23作目の顔は、どうしても笑わない。笑顔の君が、どうしても描けない。「越生さん、悔しいですよ」って。大好きなお前がそう言ってるんだよ。嗚呼、池辺!

池辺正博くんとの出会いはかれこれ40年前に遡る。
当時まだ駆け出しの営業マンだった彼が、制作課長になったばかりの私のデスクにやってきて、こう言った。

「私、池辺正博といいます。実は日立造船さんを担当することになりまして、日本のビッグビジネスにご参画いただけることになったのですが、ご存知のようにもう原稿締め切りは過ぎているのに書いてくれるライターさんが見つからず、掲載をお断りしなければなりません。どうしたらいいでしょうか。」
しばし沈黙。

その間、彼は私の顔をじっと見つめて目を逸らさない。

彼を知る人は皆、彼の、子鹿のようにつぶらな瞳にこうしてやられてしまうのだ。

「よっしゃ、わしがなんとかしたる!」

私はその日、業務を終えてから、徹夜で8ページの原稿を書き上げ、本当は制作課長としてはやってはいけない「超法規的措置」で日立造船さんの掲載にこぎつけたのだった。

ブラック企業のブラックナイト

彼との長い付き合いは、その時から始まった。

一筋縄ではいかないビッグクライアントの原稿制作を頼まれるようになったが、それは「正しい制作課長の使い方」ではない。

いつも2人の仕事が終わってからの、夜中の打ち合わせだった。
二人はよく飲んだし、飲み仲間で行った店の数は数えきれない。

しかし二人だけで仕事の話をする時には、とっておきの隠れ家的な場所があった。

「ローゼン」という新御堂筋のスナックだ。

そこで、朝まで打ち合わせしたことは、数えきれない。

打ち合わせの途中で彼が歌い始める。高音がよく伸びて声量半端ない。私も歌い、酒も仕事に必要ないやろと思いつつ?朝までにはかなり飲むわけだが、残業代を一切請求していないので業務中の飲酒には当たらない、お許しいただけるだろう。

実は不謹慎極まりないが、昭和天皇の崩御はその店を朝方に出て大あくびをしたまさにそのとき、昭和64年1月7日午前6時33分、出勤を急ぐサラリーマンが「天皇崩御!」と大声で叫んだから、リアルタイムで知ったのだった。私たちは泥酔に近かった。

仕方ない。

2人は、今では考えられないような昭和のブラック企業で出会い、しかも二人だけのブラックナイトを互いに望んで送ったのだから。

もちろん彼の結婚式にも出席したし、乱れに乱れた式当日の新婦との大喧嘩も知っていたし、彼が東京に転勤した直後には新居にも遊びに行った。リビングにはなんと電子ピアノが置いてあって、例の美声でジョンレノンの「イマジン」、ビリージョエルの「素顔のままで」を器用に弾き語ってくれた。

ちなみに2年後の私の結婚式ではその弾き語りを余興にリクエスト。

私がピアノの弾き語りを始めたのはそれから20年後のことだから、彼は弾き語りでは大先輩だった。

お笑い&阪神&酒好きのクリスチャン

彼は、大阪の四條畷高校から京都大学法学部に進んだ、世間一般の尺度で言うと、エリートだ。

知る人ぞ知る「高坂ゼミ」で、法律をガリガリ勉強していたわけではなかったが、法務の仕事に異動し、会社を辞めてからは司法試験にも挑戦した。
彼が東京から関西に来る際、私が東京に行った際には、互いに連絡を取り合って、しばしば飲んだ。

私が某ゴルフ場のコンサルに入った際には、当時たまたま彼はバリューゴルフに転職したところで、早速相談もした。彼が好きな落語家「かい枝」さんの一人会にも一緒に行ったし、私がライブをすると彼はいつも万難を排して駆けつけてくれた。

お笑いと阪神が好きな2人は、M-1について、吉本について、そして阪神タイガースについて、大いに語り合ったが、はっきり言って底なしの二人、酒はなんでも来い、何本でもだ。

とにかく、彼とはとことん飲んだ。

写真の説明はありません。

9年前の秋には、私の2度目の東京赴任を知るやいなや、借りたばかりの「目黒かむろ坂アジト」に酒を持って駆けつけてくれ、二人で朝まで飲み明かした。

写真の説明はありません。

彼はカツラをつける必要はなかったが、私に付き合って?私の商売道具のヅラをつけて飲んでくれた。
その時は、まだ病魔には侵されていなかったはずである。

私が彼の闘病を知ったのは、今からちょうど4年半前の、7月20日だった。

新橋で飲んでいて、彼がポツリとこう言ったのだ。

「実は、厄介な病気になってまして。さてどうなることやら。」

一を知って十を知る、そんな阿吽の呼吸が二人にはあった。だから、その話にツッコミを入れることもせず、ただならぬ病気と闘い始めた彼を励まして別れたのだった。

昨年末には、クリスチャンでもない分際で、長崎の平戸ザビエル記念教会に行って祈りを捧げた。
そして今年の1月2日、東京に行くから会おうよ、と彼にメールを送った。

もちろん、FBでの人生師匠ばりのボヤキが影を潜めて久しく、大好きな軟式テニスの仲間の試合も見るだけになり、彼の誕生日には相当の体調不良を伺わせる投稿も見て、ただならぬ状況にあることを察したからだ。

だから、どうしても会って、闘病を励ましたかった。

覚悟はしていたものの‥

返事が返ってきた。
「越生さん、明けましておめでとうございます。 当方は12月26日に緊急入院し、ギリギリ大晦日に退院できました。今は、妹が広島から来て在宅介護をしてくれています。 なので、一人で外出するのは、少なくとも暫く先になります。すみません。」

私はいよいよ深刻な事態を知った。
数日後に、彼と仲の良かった愛ちゃんに電話をして、池辺の話をした。

本当に心配なんやと現状を共有した。

彼女も私も、覚悟はせざるを得ないことをもはやわかりあっていた。

そして。

予期していたとはいえ訃報はとうてい受け容れ難く、夜になっても眠れなかった。
なので私は、彼の笑顔絵を描き始めた。

紙に涙がポタポタと落ちる。

顔は思い浮かぶし、FBを見れば写真はたくさんあるし。

でも、彼のあのちゃめっ気たっぷりの笑顔を描きたくても、どうしても彼の笑顔が描けない。

私の気持ちは悲しすぎるし、彼の気持ちは悔しすぎる、当然だろう。

日々追い込まれる彼に、最期の最期まで大きな愛で様々なご配慮を賜った大條社長には、友人として心より御礼申し上げたい。

池辺。

辛かったな。

しんどかったやろ?

せめて、天国で、まず原さん見つけて、ぼやき会いながら飲んだくれとけ。
わしか?

30年後ぐらいに行くわ。

まだまだ先やけど、待っとれよ。