阪神淡路大震災からの人生30年

9年ごとに大きな転機が訪れてきた私の人生。37歳から45歳までの9年間は、私の人生第五章でした。

この第五章は、忘れもしないあの阪神淡路大震災での「被災者」として幕を開け、食っていくための「ライスワーク」からせめて「ライクワーク」できれば「ナイスワーク」をしたいと経営コンサルタントに転じたアラフィフの第六章へ、さらには子育て中心の「愛すワーク」から「ライフワーク」を模索したアラカンの第七章へと、私の人生を方向づけていく端緒となります。

1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災で、震源地・淡路島北淡町の実家は全壊しました。両親は明石に引っ越していて無事、私はというと、東灘区深江地区で635mにわたり17基の橋脚が倒壊したあの高速道路すぐ北のマンション「ユニテサーラ芦屋」から、震災のまさに1ヶ月前に大阪のマンション「オークヒルズ香里」に引っ越したばかりでした。

こういうのを不幸中の幸い、あるいは悪運強しというのでしょうか。(下の写真は、震災で傾き、のちに解体されたユニテサーラ芦屋)。
いや、もしこのマンションにいたならば、このマンションの周りの多くのマンションが倒壊してたくさんの方々がお亡くなりになった、その何人かを助け出すことができたかもしれません。

あれから30年、2025年1月17日。今日まで、なんとか生きてきました。父(95)も母(89)も、弱ってはいるけれど健在です。私自身も5年前に心筋梗塞で倒れたけれどなんとか健康を取り戻し、なんとか最後の親孝行ができています。今思うことは、個人的にはあの時、死なないで良かった、ただそれだけです。しかし、この30年で被災地の独居高齢者数は3倍に、逆に自治体職員は2割減。経済的には明らかに後退し、社会はすっかり脆弱化してしまいました。それは本来あるべきだった復興とは程遠い、大変残念な歩みだったと感じます。

1995年1月17日から、5年刻みで震災後30年の私の人生と感じた社会の変化を振り返ってみました。

5年前(2020年)の私と社会

2020年は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行(パンデミック)による未曾有の経済停滞にさらされた年だ。当時私は、3年間の東京での仕事を終え、2019年の1月には京都に戻り、今度はインバウンドを100%ターゲットとする(つまりは外国人専用)ゲストハウス事業のコンサルに入っていた。コロナまでは需要は旺盛だったものの、供給が上回ったことで宿泊料金の価格破壊が起こったため経営危機に陥っていた会社を建て直すというのが私の役割だった。

担当した物件は20棟ほどあったが、それらを見直して個々にリブランディング。

半年かけて、稼働率や収益額を大きく向上させていたところだった。

そこにコロナが直撃する。2019年12月、中華人民共和国湖北省武漢市から原因不明の肺炎の報告がされると、インバウンド需要が減少し始め、そして2020年3月11日に世界保健機関(WHO)は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がパンデミックの認識を示したことで、需要は消失。私の仕事は崩壊した。

引き受けた会社は資金力が全くなく、なおかつ元から負債を抱えていた。引き受けた以上責任があり、日本人観光客向けに通用する4棟を残して残りの16物件の処理、そして従業員の再就職に、ほぼ1年間、私は無給&無休で奔走することになる。

会社はなんとか倒産を免れ、最低限の責任は果たしたものの、ホッとしたのか過労が祟ったのか私は「心筋梗塞」で倒れ、京都市立病院に担ぎ込まれた。幸い一命を取り留め、6度にわたるカテーテル手術の結果、後遺症もなく健康を回復することができた。

なんとか外出できるようになった私は、1995年の震災の前の日まで、入り浸っていた最愛の居酒屋「江里花」を25年ぶりに尋ねた。この店は、私が独立起業した会社のすぐ側にあり、仕事帰りに毎晩のように通っていた店だ。

主人は私と同郷で、25歳で独立してこの店を始め、なんと2020年に41年目を迎えていた。最後にお邪魔した翌日に震災があり、その後会社を移転して25年も顔を出していなかったにもかかわらず、店に入って目が合うと、彼は言った。「越生さん?」「表現」という会社の名前まで覚えていてくださった。

そういう人だから、客に愛される。コンセプト、メニュー、内装、雰囲気、すべてまるで当時のまま、41年目を迎えることができるのは、そういう人だから。当時からの鉄板、「赤ナマコ酢」を5回お代わりするなど、久しぶりに酔いつぶれる寸前まで、しこたま飲んだ。あれから25年。2020年の私と、あの時の私が、しっかりと繋がった。

10年前(2015年)の私と社会

2015年。私は前年の2014年から、京都でスポーツジム、スイミングスクール、不動産、ビルメンテナンスなどの事業を手がける会社のコンサルに入り、京都で単身赴任生活を送っていた。仕事は比較的順調であったが、当時85歳だった父がめっきりふさぎ込んでどんどん弱っていたため、しばしば明石の実家に様子見に帰っていた。

結論から言えば、親父がふさぎこんでいたのは、25年前にもらうはずだった退職金と、20年前の阪神淡路大震災で全壊した実家の土地を自治体(淡路市北淡町)に提供した際に受け取る筈だった土地代のそれぞれを、銀行員を名乗る詐欺師(別々の犯人)にまんまと盗られたことを私にずっと打ち明けられず思い悩んでいたからだった。

まず、退職金詐欺について。母から銀行口座にあるはずの退職金がないと問い詰められて(母には)白状していたというが、私以上に(笑)気性の激しいお袋は激怒。毎日親父を取り調べのように責め続け、退職金詐欺のほうの犯人をついにつきとめるに至った。犯人は親父の職場の「大先輩」で、転職して安田信託銀行(当時)にいた大坪正直。父が退職した25年前、つまり2000年に、父の職場に現れ、自分の成績になるからうちに預けてくれ、と言われるままに口座をつくってそこに退職金全額を預けたのだった。「信託」に預けて、いずれ少し増えて帰ってくると思っていた多馬鹿者の父は、安田信託銀行が、退職金を預けてから3年後の2003年にみずほ信託銀行と合併してみずほ信託銀行となったことすら知らず、その後10年間70歳まで、今でいう定年後の再雇用で勤めたが、その間一切安田信託銀行およびみずほ信託銀行の口座確認をしていない。そして、完全な年金生活に入った際、退職金の確認を母に依頼され、父70歳のとき、ほぼ0になっていた通帳を見て、「大先輩」の詐欺に気がついたのだ。

犯人は大坪正直とわかっているし、当時の住所もわかっているわけだが、父は馬鹿がつくほどのお人よし、先輩を詰める勇気がなく、母が一人で彼のもとへ出向いた。しかし、犯人・大坪正直は94歳で他界していた。妻子など家族がおらず、母は唯一の身内であった弟も訪ねたが兄より先に他界しており、その弟の妻は重度の認知症で施設の中…。と言うことで、結局、泣き寝入りとなった。

刑事上は、被疑者(容疑者)が死亡すると事件は送検されても不起訴処分。民事上も、加害者が死亡して身内の誰かが相続放棄などをしなかった場合に限り損害賠償債務は加害者の相続人に相続されるが、唯一の身内である弟も他界していて、その妻は認知症で公的施設の保護下。もう、どうしようもない。

もう一方の、土地代詐欺のほうの経緯はこうだ。阪神大震災で越生家の淡路の実家は全壊する。

実家があった北淡町富島地区の、震災直後の様子。私の実家の近隣はほとんどの家が全壊した。

当時の行政(北淡町…現在のあわじ市)の区画整理に応じて両親は土地を売却した。当時の関西西宮信金(現在は兵庫信用金庫に吸収)の営業を語る男2人が、おそらく北淡町役場からなんらかの方法で情報を入手したのだろう、明石の両親の家にやってきて、役場から振り込む口座が必要と説得され、後日役場からそこに振り込まれた全額が彼ら2人に引き出されたのだった。ある日母が、土地売買関連書類と通帳を付き合わせたところ淡路北淡町役場からの振込金が全額なくなっていたことに気づいて詐欺が発覚。役場→信金→弁護士→警察を巻き込んで、母一人で自力捜査を続けてきたという。

まず、役所からは振込証明をとり、犯人にきれいに全額引き出されていたATMの記録を兵庫信用金庫に提出させていた。震災時に同様の被害にあった人を無償で救済する弁護士のところにも通い、時効を理由に相手にされなくても警察にも通い続けた。しかし刑事上の時効は犯罪行為が終わった時点からたった7年。犯人が利用した信用金庫と直接交渉も、偽名と歳月の壁で結局犯人はつきとめられないまま、詐欺罪の民事上の時効(気がついてから3年・詐欺行為時から20年)を迎えてしまった。

この2つの詐欺被害に遭ってから、父も母も息子の私には恥ずかしくて言えずにいたのだ。そんな「事情」を知らない私からすると、父の落ち込み方があまりにもヘンだし、母も父にあまりに酷くあたっていたので、私は二人を問い詰め、ついに私にすべてを打ち明けたのが、2015年の1月17日だった。

私は、一言だけ親父に言った。「親父の退職金を盗んだ大坪正直という輩、94歳までのうのうと生きたんやから、それより前に死んだら俺は承知せんぞ!」と。それから10年。退職金詐欺の犯人・大坪正直が没した94歳を超え、父は95歳を生きている。

世界に目をやれば2015 年の米国経済は長らく続いたゼロ金利政策を解除するまでに回復、リーマン・ショック後の異常な状態から正常化へ向けた第一歩を踏み出し、欧州経済も徐々に回復の動きが広がった。一方で中国、ブラジル、ロシアなど大国の景気悪化が顕著で新興国経済の減速傾向が強まった。日本経済はアベノミクス効果の一巡などから停滞気味となっていたが、そんな7月、私は初めて東京の上場企業と関連会社3社をコンサルすることになり、25年ぶり2度目の東京生活を送ることになった。

主たるクライアントのオフィスは芝公園と大崎。

ということで、生活拠点は、山手線の目黒および五反田の最寄りで探した。

桜名所の目黒川とかむろ坂のちょうど真ん中にいい物件があったので、「東京アジト」を開設。単身東京に乗り込んだのだった。

15年前(2010年)の私と社会

2010年、私は京都に単身赴任していたが、仕事は順調だったし、神戸の妻も子どもたちも元気そのもの。長女は中学受験で志望校に合格して春には中学生に、長男は小学校4年生になる、個人的には、なんだか希望に満ち溢れていた1月17日だった。

日本経済は 2008 年秋のリーマンショックで急速に悪化した後、2009 年初頭に底入れして持ち直しに転じていた。そんな中で2011 年3月11日に起こったのが東日本大震災。世相は一気に暗くなった。

2012 年年末以降、内需が主導する形で景気は持ち直しに転じていくのだが…。福島の原発被害をはじめ東北のダメージはあまりに大きいものだった。

20年前(2005年)の私と社会

2005年の1月17日は、それまで住んでいた京田辺市の家を売り、新しく神戸に建てた家で迎えた。義父が逝去し、私の父も癌の大手術。両方の親に近いところにいた方が良いという判断だった。仕事(経営コンサルタントのクライアント先)は依然京都で継続したため、京都と神戸での二重生活が始まっていた。週末には神戸に帰り、週明けに京都での単身赴任に戻る、という生活だ。


それだけに、4月25日朝に起こったJR福知山線塚口~尼崎間の脱線事故は人ごとではなかった。
国際社会では、英国ロンドンやエジプトなど、世界各地で同時爆弾テロが相次ぎ、多数の犠牲者が出た。いずれも手口から、テロ組織アルカイダや同組織と関係のあるイスラム過激派の犯行とみられた。

25年前(2000年)の私と社会

1995年の阪神淡路大震災よりも5年後の2000年のほうが、私個人の命は危なかった。

震災以降、会社の立て直しを期して4年間猛烈に働き、会社はなんとか軌道に乗った。個人的には、子育て環境の良い京田辺市に、建売の一戸建を買った。公私ともに相当無理を重ねていたのだと思う。4月に自宅のトイレで夜中に原因不明の大量下血。意識不明で昏倒し、失血死する寸前だった。朝起きてきた長女が私を発見し「お父さん、トイレでおねんね!」と妻に告げてくれて私は命拾いした。担ぎ込まれた京田辺市民病院の医師曰く「10分遅かったらダメだったな」。

奇しくも同じ頃、小渕恵三首相が4月2日に体調を崩して緊急入院。

国会は4月5日の衆参両院の本会議で、自民党の森喜朗幹事長を第85代の首相に指名、同日夜に第1次森内閣が発足した。この間、「こん睡状態」にあった小渕氏がなぜか青木幹雄官房長官を首相臨時代理に「指名」できたらしく内閣が小渕氏入院の翌々日には総辞職。一部の自民党幹部による後継首相選びが行われて翌日内閣発足となった、あまりの段取り良さに、「密室協議」との批判が巻き起こった。小渕氏は私のように帰って来れず、5月14日に死去した。

2000年10月に景気は後退局面に入る。2001年にかけて生産の減少や失業率の上昇などによって景気はさらに悪化。「ブラック企業」が流行語となるなど働く人には厳しい状況が続いたが、我が家では12月24日には長男が誕生。超ビッグなクリスマスプレゼントとなった。

30年前(1995年)の私と社会

1995年1月17日午前5時46分に発生した大地震はM7.3、最大震度7。震源地は、私の実家が建っていた淡路島北部だった。

引っ越したばかりの自宅マンションで寝ていた私は、とんでもない揺れに生きた心地がしなかった。急ぎテレビをつけると映ったが、誰に電話をかけても通じない。3年2ヶ月前に独立起業した会社がどうなってしまったかが心配でたまらず、すぐに自宅を飛び出して会社に向かった。当然、大渋滞である。道中、大きな余震もあり、大阪市内および周辺の道路は混乱を極めた。

会社の場所は大阪市西区、肥後橋である。大阪中心部の立派なオフィスビルなら心配はいらなかったかもしれないが、何せ賃料の安い、猫の額のような狭い敷地に無理やり11階のビルを建てた、まさにバブルの象徴のような「ペンシルビル」の最上階のペントハウスに、私の会社はあった。

着いた時間すら覚えていない。ビルは傾き、エレベータは停止していた。階段でなんとか行き着いたが、やはりオフィスはぐしゃぐしゃだった。壁は割れ、全員分入れ替えたばかりの大画面のマックは床に叩きつけられ、当時は500万円以上もした高速カラー出力機などなけなしの金で買ったばかりの設備を含め、備品関係もほぼ壊滅状態だった。

まさか、神戸が大変なことになっていること、そして、淡路の実家が周囲のほとんどの家と一緒に全壊したのではないかということは車載のラジオの情報をもとに想像するしかなく、とんでもない映像をこの目で確認したのは、その日の深夜だった。

その後、会社のメンバーたちと連絡がいつとれて、皆の安否や親兄弟友人知人の安否がどうやって確認できたのか、それがいつどのようにして、あるいは1月17日から何日経って日々どのように過ごしたか、あまりにも混乱していたのだろう、ほとんど記憶に残っていない。

この年のことで覚えているのは、ペシャンコになった実家から大切なものだけを運び出したこと。そこで、瓦礫から祖父の形見の大時計を引っ張り出したこと。

壊れていた大時計を時計店に持ち込んで修復してもらったこと。

そして夏には妻が第一子を流産したこと。その病院の、夕日が差し込んでいた廊下の、あまりにも悲しい色。そして、オフィスを大阪から京都に移転したのだが、これはメンバー全員無事でホッとしていたのか、京都のメンバーに任せっきりだったのか、とにかくあまり覚えていない。そしてもう一つは、タバコをやめたこと。意を決しての禁煙ではなく、震災でそんなもん吸ってる間がないほど追い込まれていて、年末に気がつけばやめていただけのことなのだが。

あとのことは、春、夏、秋がどうだったのか、いつ何をしたのか、どうにも思い出すことができない。

震災前まで毎日乗っていた阪神電車もこんなことになってしまった。とにかく、阪神間の移動はほぼ困難になった。阪神・淡路大震災では、鉄道の復旧に3ヶ月〜1年半を要し、ライフラインも復旧に相当の時間がかかった。電気は約1週間、電話は約2週間、ガス・水道は約3ヶ月、 下水道は約135日間を要した。震災直後の「記憶」というかトラウマに近いだろう、とにかく最初は火事と寒さと瓦礫、そして長く「水に困った」ことだった。
阪神高速がダメになって、車でも、大阪から明石の両親のところに行くことが難しくなった。

阪神高速道路の被害は甚大だった。3号神戸線(延長39.6km)で橋脚1,175基のうち637基、橋桁1,304径間のうち551径間が損傷。とくに、東灘区深江地区で635mにわたり17基の橋脚が倒壊、信じられない光景となった。5号湾岸線では、西宮市甲子園浜で落橋、六甲アイランド大橋は1万トン以上の主構が3mも横にずれた。
1995年の日本の経済は、すでにバブル崩壊後の低迷期に入っていたが、関西経済は特に震災が低迷に追い打ちをかけたという印象が強い。