
1943(昭和18)年に始まった噴火活動によって誕生した昭和新山。
平坦な麦畑だった場所が突如として隆起を繰り返し、わずか2年ほどの期間で現在の姿になった。
小学校4年生の頃、この異様な隆起でできた昭和新山は学校でもしばしば話題になっており、興味を持った私が色々調べて壁新聞をつくると、美人の原田先生はたいそう褒めてくださりクラスの教室だけでなく、校内各所の壁に貼ってくれた。
当時漫画家志望であった私のリアルなイラスト入りの壁新聞は大変な評判で、調子に乗って「タイタニック号特集」「シーラカンス特集」と続けたが、リアルなイラスト入りの「女体の神秘特集」は、先生に貼ってもらえなかった(笑)。
さて。
昭和新山の標高は398mで、今も火山活動中。赤茶色のゴツゴツした山肌は、粘度の高い溶岩を押し上げた隆起の歴史を物語っている。その岩肌から噴煙が上がる様子は迫力満点!大地のエネルギーを体感することができる。
私有地のため入山は禁止だが、近寄ってみると、山麓に広がる森の緑の中にむき出しの昭和新山の赤茶色。大迫力で、今にもまた隆起しそうで怖い。「怒張」と言う卑猥な単語があるが、これこそ怒張ではないかと。事実、赤茶色の天然レンガで覆われている溶岩ドーム部分の地表の温度は、現在でも高いところで200℃程あるのだから。


今自分の目の前にある風景は、どのようにしてできたのか?
この、生々しすぎる昭和新山を見ていると、ふだん当たり前に見ている山や丘、海岸など、大地のかたちが実は何万年何億年という長い時間をかけてつくられた、その過程はどんなものだったのか、お前は知りたくないかと問いかけられているような気がする。
豊かな森や動物の営み、そして私たちの暮らしも、その中で育まれてきたものであり、そこに隠れているというか知り得ていないさまざまな「大地のものがたり」を、お前はもっと知りたくないかと。
知りたいよそりゃあ、でも知った頃には寿命がw(涙)。
人生があと2度あれば、地学者、歴史家になりたいさ(笑)。
洞爺カルデラ

昭和新山の麓にある「洞爺湖」の場合、今から約11万年前に起きた巨大な噴火で生まれた。
今から約11万年前、現在の洞爺湖があるこの場所で巨大な噴火が発生した。噴火に伴い発生した巨大火砕流は、周辺一帯を焼き尽くしつつ流れ広がり、周辺を埋め尽くして平坦な丘陵地形をつくった。
現在はこの地形が利用され、日当たりの良い広大な畑作地、牧草地が広がっている。
そして、この噴火で形成された直径10km程のカルデラにどんどん水がたまり、現在の洞爺湖となったのだ。 この規模の噴火は、日本列島のような島弧系では最大級の噴火であり、日本列島では過去12万年間に9回しか発生していない。





洞爺湖は、東西約11km、南北約9kmのほぼ円形をした、面積では国内で3番目に大きいカルデラ湖でである。
それから6万年ほど経った約5万年前、洞爺湖の中央部で火山活動が再開し、多数の溶岩ドームや火砕丘をつくった。湖底にあるものを含めて現在までに11個の火山体が確認されていることから、何度も繰り返し噴火が発生したことがわかる。これらの溶岩ドームのうち、水面から顔を出した4島を総称して中島と呼んでいる。





周辺には多くの動植物が生息し、洞爺湖有珠山ユネスコ世界ジオパークにおいて、重要な見どころの一つとなっている。


洞爺湖有珠山ジオパークと有珠山
生きている地球と、生命のつながりを学べる貴重な場所を「地球・大地(Geo)」と「公園(Park)」を組み合わせて「ジオパーク」と呼んでいる。
洞爺湖を中心に伊達市・豊浦町・壮瞥町・洞爺湖町からなる「洞爺湖有珠山ジオパーク」は、その面積約1,064平方キロ。2009年に世界ジオパークとして認められ、2015年11月からはユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の正式な認定を受けた「ユネスコ世界ジオパーク」である。
この「洞爺湖有珠山ジオパーク」を構成する「有珠山」もまた2~1万年前に噴火をくり返して生まれた。

有珠山は最近でも20~30年毎に1回、場所を変えて噴火しており、周囲の散策路で「噴火口」や「壊された建物や道路」などを見ると、どれもがとても生々しく、火山の迫力や災害の恐ろしさを否応なく感じてしまう。

しかし同時に、「縄文やアイヌの人々の遺跡」がたくさん見つかっているように、有珠山の周りは昔から飲み水や食べ物が非常に豊富で、洞爺湖や有珠山の火山活動により育まれた森や海、湧水などの恵みを享受して、この地域には縄文時代から人々が暮らしてきた。
ジオパークのエリア内には日本有数の遺跡群が残されており、1万年以上もの長期にわたり持続可能な社会を形成した日本特有の先史文化である縄文文化の暮らしをうかがい知ることができる。


また、砦や祭礼場と考えられる「チャシ」など、北海道の先住民族であるアイヌの人々の生活の証も数多く残されていて、大地や自然とともに暮らしてきた彼らの思いや逞しさを感じることができる。
有珠善光寺・善光寺自然公園
826年に開山したと伝えられる有珠善光寺は、有珠山の山麓にあり、たびたび噴火を繰り返す有珠山の様子や災害について、多くの記録を残してきた。その克明な記録は、発生しうる災害想定や地域の減災啓発において重要な役割を果たしている。
また、有珠山の岩屑なだれによる大小様々な溶岩の塊が散在している境内には、季節の植物が楽しめる散策路があり、溶岩の割れ目に根を下ろした「石割桜」と呼ばれる桜が名所となっている。

温泉
洞爺湖温泉と壮瞥(そうべつ)温泉は、1910年の噴火によって温泉水が湧出し誕生した。

この噴火の際、世界で初めて噴火中の火山に地震計を持ち込み観測が行われたため、「近代火山学発祥の地」とも言われている。

観測と言えば、第二次世界大戦中生きていくことだけでも困難な時代に、有珠山の噴火を見守った人がいる。当時郵便局長であった三松正夫、その人だ。
昭和新山が誕生した1943-45年噴火の際は、その火山活動をつぶさに観察し、火山成長の経過をスケッチし続けて1つの表にまとめるなど、多くの優れた記録を残した。この観察記録は「ミマツダイヤグラム」と呼ばれ、1948年の国際火山学会で発表され、世界の火山学者の称賛を受けた。

生涯に3回の有珠山噴火を見守った三松氏の功績を後世に残し、また日本の火山学の基礎資料を保存するため、昭和新山の麓に三松正夫記念館が設立されている。
1943(昭和18)年に始まった有珠山噴火によって誕生。わずか2年ほどの噴火活動によってできた溶岩ドームです。
噴火当時は、戦争中の混乱期でした。食料も資材も不足する中、当時の壮瞥郵便局長だった三松正夫氏は火山に魅せられ、寝食を忘れて生成過程を観測。その貴重な資料は、のちに国際火山会議で「ミマツダイヤグラム」と命名され、世界から賞賛された。
さらに、三松氏は火山保護のためにこの地を購入。現在も子孫が受け継ぐ私有地であるため、立ち入ることができない。もちろん、危険だからそれでいいのだが(笑)。
個人が所有する国の特別天然記念物は、世界的にも珍しいという。
道の駅「そうべつ情報館i(アイ)」
道の駅「そうべつ情報館i(アイ)」の館内には、特産のくだもの・野菜等の直売所があって、壮瞥特産のオリジナルジャム、りんごジュースなど、ここでしか手に入らない逸品が販売されている。
また、観光情報案内(「エコミュージアム・観光情報館」)、火山とともに生きる町の歴史を知ることができる「火山防災学び館」が併設されていて、湖と火山と温泉の町・壮瞥町の総合情報発信基地としての役割を担っている。


駐車場は十分な広さがあり、傾斜も非常に少ないので仮眠がとてもしやすかった。




トイレはこぢんまりしたものだが、清掃が行き届いていて、気持ちよく使わせていただいた。



休憩環境としては申し分ない。
館内に、優しい光が降り注ぐ無料休憩コーナー、屋外には子ども向け遊具もある多目的広場がある。
また、先代貴ノ花の時代に強すぎる横綱で憎まれ役だった北の湖関の記念館が、郷土史料館と一緒にあって、国技館を模した建物の中に横綱北の湖の輝かしい歴史など様々な資料が展示されているので、見学しながら体を休めることもできる。
また、本格的に休みたい人は隣接する「ゆーあいの家」では温泉に入ることもできる。
