道の駅「マイントピア別子」にて「別子銅山」の人災に懲りない「住友金属鉱山」の拝金主義を考える(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備△立地◎) 

別子銅山は、関東から九州へと抜ける日本最大級の大断層「中央構造線」のやや南に位置します。中央構造線の北と南の地質は、地質学的にまったく異なり、約一億年前に両者がぶつかる形で中央構造線が形成されました。

そのとき発生したエネルギーが地下で激しい火山活動を促し、マグマの熱で変成してできたのが、「別子鉱床」です。これは、地層の間に薄い層をなす層状含銅硫化鉄鉱床で、世界的にも顕著な形状から「別子型鉱床」とも呼ばれます。

地下深くから連なる鉱床が地面に顔を出したものを「露頭」と言い、別子の周辺にはいくつもの露頭が見られますが、別子銅山の山頂近くの大露頭は差し渡し2mを超える巨石で、赤黒い色は良質な銅鉱であることを示しています。この大露頭周辺の地層は見渡すかぎり斜めに走っていて、この地に起こった大規模な地殻変動をかいま見ることができます

別子銅山の発見とその歴史

元禄3年(1690)秋、住友が経営する吉岡銅山(岡山県高梁市)の手代田向重右衛門は、四国山中に有望な鉱脈があるとの知らせを聞く。重右衛門は船で瀬戸内海を渡り険しい赤石山系の小箱峠を越えて別子山村の弟地(おとじ)に到着した。

さらに銅山川の源流に向かって川を遡り、うっそうとした密林を進み標高およそ1,210m付近にあったのが地面に飛び出した露頭だった。

これはのちに「歓喜間歩(坑道)」と名付けられたが、重右衛門一行が発見に際して抱き合い、歓喜したことにちなんでいる。

明治に至るまで200年間、別子銅山の主要坑道は2本

歓喜坑のすぐ脇には歓東坑が穿たれ、2本の坑道は、明治に至るまで200年間、別子銅山の主要坑道として機能する。ここから運び出された鉱石は、やや下った谷筋に設けられた吹所ないし、床屋と呼ばれた製錬所で粗銅に製錬された。

当時の坑口は、明治期に新しくできたアーチ型の坑口とは異なり、丸太をマス型に組み、小丸太材(矢木)を並べて地山の崩落を防ぐ「四つ留」工法で、坑口から数組の支柱には、それぞれに神仏をまつり、地中での安全加護を祈願していた。現在の歓喜坑、歓東坑は、2001年に復元修理されたものである。

巨石

歓喜坑(上)と、歓東坑(下)。 江戸期200年にわたって機能した主要坑道の跡だ。

巨石

大和間歩は開坑当初の面影を伝える遺跡

歓喜坑
歓東坑

大和間歩の坑口は元禄4年(1691年)、歓喜坑・歓東坑に続いて開かれた古い坑口で、当時の原形をほぼ留める貴重な遺跡だ。大露頭から数mの場所にあり、別子銅山でもっとも標高の高い場所にある。現在は中に入ることはできないが、坑道は山の北斜面へと抜け出る。その北側は西条藩領の立川山村で、寛永年間(1624〜1643年)に、同地の村人によって開坑された「立川銅山」がある。

すなわち、別子銅山と立川銅山の鉱脈は同じもので、その南北から採掘していたのだった。掘り進めるうちに地中で抜け合うこともしばしばで、鉱業権を巡って争った歴史がある。ただ、北斜面にある立川銅山は採掘条件がよくなかったため、のちに住友が銅山の運営を譲渡されている。

山中に一大製錬工場を形成

別子では、鉱石を掘り出すだけでなく、そこで選鉱や製錬も行われていた。鉱石を掘り出すのは手作業で、軽易な道具を手に、男たちが坑道を削り取るように掘り進めていった。「ショーシャンクの空に」の世界だ。これを坑口から運び出し、砕いて銅を含む部分を選別する。この「選鉱」を担ったのは女性だった。

選鉱された鉱石は硫黄分を抜くため焼き窯で蒸し焼きされて焼鉱となる。焼鉱は、鉄などの不純物を除去するために土中に掘った吹床(炉)で2工程の製錬が実施されて、純度90%の粗銅(荒銅)が完成する。別子山村は、こうした工程を担う焼窯が300、製錬所の「床屋」が数十もその軒を連ね、一大製錬工場の体裁をなしていた。そのため、山間の狭い場所に稼人とその家族など数千人が暮らす鉱山町が出来上がり、焼竈が立てる煙がいつも一帯を覆っていたという。

製錬された粗銅は、急峻な山道を人手で下ろされ、船で積み出されて、大坂の住友銅吹所で純度99%まで高められた。その銅が、最終的に棹銅の形に鋳造され、輸出用として長崎に運ばれたのである。

数千人が暮らす鉱山町の守り神として崇敬された「山の神」

別子銅山には、多くの寺社が存在した。金比羅社、稲荷社、祇園社などのほか、先人の菩提を弔う観音堂や地蔵尊を祀る地蔵堂もあった。その最大のものが、鉱山の守護神の大山積神社(山神社)である。

守護神

大山積神社は、別子銅山の守護神である。元禄4年(1691年)の開坑時に、今治市沖の大三島にある大山祇神社から分社し、別子山村足谷に奉伺したもので、主祭神の大山積神は、山の神、海の神、戦いの神として知られる。

別子銅山の大火災

しかし、開山から4年後の元禄7年(1694)の春、山役人の番所付近の焼き竃から出火。乾燥していた草木に移り、またたく間に付近に燃え広がった。この火事で床屋八軒を残し、山内の設備はすべて焼失してしまう。

焼死者は132人に上る大惨事となったが、これは隣の立川銅山側が火の手が及ぶのを防ぐため、「向い火」として付近一帯の山林に火を付けたためである。立川側に逃げ道を求めた人々は、前後を火に挟まれて、逃げ場を失った。もちろんわざとではないにしても、あまりに残酷なことになったものである。

再建への歩み

鉱山町の再建にあたっては、まず大山積神社を再建。鉱山運営の鎮護を願った。社は鉱山町の全域が見渡せる高台(延喜端 )に築かれ、明治25年(1892年)まで、ここで鉱山の再建と繁栄を見守った。坑口にも神棚が祀られ、鉱夫たちは坑道に出入りする際、拝礼を欠かさなかったという。

その後、採掘の中心が移動するたびに、大山積神社も遷座を繰り返した。明治25年、目出度町への遷座に続き、大正4年(1915年)には、採鉱本部の移転と共に東平へ、昭和3年には麓の川口新田(山根)に遷座した。

大山積神社

閉山した現在も、この場所で新年祭と5月9日の春期例大祭が行われている。

大火災の次には、大水害が

元禄4年(1691)からの山中での製錬によって、別子の山は伐採と煙害の影響で緑が失われていき、さらに元禄7年の大火災である。赤茶けた山肌がむき出しとなり、少しの雨でも表面が流失するほど荒廃していた。

そのような環境の中、明治32年(1899)8月28日、鹿児島県奄美大島にあった台風は北東に進路を変える。高知の足摺岬から別子直撃のコースを進み、その日は別子の山中に朝から雨が降っていた。午後8時頃から9時頃までの40分の間に、この日の総雨量の大半にあたる325㎜もの雨が降ったのだ。
大雨は山津波となり、山肌を激流として駈け下り、別子の近代設備や社宅など山中の一大都市を一瞬のうちに飲み込んだ。これが513人もの方々の命を奪った大惨事「別子大水害」である

「遠町深鋪(えんちょうふかじき)」という四字熟語がある。これは、一つは、薪や炭にする材木を伐採すると、その伐採する範囲が、近くからどんどん遠くなっていくことと、もう一つは、採鉱が進むにつれ、採鉱する場所が地中深くになってしまうことの2つの言葉から成っている。
遠町深鋪の結果、山肌が荒れ果て、緑が失われ、一面赤茶けた山肌がむき出しの状態で起こったこの災害は、明らかに「人災」であった。

人災を闇に葬ろうとする道の駅「マイントピア別子」

道の駅「マイントピア別子」は、愛媛県新居浜市でかつて栄えた別子銅山の跡地を利用し、道の駅と体験型テーマパークが併設された施設である。多くの人命が失われた場所なので、麓の川口新田(山根)大山積神社に参ってから道の駅へと向かった。

駐車場は、とても広い。

こういうのを、無駄に広い、と言うんだろう。

どうやら、「東洋のマチュピチュ」で売り出しているらしい。こういう矛先の曲げ方はいかがなものかと思う。私なら「人災のワチャワチャ」とでも提案するが。

トイレは綺麗にしていただいており、ありがたく利用させていただいた。感謝。

休憩スペースは、トロッコ列車待ちの間ぐらいは休めそうだ。

銅採掘の最後の拠点であった端出場(はでば)ゾーンと、最盛期の採掘拠点だった東平(とうなる)ゾーンの2つに分かれるが、私が行ったのは「端出場ゾーン」だ。体験施設に行くにはトロッコ列車に乗っていくので、その前に、道の駅としての施設をざっと紹介しておこう。

道の駅の施設前には、使わなくなった列車が置いてある。

物産館は存在する。

ここで切符を買って、トロッコ列車に乗り、体験施設へと向かう。

道の駅から体験施設までは、このような鉱山鉄道で行く。当時の本物の山岳鉄道ではなく、復元したものだ。ただ、この鉄橋はすごい。明治26年製の単純曲弦トラス橋という形式で、国内でほとんど現存しないものらしい。


鉱山は化学反応により鉱毒水が発生する。これを外部に漏らさないよう運ぶための煉瓦水路。

『魔法少女リリカルなのは』フェイト・テスタロッサや『戦姫絶唱シンフォギア』風鳴翼、『NARUTO -ナルト-』日向ヒナタ、『ハートキャッチプリキュア!』 花咲つぼみ/キュアブロッサムなどであまりにも有名な声優・水樹奈々さんは、ご当地出身。鉱山鉄道を降りて、橋を渡って施設の入り口(江戸ゾーン入口)までは、彼女によるナレーション(もちろん録音)が流れている。これを目当てに訪れる人も結構いるらしい。


江戸ゾーン


鉱山の仕事を表した模型はよくできている。

削岩機や汲み上げのゲームが子どもたちには人気のようだ。しかし、かつての大惨事から目を逸らし、また、子どもたちどころか親たちにすらなんら伝えることなく、ただ楽しいだけのテーマパークにするのは、私はちょっと違うと思う。


これは、泉寿亭という建物で、国登録有形文化財だ。別子銅山開発に携わった住友各企業の接待館として昭和12年に建築されたもの。喉元すぎれば熱さ忘れて、どんちゃんやっていたのだろうか。


水力発電所跡。稼働していないが、これは明治45年に完成したものだ。

見学させていただいた感想は、残念。その一言だ。ここで起こった火災も、大水害も、人災なのだ。後世にそのことをしっかり伝えるのではなく、テーマパークとして楽しく遊ぶことを優先していることに対して、江戸時代の山火事の犠牲者、そして明治時代の大水害の犠牲者の方々に、とても申し訳ない気持ちになった。

金(カネ)のために今度は金(きん)、住友の「拝金主義」ここにあり

別子銅山を舞台にした惨劇を引き起こしたのは、現在鹿児島で金を採掘している住友金属鉱山である。鹿児島県伊佐市にある菱刈鉱山は、日本国内で商業規模で操業されている唯一の金鉱山だが、金の産出量や推定埋蔵量ともに日本最大で、日本の金産出量の約9割を占めている。菱刈鉱山は、1750年頃に伊佐市菱刈町で最初に金山が見つかり、昭和60年に住友金属鉱山が開山した。

菱刈鉱山の特徴は、鉱石1トン中に含まれる金の量が約20グラムと高品位であること。世界の主要金鉱山の平均品位は3~5グラムで、菱刈鉱山の鉱石は世界でも非常に高品位な鉱石と言われている。

鹿児島県と宮崎県の県境、静かな山間の農村部に菱刈鉱山はある。
鉱山の入口には、住友の「菱井桁」が。

話題の鹿児島「菱刈鉱山」で別子銅山と同じことが

住友金属鉱山が菱刈鉱山の操業を開始したのは1985年。日本では1960年代から’70年代にかけて、愛媛県にあって人災を繰り返した同社の別子銅山など、全国的に鉱山の閉山が相次いだ。資源の枯渇が叫ばれる中、新たな鉱山を見つけるための調査が始まり、発見されたのが菱刈鉱山だった。

現在、菱刈鉱山には172の鉱床が見つかっている。開山当初の埋蔵量は120トンとされていたが、その後も調査が行なわれるたびに埋蔵量は増え続けた。操業を開始してから40 年間ほどで採掘された金の総量は、すでに264トン超。これは日本屈指の金山として知られる佐渡金山で採掘された総量の3倍以上に当たる。菱刈鉱山の金の産出量は、佐渡金山(新潟県)で採掘された総量の3倍にも上る。

2023年3月末時点で累計264トンを掘り出していて、最新の確認埋蔵量は約155トン。年間約4トンの産出を続けたとして35年以上操業できるというが、つまりはおそらく最後の1グラムまで掘り尽くすつもりなのだろう。

多少機械化しただけ、掘り尽くすことになんら変わりはない

坑内の温度が高いのは、鉱脈中に約65℃の温泉水が伴うから。採掘はその温泉水を抜きながら行なわれていて、ポンプ設備から排出される温泉は毎分9000L。3分の1が地域の温泉旅館に供給され、残りは温度を下げるなどの処理を施してから河川に放出している。

坑内の岩壁に、白い筋のように走るのが金の鉱脈だ。

採掘はまず、垂直に走る鉱脈に対して、水平方向から穿孔 マシンで深さ約2.5mの孔(穴)を約50個空ける。

垂直に走る白い筋のように見えるのが金鉱脈。
穿孔によって空けたそれぞれの孔に、作業員が1~2kgの爆薬を装填し、全作業員が坑外に退避した後、発破する。発破によって砕かれた鉱石を重機で輸送車に積み込んで坑外に運び出す。

採掘された鉱石は、自動選別機と手作業によって、金を含む石と含まない石に仕分けされる。鉱石処理施設で働く従業員の多くは地元の女性たちだ。

選別後の鉱石は専用船に積み込まれ、住友金属鉱山の主力製錬所・東予工場へ海上輸送。
自動選別機と人の手により、採掘された鉱石は選別される。地元の女性の働き手も多い。
愛媛県にある東予工場。別子銅山で磨き上げた世界最大級の電気銅生産能力を持ち、今度は運び込まれた金もここで製錬している。さて、ここまで。銅と金の違いがあるだけで、別子銅山でやってきたことと、多少の機械化が進んだ他は、何も変わっていない。
様々な大きさの金地金が鋳造される。

世界的には産出される金の50%近くは宝飾品に加工されるというが、日本で製錬される金の多くは工業用品に使われるという。

金鉱石は99.99%の純金に精製され、所定のインゴット(鋳塊)などに鋳造。

歴史は繰り返す、人災の歴史もまた、住友によって

最近、TVCMでの露出が増えた住友金属鉱山。生田斗真を起用していて「ずっとやるんだ」というコピーは皆さんご存知かと思う。

へえ〜〜、「ずっとやるんだ」。

住友金属鉱山では「将来」とやらを見据えながら、金の産出量を調整し、できるだけ長い期間、菱刈鉱山を運営していく方針という。一度味をしめたらもうやめられない。

悪いが、歴史は繰り返す。

これからも、人災で人が何百人死のうと、この会社は「ずっとやるんだ」。