
今年も、偉大な先人が何人もこの世を去りました。あくまで「私的には」断りが必要ですが、「編集工学」を提唱して編集者、著述家として多方面で活躍し、独自の視点で日本文化を論じた松岡正剛さんのご逝去がもっとも残念で、今年もっとも衝撃を受けたことでした。正剛さんについては今さら紹介する必要もないでしょうからごく手短に。
「早稲田大文学部中退。1971年に科学と芸術を融合する雑誌『遊』を創刊、1981年に編集工学研究所を設立した。情報や文化などの知的体系を横断的に結び付ける『編集工学』を提唱し、編集工学者を名乗る。日本文化や芸術、生物科学、システム工学など多分野にまたがる執筆活動を展開。博識の読書家としても知られ、古今東西の多様な本を取り上げる書評サイト『千夜千冊『の連載を2000年から続けた。」
この短い紹介にある「編集工学」については、彼が提唱を始めた頃私はリクルートにいて彼からたくさんのことを学び、強く影響を受けました。「千夜千冊」については、さほどの読書家でもない私も時折サイトを覗かせていただき色々勉強させていただきましたが、その中で最も印象に残ったのが、2003年2月 第712夜の「宮武外骨」の紹介でした。
松岡正剛をして「編集王」と言わしめた宮武外骨
「いつか外骨について書かなければ、と思っていた。この人の編集方針や編集感覚が、ぼくの中にひそむ何かを胎児の足のようにつねに蹴り上げていたからだ。外骨のイデオロギーではない。外骨の痛快な方途にキックされてきたのだ。題して、「頓知と操觚」あるいは「滑稽と癇癪」。これが、これから記す「編集王宮武外骨御案内」ともいうべき短文につけたぼくのタイトルだ。」
2003年2月13日にアップされた第712夜の冒頭で、こう切り出した正剛さんは、本文にきわめて的確かつ鋭い宮武外骨評を展開。そして、最後にこう結んでいた。
「いまだにウェブ上のホームページやサイトは“袋詰め”されてはいないのだ。そろそろ“電子の宮武外骨”が現れて、「滑稽」や「癇癪」に代わる方法をもってウェブ社会を煙に巻くべきではあるまいか」と。
松岡正剛さんの偉大さと、入る会社を間違え破れ去った惨めな私と
松岡正剛さんにも影響を与えていた宮武外骨という人の編集方針や編集感覚。2003年の時点で没後ほぼ半世紀の外骨を引き合いに出して、正剛さんがこの結びの一文で当時の「いまだ袋詰めされていない」ネット社会に対して言わんとしたことに、私は激しく共鳴した。そして、力不足の一語に尽きるのだがビジネスマンとして大いなる挫折を経験した(2003年当時から)15年前の「あの頃」と13年前の「あの日」を思い出して、人生で初めての「本当の悔しさ」が昨日のことのように鮮やかに蘇り、2003年2月13日、私は改めて涙した。
「あの頃」私はリクルートにいて、関西では「広告をただ集めただけ」のリクルートブックの「編集長」として、広告集を編集された情報誌に変えるべく必死だった。掲載ページを自由に売りたい営業サイドから「売りにくい」という猛反発はあったが、今ではあり得ないパワハラと傍若無人さで「仕事カタログ」「漫画会社研究」といった、ある視点で「編集」された「情報誌」に強引に変えた。死ぬかと思ったが編集長として一人で全ての原稿をチェックし、視点を逸脱した原稿は差し戻し、もしくは容赦無く「赤入れ」した。
関西という小さな括りだから通用した力技だったが、翌年東京に移動。全国誌で同じことをやろうとしたら全く通じなかった。せめて「話者」を統一することだけはやって、私は会社を辞めたかった。リクルートブックなどというものは、その中身が、広告主自身が第一人称で話しているものと、リクルートがさも評価して書いたようにしか読めない第三者の客観表現が混在し、読者である学生が会社ごとの比較検討などできようもない代物。リクルートの利益追求の結果として意味なく膨れ上がった、まさにバブルそのものだった。
ある日私は、もともと「売れればよし」「儲かることが目的」とする会社で働いていること自体が間違いなのだと気づく。違う価値観で立ち向かったところで所詮は蟷螂の斧。いずれボロ雑巾に成り果てて用無しになる、それが急に馬鹿馬鹿しくなったのだ。そんな私に引導を渡してくださったのは事業責任者の役員・関一郎氏。「高く売れればいい。儲かっていれば(読者本意なんてどうでもいい)今のままでいいんだよ、バカ」と、面と向かってハッキリ言われた「あの日」、私のやる気はとうとうゼロになった。
正剛さんをして「編集王」と言わしめた宮武外骨に私は憧れていたが、私はそもそも自分の仕事の場を間違えていたのだった。私のリクルート退職の日の、フロアの全員の前での退職の挨拶はこうだった。
「ガイコツになる前に、どうしようもない腑抜けになりました。もっと早く辞めるべきでした。長居して申し訳ありませんでした」。
フロアの誰もに「ガイコツになる前の腑抜け」は意味不明だったろう。
私にとっての宮本外骨の魅力とは

宮武外骨についての評は、松岡正剛さんのそれを参考になさるが有為だろう。
私の宮武外骨についての激しい共感は、3点ある。一つはその生い立ちと改名である。外骨は四国讃岐阿野郡出身、庄屋の子供で、自分で穢多、いわゆる部落民の子孫であることをしばしば宣言していた。本名は亀四郎であったが、18 歳の頃、「亀四郎」を「外骨」と改名する。「外骨」は中国の『康熙字典』の「亀」の項に、「亀外骨内肉者也」(亀ハ骨ヲ外ニシ肉ヲ内ニセル者也)とあることによった。戸籍上も「外骨」となって、「御本名は何ですか」とよく聞かれたので、「是本名也」という印を作り、パフォーマンスのようにこれを用いたという。
二つ目は、宮武外骨が生涯に4度の入獄と 29 回もの罰金・発禁を経験したことだ。彼の評の多くに、「操觚者、現代で言う記者となる夢を抱き、明治の滑稽風刺新聞『団団珍聞』をモデルに21 歳にして『頓知協会雑誌』を発行、成功を収めた」とある。しかし、その成功は「筆禍事件」以降のこと。外骨は『頓智協会雑誌』の 28 号の中で大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ、禁錮 3 年の実刑判決を受けた。その時から外骨の反骨的な人生は始まり、一生で4度の入獄と 29 回にわたる罰金・発禁を経験したのである。監獄は、外骨にとって最高学府のようなものとなり、入獄の度に彼を反権力の猛者としてより目覚めさせた。往々にして反政府活動の罪人に再起できる程度の罰則を与えることは、かえってその反政府意識を助長させることになるのである。
そして、三つ目は彼の考え方と視点である。拙い私が、宮本外骨の考え方をわかりやすく理解できた文章がいくつかある。
「地球と血球….大観と小観(略)大きく見て、我々が今棲息して居る此地球は、宇宙大動物の胴体に属する一つの血球であるかもしれない、其血球の中に棲んで居る我々は、宇宙大動物の眼には見えないで、地球全体を白血球の一つぶ位に見て居るかもしれぬと思った事である、イヤ思った丈でなく、宇宙無限の洪大から云へば、それが事実でなければならぬ」
「好奇心を具体化することが本当の進歩であって、19 世紀末の進化論と進歩主義に反して、好奇心は凡人と奇人の優劣とそれに由来する差別を生み出さない」
「そもそも此世では奇人と凡人と何方いずれが最も必要であるかと云ふに、社会組織の経線から云へば凡人が必要であり、緯線から云へば奇人が必要である、即ち社会の形成は凡人の努力が基礎と成り、社会の進歩は奇人の活躍が根底となるのであって、此二者に優劣は無い、そして凡人は何時も同一径路を歩み、奇人は同一径路を歩まない、これを物質的に云ふと、汽車や電車は同一径路を走る凡人の格であって、飛行機や山河跋渉の徒歩旅行者は奇人の格である、凡人は安全であって、奇人には危険が多いのも此理によるのである」。
宮武外骨生誕地にある道の駅「滝宮」
宮武外骨の出身は、香川県綾歌郡綾川町小野(旧讃岐国阿野郡小野村)、道の駅「滝宮」の所在地は香川県綾歌郡綾川町滝宮。同じ町である。

松山市内から車で約2時間半、高速道路を経て国道32号線を高松方面に走ると、“道の駅滝宮”と書かれた大きな看板が視界に入ってくる。

道の駅「滝宮」は、1998年4月に登録された香川県内で10番目の道の駅である。年間の来園者は約30万人にのぼり、さぬきうどんブームとなった2002~2003年には、来園者数が約40万人に達し、オープン以来のピークを記録した。

令和2年に思いきったリニューアルがあって同年12月13日に「うどんといちごの郷 道の駅滝宮」として生まれ変わった道の駅「滝宮」は、このとき先行オープンしていたセルフうどん店、土産物ショップ等に加え、農産物直売所とスイーツショップが新規開店して完全リニューアルが完了。令和3年3月28日、グランドオープンした。






「滝宮」は、讃岐うどん発祥の地


滝宮が位置する旧綾南町(現綾川町)は、讃岐うどん、そしてうどんそのものの発祥の地といわれている。うどんの「祖」といわれるのは、滝宮出身で空海の甥にあたる「智泉大徳(ちせんだいとく)」である。智泉は、空海門下第一の秀才と評され、大陸(唐)の進んだ文化を携えて帰国した空海に、唐に伝わる麺の打ち方を伝授されたそうだ。麺作りの技術を習得した智泉は、故郷の両親をこの麺でもてなしたといわれており、これが讃岐うどんのルーツであるとされる。
綾川町を含む中讃地域は、うどんの原料となる良質な小麦の産地で、かつて農家は川の流れを生かして水車で小麦を挽き、自家製のうどんを作っていた。現在でも、この地域にはうどん店や製麺所が数多く存在する。
さて 道の駅の中核施設はやはり「うどん会館」。ここには、うどん打ち体験室、香川県産の小麦粉「さぬきの夢2000」を100%使ったさぬきうどんのレストラン、土産物ショップなどがある。中でも目玉として定着しているのが「手打ちうどん体験室」だ。この教室は、専門講師による実演指導のもと実際の作り方を体験し、家庭でも気軽にさぬきうどんを味わってもらおうという目的で実施されている。参加者数は年間2万人程度で推移しているようだが、最近になってうどん(麺)作りを趣味に持つ中高年男性からの問い合わせがにわかに増え始めているそうだ。
道の駅「滝宮」では、さぬきうどんを生かした創作メニューの開発にも精力的に取り組んでいる。これまでの最高の成功体験は、今や当施設の看板商品にまで上り詰めた「うどんアイス」。わざわざアイスにうどんを混ぜるこたあないだろ?と私などは思うのだが、どっこいチップ状のうどんが入った、ここでしか味わえないアイスは、多い日では1千個以上も販売され、夕方には売り切れになってしまうほどの人気商品となった。味は3タイプあるが、いりこだしの風味が強い「超こってり味」が若い女性から根強い支持を獲得しているようだ。他にも、“うどんde グラタン”など、地元食材等をアレンジしたメニューを年1~2種のペースで開発中とのことである。
うどん関連商品ではないが、焼き芋にも日々試行錯誤があるようだ。

持ち帰り用として買われるのは、定番の「さぬきうどん詰め合わせ」。スナック菓子「さぬきあげうどん」なども手頃な土産として好まれ、売れ筋商品となっている。


「いちご」推しがスゴイ
道の駅「滝宮」はうどんだけじゃない。「いちご」が「うどん」と並んで道の駅の看板となっているのだが、このいちごパワーが半端ない。見ようによっては「いちご」が優勢、少なくとも商品アイテム数では「うどん」を完全に凌駕している。











綾川町の苺栽培は昭和44年ごろから始まり、現在では県下有数の産地となっている。特に、香川県オリジナル品種「さぬきひめ」の作付面積は、県下トップを誇る。本来いちごは3月から4月後半の春が旬の季節で、その時期のいちご狩りは人気のイベントだ。 しかし、今や12月後半からいちごを食べることができる。それは品種改良や、ハウス栽培の技術など農家さんの努力と創意工夫の賜物。 買って食べた「滝宮」の「冬採れいちご」は、間違いなく旬の味だった。農家さんに拍手!!
駐車場、トイレ、休憩環境について




駐車場も広いのが二つもあり、トイレ、休憩場所も屋内外にいくつもあって、全て清掃が行き届いている。









道の駅の「情報ステーション」。いい空間だ。


「ビジネスブース」というのは初めて見た。


地元の農産物を取り扱う「ふれあい産直市」の品揃えもスゴイ。



















なんとなんと、鰻専門店もある。




道の駅界隈は?
道の駅「清宮」から歩いてわずか5分。讃岐の国司を務め、学問の神様で有名な菅原道真を祀った「滝宮天満宮」がある。

齢66にもなって、今更「学問の神様」もないだろうが。
もともと歴史大好きな私は、この国の歴史で気になっていた場所をくまなく訪ね直す旅に出て、各地の当時のことと現在までの歩みを学び直している。実に楽しい。