「第九大好き日本人」の謎を解明したく、道の駅「第九の里」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事△設備△立地○) 

今年も、聞こえ始めましたよ。毎年年末になると聞こえてくる、あの「第九」が(笑)。

ベートーヴェンの交響曲第9番「第九」は、日本でも国民的楽曲と言えるほど親しまれており、特に年末になると商店街にも楽曲が流れ、全国各地で演奏されています。

ドイツの作曲家、ベートーベンが作曲した交響曲第9番の第4楽章にあるドイツ語の合唱部分は、おそらく誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。私も中学の音楽の時間に何故かこの曲にだけハマって、ドイツ語の歌詞をカタカナに書き直して歌いまくっていた思い出があります(笑)。あのなじみの深い旋律に、今から100年前に福岡県で日本人が初めて第九の一部を演奏したときには「今日しも擧(あ)げます かしこき御典(みのり) 祝へ祝へ今日のよき日…」と歌われた、それってまさか天皇の?

1824年5月7日、ウィーン・ケルントナートーア劇場にてベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が発表され手から、今年はちょうど200年です。何がめでたいのかわけわかめですが、100年、200年と時を越えて歌い継がれる第九。でも日本人が何故か大好きなのか?なぜ年末になると第九なのか?

AIに問うと、こうでした。「第九」が日本で特に好まれる理由としては、一つは四季のうつろいや時節の行事を重んじる日本人の好みにマッチしていること。もう一つはシラーの詩の「歓喜に寄す」からの引用で、「歓喜」や「天使」といったおめでたい言葉やフレーズがたくさん登場する歌詞を日本人が好きだということ」。

どうも納得できないので、どのように演奏され、伝えられてきたのかを含め、日本における「第九の歴史」をひもとくために?私は旅に出たのでした。

日本と第九の始まりを求めて徳島・鳴門へ

ベートーベンの第九と日本の最初の出会い、その舞台は徳島県鳴門市にあると聞いて調べたら、まず分かったことは、日本における「第九の歴史」は、なんと収容所から始まったと言うことだった。

私の興味は、その収容所とはどんなもので、それと鳴門市民が第九を好きになったこととどんな関係があるのかということに移った。その答えは、市内の公園、そしてそこにある道の駅「第九の里」ですぐ見つかった。公園の入り口には「板東俘虜収容所跡」、そして道の駅には「ベートーヴェン『第九』日本初演の地」と書かれていた。第1次世界大戦中の1917年から約3年間、この場所にあった収容所に、およそ1000人のドイツ兵の捕虜が収容されていたのだ。板東俘虜収容所である。

道の駅「第九の里」がある鳴門市大麻町には、かつてドイツ兵俘虜(捕虜)を収容した坂東俘虜収容所が存在し、 第一次世界大戦で日本がドイツの租借地であった中国の青島に侵攻した際、戦争に敗れたドイツ兵の約1000人を俘虜としてここに収容していたということを、私は恥ずかしながら初めて知った。 当時の地域の人々は、ドイツ兵俘虜を「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、日常的な交歓風景があったという。

日本初の「第九」は、板東俘虜収容所の「ドイツさん」の演奏だった

人道的な対応から当時日本国内の捕虜収容所で一部娯楽活動が認められていたことは知っていた。板東俘虜収容所では、ほかの収容所よりもより自由な活動が認められていて、収容所内では文化活動や娯楽活動がゆるされ、敷地内には商店街やボウリング場もあって、ドイツ兵の中には楽器を演奏できる人たちもいたことからオーケストラが結成され、演奏会も行われていたというのは驚きだった。そして、それを許容するという判断をしていたのは当時の収容所長、松江豊壽だったことを、NHKの番組アーカイブで知る。

道の駅にあるドイツ館の前には、この人の銅像も設置されていた。松江は「捕虜に甘い」という警告や非難も陸軍から受けながらも、捕虜となったドイツ兵の権利を尊重し、誇りを持って生活できるよう配慮していたという。結果、歴史的に、板東俘虜収容所の管理運営は模範収容所であったと評価されている。

そして私は、 ベートーベンの第九が日本国内で初めて演奏されたのは、この坂東俘虜収容所だったと言うことを知るに至った。

敷地内にある講堂で、1918年の6月1日、ドイツ兵たちが第九の全楽章を披露したのである。これは、国内で初めて第九が生で演奏された瞬間だった。合唱には約80人、楽団には45人ほどが参加したが、ドイツ兵のみで「歓喜の歌」を歌うため、女声パートを男声パートにアレンジして歌われたという。

ただ、収容所内で演奏が行われたため、その様子を見た日本人はいなかったし、演奏が行われたのは梅雨の入りで、年末ではなかった。

そんなことより重要なことは、収容所の閉鎖後も、鳴門の人たちと故郷に帰った「ドイツさん」たちの交流は続き、その象徴としての「第九」は市民の心の奥底に根づいたということだ。そして1972年には同地に「ドイツ館」が建設され、1974年にはドイツのリューネブルク市と姉妹都市盟約を締結。徳島県鳴門市とドイツ・リューネブルク市との交流は続いた。

時はさらに流れたが、いまだに市内では午後6時に防災行政無線から第九のメロディーが流れるほか、市役所の電話の保留音は「第九」。道の駅では、ドイツの国旗を表現した「第九ホットドッグ」やバウムクーヘンをもじった(もじれてないと思うが)「第九クーヘン」という奇妙なお土産まで販売されている。どうしてそこまで「第九」なのか?そこまでやるか?については、儲けたいのだろうなという仮説はあるが、まだまだ謎である(笑)。

では、日本人の初演は誰やねん?

日本で初めて第九を演奏したのはドイツ兵だったことはわかった。では、日本人として初めて演奏したのは誰で、どこで演奏されたのか。

では、日本人の初演は?

今から100年前の1924年1月、全楽章ではなく一部ではあるが、日本人としての最初の第九の演奏は福岡だったということは、NHKの番組アーカイブを観て知った。

100年前に福岡市で行われた第九の演奏の舞台の写真が、九州大学フィルハーモニー会に残されていが、私が驚いたのは、それがなんと、昭和天皇のご成婚を祝う演奏会だったということだ。合唱パートには、ドイツ語の歌詞とともに、カタカナで日本語の歌詞が書き添えられていた。

「今日しも擧げますかしこき御典 喜びことほぐ我等の聲は 野山を動かしみそらに滿ちて 世界の果てまで響ぞわたる 祝へ祝へ今日のよき日」

これは当時の文部省が作成した「皇太子殿下御成婚奉祝歌」そのものであり、それが何と第九の歌詞として採用されていたのだった。

第九が日本で広く愛され、それが年末である理由は?

ウィーンでの初演から200年。日本では徳島県鳴門市での捕虜収容所での初演や、九州での日本語歌詞に皇太子殿下御成婚奉祝歌が当てられた歴史を含め、さまざまな人たちによって「第九」が受け継がれてきたことは分かった。しかし、なぜ日本では「年末」に第九なのか、そこはてんでわからない。

これについて調べると、終戦後12月にNHK交響楽団が演奏するようになったことがひとつのきっかけになったということがわかった。そして、大人数の合唱団が必要なことから、その家族などがチケットを購入し、オーケストラにとっては「餅代稼ぎ」になったのでそれが継続したという。

でも、聴きに行く人が身内だけでは、ここまで長続きはしない。長続きの理由として、年末を迎えることで1年の厄よけ、新年に向けてリセットしようという、日本人の多くが持っているある種の「年末意識」に「第九」がマッチしたのではないかと言う人がいる。曰く、第九を聞くことで1年の区切りを迎える、ある意味で社会の歯車として機能しているのではないかと。第九の最後の“歓喜の歌”での盛り上がりと、壮大な規模の演奏は、聴く人、そして演奏する人にも、一年の区切りにおいてある種の満足感を与えているのではないかと。

この分析には、私的にはかなり納得。第九演奏の歴史は200年、日本と第九の歴史は100年余りだが、日本人の第九大好きな理由、そしてなんで年末なのかが、少し分かったような気がした。

道の駅のドイツ色が濃い物産品

道の駅「第九の里」の施設は、物産館、農作物直売所、軽食堂と、有料施設のドイツ館、賀川豊彦記念館である。

上の、大変立派なドイツさん、もといドイツ館(有料)に比べると、下の物産館、農作物直売所、軽食堂が入る建物(無料)は貧相というか、古風というか、ドイツもどきの木造建築物である。

実は、この建物は「バラッケ」と呼ばれる坂東俘虜収容所に建てられた兵舎を再現したものらしい。 1960年まで倉庫として利用されていた兵舎を、全部ではないが道の駅の施設として移築したのだという。

そういえば、トイレにも、情報コーナーにも、なるほどそうしたコンセプトは貫かれている。

では物産館で販売されている商品はどうなのか。これもまた和洋折衷、もとい、和独折衷という感じだ。

「和」の代表は、特産品の鳴門金時芋を用いた商品。 特に鳴門金時芋を用いた芋きんつば「なると渦きん」は本駅の売り上げNo.1だという。「独」の方はといえば、ドイツ製のソーセージ「ボックヴルスト」。 塩水が入った瓶に長さ15cmのソーセージが5本入った商品だ。 その他では、「和」では「半田手延べ素麺」「阿波和三盆ドーナッツサブレ」「芋焼酎」「徳島ラーメン」など。 「独」では「ザワークラウト(白キャベツの塩漬け)」「ガーキン(ピクルス)」「ドイツビール」「ドイツクリームスープ」など。

和独折衷と言ったが、全然「折衷」はされていないな、ということで前言撤回。日本とドイツの商品がどちらもある物産館、ということで。

物産館の両脇には2つの有料施設がある。 北側にあるのはドイツ館で、完全にドイツ風の厳つい建築。その中で、第一次世界大戦時のドイツ俘虜(ドイツさん)の暮らしぶりが再現されている。 目玉は等身大のドイツ兵人形によるベートーベンの第九の演奏だ。30分おきに約15分間、人形が本格的な演奏を聞かせてくれる。

南側にあるのは賀川豊彦記念館。賀川豊彦は大正デモクラシーを開花させ、日本の民主化に貢献した人物で、ノーベル平和賞候補にも挙がったことがある人物だ。 この記念館では、氏の諸活動の記録を展示して紹介している。