「姉川の戦い」があった場所、道の駅「浅井三姉妹の里」へ(トイレ◎仮眠○休憩◎景観○食事○設備◎立地○) 

戦国時代。武勇に優れた武将達が天下を目指し、大半が夢破れて散っていった、日本史の中でも激動の時代の一つです。

名将の伝説は数多いですが、その一方で家族を戦場へ送り出す女性達にもドラマがありました。「浅井三姉妹」(あざいさんしまい)と呼ばれる3人の女性達は、戦国時代に生きた女性達のなかでも際立って語り継がれてきた存在です。

「浅井三姉妹」とは、戦国武将・浅井長政と、その正室「市」の間に生まれた3人の娘のことです。それぞれ名を「茶々」(ちゃちゃ)、「お初」(おはつ)、「お江」(おごう)と言い、3人が3人とも波乱に満ちた人生を歩みました。

写真のモニュメントの中央で3人に生き方を指し示すようにしているのが3人の母である市。「お市の方」の通称で知られます。戦国時代の三英傑のひとり「織田信長」の妹(または従兄妹)であり、江戸時代の書物に「天下一の美人」と書かれるほど美しい女性だったと言われます。市が浅井長政のもとへ嫁いだ時期については議論されることが多いですが、市が娘達を産んだのは1569年(永禄12年)以降であることから1568年(永禄11年)に嫁いだと考えられています。

浅井長政と市は仲睦まじかったと言われていますが、2人は政略結婚によって結ばれています。市が浅井家へ嫁いだことで、織田信長は浅井家と織田家の同盟を結ぶことに成功します。しかしたった2年後の1570年(元亀元年)に織田信長が浅井家と関係のあった「朝倉義景」を攻めたことによって、浅井家と織田家の友好関係は断絶するのです。それから浅井家と織田家は1570年(元亀元年)から1573年(天正元年)まで、血で血を洗う苛烈な戦いを繰り広げました。そして、1573年(天正元年)に市の夫・浅井長政が自害。市は茶々、お初、お江とともに織田家へと引き取られるというまさに波瀾万丈な道を行くのでした。

信長の死でさらなる激動へ

最愛の夫を失った市の悲劇は続き、1582年(天正10年)、今度は兄である織田信長を本能寺の変で失った。織田家の庇護がなくなれば、もはや市達に乱世を生きていく術はない。織田信長の後継者を決めるために行われた「清須会議」では、市達の処遇についても論じられ、この結果、市は長年にわたる織田家の重臣で「鬼柴田」の異名を持つ戦国武将「柴田勝家」のもとへ嫁ぐことが決まる。再婚したとき市は35歳、柴田勝家は60歳だった。

柴田勝家と再婚し、新たな人生をスタートさせた市だが、またわずか1年後の1583年(天正11年)に運命の岐路に立つ。織田信長の後継者を巡って、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家の間で「賤ヶ岳の戦い」が起こったのである。この戦いに敗れた柴田勝家は居城としていた「北ノ庄城(現在の福井)」へと撤退。秀吉は柴田勝家を追って城を包囲し、激しく攻め立てた。もはやこれまで、と覚悟を決めた柴田勝家は市に逃げるよう言うが市はこれを拒み、柴田勝家とともに自害。これにとって市の3人の娘達は、生前の市の計らいによって豊臣秀吉のもとへ送られ、その後、それぞれ別の人生を歩んでいくのだった。

長女茶々は秀吉の側室として

浅井三姉妹の長女は、「淀殿」(よどどの)の通称で知られる「茶々」である。1583年(天正11年)に母・市が北ノ庄城で自害した後、茶々は妹の初、江とともに豊臣秀吉の保護を受けることになる。そして1588年(天正16年)には豊臣秀吉の側室となり、2年後の1589年(天正17年)に「棄」(すて:のちの「豊臣鶴松」(とよとみつるまつ)を出産する。棄の誕生を大変喜んだ秀吉は茶々に「淀城(現在の京都市伏見区」を与え、これが別名である「淀殿」の由来となった。

ところが棄は2年後の1591年(天正19年)に夭折。それから2年後の1593年(文禄2年)に、茶々は「拾丸」(ひろいまる:のちの豊臣秀頼)を出産した。秀吉には拾丸の他に3人の実子がいたが、いずれも早世。捨丸は秀吉に寵愛され大切に育てられた。こうして豊臣秀吉の跡継ぎを産んだ茶々は「御台所」(みだいどころ)として正室「ねね」(のちの「高台院」)に次ぐほどの地位を確立させたのである。

徳川家康との確執

1598年(慶長3年)に秀吉が没すると、それまで豊臣家の家政を執っていた豊臣秀吉の正室・高台院は出家して京都へと移住。茶々が豊臣秀頼の後見人として、高台院の代わりに豊臣家の実権を握ったが、わずか2年後の1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発。この天下分け目の合戦に勝利して天下人となったのが「徳川家康」だ。

家康は豊臣方の茶々と秀頼の責任追及をするかと思われたが、2人は西軍に加担していなかったとした。茶々は徳川家康に感謝の手紙を送り、大坂城で徳川家康を手厚く歓迎。「家康殿は徳川秀頼の父親代わりだ」と公言した。

その後も茶々は大坂城で主導権を握っていたが、家康が江戸に武家政権を築きはじめたことに不信感を募らせたが、さらに家康は将軍職を自身の三男「徳川秀忠」に譲るなどで、豊臣家に対して挑発的な行動を繰り返した。

秀頼とともに最期を迎える

1614年(慶長19年)、豊臣家と徳川家康の間でとうとう合戦が勃発する。「大坂冬の陣」である。豊臣方の兵力約10万に対して徳川方の兵力は約30万。戦力差は歴然であり、豊臣方が城の周囲に築いた砦は次々と攻略され、ついに豊臣方は降伏する。

講和が結ばれ終戦となったが、豊臣方に待ち受けていたのはあまりに屈辱的な仕打ちだった。家康は豊臣方の居城・大坂城の堀をすべて埋めたり城郭などを破壊したりして、防御機能のない城へと改造。さらに豊臣秀頼に対しては「大坂城を出て大和国(現在の奈良県)、または伊勢国(現在の三重県)へ国替するように」告げた。

憤慨した豊臣方は、わずかに残っていた兵力を集結させて再び家康に戦いを挑むが、防御機能を失った大坂城は押し寄せる徳川軍に成すすべもなく落城。茶々は、豊臣秀頼や家臣達とともにここに自害したのである。

豊臣家と徳川家の和睦成立に貢献したお初

浅井三姉妹の次女は、「常高院」(じょうこういん)の通称で知られる「お初」である。母を失い秀吉に保護されてから4年後の1587年(天正15年)、18歳になったお初は、秀吉の計らいによって7歳上の「京極高次」と結婚した。

従兄弟関係にあった2人の結婚は、当時としては珍しい恋愛結婚だったと言われている。2人の夫婦仲は良好だったが子宝に恵まれることはなかったため、お初は血縁関係にあった人や家臣の子女達の教育に積極的に関わるようになる。

1609年(慶長14年)に夫・京極高次が逝去すると、お初は剃髪して出家。「常高院」と呼ばれるようになった。甥である豊臣秀頼と徳川家康が対立するようになってからは、お初は豊臣方の使者として両家の仲介に奔走していた。そして1614年(慶長19年)の大坂冬の陣後の和睦に、徳川家康の側室である「阿茶局」(あちゃのつぼね)通称「雲光院」とともに大きく貢献した。

お初の晩年と最期

しかし、和睦翌年の1615年(慶長20年)に再び両家の間で合戦が勃発したためお初は大坂城へと向かい、最後まで和睦に尽力するも大坂城は落城。その後、お初は妹のお江と頻繁に会うようになり、お江が亡くなる直前にも二人は会っていた。妹のお紅を先に送った1633年(寛永10年)、お初は京極忠次の側室の子である「京極忠高」の江戸屋敷で64年の生涯を閉じたのである。

浅井三姉妹のなかで最も穏やかな生涯を過ごし、一番長生きしたお初。お初が亡くなった際には侍女達が一斉に剃髪をして弔意を示したと伝わっている。

幼くして両親と死別したお江の人生とは

浅井三姉妹の三女は、「崇源院」(すうげんいん)の通称で知られる「お江」である。

お江は1573年(天正元年)に近江国・小谷城で生まれるも、ちょうど小谷城は「織田信長」と徳川家康の連合軍に攻め込まれて落城。父・浅井長政は自害したため、お江は父の顔を知らないまま成長していく。1583年(天正11年)には母・市を失い、お江は姉達とともに豊臣秀吉に保護された。お江10歳の時である。お江はそのまま豊臣秀吉の養女となる。翌年の1584年(天正12年)に尾張国大野城(愛知県常滑市金山)城主「佐治一成」のもとへ嫁がされたが、1年足らずで佐治一成と離縁した。

お江の後半生とその最期

1585年(天正13年)、お江は豊臣秀吉の甥である「羽柴秀勝」と再婚し、娘「完子」(さだこ)を授かるが、なんとその年の12月に夫・羽柴秀勝が18歳の若さで病没する。

時は経ち、1595年(文禄4年)にお江は3度目の結婚。相手は、徳川家康の嗣子である徳川秀忠であった。お江は、秀忠との間に2男5女を儲け、このうち嫡子の「徳川家光」は、のちに江戸幕府3代将軍ととして活躍する。

お江は1626年(寛永3年)に江戸城で病没。その亡骸は荼毘に付され、徳川将軍家の菩提寺である増上寺に埋葬された。戦後になってから行われた徳川家墓所発掘調査によると、増上寺に葬られた将軍家一族のなかで荼毘に付されたのはお江だけだったことが判明している。お江だけが火葬されたのは、お江自身が生前に強く火葬を望んでいたためである。徳川将軍家の夫妻は、その多くが土葬を行う浄土宗を信仰、その一方でお江が信仰していたのは火葬を推進する浄土真宗だった。お江の火葬が営まれた東京都港区麻布周辺は、「日本の歴史上、最も多くの沈香が焚かれた場所」として有名だ。

姉川の戦いの舞台にある道の駅

浅井・朝倉連合軍が天下統一を目指す織田・徳川連合軍と激戦を繰り広げた「姉川の戦い」。その戦いは道の駅「浅井三姉妹の里」からわずか2kmの場所で繰り広げられた。この道の駅「浅井三姉妹の里」ではその戦いや、戦国の世に翻弄されながらも逞しく見事に生き抜いた三姉妹とその母に、思いを馳せるだけでも値打ちがあるし、長居しても退屈しない場所になっている。

駐車場は文句なし。

トイレも、休憩スペースも素晴らしい。

本駅は、農作物直売所を兼ねた物産館、レストラン、喫茶店から成るオーソドックスな施設構成だ。 構成としては平凡だが、各々の施設はかなり規模が大きい。特に物産品の品数は非常に多く、ざっと2000種類ほどあるのではないだろうか。


そして、その1割ほどにあたるおよそ200品もの商品は、本駅が位置する長浜市産のものである。それだけでも物産販売のスケールがわかろうというものだ。

これは、近江商人が有名だが、長浜市も古くから商人の町として栄えてきた歴史があり、それと決して無関係ではないと思われる。

たとえば長浜銘菓「寿浜(すはま)」は、 きな粉と砂糖を混ぜて棒状の飴のようにした菓子だ。

道の駅 | 浅井三姉妹の郷 | 寿浜

長浜市の老舗うどん店「茂美志屋」が提供する「のっぺいうどん」も本駅の人気商品だ。

道の駅 | 浅井三姉妹の郷 | のっぺいうどん

宮内庁ご用達菓子の「堅ボーロ」も長浜の伝統菓子で本駅の売れ筋商品。 その他「赤蒟蒻」「味付け赤蒟蒻」、本駅で醸造した「手作り味噌」、「ちはらせんべい」等々、枚挙に遑がない。

もちろん地元野菜の直売スケールもかなりのものだ。しかし多くの人が来るのだろう、夕刻に私が着いた時にはすでに売り切れてしまっている野菜も多かった。

自然薯料理が自慢の道の駅レストラン

物産館の横に、道の駅レストラン「浅井家」がある。 近江北部の山間部で栽培された自然薯を使った料理は、ここならではのメニューだ。
「近江牛長政御前」は 近江牛の陶板焼と自然薯が合体したメニュー。付いてくるご飯は、自然薯に合う麦ごはんだ。 「お市御前」は地元野菜の天ぷらと自然薯のセット。 茶碗蒸し、お吸い物、小鉢、デザートなど8品が贅沢に盛られている。 「浅井三姉妹御前」は自然薯に地元食材を活かした8品が付く健康志向の一品。 単品物としては「自然薯そば」「かき揚げ付き自然薯そば」などがある。せっかくなのだから、レストランを利用するなら自然薯を口にしたい。

別棟にある喫茶店では、滋賀ではお馴染みの伊吹牛乳を使ったジェラードが人気。 地元食材を活かした「季節のジェラード」がお店のイチオシ。