
野村克也、愛称はノムさん。
プロ野球に大きな足跡を残した野村克也さんがお亡くなりになって、2025年2月11日ではや5年。戦後初の三冠王に輝いた大打者であり、数々の好投手を育てた名捕手であり、データ分析と考え抜いた戦術で日本一をかちとった名監督でもありました。
そんなノムさんですが、私が小学生の頃は「巨人・大鵬・卵焼き」の時代(笑)。多くの子どもが野球をやり、そのほとんどはジャイアンツの王、長嶋のファンでした。当時私と一緒に野球(明石市の小学生はソフトボール)をしたチームメートの遠藤隆くんは南海ホークス、そしてノムさんの大ファンでしたからそれこそ「変人扱い」でした。当時は、パリーグのファンというだけでも変人扱いされていましたから(笑)。幸い阪神ファンの私はその難を逃れていましたが(笑)。
私がノムさんのファンになったのは、遠藤くんから遅れること30数年、わが阪神タイガースの指揮をとった1999年シーズンからです。3年間指揮をとった間に優勝はできませんでしたが、赤星や新庄など俊足の選手を育てていて、ノムさんからバトンを受けた星野仙一、そして岡田彰布が相次いでリーグ優勝を果たしたのですが、2001年までにその土台を築いていたのがノムさんでした。
物心ついた頃からずっと阪神ファンの私ですが、当時は村山・バッキー・江夏の快投と、カークランド・田渕のホームランだけが楽しみの、個人プレーに頼り切ったまったく考えない野球で、その悪き体質は長く暗い暗黒時代を招いたのでした。そんな阪神の野球を3年がかりで変えてくれたのがノムさんでした。昨年日本一になったチームも近本、中野をはじめ俊足選手が揃い、四球を選び、走って、作戦で少ない得点力を補いました。ノムさん就任前はまったくといって良いほど走らなかった、そして「考えなかった」阪神タイガースの大味な野球をノムさんは一新してくれたのでした。
2025年2月11日は、ノムさんの5回目の命日です。
秋にも行ったのですが、ノムさんの生まれ故郷・網野を再び訪ねることにしました。写真はその道中、網野町から東方向の朝日を見た風景です。
「教えなかった教え子」新庄剛志は日ハムの名監督になるか
ノムさんが阪神の監督としてもっとも期待した選手といえば、1999年から野村監督のもとでプレーした新庄剛志氏(現日本ハム監督)だ。
ノムさんは彼に「宇宙人」という名をつけ、「新庄お前はファンに愛されるカッコつけて野球をやればええんや」「選手に自由に野球をやりなさいって指導したのはお前だけや」「お前は悔しいくらい可愛いな」などと、本当に可愛がった。
新庄氏は「実は野球の指導を1回しか受けた事がないんです。その一回は、ボールをしっかり芯でとらえなさい」と、ただそれだけ。新庄剛志はただ一人、ノムさんが「教えなかった教え子」なのだ。
ある日「お前は何番だったら野球を真剣にやってくれるんだ?」とノムさんから問われた彼は、「そりゃ4番ですよ」と答えたら、「次の日から僕を4番に起用し、その年プロ野球人生最高の成績をあげたからメジャーに行けたんです」と、ノムさんがメジャー移籍できた恩人だったことを振り返る。
2024年シーズン、パリーグ2位にチームを押し上げた新庄監督の手腕について、万波選手など若手をしっかり育成している彼と1999年当時のノムさんがダブって見えるのは私だけだろうか。
小学生の私が覚えているノムさん
冒頭で紹介した小学校の同級生・遠藤隆くんは、少なくとも私たちが知り合った1967年にはすでに野村さんのファンだった。
四番打者としてホームランを打ちまくっていた野村さん、そして今や伝説のピッチャー杉浦さん、彼らを育てた鶴岡さんたちのことを、聞く耳を持とうとしない私たちを前に熱く語っていた小学生の遠藤くんの語り口が懐かしい。
ちなみに彼はその後、南海ホークスが身売りして以降も、途中ダイエーを経て現在ではソフトバンクホークスだが、今でも熱心な「ホークス」ファン。小学生の頃からホークスファンであったことで変人扱いされていたが、誰からも愛される素敵な男で、決して変人ではないことを付け加えておく。
中学3年生で初めて興味を持ったノムさん
そんな彼に多少の影響を受けながらも、ノムさんって本当にすごいんだなあと心の底から思ったのは、ノムさんがなんと選手を兼任する監督として1973年に南海ホークスを優勝に導いた時である。当時私は中学3年生。ノムさんはトレードで獲得した江本孟紀投手(のちに阪神のエースとして活躍)の才能を開花させ、モットーである「考える野球」をチームに徹底した。
そしてこの年、前期と後期に分けられていたシーズンのうち、まず前期優勝を果たす。後期優勝は阪急ブレーブス。そして年間優勝をかけてのプレーオフでは後期優勝の阪急ブレーブスと対決した。阪急有利という大方の予想だったが、それを覆して3勝2敗で南海ホークスがパリーグ優勝を果たしたのだ。捕手、四番打者、そして監督の一人三役をこなしながら優勝をかちとったノムさん。それはかつて誰も成し遂げたことのない、そして今後もできないであろう偉業だった。
当時のパリーグは前後期制を取っており、それぞれで優勝したチームがプレーオフを戦い、勝った方が日本シリーズに進出するという制度だった。1973年、前期優勝を果たした南海ホークスは65試合で38勝26敗1分けで2位のロッテに2ゲーム差をつけ、プレーオフへの出場権を獲得したのだった。
ところが後期になると一転、勢いづいたのは阪急ブレーブスだった。南海は阪急との後期開幕4連戦で3敗1分けと最悪のスタートを切り、後期は結局、阪急と13試合対戦して12敗1分け。なんと1つも阪急から勝ち星を挙げられなかったのだ。阪急は14連勝を記録するなど、43勝19敗と圧倒的な成績で後期優勝する。2位ロッテとの差は5.5ゲーム、南海は3位ながら30勝32敗と勝率5割を切っていた。
当然、プレーオフの下馬評は圧倒的に阪急有利。後期で南海に一つも負けていないのだから当然の予想だった。しかし、どうせ後期優勝は無理と判断した時期から、野村南海は対阪急戦でプレーオフすら諦めているような「死んだふり」をしていたのだ。
「死んだふり」をしつつ
死んだふりをしながら野村克也選手兼監督が考えていたのが、徹底的な「福本封じ」だった。プレーオフは3勝先取である。南海が3つ勝てるとすれば、そのカギは前年の106盗塁に続いて、この年も95盗塁でタイトルを獲得していたリードオフマンの福本豊をいかに封じるかに尽きるのだ。
ノムさんは、前期後期の間のオールスターのベンチで、福本に盗塁の極意を直接聞いていた。
「盗塁は捕手の送球よりも、投手のモーション次第だ」と福本は返答していた。モーションを完璧に盗むことができれば、捕手がどれだけ良い送球をしようとセーフになる。それなら投手のモーションを小さくして、盗塁の隙を与えなければいいと、当時38歳の選手兼任監督ノムさんは考えた。
佐藤道郎の「クイック投法」
そして、プレーオフでノムさんが徹底したのは「クイック投法」だった。今でこそ、走者を背負うと投手は当たり前のようにクイックモーションで投げるが、当時はクイックと言えるほど精度の高いものではなく、どちらかといえば「すり足投法」のレベルであり、クイック投法をできる投手は南海の投手陣にもほぼいなかった。プレーオフまでの短期間でフォームを改造するのは無茶な話。その中で1人だけクイックで投げられたのが、佐藤道郎だった。リリーフ投手としての適性を見出していたノムさんのもとで、佐藤は1973年も11勝をマークしていた。フォーム的に足を上げてもすり足でも、球威に大きな影響はなかった、当時は珍しい投手だった。
そして迎えたプレーオフ。南海の本拠地・大阪球場で行われた第1戦で、いきなり福本に先頭打者本塁打を打たれたものの、南海は2回に3点を奪って逆転する。
そして6回、福本は佐藤道郎からヒットを放って出塁する。ノムさんが戦前から想定した場面である。福本の盗塁を阻止できれば、プレーオフ全体の流れをつかむことができる。
福本は当時、次打者のカウントを悪くしないよう、盗塁を仕掛けるなら3球目までというポリシーを持っていた。しかし初球、佐藤の今までにないクイック投法にタイミングが取れず、福本は1塁から動けない。2球目、3球目も福本は動けなかった。佐藤のクイック投法の効果はてきめんだった。そして後続を打ち取り、初戦をものにした南海は、第2戦と第4戦は落としたものの、第3戦と第5戦に勝利して、見事にパ・リーグ優勝を果たしたのだ。

後期で阪急に12敗1分けと1勝もできずにまるで「死んだ」かに見えていた南海。圧倒的不利と言われていたのにプレーオフを制した野村南海のその奇跡的勝利は「死んだふり」と呼ばれ、後期の阪急ブレーブス線に一つも勝てなかったのは、わざと負けていたのではないかとも詮索された。
もしこの頃「流行語大賞」というものがあったなら、「死んだふり」は間違いなく選ばれていただろう。
峰山高校時代から「知将」の片鱗が
ノムさんは高校時代、京都府立峰山高校で野球に没頭した。捕手であり、主将であり、そしてもちろん4番打者だった。私が道の駅「海の京都 宮津」で仮眠し、そこからノムさんの生まれ故郷である網野へ向かったのは、その途中に、その峰山高校があって、一目見たかったからだ。
高校時代のノムさんは、廃部の危機にあった野球部を懸命に盛り上げ、京都大会に挑んでいた。以下はノムさん自身の、高校時代の回想だ。
「峰山高校がある京都府峰山町(現・京丹後市)は、京都市から100キロ以上離れた田舎町。当時は交通手段が発達していなかったので、都市部の高校との練習試合をセッティングするのも一苦労でした。野球部員はみな素人だったうえ、ちゃんと野球を教えてくれる指導者もいなくて、私たちは自己流で練習するしかなかった。当然、チームが強くなるわけもなく、府大会に出てもいつも1回戦や2回戦であっさりと負け、甲子園出場など夢のまた夢でしたよ。
そんな高校3年間で一番の思い出といえば、廃部の危機を乗り越えたことですかね。あるとき、職員会議で野球部を廃部にするという話が出たんですよ。野球部には12、3人しか部員がいないのにも関わらず、単位が取れない生徒が5、6人もいた。陰でタバコを吸っている生徒が何人もいて、いわば不良集団ですよ。私は吸わなかったですが、勉強は大してできませんでしたからね。そうした学業を疎かにしている連中ばかりの野球部は潰してしまえということだったようです。その先頭に立っていたのが清水義一先生でした。
ただ、私としては、いくら弱小とはいえ、野球部がなくなってしまうのは困る。プロ野球選手になるという夢が潰えてしまうわけですから。そこで、野球部を守るために、ある作戦を思いついたんです。
清水先生はお寺のお坊さんでもあったんですが、スポーツにはまったく興味がありませんでした。当然、野球のことなど何も知りません。でも、小学生の2人の息子さんが野球が大好きだった。そこに目を付けて声を掛けたんですよ。「今度、峰山高校野球部の練習試合があるから応援しに来いよ。そのとき、お父さんも絶対に連れてくるんだぞ」と。そして、実際に子どもたちが清水先生を試合会場に連れてきてくれたんです。
今と比べると、当時は娯楽が少なかったですし、スポーツの中でも野球人気が際立っていた時代。試合当日はグラウンドの周りに町民がたくさん集まってきてね、ずっと声援を送ってくれるんですよ。その熱狂ぶりを目の当たりにして、清水先生も参っちゃったんでしょうね。「野球ってすごいな。こんなに人気があるのか」と興味を持ってくれて。私としても、子どもたちから誘われれば一緒に来るだろうし、とにかく野球を見てもらえば楽しさをわかってもらえると思っていましたからね。その後すぐに、「野球部の部長をやってくれませんか。野球経験がなくたって問題ないですよ」とお願いし、快諾してくれたことによって野球部を守ることができたんです。
そんな清水先生は我が人生の恩師と言える方なんですが、今振り返っても、人生の節目節目でいろいろな方々に助けてもらってきました。つくづく人には恵まれているなと思いますね。」
この回想を本で目にした時、私は本当に驚いた。野球部廃部を回避するための、あまりに見事な戦略と戦術であり、何よりこのような、人間の、大人の、心理や立場を巧みにつくということを高校生が考えついたことに。まさに「知将」の「原点」を垣間見る思いがした。
ノムさんが阪神監督時代に2軍が戦った峰山球場
峰山球場は1995年に完成した球場なので、ノムさんがかつてここで甲子園を目指して戦ったというわけではない。ノムさんが果たせなかった「甲子園出場」を、のちにノムさんの後輩たちが果たしたのが第71回選抜高校野球大会。ノムさんの母校・峰山高校が甲子園に初出場した際の記念碑がここにある。
また、峰山球場ではウエスタンリーグにおけるオリックス主催の試合が1996年から毎年行われていて、阪神タイガースとは1998年以降対戦が始まった。翌年にタイガースの監督に就任したノムさんにとっては、2軍戦とはいえ3年間、まさに故郷に錦を飾る試合だったのだ。
ベースボールギャラリーを訪ねて
峰山球場を後にして、私はノムさんの生まれ故郷である網野に向かった。途中、海に近づいて網野町へと向かった道のりはとにかく民家が少ない、というかほとんどなかった。

そして、野村克也ベースボールギャラリーに到着。網野町の地場産業振興のための施設「アミティ丹後」内にギャラリーがある。ちなみにアミティ丹後ができた場所は、ノムさんの母校・旧網野小学校の跡地である。


アミティ丹後に着くと、野村克也ベースボールギャラリーの看板がすぐに目にとまった。中に入ると、野村さんゆかりの品々や写真がずらり並んでいる。選手時代の大記録の数々が表と数字で示されていて、年表の野村さんの歩みを再度確認。網野町で過ごした幼き日のこと、南海時代の若き日の写真、野村さんが寄贈したトロフィーや楯などを拝見した。
ノムさんが一升瓶を振り続けた八丁浜
ギャラリーを後にした私は、ノムさんが育った家がかつてあったとされる場所を教えてもらい、そこに向かった。今は何も痕跡が残っていないので、「だいたいノムさんの生家があったあたり」という曖昧なことではあったのだが。
ノムさんは幼くして父を亡くし、「このあたり」にあった極貧の家庭で育った。新聞配達やアイスキャンディー売りをして家計を助けていた。
「貧乏が嫌で嫌で最初は歌手を目指した。美空ひばりさんがひとつ(年)下で『よし、おれも歌手になろう』と一生懸命音楽をやったんですけどダメでした。その次に俳優。でも鏡に映る自分の顔を見てダメだなと」と断念したという。まあ、この顔では確かに無理だったかもしれない。

野球は得意だったが、ユニフォームやミットなど道具が必要で、ノムさんはそれらを母親に買ってくれと言えなかった。
「ずっと野球部にいたがユニフォームがなかった。試合に行くときは後輩にユニフォームを借りて行っていた。野球をやるような環境じゃなかったので、母親に随分反対された」と振り返っている。
しかし、ノムさんは得意だった野球でなんとか身を立てて母親に楽な生活をさせてやろうと奮闘努力。お金がないので自前のバットはなく、海水を入れた一升瓶を、家の近くの砂浜の上で毎日振り続けていたという話はよく知られている。
八丁浜は、ノムさんの家のあった場所からもっとも近い海岸だ。

この八丁浜に、野村少年は毎日足を運んでいたに違いない。
貧乏だったので白米を食べることができなかったという母子の極貧生活の中で母への感謝を忘れず、夢をあきらめなかった少年の不屈の思いに胸が熱くなった。
八丁浜から西の海岸。

そして八丁浜から東の海岸。ちなみに、網野から離れていくほど海岸沿いの景観は美しい。










道の駅「海の京都 宮津」から峰山を通って網野へ
今回私は、峰山高校、峰山球場を通って、ノムさんの生まれ故郷・網野を訪ねたが、出発点は道の駅「海の京都 宮津」。旅の起点であるこの道の駅で、しばし仮眠をとってから「現地」に向かった。

京都府北部の日本海に面した宮津市といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天橋立」だろう。日本三景の一つである「天橋立」まで、この道の駅「海の京都 宮津」からはわずか2.5キロ、車なら5分もかからずに到着できる。 しかし、すでに何度も行っている上に、いつもやたらと人が多い。ついでとはいえ、どうにも再訪する気にならないのだ。なので、今回はノムさん没後5年の、「ゆかりの地巡り」の起点として、ここで「仮眠」のみさせていただいた次第である。
道の駅にレストランがないのは珍しい
道の駅「海の京都 宮津」の施設内にある直売所(物産館)はそれほど大きな規模ではない。




物産館では、野菜類もさることながら、宮津産コシヒカリ「つやっ娘」が目についた。


そしてなんといっても丹後の地酒だ。そして海産物も。




宮津湾の幸を用いた「イカの糠漬け」「鯖へしこ」「いわしちくわ」「とっくりイカ」等、酒好きにはたまらないものがたくさん販売されていた。



実は、道の駅「海の京都 宮津」に、レストランなどの飲食施設は存在しない。 本駅は、「市街地まるごと道の駅」というテーマのもと、 商売を主目的とする多くの道の駅とは異なって市内観光の拠点とするために建設された施設とのこと。

本駅に車を停めて、市内の観光地を巡回してもらうことを目的とした新タイプの道の駅ということで、飲食したければどうぞ市街地でお楽しみくださいということらしい。
だから、すぐ隣に民間の大規模施設「ミップル」がある。 ここは夜11時まで営業しているので、道の駅で車中泊しようとする人にも役立つかもしれない。
そして、そんなコンセプトだから、駐車場も十分広い。写真下の右手に見えるのがその商業施設だ。
休憩や仮眠目的なら使い勝手よし!




休憩する目的で訪れても、十分に満足できるだろう。ただ、トイレはもう少し大きな規模が欲しいかも。

