内藤昌秀が晩年に守っていた箕輪城から彼が散った長篠へ。道の駅「もっくる新城」で仮眠(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備○立地○)

内藤昌秀は、戦国時代の武田家臣団において「不死身の鬼美濃」こと馬場晴信とともに「武田四天王」と称される。

彼は4度にわたる川中島の激戦を潜り抜け、信玄亡き後は勝頼を支え、最期は長篠の戦いで散った「忠義の武将」としてその名を後世に残した。

昌秀は信玄の代表的な戦には全て参加し、常に武功を立てていたが、信玄からは一度として感状をもらうことがなかった。このことについて信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」(甲陽軍鑑)と評し、敢えてのことだったし、一方昌秀も、「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなど気にもかけなかったという。まさに信玄と昌秀の信頼関係の厚さを示すものである。

内藤昌秀の評価は、上記の武勇に秀でた側面もさることながら、晩年の箕輪城における「城防衛の手腕」においても高い。戦国時代の武将の多くが合戦での活躍のみを称えられるなか、彼は在地領主との関係構築や、城下町の整備などに、優れた政治手腕を大いに発揮した。

昌秀は5年間箕輪城と領地を守ったが、天正3年(1575)の長篠の戦いでその生涯を終える。

昌秀を含む多くの重臣を失った武田勝頼は、その後も織田・徳川連合軍と戦い続けたが、もはやそこまで。
天正10年(1582)、武田家は滅亡の時を迎えたのだった。

箕輪城の歴史

箕輪城が築城されたのは永正9年(1512)の事で、この地を治めていた長野業尚が築いている。

上野の地は、関東管領山内上杉家が権勢を落とし、永禄元年(1558)に上杉憲政が越後に亡命した後は北条氏康、武田信玄そして上杉正虎が侵攻を繰り返す騒乱の地となった。

長野氏はそのような状況下でも勢力を伸ばし、長野業尚の孫・長野業正の代には最も版図を広げる。しかしその長野業正が死去すると、永禄9年(1566)、武田信玄は難攻不落だった箕輪城をついに落としたのである。

信玄は、元亀元年(1570)頃に内藤昌豊を城代に任じたが、長篠・設楽原の戦いで内藤昌豊が戦死すると彼の子・内藤昌月が城代となった。

箕輪城址の見事な桜

箕輪城は規模の大きな中世の古城としての存在価値が高く、日本100名城にも選ばれている。その縄張りは南北に長く約1.1km、東西は0.5kmもの広さがある。

彼が晩年に守った箕輪城は、現在も遺構が残っているが、本丸・二の丸・三の丸と続くその複雑な曲輪構造は、戦国期の山城の究極の姿。そして、当時の築城技術の高さを物語る存在である。
城域のほぼ中央に、東西方向に大堀切がある。

その北側に三の丸、二の丸。二の丸には見事な桜の下に東屋が。

上田から奥三河へ

武田信玄の領地拡大で、晩年に北東の上野の地を任され箕輪城を守った内藤昌秀だが、織田・徳川連合と武田軍が戦って昌秀が命を落とした長篠の戦いがあった場所は、ずっとずっと南西方面。

現在の群馬県高崎市箕郷町西明屋の箕輪城から昌秀が長躯戦地長篠へと向かった、その道のりを車で走った。

いつもなら高速道路は極力使わない私だが、さすがに前橋ICから新城ICまでは高速道路を使った。

新城ICを降りれば道の駅「もっくる新城」、そして長篠の戦いの戦場はそれぞれ100m単位の距離感である。

写真は長篠合戦のぼりまつり(長篠城址):奥三河観光ナビより

道の駅「もっくる新城」で休憩

道の駅「もっくる新城」には、新城ICを降りるとあっという間に到着する。

駐車場には結構の台数の車が。かなり人気が高い道の駅と拝察される。長旅だったので、トイレに行った後、仮眠させていただいた。

「もっくる」とは、「木材・来る」という意味。

ぬくもりを感じる木材をふんだんに使用したトイレは、かなり奇抜なものとなっている。

奇抜といえば、かつては便器の上方に徳川家康、織田信長、武田信玄など、三河地方ゆかりの戦国武将に関するパネル説明があって長篠の合戦の場所らしいアピールをしていたらしい。
しかし、おそらくそれを読みながら用を足していると集中力が薄れ、便器の外に撒き散らす人が続出したのだろうか、そのパネルは便器から大きくずらしてかけられていた(笑)。
それにしても、どうよ、この便器と便器の離れ方(笑)。殿様気分になる演出?

休憩は、トイレだけ、自販機で飲み物を買うだけ、プラス駐車場近くでのちょっとした休憩、施設内での長めの休憩など、都合に合わせて取りやすいと思う。

鶏肉、鹿肉、熊肉も

本駅には、農作物直売所を兼ねた物産館、フードコート、五平餅などの出店、足湯がある。

物産館部はいってまず目につくのは、レジ正面にある道の駅オリジナル商品コーナーだ。

新城市オリジナルブランド鶏「錦爽鶏(きんそうどり)」を使った「鶏白湯ラーメン」「鶏白湯ドレッシング」や、熊の骨で出汁を取った「熊骨ラーメン」や「熊カレー」、「鹿カレー」など新城市で獲れた熊肉や鹿肉を使ったジビエ商品が並んでいる。

ちなみに「熊肉」は、冬眠に入るためにさんざん脂肪を溜め込んだところを仕留められた熊なら、その肉は実はめちゃくちゃうまい。ハンターがやっておられる山奥の店でいただいたことあるが、あまりのうまさに驚いた。ちょっと高いが「生熊肉」も売っているので、一度お試しを。

ここは織田・徳川連合と武田軍が戦った長篠の戦いがあった場所なので、 これに因んだ「長篠合戦鉄砲玉(豆菓子)」「信長公記(ミルクまんじゅう)」「信玄餅」など土産物選びも楽しい。

農産物直売コーナーには、地産の果物や野菜、山の幸などがたくさん。

「ラの壱」直送のラーメンなどが人気

道の駅のフードコートの充実ぶりがすごい。

フードコート入り口にある「奥三河製麺」は、名古屋を中心に11店舗を持つラーメン店「ラの壱」と提携。 「ラの壱」の店舗ではないが、麺とスープは「ラの壱」のものを使用し、「ラの壱」の味と地元ジビエを組み合わせた道の駅オリジナルのラーメンで勝負している。

フードコートでは定食メニューも豊富。米価高騰のおり今後どうなるかわからないが、ご飯と味噌汁はおかわり自由。どの定食も1000円程度で満腹になるまで食べられる。

最強のモーニングタイム

このフードコート、実はモーニングタイムに真髄がある。
朝8時から10時45分(10時20分ラストオーダー)の間食べられる卵かけご飯モーニングが最高なのだ。

卵かけご飯といっても生卵ではなく新城産の温泉玉子。卵かけご飯は600円、プラス130円でお味噌汁が飲み放題。以前は卵がなんと食べ放題だったが、卵の高騰により今は3個まで。追加で食べたい場合は1個あたり30円出せばいい。まあ3個で充分、コレステロールの撮り過ぎもあかんし。

券売機でチケットを購入して従業員の人に渡すだけ。

卵かけご飯といっても、いろいろトッピングできて、自分だけの卵かけご飯が楽しめる。和・洋・中お勧めレシピが書かれているので、それを参考に自分流にアレンジすればいい。ご飯やお味噌汁はセルフサービス(おかわり自由)で。

卵3個を、和、洋、中それぞれに使って卵かけご飯を3杯いただいた後、最後は美味しいお出汁をかけてお茶漬け。

この他にも、オクラや柴漬け、胡瓜の漬物、素揚げ午房、葱などなどいろんなトッピングがあるので、可能性は無限大だ(笑)

朝からそんなに食ってどうする?と後で自問自答する、そんなモーニングなのである。

フードコートのほかに出店も

出店では、名物「鶏とろ串」「豊橋うなぎ」「五平餅」「超あらびきフランク」「ホットドック」「ソフトクリーム」などが食べられる。