2つの「高松城」から、高松空港近くの道の駅「香南楽湯」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事○設備◎立地○) 

高松城は、天守閣は失われているものの、今なお高松市のシンボルです。

海に面している「海城」であることが高松城の大きな特徴で、愛媛県の今治城、大分県の中津城と並んで「日本三大海城」の一つに数えられています。

現在は海側に道路が通っていますが、かつては城壁が海に直接面していたとされており、実際に城内を散策していると、瀬戸内海との近さがよくわかります。

高松城

この辺り一帯は当時、香東川の河口から海に繋がるデルタ地帯でした。水草の茎根が波に洗われ、玉藻浦とも呼ばれていました。この地に新たに築かれた城の名は、源平合戦以来全国によく知られていた「高松」の地名をとって高松城とされましたが、またの名を玉藻城と言ったのはそのためです。

「高松」の地名を譲った元の「高松」の地は、以降「古高松」と称されました。

新しい方の「高松城」は、秀吉の部下・生駒親正が築城

天下人となった豊臣秀吉は、讃岐一国を仙石秀久そして尾藤知宣に任せたがいずれも極めて短期間で失脚。次の統治者として生駒親正を選んだ。天正15年(1587)、讃岐入りした生駒親正は、当時「箆原荘(のはらのしょう)」と呼ばれていた地に築城を開始。3年後の1590年に完成したが、このとき「箆原」の地名を「高松」と改め、完成した城を「高松城」とした。

高松城

初代城主はもちろん生駒親正。その後、生駒氏の治世は4代、54年にわたって続いた。しかし生駒家のお家騒動を発端として、生駒氏は転封となる。

生駒氏から松平頼重へ

讃岐は東西に分割され、寛永19年(1642)に松平頼重に東讃12万石が与えられて高松城主となる。そして頼重以降228年に渡って、高松城は松平氏の居城として栄えたのである。

ご存知の通り、松平賴重は徳川家康の孫、水戸黄門で有名な水戸徳川家の祖である徳川頼房の子で、水戸光圀(水戸黄門)とは兄弟である。

松平頼重が高松城の整備に着手

松平頼重が城主となってから、高松城の整備が急ピッチで進んだ。頼重はまず、寛文10年(1670)に天守の改築を完成させたが、これは福岡の小倉城を模した3層5階のもので、現存天守である高知城天守や松山城天守の大きさを凌ぎ、四国最大のものだった。頼重はさらに翌年から東ノ丸、北ノ丸を新造。2代藩主頼常は月見櫓や艮櫓などを建て、大手を南側から南東側に移動して、三ノ丸には御殿を建てた。

その後、城は大きく改変されることなく、11代に亘って松平氏の居城としてその姿を見せていたが、慶応4年(1868)、ついに官軍に開城することになる。

いくさを一度も経験しなかった高松城の解体

ツーと言えばカー、城と言えば「いくさ」だが、高松城はいくさを経験しなかった城である。高松城が築城された天正16年(1588)には、既に豊臣秀吉によって九州から東海地方までが平定されていたし、また、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い後に朝敵とされ、土佐藩を中心とする官軍に包囲された時も戦うことなく開城したからだ。

しかし、せっかく綺麗に残っていた高松城も、明治時代に外堀は埋立てられて市街化が進み、城郭の北側も埋立てが行われると海城の雰囲気はすっかり薄れてしまう。中堀より内側は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となって、城郭建物の多くが破却。明治17年(1884)には「老朽化」を理由に、ついに天守が解体されてしまう。

観光スポットとして充実をはかる高松城跡

6年後の明治23年(1890)には再び松平家に払下げとなって、天守台に玉藻廟、三ノ丸に現在の披雲閣が建築された。昭和29年(1954)に高松市の所有となり、翌昭和30年(1955)には国史跡として指定されて、同年5月5日からは高松市立玉藻公園として一般に公開されている。 

【高松城】日本三大海城のひとつ!香川県「高松城跡」の魅力!

往時は3重4階+地下1階の天守がそびえ、要所には約20の櫓が建ち並び、その威容を誇った高松城。現在は艮櫓、月見櫓、渡櫓、水手御門のみが現存し、大正6年(1917)に建築された披雲閣とともに重要文化財に指定されている。

江戸時代の庭園を一部残しながら披雲閣建築に際して作庭された国指定名勝の披雲閣庭園には、老松・名木が立ち並ぶ中、見事な石材を用いた石橋・石燈籠・手水鉢・飛石などが配置され、高松松平家の権威を偲ぶことができる。

2006年には「日本100名城」に選定され、2022年には戦争中に焼失した桜御門の復元再建が完成した。

高松城

旧高松城跡は現在お寺の境内、別名「喜岡城」

秀吉の時代に新しい高松城の歴史が始まるその前、それまで「高松城」と呼ばれた城は、源平合戦で有名な「屋島」の南の、もともとの「高松」の地にあった。旧高松城跡は現在お寺の境内となっていて、「喜岡城」とも呼ばれている。

六萬寺門前の源平合戦の碑
喜岡城

今からは700年近く前、後醍醐天皇による建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(高松頼重)は、屋島南に築城。この城こそは、元々はこの城の辺りが「高松」という地名だったところから、「高松城」と呼ばれていた。しかし、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻したことから、この城は築造まもなく尊氏の配下である細川定禅によって攻められて落城してしまう。

古いほうの「高松城」に引導を渡したのも秀吉

その後再建されたが、最初の落城から約250年後の天正13年(1585)に再び落城。攻めたのはなんと豊臣家。その頃、四国は土佐の長宗我部元親により統一されていたが、豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に大軍を送り込み、讃岐で最初に攻撃対象としたのがこの高松城だったのだ。

このとき、元親側の讃岐武士約200人がことごとく討死に。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開くことになった。

旧高松城を壊したのは秀吉、高松城を新たに築城させたのも秀吉。スクラップ&ビルドといえば聞こえはいいが、もう少し穏便にことは進まなかったのだろうか。

フライトまで時間があれば「ひとっ風呂」

道の駅「香南楽湯」は、高松城からは南に20分、高松空港までは車で5分、高松自動車道の高松西ICからは県道44号線→県道174号線→県道13号線を通って南東に7km。香川県ほぼ中央部の旧香南町(現高松市香南町)に立地する。

駐車場は、施設を取り囲むようにして十分なスペースが確保されている。

かなり大きな施設なのだが、端っこの方で朝市(香南楽市)をやっていたので、まずそれを覗いてみた。

新鮮だし、どの野菜も比較的安いと思った。

隣に、惣菜、弁当を中心の販売所があった。野菜コロッケ1個55円は、なかなか嬉しい価格だ。

トイレは、まず駐車場から近いところのトイレへ。

清掃が行き届いていて、気持ちよく使わせていただいた。感謝。広い施設内にもトイレはある。

休憩環境としては、温泉ということになるが、晴れた日には外のベンチでゆっくりもできそうだ。

「香南楽湯」という名称の通り、ここは温泉施設が中心となって集客をはかっている道の駅だ。 高松空港までは車で5分あれば着けるので、フライト待ちの間に「ちょっと温泉に」という方も多いという」。

さて、入ってみよう。

「陽の風呂(ひのふろ)」と「石の風呂」を男女入れ替え週替わりで楽しめる。温泉の泉質は弱アルカリ性低張性冷鉱泉。無色無臭の温泉で、温泉にありがちな「ぬめり」がほぼ、というかまったく無い。

香南楽湯(こうなんらくゆ)

トロトロの「いかにも温泉」というような湯が好きなので、温泉と思えば物足りない。しかし、お風呂に入ると思えば、いつもより快適。むしろ「低張性」の湯ということで、体への負担が少ないからいつもより長湯ができた。

湯の種類は内湯大浴場、露天風呂、薬湯、寝湯、打たせ湯、サウナと多彩。足湯もあるのだが、一般的な座って足を温める足湯ではなく、「歩く」足湯だ。 足湯の底に楕円形の石が敷き詰められていて、湯の浮力のおかげか足のツボを適度に刺激しながら歩くのはとても気持ちが良かった。

物産館は「讃岐うどん」を筆頭に盛りだくさん

風呂上がりに、物産館へ。香川県内の特産品を取り揃えているわけだが、その筆頭はなんと言っても「讃岐うどん」。なんと20数種類もの讃岐うどんが販売されている。 讃岐うどんは香川県内のどの道の駅でも販売されているが、種類はこの道の駅がもっとも多いのだとか。

他の麺類では小豆島オリーブを使ったラーメン、素麺などもある。 香川名物「うどん県コーナー」では、食べるうどん以外に「うどん県手拭い」「うどん県Tシャツ」なども売られていた。

「わさびあられ」「わさびチーズディップ」「わさび野沢菜」「わさびのっけ飯」など、 わさびを使った加工品の種類も豊富。地元の老舗「宮地醤油醸造」が造る「さしみ醤油」も試してみたくなった。


道の駅レストラン「楽湯旬彩」は、定食、丼物、カレー、麺類など定番メニューがしっかり揃った、オースドックスな食事処だ。

このレストランのメニューは、温泉施設2階の休憩スペースでも味わうことができる。