
旅は越前方面へ。
まずは、越前一の宮・総社である武生にある総社大神宮に参拝。
駐車場についてあまりわからなかったのでナビに最寄りのJR「武生」駅を入力。駅前から西へ真っすぐ進むと、地元では「おそんじゃさん」とよばれ親しまれている総社大神宮に到着した。

ご存知「総社」とは、旧国内の神を勧請して合祀し、国府近辺に建立したもの。国府の長である国司は赴任した国内各地の神社に巡拝することを求められていたが、あまりにも負担が大きく、国内の神々を国府近くに“総社<惣社>として一ヶ所に勧請し、総社を参拝することで国内各社への巡拝に替えたのが「総社」の始まりだ。
つまり総社があるということは、近くに国府があったということ。
では越前守(えちぜんのかみ)であった紫式部の父・藤原為時(ふじわらのためとき)も国司として“総社”を参拝したことだろう、ひょっとしたら紫式部も参拝したかも…なんて思って参拝したわけだが、それは私の完全な思い違い。
平安時代当時から武生に総社があったわけではなく、移転して現在武生にあるそうだ。紫式部の残り香は妄想、かぐわしい匂いはそこになかったw
物資輸送の中継点「河野」
昔は、ここ武生から敦賀に向かう陸路は険しく、物資輸送が非常に困難だったという。なので越前海岸の「河野」まではなんとか馬で運び、そこから日本海の各地までの輸送は海路となった。

物資輸送の重要な中継点となった「河野」に向かった。
現在の南越前町河野地区「河野」は、越前海岸の最南端、敦賀湾への入口近くに位置する。古くから府中(現在の越前市)と敦賀を結ぶ海陸の物資中継地の役割を担っていた。
江戸時代中期から飛躍的に発展した「北前航路」を利用し、日本海沿岸有数の北前船主を輩出している。
特に活躍したのが「右近家」。右近家は廻船経営で巨財を築き大豪商となり、日本海五大船主に数えられた。
北前船とは?
「北前船(きたまえぶね)」とは、江戸時代中期から明治時代後期にかけて商品を売り買いしながら(買い積み)、当時の大阪(大坂)から蝦夷地(北海道)まで日本海廻りで往復した海運船のことだ。
単なる荷物の運搬だけでなく、「海の総合商社」のような存在で、鰊肥の需要の拡大と商品価格の地域差を利用して一攫千金を狙える買積廻船だった。
全盛期には米や塩、鰊、昆布など各地の産物、日用雑貨などの生活物資を積んで1往復するだけで千両もの利益を得られたといわれるが、これは今なら約1億円に相当する。
それは日本遺産にもなった
まさに一攫千金、大金持ちの夢を抱いた多くの船乗りがチャンスをつかむために大海原へと繰り出した。そして荒波を越えた男たちが、動く総合商社として巨万の富を生み、各地に繁栄をもたらしたのである。

平成29年、北前船に関する南越前町を含む11市町で共同申請していた「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」が日本遺産に認定された。
南越前町河野の構成文化財は、北前船主の館右近家住宅や旧右近家住宅西洋館、中村家住宅などが対象となっている。
日本海沿岸有数の北前船主「右近家」
右近家が海運業を生業にし始めたのは17世紀後期頃。
代々河野に住んでいた右近家は、菩提寺である金相寺から土地、屋敷、船1艘などを譲り受け独立し、右近権左衛門家を起こした。
7代目、8代目権左衛門の頃に各地で買い入れた商品を売り買いしながら利益を出す「買い積み」商いに進出。船主自らの船での商いは、商品の価格変動による損失、海難による船や積荷の損失など常に危険との隣り合わせだった。
しかし、ハイリスクハイリターンとはこのこと。まさに荒波にもまれながら右近家は逞しく時代を生き抜き、幕末に需要が拡大した鰊肥の賞品価格の地域差を利用して暴利を貪り、もとい、利益を急増させ、9代目権左衛門の時代には年間の利益は1万2千両(現在の価格で約12億円)に達し、日本海五大船主の一つに数えられるようになった。
10代目権左衛門の時代になると廻船の数が17艘にまで増え、積石数の合計は18,000石を超える大船団となったが、明治時代中期から、北前船による廻船業は鉄道の発展などにより衰退していく。
10代目がすごいのは、そこでいち早く西洋型帆船や蒸気船を導入したこと。海運の近代化を進めるとともに、事業の転換を図って海上保険事業に進出したことはさらにすごい。彼は、日本火災海上保険株式会社(現在の損害保険ジャパン株式会社の前身)を設立したのであった。
北前船主の館 右近家

10代目権左衛門が建てた邸宅は、往時の暮らしの面影や北前船の貴重な資料を残す歴史資料館として一般公開されている。
塗籠の長屋門が海に向かって開かれ、敷地内には狭い集落道(河野北前船主通り)を挟んで山側に本宅と3棟の内蔵、海側に4棟の外蔵が建つ。本宅は天保時代の構えを基本に明治34年に建て替えられたが、豪勢な構えの平入の2階建で、上方風切妻造瓦葺の屋敷には、北前船で運ばれてきたというケヤキやヒノキ材の太い柱が使われているまさに豪邸だ。
蝋色漆塗りの床框や彫り物、装飾など随所に上方文化を取り入れた繊細な造作が風格を醸し出している。土蔵はいずれも2階建で、外蔵の南側3棟と北側1棟があります。屋根には越前瓦が葺かれ、棟先に「右近」の文字が入った丸瓦が置かれている。

屋敷には右近家のメインシップであった北前型弁才船「八幡丸」の1/20の模型や廻船問屋時代に使用していた八幡丸の船幟、船銘板、北前船の商いで使われた「船主勘定帳」、家財道具などの調度品が多く残されている。

右近家の代表船「八幡丸」はじめ、右近家の持船の帆はみな無印だった。普通、帆には帆印が入っているが、大海原でもっとも目立つためには、真っ白の帆が最も目立ち、遠くから判別しやすかっただろう。本当に賢いと思う。



右近家の船頭が船で利用した豪華絢爛な船箪笥は、右近権左衛門の略「右」「権」や家紋「茶の実」の錺金具が見られる。店印の「一膳箸」が入った印半纏や、家紋入りの提灯などから、往時の富と繁栄ぶりが偲ばれる。

本宅背後の高台には、国の登録有形文化財に登録されている2階建の別荘「旧右近家住宅西洋館」がある。11代目が建てたそうだが賢くても成金の発想か、1階の外観は地中海スパニッシュ様式、2階はスイスの山小屋風というごった煮の外観。内部は暖炉周りの色タイルや窓のステンドグラスなど随所に当時もっともモダンとされた趣向を追いかけていて、貧乏人のやっかみかもしれないが、この館にはあまり文化的価値はないように思う。

ただ一つ、この西洋館から一望できる日本海と河野の集落の眺望は素晴らしい。眼下にはお坊さんが手を合わせる姿にみえる奇岩「坊主岩(坊さん礁)」があって、海に沈んでいく夕日に手を合わせているように見える。
右近家とともに活躍した「中村家」

「河野北前船主通り」は、日本海のすぐ側の国道305号線から山側へ1本裏の路地にある。右近家とともに大きな財を築いた中村家を中心とした、南北200m程の通りである。
山々が海に迫り、また断層海岸地形で断層崖が海に落ち込む崖下の狭小な平地にある集落で、家々が海岸沿いに帯のように連なっている。

中村家は伊予国河野水軍の流れを汲み、南北朝時代の金ケ崎合戦に参戦後、河野浦(河野)に移住。明治時代以前は代々「中村三郎右衛門」を名乗っていた。
右近家の9代目右近権左衛門の弟・卯之助(中村三之丞)が中村家に養子に入ることで親戚関係になり、右近家とともに日本海有数の北前船主として隆盛を誇った。
中村家は平成27年に国の重要文化財に指定されたが、通常非公開で、外観のみが見学できる。
北前船主の屋敷構えの特徴は、海から吹きよせる海風を遮るため海側に土蔵を建て、山側に主屋を配置している点だ。南越前町河野地区の風土や生活、生業により培われてきたこの独特の景観は、雄大な日本海でたくましく生き抜いた北前船主たちの歴史とロマンが感じられる。
私の人生は「富」とは無縁だったが、彼らのように命懸けで荒波に漕ぎ出す勇気もなく、リスクも冒さず、ただひたすら家族が食べていけるだけの食い扶持を稼ぐだけで精一杯だったのだから仕方ない(笑)。
道の駅「河野」
道の駅「河野」へは、 北陸自動車道の今庄ICからは、国道365号線→国道305号線→国道8号線を通って西に15km。
私は武生から国道8号線を通って南西に17km走ったが、武生からここまでの途中は民家も少なく、田畑というものは全く見掛けなかった。
武生から河野まで、かろうじて馬は頑張ったようだが、ここは今も棚田すら許さない急峻な地形なのだ。

道の駅の標高は200m。これに対して海までの水平距離は300m。実に35度の斜度で海岸まで落ち込んでいる。 この高台から見る日本海の風景は独特で、右近家の別荘から見える日本海が真っ赤に染まる絶景も、鬱蒼とした森越しに見ることができる。

道の駅の施設は小規模
駐車場は、道の駅の規模なり。そんなに広くない。トラックの比率が多いみたいだ。




トイレは、道の駅の規模からすると、独立棟で立派なものだ。



道の駅の建物の半分以上のスペースは休憩所になっており、外の景観と合わせて、休憩環境としてはとても良い道の駅だと思う。


小さな物産館と軽食堂がある。
物産館では「羽二重餅」「福井あんころ餅」「サバへしこ」「カニ味噌」「カニ蒲鉾」「のどぐろ蒲鉾」等々、福井県の特産品と海産物が販売されている。


軽食堂では「北前そば」が人気


軽食堂は物産館の一角にあるが、ほぼ屋台のスタイル。
ここで注文して、料理は休憩所まで自分で運び、休憩所で食べる。
名物メニューは、旧河野村の発展の礎となった「北前船」を冠した「北前そば」。かつて北前船で運ばれたニシンがトッピングされている。