「石州口の戦い」跡から東へ、道の駅「サンエイト美都」から「美都温泉」へ(トイレ○仮眠◎休憩○景観◎食事△設備△立地○)

岸静江は、第二次長州征討の際の石州口の戦いにおいて、単身で関門を守ろうとして討ち死にした幕末の浜田藩士です。名を国治といい、1836年、越智松平家に仕える岸家の長男として群馬県に生まれますが、その年の国替えで浜田の人となります。少年期は極めて優秀な成績で、江戸への遊学も経験した秀才でした。

1860年に浜田藩第4代藩主松平武聡の近習として召し出され、1866年には岸家の家督を継ぎ禄高110石の物頭席となります。この頃幕府と長州藩との間が険悪になっており、浜田藩は津和野藩との藩境に扇原関門(現在の益田市多田地区)を作り、非常時に備えました。岸静江はこの関門の守備を命じられます。

岸静江は村田蔵六(のちの大村益次郎)率いる長州軍の接近に対し、配下の武士5人と付近の村の農民を加え20名ばかりで関門を固めました。正午頃には800名を超える長州軍が開門を迫りますが、岸静江は断固拒否。守備隊と共に応戦しました。しかし多勢に無勢、敗色の色が濃くなる戦況に岸静江は部下と農民を退去させます。そして、ただ一人で関門を死守しようとしますが、至近距離から撃たれた弾が胸腹を貫き、息絶えたのです。

藩命を遵守した岸の姿に感嘆した長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)は、ちょうど通りかかった西禅寺の住僧に「岸を丁重に葬り、その上に碑を建てるように」と依頼しています。岸静江はこうして味方のみならず敵からも称えられ、益田から長州に向かう街道の峠にあって古来「大木原」と呼ばれ、両藩にとって故郷のような場所に手厚く葬られました。

第一次長州征伐

元治元(1864)年7月19日の「禁門の変」によって、長州藩は朝敵となった。7月23日、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発する。幕府は長州藩主・毛利敬親と養嗣子の定広(後の元徳)に京都で禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩および西国諸藩から征長軍を編成した。ところがこの時点で長州藩への具体的な処罰内容を決定していなかったため、独自に動いた薩摩藩の仲介のもと、三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放、藩主父子からの謝罪文書の提出、そして山口城破却という「朝敵」の処分としては、そして長州藩にとっては比較的寛大な処置として決着した。これが第一次長州征伐である。

第二次長州征討【四境戦争】

しかし、長州藩内では高杉晋作が挙兵し、長州藩内の佐幕派である長州俗論派を失脚に追い込み、軍備増強に乗り出した。この動きを察知した幕府は再度の長州征伐を決意し、慶応2年(1866年)6月5日をもって諸方面から進撃することを決定(第二次長州征伐)。この戦いは大島口・芸州口・石州口・小倉口の4箇所で行われたため、「四境戦争」とも呼ばれている。

道の駅「サンエイト美都」

第二次長州征伐の石州口の戦いにおいて岸静江が果てた「扇原関門(現在の益田市多田地区)」から国道191号線を東に15キロほど走ったところ島根県西部の旧美都町(現益田市美都町)に、道の駅「サンエイト美都」はある。

国道191号線、県道34号線、県道48号線の3つの主要道が合流する地点ということで、立地的には交通の要所だが、道の駅周辺は鳥の鳴き声以外には何も聞こえないほど静かで、四方は森林に覆われている。

この山深い場所への集客は、鼻から無理があったのだろう、道の駅は経営不振が続いて 2013年11月には物産館が閉鎖。たちまち存亡の危機を迎えたが、2014年4月にリニューアルオープンして危機を乗り越え10年が経過。現在に至っている。

車を停めトイレをお借りして缶コーヒーを買ってベンチで一休み

一通り建物の周りを歩いてみた

そして道の駅から歩いても行ける美都温泉へ

そして私は、美肌効果が高いと言われる美都温泉を訪れた。 美都温泉は、道の駅「サンエイト美都」からはおよそ500mの距離。 歩いても行けるが、温泉には無料の大きな駐車場があるので車で向かえばいい。

泉質はアルカリ性の単純温泉。日帰り温泉施設の「湯元館」の利用料は500円。とってもお安い。 湯の種類は内湯と露天風呂で、ともに岩風呂になっていて風情は満点。 特に内湯はとても広くて快適だ。 露天風呂にはジェット風呂がついている。これはとても珍しいと思う。 また、露天風呂から見る山々の風景も綺麗である。

温泉エリアにはレストランもある。看板メニューは猪肉を使った「特製角煮」。角煮が入った「角煮うどん」「特製角煮丼」のほかにも「唐揚げ定食」「ハンバーグ定食」「煮魚定食」など30種近いメニューが。 その中には、柴犬のルーツ「石号」にちなんだ「石号の里定食」もあった。