
香川県丸亀市にある国の史跡、丸亀城は、本丸の周りを二の丸、その周りを三の丸が囲む輪郭式の平山城です。日本一小さな現存天守を持つ城として知られているほか、高さ日本一という石垣の美しさから「石垣の名城」「石の城」としても有名です。
その丸亀城の石垣が、2018年7月7日の西日本豪雨とその後の台風で、城の南西側の「帯曲輪」と「三の丸」の石垣が2度にわたって大崩落しました。6年以上が経ち、2024年8月から復旧工事が始まっています。
修復しようとしている石垣は、元の高さが31m。崩落後に回収された石の数は、1万1746個にものぼりました。これだけの高さの石垣を復旧する前例は、日本ではありません。文化財といえ現代工法を必要最小限取り入れ、積み上げ作業は大雨にも対応できるよう排水機能を充実させながら、慎重に石を元の場所へと戻していきます。
石の積み上げ作業の第一歩は、城の南西部の「帯曲輪」の一番下の隅に約3tある石を戻したことからスタート。復旧工事の費用総額は約53億円、完成は2028年3月の予定です。

大崩落した丸亀城の石垣(2019年3月17日撮影)
4段の石垣、累計では日本一の高さ
丸亀城の最大の魅力は、壮大な石垣である。まさに「石の要塞」ともいうべき威容を誇る丸亀城の石垣は、大阪城に次ぐ2番目の高さとされるが、山麓の内堀から山頂の本丸まで4段に重なっていて、その高さを合計すると60メートル以上ともなり、累計では日本一の高さとなる。
標高66メートルほどの山に、曲輪をひな壇状に配置しているため、それを囲む石垣や建造物がおのずと密集。石垣が折り重なって見えるのと、城の面積に対して石垣が非常に多いこともあって、その迫力はすごい。

丸亀城を築城したのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで乱世を生きた生駒親正だ。親正は、美濃国(現在の岐阜県南部)に生まれ、1566年(永禄9年)に「織田信長」が美濃国の斎藤氏を攻めた際に臣下となる。「金ヶ崎の戦い」や「長篠の戦い」などに参加し、織田信長の死後は豊臣秀吉の臣下として「賤ヶ岳の戦い」や「小田原攻め」「文禄の役」などで活躍する。
武功を挙げるたびに着々と石高を増やし、1587年(天正15年)には讃岐国(現在の香川県)の高松藩初代藩主となる。当初は「引田城」(香川県東かがわ市)を居城とするが手狭だったため「聖通寺城」(香川県綾歌郡宇多津町)に移り、さらに1590年(天正18年)に「高松城」(香川県高松市)を完成させて入城した。
親正は高松城(高松市)を本城とし、西讃岐を押さえる支城として1597(慶長2)年から子の一正とともに亀山に丸亀城の築城を開始。亀山は古くは室町時代、細川頼之の家臣・奈良元安が砦を築いていたとされる場所で、城はこの地に1602(慶長7)年に完成。生駒親子は居城を高松城とし、丸亀城は一正の息子である生駒正敏の居城となった。
廃城から思わぬ展開で残った丸亀城
1615(元和元)年、徳川幕府は一つの領国に一城のみを残してそのほかを廃城とする「一国一城令」を公布。讃岐では高松城が残され、丸亀城は廃城となった。本来ならばここで丸亀城の歴史は終わっていたが、1641(寛永18)年に生駒氏はお家騒動により改易となって讃岐国は東西に分割される。同年、西讃岐国に入って丸亀藩を起こしたのが肥後天草藩(富岡藩)の藩主だった山崎家治。ちなみに残りの東讃岐国は松平氏が入り高松藩となった。
山崎家治は、天草の乱で荒廃した天草の立て直しに成功した功で5万石丸亀藩の初代藩主となったが、「大坂夏の陣」で敵の首を6つも取ったという武勇伝の持ち主だ。「大坂城」の天守や本丸の造営、二の丸の石垣造りに携わり、「江戸城」の外堀工事や「富岡城」の再建も指揮した築城の名手としても知られる。
それほど城造りを得意とした山崎家治が丸亀城の再建に採用したのは渦郭式(かかくしき:本丸の周りを建物で渦を巻くように囲んだ様式)。1645(正保2)年に再築を願い出る際に幕府に提出した「正保城絵図」を見ると、縄張がほぼ現在と一致していることから、現在残っている石垣もそのほとんどが山崎時代の築造だとわかるが、城全体が凝った造りのため、再建には時間がかかった。山崎家治は丸亀城の完成を見ることなく他界し、その子や孫も早世したため、山崎氏は3代で断絶してしまう。このため万治元年(1658年)に播磨国(現在の兵庫県南西部)龍野藩の藩主だった京極高和が石高6万67石で丸亀藩主に任じられた。これ以降明治時代まで、丸亀藩は京極氏が6代にわたり統治されたのだった。
現在の搦手口。かつては大手だった
現在の大手門。立派な枡形(ますがた)門が現存する。
本丸から北側を見渡せば、すぐ近くに瀬戸内海と丸亀港が迫っている。
現存12天守で最も小ぶり
さて、丸亀城といえば、江戸時代から残る天守を擁する城としても知られる。全国に12ある現存天守の中で最も小さい三重三階の天守は、山崎家断絶後の1658(万治元)年に丸亀城に入った京極高和によって1660(万治3)年に築かれた。天守の鬼瓦や丸瓦には京極家の家紋・四つ目結紋がある。

その後、明治時代には火災により御殿が消失。廃城令で、天守と大手門以外のほとんどの建造物が取り壊されたが、丸亀市が山上部を国から借りる形で公園化して天守を守り、土地ものちに市が有償で買い取った。昭和25年(1950年)には天守の解体修理が完成。国の重要文化財に指定されている。
道の駅「恋人の聖地うたづ臨海公園」
丸亀城から北に数キロ、瀬戸内海に面した絶好のロケーションで、海に沈む美しい夕日や瀬戸大橋のライトアップを楽しめる公園がある。
聞くところによると、2006年からNPO法人地域活性化支援センターが「少子化対策と地域の活性化への貢献」をテーマとして「恋人の聖地プロジェクト」が推進されているという。この恋人の聖地プロジェクトでは、全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定。この公園も「恋人の聖地」に認定されていて、より多くのカップルが訪れるよう、道の駅「恋人の聖地 うたづ臨海公園」として定番のデートスポットを目指しているという。
夏にはフライベントの『うたづアロハナイト』が開催され、瀬戸の夕暮れをバックに華麗なフラダンスが楽しめるというが、今どきのカップルが果たしてそんなものを見に来るのかどうか???
おひとり様、しかもジジイには肩身が狭い駅名だが、園内には、家族連れに好評の「遊具広場&芝生広場」、江戸時代から続く塩作りを行っていて作業体験もできる「入浜式塩田」などがあり、複合施設の「うたづ海ホタル」もあるというので、思い切って?行ってみた。
遊歩道からの景観はバッチリ
まず、駐車場に車を停めて、トイレを済ます。

駐車場はあまり広くなく、車を停められる場所を探すのに少し時間を要した。というのも、混雑しているだけではなく、空いていると思って行ってみるとそこは有料駐車場。無料駐車場と混在していて、わかりにくかったからだ。
駐車場脇にトイレがあって、そこを利用させていただく。


ちなみに施設入り口にも大きなトイレがあり、館内のトイレはさらに大きくて、さらに綺麗だ。






とても広々とした公園だ。




海沿いには遊歩道が整備されていた。邪魔にならないかと恋人たちを探したが、誰もいなかったので、恐縮しつつも歩かせていただいた。


遊歩道からの景観は、素晴らしい。海と島々が見えるだけなのだが、とても美しい青の世界だ。

瀬戸内海に浮かぶ島々だけでなく、ちょっと遠くにだが瀬戸大橋も見える。



「恋人の聖地」と書かれているモニュメントがあった。

ベンチの後ろに、たくさんの鍵がひっかけられているが、これは何かのまじないだろう。知らんけど。情報館に行って調べるほどの興味はわかなかった(笑)

ジジイは明らかにお呼びでない、館内の雰囲気




道の駅のセンターハウスは、宇多津町産業資料館「うたづ海ホタル」だ。ホテルではなくホタルだそうで、地元コミュニティFM・FMSUNのサテライトスタジオ「うたづ恋NAMISTUDIO」、日替わりヘルシーランチ、オリジナルヘルシージュースも用意される「Cafe ripple」(カフェリップル)、演劇・コンサート・講演など多彩な文化イベントが行なわれる「ハーモニーホール」などがある。





明らかに高齢のおひとり様には場違いな、カフェコーナー

高齢のおひとり様は、復元塩田の見物とお勉強

宇多津町産業資料館の所蔵物である復元塩田、そして旧仲枡塩田水門は、「宇多津の塩業関連遺産」として経済産業省の近代化産業遺産「瀬戸内海沿岸の気候風土に育まれた製塩業・醸造業の近代化の歩みを物語る近代化産業遺産群」になっている。
復元塩田の横に、大正15年築の旧仲枡塩田水門(国の登録有形文化財)がこうして移設されている。

この水門は、雨水など余分な水を塩田から排出する役割を担ったものだという。長大な花崗岩の柱と梁を組み合わせて築いた大規模な塩田水門で、「大正15年5月竣功、石工詫間 渡邉柳太郎」と刻まれています。1.5mスパン2門を設備した高さ5.3mの水門で、入浜式塩田に降った雨などの余水の排出用に築かれたものだという。


宇多津の製塩は、江戸時代中期の延亨2年(1744年)、讃岐国那珂郡垂水村(現・香川県丸亀市垂水町)の酒造業者・今田八五郎が古浜塩田を築いたことに始まる。
遠浅の海岸に堤防を築き、満潮・干潮の中位に塩田面を設けるという瀬戸内海の干満を利用した入浜式塩田で、浜に掘った溝に海水を導き、毛細管現象 よって砂層上部に海水を供給。太陽光と風で水分を蒸発させ、砂に塩分を付着させたところで砂を沼井に集め海水をかけて、かん水を採る。そのかん水を煮詰めて濾過し、塩を取り出すというものだった。
本格的な製塩事業が始まったのは、明治に入ってからのこと。明治4年に高松藩が150町歩に及ぶ塩田の栄築事業に着手し、明治31年の宇出津町制施行の際には古浜、陸枡、仲枡、沖枡、東浜、大東、土器、安達の8塩田と5つの塩産会社が誕生。明治36年に、「宇多津浜塩田」は完成した。
こうして明治時代には宇多津町の海岸線は塩田で埋め尽くされるほどの活況をみせたが、海水を必要としない化学製塩法の開発普及によって、昭和46年に廃業となる。
その後、昭和63年にここ「うたづ臨海公園内」に入浜式塩田が復元され、塩田で生産する塩も「うたづ海ホタル」の特産品コーナーで「入浜の塩」として販売されている(生産量は1ヶ月に120~150kg)。