
37年ぶりに、雲仙・普賢岳を訪れた。
しかし、そこにあった山の姿は、37年前に見た普賢岳とはまるで違っていた。

かつてはこの写真のような山だったように思うが、今、その普賢岳の横にはそれよりも高い平成新山が、冒頭写真のように聳えている。

雲仙・普賢岳が噴火したのは、私が初めてここを訪れた1987年から3年後の1990年11月17日、今から35年前のことだった。 翌年には火砕流、土石流が発生し、甚大な被害をもたらしたあの大惨事を記憶しておられる方は多いと思う。
私の友人・石津勝君のお兄さん、毎日新聞の報道カメラマン石津勉さん(当時33歳)も、ここで殉職された。
当時私はリクルートの本社、つまり東京にいたが、石津勝君から訃報が届いた。
「兄のことを見送ってあげてほしい」
私は当時の、藤田某というそれこそ人でなしの上司に通夜と葬儀の2日間の休暇願いを申し出ると、「お前、そんなことで休んでる場合か?」と言われたが、そんな愚か者は完全に無視。会社を辞める決意も完全に固まった。
私はすぐに銀座の本社を後にして、石津勉さんの通夜葬儀に参列すべく彼の故郷、大阪の吹田に向かった。
その新幹線の中で、彼が死ななければならなかったその経緯を、かき集めたその日までの報道記事を克明に辿っていたことを、今も鮮明に思い出す。
溶岩ドームの出現と最初の火砕流
大惨事の前年1990年11月17日、198年ぶりに目覚めた普賢岳の火口からは白い噴煙が立ち上っていた。
年が明けると、その活動は徐々に活発化していく。1991年5月には、火口からマグマが次々に押し出されて積み重なった「溶岩ドーム」が出現した。

写真は、1991年5月23日に中田節也さんが撮影した溶岩ドーム。地獄跡火口を埋め尽くした様子、上方に島原市内が写っている。
溶岩は、含有する成分によって、また火山ごとに性質が違う。
ハワイ島キラウエア火山の溶岩は、水のようにサラサラと流れるが、普賢岳のように粘度が高い溶岩は、地表に出るとこんもりと盛り上がり、これを「溶岩ドーム」という。
さらに普賢岳の火山活動はさらに恐ろしい展開を見せる。
マグマの湧き出しが続き、最初のドームは真っ二つに割れて細分化し、激しく噴気を上げた。
ゴロゴロとした溶岩塊で地獄跡火口は埋め尽くされ、盛り上がった溶岩は火口からあふれて東側の急斜面に迫り出し、その姿が麓の島原市内から見えるようになった。
そして、あの火砕流が起こる。
火砕流というのは、高温(500~1000度)の溶岩塊や火山灰、ガスが混然一体となり、時速100~200kmの猛スピードで流れ下る現象だ。発生の原因や形態はさまざまだが、普賢岳の場合は、成長した溶岩ドームが自分の重みを支え切れずに割れて、山腹を転がり落ちたことで、最悪の火山災害となった。
「6・3大火砕流」の発生
「普賢岳が爆発したぞ!」。
それが大火砕流とわかったのはしばらくたってからだった。
黒雲が空を覆い、熱い火山灰を含んだ泥雨がボタボタと落ちてくる。
鼻をつく硫黄の不気味な臭い、途切れることなく鳴り響くサイレン。
温泉を抱える静かな城下町、長崎県島原市は一瞬にして地獄に変貌した。町中に、パトカーと救急車がサイレンをうならせ、自衛隊の装甲車がキャタピラを鳴らして走り回る。市民は少しでも安全な場所を求めて逃げ回った。
石津勉さんはじめ毎日新聞の3名と連絡が取れなくなった。
行方のわからない仲間3人に、前線本部のマイクが「応答せよ」と絶え間なく呼びかけたが、夜になってもなんの応答もなかった。
知事からの自衛隊の出動要請を受けて陸上自衛隊大村駐屯地から駆けつけた装甲車が、翌6月4日、被災地に突入して遺体を回収して行く。
上流に進むほど遺体の損傷は激しく、全身が高熱で炭化した遺体も発見されていく。
人を気遣う優しさが仇となったか
毎日新聞の行方不明者は、写真部の石津勉カメラマン(当時33歳)、原稿や写真の送信を担当する技師の笠井敏明さん(当時41歳)と斉藤欣行ドライバー(当時35歳)。
斉藤さんが運転する無線付きの社有車(ラジオカー)に、石津さんと笠井さんが乗っていた。
大きめの火砕流が起きた午後4時ごろ、この社有車は水無川の中流にいたという。
このとき、石津さんは近くにいた後輩のカメラマンに「ちょっと上がってくるわ」と言い残して、上流に向かったという。そしてその直後、大火砕流が上木場地区を飲み込んだのだった。
あるカメラマンは「石津は一番上流にある民家の住民と仲よくなっていたから、あの家はどうなったかと心配して上ったんだろう」と語っている。
「私の友人である弟の石津勝と、そっくりだな」と私は思った。
彼もまた、兄と同じように、自分のことより人が心配。とことん優しい人間だから。
毎日新聞の3人は数日後、収容された遺体の中から確認された。
歯形や遺品、わずかに燃え残った着衣などが決め手となった。
「6・3大火砕流」は、43人の犠牲者を出し、島原市北上木場町など普賢岳南麗が壊滅させた。犠牲者は43人に達したが、地元住民3人の遺体はとうとう見つからなかった。
一般住民の犠牲は6人と少なく、消防団員12人、警察官2人、外国人火山学者3人のほか報道各社がチャーターしていたタクシーの運転手を含め、取材陣が20人にも達したことが、この惨事の特徴だった。
このことが、のちに“加熱報道”批判を巻き起こすことになる。
プロたちの殉職を誰が批判できるのか
外野の人間が、加熱と批判することは容易いことだ。批判などコタツの中でミカンを頬張りながら誰にでも簡単にできることである。
しかし、彼らはプロなのだ。
事実、あの大火砕流の直後、燃え上がる被災地にナナハンのオートバイで突入した毎日新聞のカメラマンがいる。「大火砕流発生」を伝える朝刊社会面トップは、このカメラマンの現地ルポだったが、実はこのルポは、別の記者がこのカメラマンから現地の状況を聞き出して書いたものだった。
彼は灼熱の火山灰を踏み、燃える民家やなぎ倒された木々の横を通りながら、パトカー内で警察官が息絶えていた場所までたどり着いたが、実は彼の目的は取材ではなかった。
彼は、自分の身の危険をかえりみずに、彼は3人を探しに行ったのだった。
このカメラマンは帰ってくるなり、「石津たちはだめだ」と涙を流して叫んだという。
「そんなことで休むな」と言った私の上司だった藤田とはまさに真逆。血が通った人間らしい彼に対しても。
誰が、どうして、何をもって「加熱」などと批判できようか。
普賢岳の噴火活動は1994年以降激減し、火山噴火予知連絡会は1995年5月25日に「雲仙・普賢岳のマグマ供給と噴火活動はほぼ停止状態にある」とのコメントを発表、約4年半に及んだ噴火活動は終息した。 噴火活動によって形成された溶岩ドームは「平成新山」と名付けられ、今、私の目の前に聳えている。
標高1483m、雲仙で最高峰となった昭和新山。
山頂に鋭く突き出た岩の隙間からは、時折わずかに噴気が立ち上っていた。


道の駅「長崎街道鈴田峠」
道の駅「長崎街道鈴田峠」は、長崎自動車道の木場スマートインターチェンジから県道257号線と国道34号線を用いて南東に約5km、 長崎県の中央部で大村市と諫早市の市境付近。長崎市からは長崎街道を走り、島原街道で雲仙へと向かう、その中間地点の北の鈴田峠にある。
そんなに大きな施設ではないので、駐車場もそんなに広くはない。


トイレも、施設規模なりにコンパクトなものだ。


ただ、人も少なく、休憩環境としてはとてもいいと思った。



鈴田峠農園の施設も
道の駅の施設としては、情報・休憩コーナー、喫茶・軽食コーナー。鈴田峠農園経営の農作物直売所とレストランが隣接している。厳密に言うとこれらは道の駅施設には含まれないが、 同じ敷地内にあるので、利用者側から見れば全部含めて「道の駅」だ。

農作物販売所の中に、僅かながら特産品販売コーナーが存在する。
農作物直売がメインで、その商品の殆どは地元の大村市と諫早市の農作物。 地産地消の役割を果たしている施設となっている。

野菜の種類としては、普通のスーパーでも見かける一般的な物に混じって、 ザボンや黒ニンニクが販売されていた。



物産品コーナーでは、上等な長崎カステラからお買い得の「長崎カステラ切り落とし」まで、 長崎カステラが目立つ。
こし餡をカステラで巻いてオリゴ糖で包んだ大村市名物の「かす巻き」も美味しそうだ。

