道の駅「今治湯之浦温泉」から「永納山城跡」「世田薬師」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備△立地◎) 

四国初の環境省指定国民保養温泉地である、と聞くと、「湯ノ浦温泉」に行ってみたくなるかもしれません。最初に言っておきますが、温泉としては大したことありません。では何がいいのかと言えば、立地です。

ここは愛媛県の北端、高縄半島の北東部、瀬戸内海国立公園のほぼ中心にあり、前面に白砂青松の桜井海岸、波静かな紺碧の燧灘が広がり、東には遠く石鎚山を臨む優れた景観を有しています。

源泉に、道の駅「今治湯ノ浦温泉」があって、そこから上記の絶景に迫ることもできますし、城下町今治の散策を楽しむこともできるでしょう。


私がこの道の駅に立ち寄ったのは、ここから「永納山城跡」と「世田薬師」に行くためです。どちらも歩いて行ける距離です。両名所に向かう前に、道の駅の駐車場をお借りするお礼に、道の駅で食事。名物の海峡だしのうどんと、とり唐揚げをいただきました。非常に美味しかったです。

湯煙たちのぼる道の駅「今治湯ノ浦温泉」

道の駅には、湯煙を噴き上げるモニュメントがあり、温泉スタンドもある。

駐車場は、そんなに広くはないが、まあ空いている。

トイレは、清掃が行き届いていて、快適に使わせていただいた。感謝!

休憩スペースは、とてもいい感じ。

物産館では、もちろん「今治タオル」。愛媛県今治市では、130年もの間タオル産業が受け継がれている。糸を撚る工場、糸を染める工場、タオルを織る工場など、200近くもの工場が集まる、タオルの一大産地だ。

「海峡つゆ」は、鯛をはじめ、瀬戸内の海の幸のエキスを贅沢に使用した万能調味液。もともとこの道の駅オリジナルの「うどん出汁」として開発されたものだったが、今では炊き込みご飯、お吸い物、茶わん蒸し、だし巻玉子、ラーメン、煮物、鍋料理、おでん、炒め物、唐揚げの下味など、様々な料理で大活躍している。

愛媛県大三島宗方のレモンとの出会いで生まれたMIO BRANDs。道の駅「今治湯ノ浦温泉」がその発信拠点だ。

レストランでは、独自に開発した万能だしつゆ「海峡つゆ」をベースにしたうどん、鯛釜飯、鯛ラーメンをはじめ、ボリューム満点の定食など、こだわりのメニューを提供。
中でも、地元食材の鯛や朝獲れアジを使った漁師めし「海峡めし」は人気No.1。海峡つゆで下味をつけたBIGサイズでジューシーな「海峡ざんぎ(鶏唐揚げ)」も引けを取らない人気だという。

1300年前に築かれた「古代山城」へ

永納山城は、今からおよそ1300年前に築かれた「古代山城」と呼ばれる城の一つで、その城跡は道の駅からすぐ南。高縄半島の付け根に位置し、瀬戸内海の要衝である来島海峡を一望できる場所に築かれていた。

永納山城跡の写真
永納山城は7世紀後半前後に築かれた古代山城の一つと考えられている。日本の城は造られた時代によって古代山城、中世山城、近世の城と大きく3つに分けられるが、このうちもっとも古い古代山城は、現在のところ西日本を中心に25カ所しか発見されていない。

西日本の古代山城分布図

愛媛県ではこの永納山城1カ所のみで、四国でも3カ所しか確認されていない。これに対し、中世の城は県内だけでも約1200カ所が確認されている。

築城の背景

当時の日本は中国や朝鮮半島の国々との交流が盛んだった。その朝鮮半島では新羅・百済・高句麗の三国が半島の統一をめざし争い、中国では唐が勢力の拡大を図っていた。

このような中、唐と新羅が手を組んで百済を滅ぼそうとする。百済は復興の応援を日本に頼み、日本はこれに応えて半島に兵を送った。その結果、歴史の教科書にも登場する「白村江の戦い」が起きたが、百済・日本の連合軍は敗れてしまった。663年のことである。

日本はこの敗戦によって、唐や新羅に侵攻される危険性が出てきた。これらの危機に対処するため、西日本の要衝に城を築きたのである。これらのことは「日本書紀」に記されている。現在確認されている古代山城は、「白村江の戦い」と前後して造られたと考えられている。

永納山城

南麓から望む永納山の頂上(城跡)

世田山から永納山(城跡)を望む。

世田薬師について

世田薬師本堂

道前平野より北を望むと、山並みの一番右端に、世田山と呼ばれているおにぎり形の山がある。この世田山にある「世田薬師」は、約1300年の歴史を持つ古刹。病気封じ、健康祈願のお薬師さんとして全国的にも有名だ。

世田薬師は愛称

「世田薬師」という名前は正式ではなく、地元の人々からは親しみを込めて呼ばれている愛称だ。西条市と今治市の境にある世田山の山上に奉られているお薬師さんだからで、正式には山号を世田山、院号を医王院、寺号を栴檀寺と言う。

この栴檀寺という名前は、神亀元年(724)に行基が四国順錫した折、山上に薬師如来のご来迎を拝し、そのお姿を「栴檀は双葉より芳し」という栴檀の一木に刻んで寺を開いたことに由来する。ご本尊は身丈9尺の珍しい立像の薬師如来だが、秘仏として一般には公開されていない。

時は流れて昭和2年、世田山山上より大師堂と三宝荒神堂等を山麓に移して本坊を開基。山上(奥の院)と山下に伽藍を有する現在の姿になった。

長い歴史を持つ「世田薬師」の代表的な行事に300数十年前より伝わる「きうり封じ」がある。夏の土用丑の日に「う」のつく「きうり」で身体健康、病気平癒を祈祷する。今でもテレビなどに度々取り上げられてるので全国的にも有名だろう。

伊予の最後の砦だった世田山城

中世の頃、その切り立った頂上で「伊予の剣」の異名を持つ世田山には、今治地方に置かれていた伊予の国府を守る最後の砦として世田山城が築かれていた。

世田山城は、「世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶ」と言われる程、軍事的に重要な拠点だった。

それだけに、城をめぐる攻防戦も少なくなかった。興国3年(1342)、新田義貞の甥にあたる大館氏明が伊予の守護として世田山城を護っていたところに、北朝方の細川頼春が大軍を率いて攻め込んできた。大館主従は世田山城に籠城し善戦するも、最後には城に火を放って切腹、落城している。この後も正平19年(1364)の河野通朝と細川頼之との戦いや、文明11年(1479)の細川義春と河野通生との大戦など、世田山城を舞台にした戦は繰り返された。

瀬戸内海国立公園の陸地部指定は少ない

「えびめの自然100選」にも選ばれたこの一帯は、瀬戸内海国立公園に属している。瀬戸内海国立公園の陸地部指定を受けた観光拠点は数少なく、世田薬師への参道からの絶景は、標高がたったの335mしかない山とは思えない。眼下に広大な道前平野を望み、南に石鎚連山、東から北に瀬戸内海、そして山頂からはしまなみ海道・来島大橋が一望できる。