられてしまう。翌朝、矢野駿河守・森飛騨守らを大将にして進軍してきたが、岩倉城の下に来たところで、脇城、岩倉城に潜んでいた土佐勢によって挟み撃ちに遭い、多数の死傷者を出して敗退した。この合戦は俗に「岩倉合戦」と呼ばれているが、矢野国村や川島惟忠といった三好家の武将が脇城下で殺害されたため、「脇城外の戦い」とも呼ばれている。いずれにしてもこの敗北によって、阿波勢は一揆にその勢力を失ってしまうこととなった。
信長の死で勢いづいた土佐・長宗我部
天正九年(1581)ごろに長宗我部元親と織田信長が手切れとなった中、天正10年には織田軍による四国入りが行われるということが決まる。康俊の父・三好康長は織田信長に援軍の約束を取り付けたうえで、康俊と信顕を説得し、土佐・長宗我部氏から自陣に呼び戻しました。脇城・岩倉城は、土佐・長宗我部を裏切って、再び阿波勢への帰属を決めたのです。もしこれで計画通り四国入りが行われたなら、四国は織田軍によって席巻されることとなっただろうが、天正10年(1582)6月2日、突然起こった本能寺の変によって信長は自害、織田軍の四国入りは沙汰やみとなってしまう。
本能寺の変が起こると、織田氏と手切れしていた長宗我部元親はにわかに勢い付き、すかさず攻勢に転じて8月17日には3千の兵で脇城へと攻め寄せた。武田信顕はたった500の兵で迎え撃って何とか5日間はもちこたえたが、ついに同月22日に落城した。武田信顕の子信定は16歳という若さで自害して果て、信顕自身は城を脱出して讃岐へと逃亡したが、土佐勢の追撃によって讃岐国大川で討ち死にした。
こうして土佐勢に完全に制圧された脇城の城主には、長宗我部元親の叔父・親吉が任じられて入城した。
豊臣秀吉の四国攻め
天正13年(1585)、 今度は豊臣秀吉が四国侵攻の大軍を送り込んできた。脇城と岩倉城には、豊臣秀次や黒田孝高らが攻め寄せた。秀吉による四国征伐である。天正13年、とてもかなわないと見た長宗我部親吉は和議を請い、城を明け渡す。城を捨てて土佐へ戻ろうとした親吉だったが、途中で土豪の南源六父子の襲撃に遭って殺害されてしまう。
同年に四国平定が成ると、蜂須賀家政が阿波一国に封じられた。こうして阿波は蜂須賀家政の所領となり、蜂須賀氏が阿波の領主として入部すると、脇城には稲田植元を城主に任じ1万石で入城。以降、阿波9城の1つとして整備されるに至る。今に残る脇城の遺構と城下町の基礎は稲田家の統治のもと、さらに整備されていったものである。
その後、脇城は蜂須賀領の有力支城「阿波九城」のひとつとして重視され続けたが、寛永15年(1638)に一国一城令に基づいて破却・廃城となった。
美しい「うだつの街並み」を満喫できる道の駅「藍ランドうだつ」
徳島自動車道の脇町ICから国道193号線→県道12号線を通って南西に4km、 脇城のわずかに南東、徳島県北部の旧脇町(現美馬市脇町)に、道の駅「藍ランドうだつ」はある。
駐車場からして、戦国時代から江戸時代へと移り行く中で城下町から「藍」を中心とした商いの町へと逞しく変貌を遂げた、その誇りある歴史を感じさせる。





トイレも、やはり「町」の佇まいから逸脱することのない、調和を重視した建屋である。




休憩環境にはさらに色濃く、この地が商都として栄えるに必須だった「水運」の痕跡が目の当たりにできる環境にある。実に素晴らしい。



さて 道の駅「藍ランドうだつ」の敷地およびその周辺を歩く最大の意味は、何といっても江戸時代の面影を残す「うだつ」の街並みを目の当たりにできることにある。
「うだつ」は、平安時代には「梲(うだち)」と呼ばれており、室町時代以降に「うだつ」と訛った。屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐ防火壁、建物の棟を支えるため、梁(うつばり)の上に立てる小さい柱が特徴で、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉が生まれた。「うだつが上がらない」は、出世がなかなかできないことや金銭的にうまくいかないことを表す慣用句となったが、その過程の江戸時代中期にあっては、「うだつ」は装飾としての意味が大きく、財力を競う象徴の意味を持っていた。
なので全国各地に「うだつ」の街並みを売りにする名所は幾つかあるが、 脇町の「うだつ」の街並みはスケールが違う。 戦火で焼失することもなく、再開発による建て替えもなく、道の両側にズラリと約80軒。 無電柱化工事も完了して、この場に立つと、まるで江戸時代にタイムスリップしたような感覚に陥る。




「うだつ」の街並みは本駅から歩いて数分の距離。 本駅に来たからには絶対に見ておきたい光景である。

道の駅の施設は、物産館(1階)とレストラン(2階)

駐車場から道の駅の建物までは少々距離があるが、道案内の看板が出ているから迷う心配はないだろう。 道の駅施設までの道中にトイレがあり、江戸時代に水運業に使った船舶がいくつも展示されているので、とにかくゆっくり、写真を撮りながら、道の駅施設へと進もう。

道の駅物産館の名物は「藍」。名前に「藍ランド」とある通り、藍染めに代表される染料に使う「藍」に他ならない。何せ阿波藍は質量ともに日本一を誇り、阿波25万石、藍50万石と謳われるほどの富をもたらした徳島最大の特産品だ。物産館では藍染め製品が多数販売されている。

食べる「藍」もある。最近の研究で藍の葉や茎には抗酸化作用があり、「健康のために藍を食べよう」という動きが広がっている。 本駅にあるのは「藍の飴ちゃん」「藍パウダー」「藍茶」の3品。「藍蔵アイスクリーム」はバニラ、抹茶、チョコ、ブルーベリーなどの定番味だけでなく、「みまから(美馬市オリジナルの激辛薬味)」「はったい粉(大麦の炒め粉)」等の変わり味がある。
物産館の2階は「藍蔵レストラン」だ。 看板メニューは「激辛みまからフランク添えカレー」。 みまからとは美馬市特産の唐辛子。一般的な唐辛子よりもかなり辛いというから舐めてはいけない(笑)。本来カレーも辛いはずだが、「みまから」の前ではカレーが甘く感じてしまうほど。 よほどの激辛好きでないと無理かもしれない。ただし1日10食限定。売り切れていれば 「阿波尾鶏せいろ蒸し」「阿波尾鶏」などの特産メニューを楽しもう。「阿波尾鶏せいろ蒸し」はせいろの中で蒸すことにより、阿波尾鶏の旨味を閉じ込めた料理だ。