2023年阪神タイガース日本一。見届けられずに亡くなった横田慎太郎の背番号24を掲げて宙に舞った岩崎投手の横で、その袖に手を通した4番打者・横田慎太郎の身体が一緒に舞っているのが確かに見えた。

この記事を書いている2025年12月16日。かつて横田慎太郎選手がつけていた阪神タイガースの背番号24を、来シーズンは新外国人のキャム・ディベイニー選手がつけることが決まった。

ディベイニー選手は、奇しくも横田選手が引退した2019年の米ドラフト15巡目(全体463位)でブルワーズに入団した内野手で、今季は途中からパイレーツに所属し、8月30日(日本時間31日)のレッドソックス戦でメジャーデビュー。14試合の出場で打率・139、0本塁打、1打点だった。

マイナーでは通算打率・254、85本塁打、322打点を記録。昨年にはプレミア12に米国代表として出場していたので、何となく覚えている。

ちなみに今シーズン背番号24をつけていたのは、昨年のドラフトで育成1位指名していた能代一中出身の右腕、工藤泰成投手(23)だった。開幕前に支配下選手契約を締結し、少しの期間ではあったが一軍で活躍。 結局18試合の登板で防御率3.31という成績で、今年のリーグ優勝に貢献したと言えるような活躍ではなかったが、彼も今来シーズンの躍進が期待される。

阪神タイガースの背番号24と言えば…

さて 阪神タイガースの背番号24と言えば。
私は迷うことなく、遠井吾郎の名を挙げる。

なぜなら、その活躍は他の追随を全く許すものではないからだ。

遠井吾郎は、1939年12月4日生まれ。山口県の出身で、柳井高校から1957年に阪神タイガースに入団した。そして、1962年から現役引退までの16年間、「24」番を背負い続けた、阪神球団史上屈指の左打者である。

1960年代半ばからタイガースのクリーンアップに座って、四番も務めた。20年間の現役生活の中で、1966年・2位、1967年・5位、1970年・3位と、3度にわたって首位打者争いをしている。1966年に首位打者争いをしたその相手は、ミスタープロ野球、長嶋茂雄だった。

通算1919試合出場、1436安打、688打点。生涯打率は.272だった。

ホームランも137本打ったが、その中には代打本塁打が10本、サヨナラ本塁打が3本含まれている。

遠井吾郎という選手は、記録だけでなく、ファンの記憶にも残った名選手だった。

この写真は、友人でタイガースファン仲間でもある池辺正博くんが球場のスタンドで撮影し、SNSに投稿したもので、なんとも奇特な人がいるものだと、彼が撮った写真を残していた。彼が珍しがったように、私もこんな応援ユニを着ているファンは見たことがない。

まあファン歴が少なくとも半世紀から60年以上だから遠井吾郎を知っているわけで。
おそらくもっとも多くのファンは、阪神タイガースの背番号24といえばひーやん、桧山進次郎ということになるのだろう。
しかし。

遠井吾郎も桧山進次郎も、映画の主人公になったことはない。
2025年もクリスマスが近い今、街を歩く人に「阪神タイガースの背番号24は?」という質問をすれば、こう答える人が多いと思う。
「ああ、観ましたよ、栄光のバックホーム。24は、横田慎太郎選手の背番号ですよね」と。

いや、映画というもので知られなくても。
この横田慎太郎選手は、脳腫瘍なんて病気にやられなければ、おそらく。
遠井吾郎や桧山進次郎を超えて、金本知憲、掛布雅之にも迫る、阪神史上最強の左の大砲になったはずだった。

高卒3年目でいよいよ大ブレイクか?しかし…

2013年10月24日、プロ野球ドラフト会議。
私は、阪神の獲得選手の顔ぶれを確かめたくて、テレビに齧り付いていた。

指名を受けた顔ぶれは、1位・岩貞祐太投手、2位・横田慎太郎外野手、3位・陽川尚将外野手、4位・梅野隆太郎捕手、5位・山本翔也投手、6位・岩崎優投手だった。

岩貞、梅野、岩崎らは後の阪神の主力として2023年、2025年のリーグ優勝に大きく貢献。ファンの間で「神ドラフト」と呼ばれている。
横田は遠井吾郎、桧山進次郎、という阪神左の強打者の象徴、背番号24を背負うことになったが、実は、ミスタータイガース掛布雅之がつけていた背番号31はどうかという提示も、球団から受けていた。

いかに阪神球団の期待が大きかったか、いかに彼の潜在能力が高かったか。

このことだけで十分にわかる。

実際、高卒3年目のキャンプで金本知憲監督の元で1軍スタメンのチャンスを掴み、高山俊との1、2番コンビを組んでオープン戦で大暴れ。9試合連続ヒットなど、打ったヒットは12球団最多の22本、打率3割9分2厘でオープン戦ながらセリーグトップの成績を残し、ペナントレース開幕戦の中日戦にも、スタメンで出場した。
しかし、まさにブレイクしかけていたこのシーズン中。
すでに脳腫瘍という恐ろしい病気が彼に取り憑いて、彼を体の不調、とりわけ視力の異常という、時速150キロを超え、ありえないような曲がりをするプロの投手の球を打ち返さなければならないスラッガーにとって致命的な状態へと追い込んでいったのだった。

ドラフトから6年後、横田引退。そして4年後…

その後、2度にわたる大手術を乗り越え、復帰を目指した横田慎太郎だったが、ついに視力は回復しなかった。

2019年9月26日、鳴尾浜球場。
ウエスタン・リーグのソフトバンクとの公式戦が横田慎太郎の引退試合となり、私はその試合を鳴尾浜球場に見に行った。
そして、最後の横田慎太郎、あの奇跡のバックホームを、私は見た。

いや、見たというと嘘になる。見ていない。てか、見えていない。
涙で、私の目には何も見えなかった。

そして4年、横田慎太郎は脳腫瘍という悪魔と果敢に戦い、凄まじい闘病生活ののちに、神戸のホスピスにて28年の生涯を終える。
その日から1週間後、2023年7月25日の試合が、横田慎太郎の追悼試合となった。

この試合では、「僕と梅(梅野)とザキ(岩崎)と同期で、人一倍そういう思いを背負ってやっていきたい」と語っていた岩貞祐太が好救援。最後は岩崎が締めて、天国の横田慎太郎に勝利を届けた。

梅野もこの試合にフル出場した。

同期3人が力を合わせて勝利した瞬間、岩崎はマウンド上でウイニングボールを天に掲げた。

「横田!横田!横田!…」

ナインはその岩崎に駆け寄り、何度も何度も、横田の名前を大声で叫んだ。

泣いているものもいた。

ドラフトから10年後、横田慎太郎は甲子園の真ん中で宙を舞った

横田慎太郎が無念の死を遂げ、阪神ナインが追悼試合で白星を彼に捧げたその2ヶ月後、横田慎太郎を2位指名した「神ドラフト」からは10年後の、2023年9月14日。

私は、地元・明石の巨人ファンが集まる焼き鳥屋に、背番号24のユニフォームを着込んでひとり乗り込み、店のテレビの前に。にっくき巨人を3タテしてのリーグ優勝、その瞬間を目前にしていた。

最後を締めくくるべく最終回のマウンドに向かう岩崎の登場曲は、いつもと違っていた。
流れたのは、横田慎太郎の登場曲「栄光の架橋」だった。

横田慎太郎とドラフト同期の岩崎は、現役時代に盟友・横田慎太郎が使ったゆずの「栄光の架橋」を選び、リリーフカーに乗ったのだった。

試合後、岩崎は明かした。

「この日9月14日だけは、登場曲は横田の思いも背負ってお願いしました」と。

マウンドに向かう岩崎の背中を、5万人の大合唱「栄光の架け橋」が押す。

その異様とも言える、5万人の大合唱は、今なお虎党で語られ続けている。

「打ち取った!もう大丈夫だ!」

セカンド中野がフライを捕って、試合終了。

岡田監督と選手が、マウンドに集まる。

さあ、岡田監督の胴上げだ。

横田慎太郎は、この歓喜の胴上げを、どれだけ見たかっただろう。
横田慎太郎の夢を叶え見事に胴上げ投手となった岩崎は、背番号24、横田慎太郎のユニフォームを高々と掲げ、彼と一緒に宙を舞った。

左尺骨を骨折して試合に出られなかった梅野が、優勝決定の瞬間、横田慎太郎のユニホームを持って歓喜の輪に向かい、それを岩崎に手渡したのだった。

涙で霞む私の目には、しかし背番号24のユニフォームだけが宙を舞っているのではなかった。

その袖に手を通した横田慎太郎の身体が、確かに胴上げされていた。

脳腫瘍などにやられなければ、この年の阪神タイガースの4番は間違いなく、背番号24、横田慎太郎だったのだから。

試合後、岩崎に横田慎太郎のユニフォームを手渡した梅野は、しみじみと語った。

「ヨコの着てたユニホームを持って、あのグラウンドにみんなで立てたのは本当に最高なこと。あいつへの思いっていうのは人一倍自分も強いんで、本当によかった」と。

岡田監督と、近本、大山、岩崎、中野、村上の各選手による共同記者会見が始まった。

岩崎に、横田慎太郎の入場曲だった、ゆずの「栄光の架橋」を登場曲を使ってマウンドに上がったことについての質問が飛んだ。

「ヨコの分も背負って戦っていくと決めたので……」と答え始め、あの岩崎が言葉に詰まった。

冷静沈着な岩崎にして、横田慎太郎への想いが込み上げて、感情が揺れたのだ。

こんな岩崎優を見るのは初めてだった。
岩崎は、必死で言葉を繋いだ。
「……そういう思いでマウンドに上がりました。(優勝の瞬間は)ホッとしましたね。それが一番です」

38年ぶりの日本一の、栄光の架け橋

阪神タイガースはこの年、オリックスとの日本シリーズを制し、38年ぶりの日本一となった。
9月14日にリーグ優勝を決めた時と同様に、守護神・岩崎優の手には背番号24、横田慎太郎のユニホームがしっかりと握られている。
京セラドーム大阪の中心で、3度。

岩崎優と横田慎太郎は再び一緒に宙に舞った。

日本一を決めたこの日も、「24」はチームに同行し、ともに戦っていた。

左尺骨を骨折してリーグ優勝の試合には出られなかった梅野は懸命に2軍調整を続け、ギリギリ日本シリーズで出場資格を持つ40人に入り、なんと第6戦で初めてベンチ入りした。

岩貞も負けじと、シリーズの大事なところで2試合を投げた。

横田慎太郎とともに同期3人は、チーム一丸の真ん中で戦い、そして再び横田慎太郎と共に、何と38年ぶりの日本一という歓喜の瞬間を味わったのだった。

横田慎太郎を15年間見守った「桜島」

3歳からの15年間、横田慎太郎は、桜島を東に仰ぎ見る鹿児島県日置市で過ごし、全てを野球に捧げるような少年期を送った。

そして、横田少年は、桜島にはさらに近づいて東に5キロ、まさに間近に聳える名門鹿児島実業高校で、1年生から4番を打った。

甲子園には出られなかったが、プロ野球選手となって、阪神甲子園球場のグラウンドに立った。

病に侵され、やむなくユニフォームを脱いだ彼の、凄まじい生き様については、私などが触れるのはおこがましい。

彼自身の著書「奇跡のバックホーム」、そして映画「栄光のバックホーム」と、その原作をお読みいただきたい。
彼のことを一番見てきた人は、もちろん母親のまなみさん、父親の真之さん、姉の真子さんに決まっているが、プロ生活も、彼をスカウトした田中秀太、教育係であり親友でもあった北條史也、二軍監督の平田勝男、トレーナーの土屋明洋など、多くの人が彼を支えた。

彼は、運というものには恵まれなかったかもしれないが、人には恵まれた。

彼に残酷な運命を与えた神様も、最後の最後、あの奇跡のバックホームだけは、もう目がちゃんと見えない彼を後押ししたのかもしれない。

しかし、彼のわずか28歳でこの世を去った横田慎太郎の、その生涯の半分以上の歳月、15年間もの、横田少年の野球漬けの日々、そのプレーを、毎日毎日、ずっと見ていたのは、それは間違いなく桜島だっただろう。

私は、桜島を一周し、しばしば車を停めて、噴煙を上げる桜島を何度も何度も見上げた。

その度に、背番号24の横田慎太郎が、その堂々たる噴煙の遥か天上で舞っているのがはっきりと見えた。