
瀬戸内海を東西に分断するかのように島々が南北に密集して連なる「芸予諸島」は、一見すると穏やかに見える海況ですが、狭い海峡(瀬戸)にいざ船を進めると、大潮時には高低差3m以上にもなる潮の満ち干きや、最大 10 ノット(時速約 18 ㎞)の潮流が容赦なく襲ってきます。古来より航海者を悩ませてきた海の難所で生きる漁師たちの間では、「船に乗るより潮に乗れ」と言い伝えられてきました。
村上海賊は、このような芸予諸島の因島(広島県尾道市)、能島(愛媛県今治市)、来島(愛媛県今治市)に本拠をおいた三家からなります。同じ村上姓を名乗る三家は強い同族意識を持ちつつ、時には互いに敵対しながら芸予諸島の全域を掌握し、それぞれの領内に多くの「海城」を築いていきます。因島村上氏は余崎城、美可崎城、長崎城、青木城など沿岸部に海城を築いて安芸・備後国の陸地部に沿った航路(安芸地乗)を押さえました。来島村上氏は来島城を中心に四国側の航路(伊予地乗り)を押さえました。
そして、能島村上氏は芸予諸島の中央を通過する最短航路(沖乗)を抑えていました。その中心部、今の地理感覚で言えば広島〜愛媛間の瀬戸内を結ぶ「しまなみ街道」を形成する大島と伯方島の間ですが、そこに「能島」という小さな島があります(写真)。この、小さいながらも瀬戸内海のど真ん中にある島に能島村上海賊の本城としての能島城が築城され、言わずと知れた「海賊代将軍」能島武吉の本拠地として機能したのです。

この辺りの海は昔から船が転覆する難所として恐れられていたように、時に最大速度18m(10ノット)にもなる荒波が打ちつけて、能島には容易には近づくことができません。そんな激流のなかに存在する能島城は、小島全体が城塞となっていました。能島の戦いにおいて大軍で取り囲まれても落城しなかったのは、大砲がなかったこの時代、難攻不落を極めていたのだと思われます。
村上武吉の登場、そして厳島の戦いを経て
覇権を争う戦国時代、瀬戸内海にあって名だたる大名たちと渡り合った人物がいた。能島村上水軍の当主・村上武吉(むらかみ たけよし)その人である。武吉は幼くして父を失い、家督争いに敗れて九州に逃亡していたが、天文14(1545)年に瀬戸内海に帰還し、進出を図っていた勢力を追放。天文16(1547)年に能島村上家の当主となり、やがて能島・因島・来島の村上水軍をまとめる立場にも立ったのだった。
そんな武吉が率いる村上水軍に大きな敵が立ち塞がる。天文20(1551)年、山口の大内氏の家臣・陶晴賢が挙兵。主君である大内義隆を自害に追い込んだ。実権を握った陶晴賢は翌(1552)年、武吉に対して大内氏が認めてきた村上水軍の海上通行料の徴収禁止を通達してきたのである。村上水軍にとっては死活問題。武吉たちは事態を打開すべく、大内氏や陶晴賢の打倒を画策することになる。
当時、長門国の大内氏は隣国の安芸国を治める毛利元就と対立。武吉の母方の叔父・浦宗勝が毛利水軍の頭領として仕えていたこともあってか、毛利氏からは武吉ら村上水軍に「一日だけ味方になってほしい」「あくまで村上水軍は独立勢力として認める」という意思表示があった。毛利と対立する陶晴賢も村上水軍を味方に付けるべく使者を派遣してきた。武吉は毛利氏との関係を選択するが、村上水軍の動き一つで戦況が動くほど周囲の大名から恐れられていたのである。
天文24(1555)年、毛利軍と陶晴賢軍は安芸国の厳島で睨み合っていた。武吉は200艘以上の船団を派遣。合戦の結果、追い詰められた陶晴賢は自刃。毛利氏の支配は周防・長門の両国におよんでいくこととなる。村上水軍には勝利に貢献した褒美として毛利氏から屋代島が与えられたが、武吉は塩飽諸島の水軍とも結び、備中から周防に至る海域からも通行料を徴収するようになり、莫大な利益を挙げた。
九州の大名・大友宗麟に近づく
村上水軍は毛利氏に近しい関係を維持しつつ、さらに縦横無尽な活躍を見せた。永禄4(1561)年には毛利氏と北九州の大友氏が衝突。大友氏当主・大友義鎮(宗麟)は、毛利氏の北九州における侵攻拠点である豊前国の門司城に兵を進める。武吉は下関近海に軍船を派遣して海上を封鎖。大友水軍の進出を阻む動きに出た。大友水軍は門司城を包囲して陥落させるすべく夜襲をかけたが武吉は潮の流れを読んで逆襲。大友水軍を次々と破って、この戦いでも大勝利を収めている。
大友宗麟は海上での敗北により、村上水軍に対して九州の海上交通の権利認定をちらつかせ、武吉らに懐柔策を取り始め、永禄12(1569)年ごろには村上水軍は毛利氏の九州への援軍要請を断るようになる。同年の大内輝弘の乱では、大友水軍に伊予灘の通過を許可。公然と反毛利氏の動きを取るに至ったが、こうした村上水軍の対応に危機感を持った毛利氏との間で話し合いが持たれている。元亀元(1570)年には、武吉が毛利元就・毛利輝元(元就の嫡孫)・小早川隆景(元就の三男)と起請文を交換。互いの関係を確かめ合っている。
毛利氏との敵対関係とその修復
武吉の判断基準は、あくまで村上水軍の生存第一。武吉は、今で言えばトランプのアメリカファーストの考え方から、すべての戦略を組み立てて行動していた。元亀2(1571)年2月、武吉は備前と美作の戦国大名・浦上宗景、阿波・讃岐三好義継と結んで毛利領の備前児島を脅かす行動に出る。6月には毛利元就が病没。嫡孫の輝元が当主に就任し、吉川元春と小早川隆景の二人が支える体制となったが、 7月になると輝元の叔父・小早川隆景は軍勢を率いて能島攻めを決行。能島を舞台にした「能島城合戦」が始まる。ここではなんと因島と来島の村上家も小早川軍につき、この大連合によって翌元亀3(1572)年までに能島は完全に包囲され、武吉は窮地に陥った。包囲に成功した隆景らが最後まで力攻めに踏み切ることはなかったのは、村上武吉率いる能島村上海賊の力を認め、あくまで味方にしておくのが得策との思いがあったと考えられている。
一方で、大友宗麟は武吉と来島村上家との講和を仲介。門司や赤間、伊予への出兵を約束して村上水軍を反毛利方に繋ぎ止めようとした。しかし宗麟は結局出兵することはせず、約束は空手形で終わった。こうした過程を経て、武吉は毛利氏との関係を修復する道を選択する。天正3(1575)年、毛利氏が備中兵乱で三村氏を撃破して同国を平定した際には、武吉は小早川隆景に対して祝儀を送るなど、すでに関係は改善していた。
毛利方として織田信長と戦う
やがて、再び村上武吉水軍の名が全国に轟く時が訪れる。畿内は尾張国の織田信長が掌握しつつあり、室町幕府第十五代将軍・足利義昭は、庇護者である信長と対立。信長包囲網を形成して対抗した。信長包囲網に加わった摂津国の石山本願寺は織田軍に包囲されつつも、信長に頑強に抵抗していたが、包囲された石山本願寺に浮上したのは兵糧の問題。石山本願寺と毛利氏、紀州の雑賀衆は深い関係にあり、加えて村上水軍は雑賀衆とかねてから盟約を結んでいて両者は協力関係にあった。
天正4(1576)年、村上水軍は毛利水軍と共に石山本願寺に味方して兵糧を運び込む任務を請け負った。武吉は嫡男・元吉を大坂に派遣。元吉に率いられた村上水軍は、木津川口の戦いで焙烙火矢を用いて九鬼義隆の織田水軍を撃破したのである。
しかし、まさか信長が黙って引き下がるはずはなく、九鬼義隆に対して新たな軍船建造を命じ、村上水軍の火攻めに対抗した船を完成させて天正6(1578)年、今度は武吉自身が木津川口に出陣し、織田水軍と相対したが、新たな織田水軍の船6隻は表面が鉄板で張り巡らされていた鉄甲船となっていた上に大筒が搭載されており、村上水軍の小早船はたちまち粉砕されてしまう。なすすべなく村上水軍、毛利水軍は織田水軍に大敗。武吉は淡路島へと逃れた。
織田家の調略をはねのけて
天下人となった織田信長は、羽柴秀吉に命じて中国地方の攻略を開始。村上水軍の調略(引き抜き)を始めていた。秀吉は、敵陣から多くの武将を引き抜いてきたことで知られる人たらしの名人である。秀吉は来島村上家の来島通総(武吉の義弟)に調略を仕掛けた。毛利家では来島村上家と武吉の能島村上家が寝返るという噂が立ち、毛利水軍の頭領・乃美宗勝が武吉の説得に赴くほどの騒ぎとなる。
来島通総が織田方に付いて秀吉の元に逃れた一方で、武吉は毛利方に留まり、自らの潔白を証明すべく、因島村上家と共に来島を占領するに至る。対立はあってもあくまで同族での殺し合いはせず、決定的な断絶は避けられる結果となった。
海賊停止令と村上水軍の解散
天正10(1582)年、織田信長が京都・本能寺で家臣・明智光秀に襲撃されて自害に追い込まれた。羽柴秀吉は明智光秀を討ってまず織田家中を掌握。次代の天下人としての地位を固めていくために毛利氏と和睦して関係を良好化させ、周辺を固めていった。武吉は秀吉から来島の返還を命じられるが、これを拒否。加えて天正13(1585)年の四国攻めにも参加しなかった。秀吉の意向を受けて小早川隆景は能島城に出兵、武吉は隆景の所領である安芸国竹原の鎮海山城に移転させられてしまう。関白となっていた秀吉は朝廷から豊臣姓を下賜されて位人臣を極めた秀吉は、なおも瀬戸内海から村上水軍の影響力を排除しようと画策。天正16(1588)年、秀吉は海賊停止令を全国に発令。これは、以下の三つのいずれかかを迫るものだった
- 1、豊臣政権に従って大名となる
- 2、大名の家臣となる
- 3、武装解除して百姓となる
しかし武吉は海賊停止令に従わず、以前と同じく瀬戸内海で通行料の徴収を続けた。秀吉はこれを許さず、武吉は大坂城に呼び出され、切腹に処されるのは必至の情勢に陥るが、嫡男・元吉が上洛して弁明。小早川隆景も仲介を行なって、なんとか武吉は切腹を免れたが、これによって武吉は海賊停止令を受け入れ、能島城は廃城となり、村上水軍は事実上の解散が決定した。
関ヶ原と日露戦争に影響を与える
なんと海産していた村上水軍が、再び表舞台に姿を現したのは、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いだった。武吉はすでに家督を元吉に譲っていて、戦いに出陣してはいないが、子の元吉と景親兄弟は、石田三成方の西軍として戦いに参加。兄弟は村上水軍を率いて目覚ましい働きを残した。
徳川家康が天下人となると、西軍に付いた毛利氏は減封。中国地方に120万石あった毛利氏の所領は、周防と長門の39万石になってしまう。武吉は嫡孫・元武(元吉の子)、景義らと周防大島に移住したが慶長9(1604)年、病で亡くなりった。享年72。墓所は周防大島の元正寺にある。
ロシアのバルチック艦隊を打ち破った秋山真之も武吉に学んでいた
水軍や海賊、海の男といった人物には粗暴なイメージがつきまとう。しかし武吉や村上水軍の人物たちは決して文盲ではなかった。武吉は水軍の兵法書『村上舟戦要法』を著述。水軍の戦い方について後世に影響を与えている。明治の海軍軍人・秋山真之は、当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を破る「丁字戦法」を考案。『村上舟戦要法』の中にあった「長蛇の陣」も修得した上で戦いに臨んだ。
実際に日本海海戦で使われるのがなかったが、丁字戦法とは単縦陣(艦隊を縦一列にすること)で敵艦隊の進路を横切って「丁」字を描くかたちで敵を攻撃することで、こちらは全艦前後の主砲を使えますが、敵は前方の主砲しか使えないという利点をねらったものである。秋山が参考にした武吉の「長蛇の陣」は、古代中国の八陣図の一つで、各隊が互いに呼応して千鳥形におし進む陣形を言う。孫子の「九地」に記載されており、武吉はこれを読み取った上で自分たちの海戦に活かしていた。
個人では上陸できない!?能島
能島は平成30年(2018)の西日本豪雨の被害に遭い、長らく上陸することができなくなっていたが、令和2年(2020)6月2日より上陸が再開されている。しかし能島城へ向かう船は定期便はないため、上陸したい場合は観光ツアーに参加するか、個人で船をチャーターするほかない。

島には、城の南部に位置する平坦地から上陸する。
平成に行われた発掘調査で分かったこと
平成に行われた発掘調査では、能島城が14世紀後半〜16世紀後半まで使用されていたことがわかった。城内では、井楼などの物見櫓や住居跡など現状18棟の建物跡が見つかり、出土遺物では調理用具など生活土器も多かったことから、緊急時に籠もるだけの城ではなく、城内でも生活していたことが分かった。
また、三の丸では焼きしめられた床面から焼土片や鉄くず、やじり、そして鍛冶場で使う送風口「鞴羽(ふいごはぐち)」が見つかったことから、鍛冶屋跡も確認。どうやら道具の修理などもここで自分たちでやっていたようである。

二の丸西側の発掘調査時の様子(写真提供:村上海賊ミュージアム)

同じく二の丸南側(写真提供:村上海賊ミュージアム)
また、本丸ではかわらけ(素焼きのお皿)の破片が1万点以上見つかった。昔の人たちは、現在の紙コップのように容器は使い捨てだったため、かわらけが見つかった場所ではかつて宴会が行われていたという可能性が高いのだと。
東南出丸でも、儀式の一貫で土中に埋納されたものと考えられるかわらけや82枚の中国銭が発見された。ここに祭祀に関連する施設があったと推定できるという。

祭祀に関連する施設があったと目される東南出丸(左)と、 本島より少し離れた位置にある鯛崎島(右)。島の東南部にある少し離れた小島はが鯛崎島といい、ここは出曲輪の役割をしていたと見られる。
400もの岩礁ピットは桟橋の痕跡だけではない?

島の中で潮の流れが穏やかな一角が「船だまり」に選ばれ、船をつけて入る城の出入口になっていたと考えられている。また、通称「岩礁ピット」と呼ばれる岩場に空いた柱穴は船着き場以外にもあちこちに点在(400を超える)していて、桟橋や護岸用の杭列、船を繋いでおく柱などが島を囲むようにあったのではないかと考えられている。岩礁ピットは干潮時に現れるが、波が高いと近づくのは危険なため村上海賊ミュージアムにある大穴の原寸大レプリカで確認されたい。

村上海賊の歴史がわかる「今治市村上海賊ミュージアム」

村上海賊ミュージアムの所在地は、愛媛県今治市宮窪町宮窪1285。車の場合、尾道・本州方面からは 大島北ICから約3km。 今治・四国方面からは大島南ICから約10km。 大島北ICおよび大島南ICはハーフインターのため、今治・四国方面からは最寄りの大島北ICでは降りられないし、逆に本州方面からは大島南ICで降りることができないので注意が必要だ。
旗が勢いよくたなびく村上海賊ミュージアムに着けば、駐車場入口に和田竜さんの小説『村上海賊の娘』の本屋大賞受賞記念碑がある。ここには村上海賊ミュージアムの常設展示では、能島村上氏の活躍がわかる古文書や発掘調査の成果が展示されている。
とくに実際に着用していたとされる陣羽織は必見だ。

小型船を復元した小早船の模型も見ることができる。これであの荒れ狂う波を乗り越えられたのだろうかと思うほど小さくて、簡素な船である。逆に簡素ゆえなかなか沈まなかったのかとも考えさせられた。