「牛岐城址」も道の駅もしょぼいが「青色ダイオード騒動」は超エキサイティング!(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事△設備△立地◎) 

牛岐城は、徳島県阿南市富岡町殿町にあった平山城。築城年代は定かではありませんが、至徳年間に阿波国守護の細川氏に従属していた「新開実重」が築城したと考えられています。中世からの歴史のある城郭が蜂須賀氏入国後も改修されて、阿波9城の1つに数えられています。

私も「阿波9城」の一角をなすということで、牛岐城址を訪ねました。城址公園の東側には古墳のような規模の高台が1つあり、それが城の中心部であったらしいです。そこに登ってみると、LEDを散りばめたあまりセンスがよろしくないオブジェがあって、すっかり現代風のチープな展望台となっており、城址らしいものはまったくといっていいほどありません。

牛岐城/アクセス・場所・地図 長宗我部元親が新開実綱を謀殺して弟の親泰を配置し阿波制圧の拠点とした牛岐城 【お城特集 日本の歴史】

阿波の有力城郭であり、城址公園にもなっているというのでせっかくここに来たのに、実際に訪れてみるとちょっとがっかりな城址公園でした。まあ、勝手に期待する方が悪いので、これに懲りずに中世の城はくまなく回りたいと思います。

牛岐城址遠望
牛岐城/アクセス・場所・地図 長宗我部元親が新開実綱を謀殺して弟の親泰を配置し阿波制圧の拠点とした牛岐城 【お城特集 日本の歴史】

秀吉の四国征伐後に「富岡城」と名前を変えた牛岐城

戦国時代に入ると、阿波地方では守護の細川家の力が衰え、代わって三好長慶が次第に勢力を拡大していった。牛岐城を築城したとされる新開実重もまた、三好家に従っていた。そんな天正3年(1575年)、土佐の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始し、海部城や他の城々を次々と落としていった。

そして天正8年(1580年)になると牛岐城にも元親の軍勢が侵攻。時の城主の「新開実綱(道善)」は降伏し、牛岐城を開城した。しかし、降伏した実綱を長宗我部元親は謀殺してしまい、海部城から香宗我部親泰を牛岐城へ移して阿波制圧の前線としたのである。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の軍が侵攻し、瞬く間に長宗我部家の城を片っ端から落としていく。これを見て「牛岐城」の香宗我部親泰は怖気付いて土佐へと退いた。蜂須賀家政は、この四国征伐の功績によって阿波国を与えられたが、牛岐城は家老である賀島主水正政慶に1万石を与えてその城代とした。政慶は入城後に牛岐の地を富岡と改名したため、牛岐城もここから「富岡城」と呼ばれるようになった。江戸時代に入り、寛永15年(1638年)に一国一城令が発令されると「牛岐城」は廃城となった。

LEDをめぐってまだドロドロしているバトルがより興味深い阿南市

ところで、冒頭に「LEDを散りばめたセンスのよろしくないオブジェ」と正直な印象を述べたが、このLEDをやたら多用した奇妙な飾り付けを見て、あ、そういえば…と思い出したのが、LED開発とノーベル賞受賞をめぐって泥沼化した騒動だ。それは、こういうものだった。

中村修二氏は1979年に日亜化学工業に技術者として入社した。半導体の開発に10年間携わった後、辞職を覚悟で当時の社長だった小川信雄氏(故人)に青色LEDの開発を直談判し、開発費の支出と米国留学の許可を取り付けた。「窒化ガリウム」という素材に注目して、青色LEDの製造装置に関する技術開発に成功。実用化につなげた。

  日亜は1993年に世界で初めて青色LEDの製品化を発表、業績を大きく伸ばすこととなったが、当時中村氏が受け取った報奨金はわずか2万円だった。1999年に日亜を退社し、2年後の2001年に職務発明の対価をめぐって訴訟を起こした。そこからはもう四半世紀経とうとしている。1審では日亜側に200億円の支払いが命じられたが、2005年に高裁判決で和解し、中村氏におよそ8億円が支払われた。この裁判は発明対価訴訟の象徴的なものとなり、技術者にとっても意義深いものとなった。

   ただ、和解という形にはなったものの両者とも本当の意味では納得していなかったようだ。日亜は「相当対価は過大なもの」との立場で、支払いを決めた理由については、「今後、中村氏との間で起こるであろう紛争が一気に解決され、それに要する役員・従業員の労力を当社の本来的業務に注ぐことができる点や、将来の訴訟費用を負担しなくて済む点を考慮した」と説明していた。

対して中村氏も和解成立後の会見で「日本の司法制度は腐っている」とぶちまけていた。研究に専念するためもあり、弁護士と相談して和解を決めたそうで、裁判自体は「完全な負け」だと不満をあらわにしていた。

ノーベル賞受賞会見で「怒り」をぶちまけた人を初めて見た

両者のわだかまりは訴訟終結から20年も経とうとしている現在でも払拭できていないようだ。ノーベル賞受賞が決まった2014年10月7日の会見で、中村氏は研究持続の原動力について聞かれると「怒りだ」と答えた。ノーベル賞受賞者からは喜びや感謝のコメントしか聞いたことがなかったので、非常に驚いいたことを思い出す。

  一方の日亜はこの時、中村氏の受賞に際して次のコメントを発表している。「日本人がノーベル賞を受賞したことは大変喜ばしいことです。とりわけ受賞理由が、中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは、光関連技術の日亜化学にとっても誇らしいことです。今後とも関係者各位のご活躍をお祈り申し上げます」

 当時の報道の中には「独力で大量生産技術を開発」と孤軍奮闘ぶりを強調している向きが大勢を占めていた記憶があるが、日亜のコメントは、中村氏の受賞は個人の力だけでなく、当時中村氏が在籍していた日亜全体の貢献によるものだと強調していて、中村氏の気性を考えると、「また喧嘩をする気か」と気色ばんだに違いない。

その後中村氏が「(青色LEDの研究を最初に支援した)小川信雄(おがわ のぶお)社長の墓前にも墓参りしたい」「「四国最大の企業になった日亜化学と関係を早く改善しないと、第二のふるさとの徳島に行きづらい」「人生は短い。けんかしたまま死にたくない」などとコメントしたことは耳に入ってきたが、さて、「けんか」が今どうなっているのかについては知らない。LEDによる飾り付けによって、牛岐城址はいまや「恋人たちの聖地」らしい。何も知らずに「綺麗だね」なんてうっとりした後、くれぐれも「ケンカ別れ」しないように、知らんけど。

駅名は「公方→阿南→公方」と迷走

さて 牛岐城址にもっとも近い道の駅は、北に5キロほど行ったところにある「公方の郷なかがわ」である。徳島市から高知市まで四国の南東の海岸線を走る国道55号線、その始点の徳島市から約20キロ進んだ阿南市那賀川町に道の駅「公方の郷なかがわ」がある。 1995年に「公方の郷なかがわ」という名称で道の駅登録されたが、2006年に那賀川町が阿南市に編入された際に「阿南市那珂川」に名称変更。 しかし、地元住民から「公方の郷」を駅名に残して欲しいという要望が大きかったことから、2008年に再び「公方の郷なかがわ」に戻った珍しい道の駅である(この際訴訟には至っていないので念の為w)

国道55号線は高速道路が無い四国南東部においては交通の大動脈だ。 交通量は当然多いが、その割には道の駅に入ってくる客は少ない印象である。

駐車場は、「ガラガラ」に近い。もちろん平日の夕方のことで、土日は混んでいるのかも。

国道55号線が重要な幹線道路なので、交通情報はとても重要。ありがたい!

トイレは可もなく不可もなく。使わせていただくだけでありがたい。

休憩するスペースは、ほぼ建物に沿って。

ご近所の人が買い求める農作物直売が中心

道の駅「公方の郷なかがわ」には、まあまあ大きい農作物直売所と、普通サイズの物産館、小さな軽食堂がある。 こうしたサイズをそのまま受け取ると、地元客向けの農作物販売が中心に成り立っている道の駅かと思う。

農作物直売所では地産の野菜を販売しているが、一般的なスーパーの野菜売り場とほぼ同様の品揃えに見える。 この道の駅ならではの物産品としては、海産物コーナーで販売されている「公方わかめ」、 惣菜コーナーで販売されている「公方寿司(サバ押し寿司と太巻きの組み合わせ)などがある。

また、農作物直売所の横には鰻販売コーナーがあり、徳島産の鰻の蒲焼が販売されている。これも人気の特産品だ。

物産館では徳島ラーメン等を販売

農作物直売所の横に物産館と軽食堂がある。 物産館で目に付く商品はなんと言っても「徳島ラーメン」だ。異なるメーカーの7種類もの徳島ラーメンが販売されていた。

徳島ラーメン以外の徳島の特産品としては、四国内の徳島県の位置を言っているのだろう「四国の右下、右上がりサブレ」という変なネーミングのお菓子、 那賀川町のマスコットのアザラシのナカちゃんをモチーフにした「ナカちゃん和三盆ラングドシャ」、 「鳴門金時モンブラン」「すだち果汁」「ゆこう果汁」などがある。

木工製品コーナーもあり、たんす、棚、ペンケース、ティシュケースなど製品化されたものと、木材とが売られていた。

軽食堂では1日20食限定の「なかがわギューカレー」がイチオシ。 那賀川町産の牛すじや蒟蒻が入っていて美味しい。メニューは少ないが、五目チャーハン、かけうどん、トースト等の軽食メニューやコーヒー、紅茶などのドリンクメニューがあるシンプルな軽食堂だ。

四国88ヶ所霊場の89番目に、「野球寺」があるらしい(笑)

この寺?モニュメント?は、阿南市などでつくる「野球のまち推進協議会」が2017年、道の駅・公方の郷なかがわのエントランス広場に整備したもので、発案者は愛媛県出身のスポーツジャーナリスト・二宮清純氏。

モニュメントは、高さ約2,2メートルのバッターをイメージした石像と、同じく1,6メートルのグローブ型の石像で構成されていて、その脇に「必勝」と刻んだホームベース型の石碑がある。阿南市出身の野球選手の手形があったので見てみると、2021年シーズンに32本塁打を放ち、パ・リーグのホームラン王に輝いた“ラオウ”杉本裕太郎選手(オリックス)や、池田高校(三好市池田町)のエースとして1983年春の選抜で全国優勝し、巨人でも活躍した水野雄仁氏ら7人の手形だった。