
サッカーJ-1サンフレッチェ広島は、1992年4月24日に広島市をホームタウンとして誕生したプロサッカーチームで、言わずと知れたJリーグ創設期からの「オリジナル10」のひとつ、名門中の名門です。今シーズンも非常に強く、最終節で惜しくも優勝は逃したものの、J−1最多得点の攻撃力は本当に素晴らしいものでした。
私は、幼少期の数年、広島県(福山市)で育ったということから、このチームのファンであってもおかしくはないのですが、そうでないのには理由があります。それは、このチームの名前が「サンフレッチェ」だからに他なりません。日本語の「三」とイタリア語の「フレッチェ(矢)」を組み合わせて「三本の矢」を意味する造語なのですが、これはもちろん元就の「三本の矢」の故事に由来しているのです。

広島の県民市民・行政・財界の三位一体の力や、チームスポーツの基幹をなす「技術・戦術・体力」の三要素、個々の選手に必要とされる「心・技・体」の三原則などを象徴している素晴らしいネーミングだとおっしゃるファンの方は、まさか勝つためには「謀略」の限りを尽くし、相手を欺くようなサッカーをしたいのでしょうか。

「結果がすべて」。ジジイはともかく子どもたちがそれでいいのか
毛利元就の「三本の矢」をコンセプトにするサンフレッチェ広島を応援する気にならないのは、ひとえに私が、正々堂々戦ったことなどほとんどなく、謀略の限りを尽くして相手を欺き続けることしかしなかった毛利元就が大嫌いだからである。「元就アレルギー」せいで、「サンフレッチェ」と聞くとゾッとするのである。
毛利元就は、「謀略」の限りを尽くして成り上がった、戦国時代きっての切れ者だと評される。最初から大軍を持っていたわけでもない毛利氏が中国地方で勢力を拡大できたのは、毛利元就の天才的な頭脳があってのことだと言われてもいる。しかしその、「天才的な頭脳」は、今で言えば特殊詐欺、闇バイトのトップのような、「自分のためには他人を騙す」という考え方において同類であり、私は到底彼をリスペクトできない。彼には大義がなく、毛利家の存続と領地拡大のためには手段を問わなかった「自己中」きわまりない人間にすぎなかった。
死者の生首に鞭打つ人間性
戦国時代において、討ち取った武将の生首を洗って木棚に飾る「首実検」という風習が存在していた。この風習は、その残酷さにおいて世界的には到底受け容れられるはずもないが、戦国武将にすれば死者を弔う意味もある神聖な儀式だったと言われている。また、生首に化粧をして名札を貼り付け、誰のものかを判別できるようにした上でコレクションすることで、戦国武将は心を満たしていたのだ。
しかし、一説には冷静沈着で感情を表に出さないとされる元就には狂気の一面があった。敵将の首を切り落としてなお怒りが収まらず、鞭でしばき続けたのだと。そんな元就を警戒したとされる織田信長もまた、怒りが収まらない際には生首を熱湯で煮たこともあると言われている。
毛利元就や織田信長にとって、首実検はもはや死者を弔うためのものではなく、己の怒りを爆発させる手段でしかなかったのだ。元就や信長の行為は、もはや異常者のそれである。ただし両者の違いは大きい。信長には「天下布武」と言う大義があったが、元就はあくまで毛利家第一。自分の家さえ良ければそれでよかった人間だった。私は信長も決して好きではないが天下布武の後の日本をつくろうとしていた点においてのみ尊敬できる。しかし、謀略家すなわち詐欺師たることを誇り、他人を謀略によって殺した元就の目的は「毛利家の安寧」でしかなかった。そんな人間は、大嫌いである。
元就の悲惨な生い立ちと酒の全否定
ただ一つだけ毛利元就に同情すべきことがあるとすれば、それは生い立ちの悲惨さだが、そんなことは程度の差はあれど誰にでもあるだろう。そして、自らそれ(生い立ち)を自分がやった過ちの言い訳にしたり、人の道を外していることの正当化をしたりした時点で、その人間の人生は所詮そこまなのでだろう。
さて 毛利元就の生い立ちである。「毛利元就(以下、元就)」は、1497年、安芸国(現在の広島県)の国人領主・毛利弘元の次男としてここの世に生を受けた。父の国人領主という地位は、大名の下位互換に相当する領主のことで、兵力数も領地も大名の足元には遠く及ばない。大名からすれば吹けば飛ぶような存在だった。元就4歳の時に母親が死去し、父親は杉大方と再婚したが、元就10歳の時に過度な飲酒がたたって死んでしまう。
父親の死後、元就は家臣に城を追い出されて住む場所すら失ってしまう。貧困生活に転落した元就は庶民の間で「乞食若様」としてバカにされていた。さらに父親の死去から10年後には兄も飲酒が原因で死亡。兄には2歳の嫡男がいたが幼児だったため、弟の元就が甥っ子の後見人として実質的に毛利家を継ぐことになった。
実は、元就の祖父もまた過度の飲酒で死んでいる。毛利家は、アル中の家系だったのだ。祖父、父、そして兄がみな酒で若死にしたのを目の当たりにして酒というものを全否定したのだろうか、元就は酒を口にしなかっという。また、「酒で気晴らしすることなどあってはならない」と、息子たちや家臣に対しても節酒を命じ、酒を飲むと気が短くなり、余計なことを言ってしまうことを戒めた。

yamatoya ONLINE SHOPより
「西国の桶狭間」を奇襲で制した元就は「忍者」と「謀略」を駆使
元就が毛利家を継いだ直後、毛利氏の同盟である吉川氏が襲撃される。襲ってきたのは同じ安芸国の武田氏。武田氏は毛利氏の弱体化を知って、まずは同盟国の吉川氏の城を攻めにきたのだった。元就は吉川氏のピンチに駆けつけるも敵軍5000に対して味方は2000に満たず。圧倒的に不利な戦力差だった。ここで発揮されたのが元就の奇襲作戦。敵軍の主力武将を奇襲で討ち取り、最前線で戦っていた敵方総大将・武田元茂が流れ矢に当たって絶命するという幸運もあって元就はこの「有田中井出の戦い」に勝利する。ちなみにこの戦いは、「西国の桶狭間」ともよばれている。
元就の手腕で領地拡大を果たした毛利家は、中国地方でも名が上がる名家へと成長していく。しかし、周辺国は尼子氏はじめいずれも強力で、新人の元就がまともに太刀打ちできる相手ではなかった。そこで元就は忍者を周辺国に派遣し、情報操作を駆使してクーデーターを引き起こさせるという頭脳プレーで周辺国を弱体化させていく。こうして「謀略」によって次第に中国地方を制圧していった元就は、織田信長が警戒するほどの戦国武将にまで登り詰めていく。

尼子氏から大内氏への鞍替え
元就の「謀略」でもっとも有名なのは、桶狭間の戦い、河越の戦いとともに日本三大奇襲に数えられる「厳島の戦い」だろう(源義経の一の谷の戦い〈鵯越の逆落〉を含む説もあり)。

神聖な地を血で染めた「厳島の戦い」は、1555年(天文24年/弘治元年)に安芸国厳島で起こった、元就と陶晴賢(すえはるかた)との合戦で、陶軍の兵力が20,000に対して毛利軍が4,000と圧倒的に不利な状況でありながら、毛利軍が勝利を収めた戦い、そして元就の謀略と奇襲の「集大成」としてあまりにも有名だ。
戦いに限らず、何かが起こる時にはその「背景」というものがある。まずは、この「厳島の戦い」が起こった背景をおさらいしておく。元就が台頭する前の中国地方は、大内氏と尼子氏の二大勢力が覇権を争っていた。九州北部から山陽にかけて力を持っていた大内義隆と、下剋上のパワーで山陰を支配した尼子経久が勢力争いを繰り広げるなか、安芸国の国人領主にすぎなかった毛利家は、大内氏や尼子氏と巧みな外交を行ないながら、どちらかに従属することで、その勢力を維持していた。
もともと毛利家は尼子氏の家臣だったが、元就が家督を継ぐと、尼子氏の重臣・亀井秀綱が元就を失脚させようとした。これに不信感を抱いた元就は尼子氏から離反。元就は大内氏に人質として家臣・井上新三郎を送ることによって臣従の意を表明し、元就は身を守らんがために大内氏の家臣となった。元就が大内氏に転属したあと、1540年(天文9年)に、経久の孫である尼子晴久が率いる30,000の軍が、元就の居城吉田郡山城へ進軍し、「吉田郡山城の戦い」(郡山合戦)が起こった。
尼子氏に煮湯を飲まされて
毛利軍は、わずか3,000の兵と圧倒的に不利な状況下で見事勝利。この戦いによって尼子氏の勢力は弱まり、安芸や備後の国人衆達は尼子氏から大内氏側に鞍替えし、尼子氏討伐を求める声が高まったことから、大内義隆は機は熟したとばかり尼子晴久の討伐へと踏み切った。
1542年(天文11年)、大内義隆は自ら総大将となり、総勢15,000の軍勢を引き連れて進軍。元就をはじめ宍戸隆家や吉川興経、小早川正平らの国人領主達も合流し、最終的には40,000を超える大軍で、尼子氏の本拠地であり難攻不落の名城と謳われた月山富田城を総攻撃した。当初は大軍で攻め入った大内軍が有利だったが、まさに難攻不落の月山富田城を前に戦いは長期化。なかなか月山富田城を落とせない大内勢に不安を抱いた国人領主らが再び尼子氏へと寝返ったことによって、大内氏の包囲網は総崩れ。補給路も断たれたことによって、大内軍は全軍撤退に至る。
意気消沈した大内義隆は軍事と政治から遠ざかり、学問、文学、宗教に力を注ぎ始め、公家らと遊び耽るようになる。武闘派・陶隆房にはこれが許せなかった。彼は次第に謀反を考えるようになり、ついに1551年(天文20年)、「大寧寺の変」により、陶隆房は、主君である大内義隆を滅ぼし、大内家の実権を掌握したのである。ただ、元就にとっては、大内義隆は仕えていた主君であり、嫡男・隆元の妻が大内義隆の養女だったことから、陶隆房に反発。これにより、両者の間で「厳島の戦い」が起こったのである。
厳島の戦いで発揮された元就の謀略、まずは相手の戦力を削ぐこと。
一般的に奇襲戦は、正面からぶつかったら敵わないであろう相手に対して、意表をついて攻撃することで勝機を見出すためにとる戦い方である。厳島の戦いにおける双方の兵力は、諸説あるものの概ね毛利軍4~5千、陶軍2~3万。圧倒的に不利な状況で、毛利元就が思い付いた作戦は、情報操作による敵の戦力ダウンと奇襲戦だった。
まず、元就は、陶軍の重臣筆頭であった江良房栄の脅威を取り除くため、江良房栄に対して毛利軍に寝返るよう工作。失敗に終わるが元就はこれで諦めることなく、今度は「江良房栄が謀反を企んでいる」という噂を流し、陶晴賢を疑心暗鬼に陥れる。さらに、江良房栄の筆跡を偽造した謀反の証拠となる書状を用意し、これを陶晴賢の目に入るように仕向けたのである。この書状を目にした陶晴賢は、やはり噂は本当であったと江良房栄を暗殺。元就は、思惑通り、陶軍の主力戦力を毀損させることにまんまと成功したのである。
次に、相手を身動きとれない状況に置いて退路も絶っておくこと
さらに元就の重臣・桂元澄に対して毛利家を裏切るふりをするよう命じ、桂元澄から「宮島の開戦後、陶軍に寝返り、(私は)毛利元就の本拠地である吉田郡山城を攻める」という偽の密書を陶晴賢に送らせる。さらには「毛利軍は今、厳島に来られたらと困る」という嘘の情報を流すことで、陶晴賢の大軍が身動きがとりにくい狭い宮島(厳島)を侵攻するように仕向けた。こうして謀略の限りを尽くした結果、元就は陶軍を厳島におびき寄せることにも成功したのである。
これらの策略に対し、さすがに陶晴賢の家臣のなかにも「毛利元就が罠にはめようとしているのではないか、厳島に行くのは止めた方が良い」と進言する者も出た。しかし圧倒的な兵力差があるという過信が仇となり、陶晴賢は毛利元就の策略にまんまと嵌り、大軍を引き連れて厳島(宮島)へと進軍したのである。1555年(天文24年)9月21日、500艘の大船団を組んで厳島(宮島)に渡った陶軍は、「塔の岡」(現在の五重塔の辺り)に本陣を置き、20,000の大軍で宮尾城を囲んで攻撃を開始。対して宮尾城の兵はわずか500であり当然たちまち窮地に陥るが、こんなことは元就の想定内で、瀬戸内海の有力者であった傘下の村上水軍に援護を要請すれば済む。元就の凄みは、戦いに勝利した後、敵が厳島から脱出することをも阻止するための手を打っていたこと。傘下の毛利水軍ばかりでなく、伊予の村上武吉、村上通康らの伊予水軍にもあらかじめ援軍を頼んでいたのである。一方で小早川隆景率いる別働隊は、宮尾城を包囲していた陶軍の部隊に対し援軍であるとこれまた偽ってまんまと通過し、有ノ浦に上陸。宮尾城の味方部隊との合流に成功していた。
最後に、敵が想定不能な「奇襲」を一気に仕掛けること
そして、同年9月30日の夜。暴風雨の中、毛利軍は厳島(宮島)への渡海を強行し、夜陰にまぎれて「包ヶ浦」(つつみがうら)に上陸。元就と嫡男の毛利隆元は陶晴賢が本陣を構える塔の岡の背後へ、三男の小早川隆景と村上水軍は船で島の正面へ向かい、2手に分かれて一気に攻め込んだのである。深い眠りのなか、前後から挟撃された陶軍は、大軍ゆえにたちまち大混乱に陥る。
前夜が暴風雨であったことから陶軍には油断があった。また狭い島内に大軍がひしめいていたため、進退ができず、軍勢はたちまち総崩れに陥った。そして我先と島からの脱出の舟を奪い合い、沈没したり溺死したり。逃げ場を失った陶晴賢は、「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」という句を残し、大江浦で自刃するよりなかった。

手段を選ばずに勝てば良いという人間の考え方は地球を滅ぼす
元就が、嫡男・毛利隆元宛ての書状で、「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と記した通り、常に間者(敵方の様子を探る者)を抱え、その情報をもとに敵と己を知り、精緻に戦略を組み立てたことにより、陶軍20,000の敵に対し、毛利軍4,000という圧倒的に不利な戦いを見事大勝利で終わらせることができたことは史実である。
また、厳島の戦いのあと、策略とは言え厳かな厳島(宮島)を汚したことに対して、社殿や回廊を洗い、板を取り替えた他、厳島(宮島)の表面にある土を削って海に流すことで、戦で流れた血の臭いを消す作業を行なったと言われている。
しかし厳かな厳島(宮島)が血塗られる、そんなことは、全て元就の頭の中で仕組まれ、計画通りに行われたことである。元就が謀略の限りを尽くして敵を誘き寄せなければ、厳島(宮島)に血が流れることはなかったことではないか。
私は、誰がなんと言おうと、広島県人がいかに尊敬しようと、毛利元就などは小人に過ぎないと思っている。なぜなら、手段を選ばずに勝てば良いという人間の考え方は、所詮己の身近において、短期的に通用するだけのこと。いずれ間違いなく地球を滅ぼす考え方なのだから。
2020年6月オープンの新しい道の駅「三矢の里あきたかた」
中国自動車道の高田ICから県道64号線→県道6号線→国道54号線を通って南に14km、 広島県やや北部の安芸高田市に本駅「三矢の里あきたかた」はある。

2020年6月オープンの、新しい道の駅だ。 市街地からのアクセスは抜群で、安芸高田市役所からはおよそ4km。ということはほぼ街中。来客者数もオープンから2年足らずで200万人を突破し、その後もすこぶる好調のようである。
施設の充実度も素晴らしい。




駐車場は広く、誘導もしっかりしている。トイレも授乳室、オムツ替えコーナー、待合所などを備えた多機能型24時間トイレであり、用を足すだけでも快適というほかない。




休憩スペースに関しても、ちょっとしたものから大規模なものまで様々。よく考えられている。



農作物直売所を兼ねた大きな物産館に食の施設も大きいものが2つあり、無人であることが普通の?観光案内所には案内人?コンシェルジュ?が常駐している。



一つ気になるのは駐車場が混雑する点。 本駅には普通車84台を収容する大きな駐車場があるが、それでも日中は満車になりやすい。 国道を挟んで向かい側に第2駐車場が設けられているので、満車時はこちらを利用するのがお勧めである。
川根柚子、大前醤油、縄文アイスが人気
物産館は、相当大きい。販売されている商品はおそらく500種類以上?ひょっとすると1,000種類あるかもしれない。これだけ多いと「どれが人気の商品?」と悩んでしまうが、そんな場合も、観光案内所の一角に安芸高田市を代表する特産品が10品ほど絞り込まれて展示されている。 色々買い込まない人は、このチョイスを元にすれば間違い無いというわけだ。
筆頭は、川根柚子を使った商品だろう。「川根の柚子茶」「川根のゆず饅頭」「柚子ポン酢醤油」「ゆずバターケーキ」等、 川根柚子が代表的な特産品であることがすぐわかる。

ちなみに川根柚子が生産されている川根地区は、安芸高田市北東端の山の中。 美味しい空気ときれいな水、農薬不使用に拘った、苦みが少なくまろやかな酸味と芳醇な香りが絶賛されている。
同じく特産品として推されているのは大前醤油本店や和高醸造の醤油各種。

オーソドックスな醤油から、玉子用、豆腐用、刺身用など、用途が細分化されているものまで多彩。 ポン酢、ドレッシングなど、100ml入りのミニボトルで販売されているので、気軽にいくつも買うことができる。
「縄文アイス」も安芸高田市を代表する特産品だ。 縄文アイスは、ミルク味を基本に黒い古代米を配合したもので、物産館の冷凍コーナーにおいてカップアイスの形態で販売されている。

また、物産館の入り口近くには縄文アイスの直売所があって、ここでは古代米を配合した「縄文」の他に「キャラメル」「ミルク」「もち麦」「チョコ」等、13種類が販売されており、中には地酒「神の蔵」を配合した「大人のアイス」もあるが、くれぐれも運転手は口にしないように。

その他にはご存じB&Bで全国区になった(古っ)「もみじ饅頭」、広島県北部の伝統的な菓子「大朝まんじゅう」、安芸高田市のご当地旨辛味噌の「神楽みそ」、 ご当地グルメの「安芸高田ラーメン」も「尾道ラーメン」も「夜叉うどん」も。

野菜の直売所もわかりやすい。

物産館内にある農作物直売コーナーでは、地産品を中心とした野菜・果物を150種類位販売されているが、中には北海道産のものもあって、品添えがすごい。







鮮魚も、海産物も、水産加工品の数もすごい。



私が嫌いな毛利元就グッズ、お好きな人はどうぞ。
地元野菜の自然派レストラン

本駅の「食」の施設は「ファーマーズ・レストラン」とファーストフード「驛麺家」の2つある。 どちらもコンセプトがはっきりしていて、利用しやすい。そして、レストランではないがコンセプトが明確なのが高級食パン専門店「美味しくて、懺悔。」だ。

1日20本限定のレーズン食パン「懺悔の果宝」、 1日130本限定のプレーン食パン「懺悔の本心」が大人気で、これらの食パンは朝9時30分に配布の整理券が無ければ購入が困難だ。 「ファーマーズ・レストラン」で「懺悔の本心」を使ったサンドイッチなどを注文して食べる人も多いらしい。そうした利用方法もある「ファーマーズ・レストラン」だが、こちらのコンセプトは「地元野菜の自然派レストラン」。

全てのメニューに、採れたて地産の野菜を使ったサラダが付いてくる。 人気メニューは「カレー」「焼野菜」「サラダ」の三本の矢がセットになった「三矢オリジナルカレー」。 トッピングに地元向原農園の生卵を付けることもできる。 丼物では「旬野菜と海老の天丼」「手作りハンバーグセット」「安芸高田野菜たっぷりのサラダうどん」なんかも美味しそうだ。
もう一つの「食」の施設「驛麺家」のコンセプトは「お手軽」。麺類、カレー、たこ焼き、ソフトクリームなどをファーストフードの感覚でいただくことができる。


人気メニューは麺の上に天ぷら、キツネ(お揚げさん)、牛すじの三つを載せた「三矢うどん/そば」。 「三矢」と名前が入っているだけで絶対食べない人間もいるのだが、そんな変人はほぼいないのだろう、「三本」「三矢」はとても気軽で前向きな言葉のようだ。「たこ焼き」「ネギたこ」「マヨたこ」「ネギまよ」などはより手軽にいただける。